自分で見える物を信じなければならない





 みなさんはすぐに「身体が生まれて、死んで棺に入り、そしてまた生まれる話」は滅苦の糸口ではないと言われ、ブッダが話そうとされなかった話題だと、自分で見ることができます。質問者が質問した時、回答者が話しても、質問者は自分自身で見ることができないので、話した人、教えた人の話を信じることになり、二度愚かになるからです。

 まだ理解できない時、再び質問し、教える人は教えるので、聞いた人は次々に教えた言葉を信じる愚かな人にならなければなりません。死んでからどう生まれるのか、同じ人なのか、善や徳は本当に持っていけるのか、目で見えないからです。

 それはそのような「生」を意味しないと言うのは、仏教の非常に重要な話で、何度質問してもどんどん離れるばかりで、滅苦の話をする機会がないからです。そして質問者は次々に教える人を信じなければならないので、終わりがなく、何の利益もありません。

 ブッダは、もっと必要な話、重要な話をすると言われました。つまり生まれていることは苦であり、そしてどうやって滅苦をするかという話をされました。死んで生まれるか生まれないかという話は、先の話なのでしないで、生まれている今ここが苦かどうか、もし苦なら、どう苦を無くすかを話します。

 ブッダは「私、私の物という執着が苦」と、見えるように説明しました。少し話すだけで、聞いた人が理解できたので、ブッダを信じる必要はありません。自分を信じるだけです。ブッダも「私を信じてはいけない」と繰り返し言い、サーリープッタもブッダの面前で「タンマに関してはブッダを信じない。自分自身を信じる」と宣言しています。

 仏教のタンマの場合は、自分で見た物を信じなければならないということです。だからブッダは「俺、俺の物と執着することは苦。そして生まれるとは『俺の生』という執着がある時に、生まれて苦になる」と教え、その人が自分で見えるように説明しました。

 「俺、俺の物」という執着は苦と見えると、その後、その「俺、俺の物」という感覚はマヤカシであり、本物ではないという次の段階を説明しました。つまり接触と呼ぶ形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を味わう時受が生じ、欲望が生じ、そしてそこで取が生じます。それにしばらくの間だけで、このように一時的な物です。

 本当は「俺、俺の物」はありません。それは勘違いで、形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を見、接触し、あるいは心で考えた時に、無知、あるいは無明から生じた執着です。

 ブッダはここを「自分は無い」と聞いた人が「あるのは説明したようにエゴイズムとして生じる俺という誤解だけ」と自分自身で見えるまで繰り返し教えました。しかし以前は心に生じて、それを自分と執着していました。

 本当には「俺」はなく、あるのは無明がある心だけです。それはいつでも必ず「俺」と感じます。知性があれば、つまり空なら、いつでも俺はいません。どちらが真実でどちらが真実でないか、俺のない心が本物と、その人自身で見ることができます。だからその人は「俺が無い」と見える人になります。

 俺がいなければ誰が死に、誰が生まれるのでしょうか。だから最初の「死んだ後生まれるかどうか」という質問は、最高に愚かな問題で、問題にならないので、消えてしまいます。「死ぬ人も生まれる人もいない」と自分自身で答えるだけで片付くからです。死んで棺に入って、また生まれる肉体的な生はなく、あるのは変化させる物によって変化する心だけ、俺、俺の物という執着だけです。

 この項目を明らかに知り、この真実が見えれば、それを根絶させることができます。「俺、俺の物」という物はないので話は終わります。残るのは空っぽの心なので苦はなく、「俺、俺の物」という気持ちが浮上して来ることはありません。だから「死んだらまた生まれるのか」という問題は生じません。

 何でも自分で見ることができます。ブッダが「生老病死」と言ったのはどういう意味か、急いでこれらを残らず消滅させて、生まれて来ないようにしてしまえば、話は終わり、先の生について話す必要はありません。来生について話す必要も、過去生について話す必要もないので、今現在の話だけを話します。

 急いで勉強しなければならない「今ここ」を理解して、「俺、俺の物」はないと理解すれば、この体、体と心でできているこの身体を、子供も大人も年寄りも「俺、俺の物」が無い清潔な物にすれば、苦はありません。

 パーリ(ブッダの言葉である経)には、たった十五才で阿羅漢になった人の話があります。非常に珍しく、圧倒的多数は、年を取ってから阿羅漢になった人ばかりです。いろんな経験をして、自分で明らかに見えるようになるからです。

 つまり精神的な明るさがあり、常に spiritual experience と呼ばれる話になっているからです。この精神的経験は身体的、物質的な経験でなく、精神的に経験したこと、その味はどうかを心で知ったこと、深い精神で知ったことです。

 私たち人は生まれてから死ぬまでの間に、こういうもの(精神的体験)に数え切れないほど遭遇します。賢い人が観察すれば、それらは最高に利益があり、いつでも「俺、俺の物」と呼ぶ物はないと教えているので、間もなく「ブッダが一言突いただけで阿羅漢になった」という類の知識が十分になり、ブッダと何分も会話をしないで阿羅漢になりました。

 これは同じことの結果、特にみなさんが最初に理解しなければならない重要な言葉である「苦」、あるいは「生れることは苦」ということを正しく理解したことの結果と言います。




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