今ここでの涅槃





 さて次は「今ここでの涅槃」について話す方が良いです。これは、これ以上罵りようがないほど私が罵られる話題だからです。彼は死んで生まれて、死んで生まれて、百生、千生、万生、十万生も後に涅槃に入りたいのに、私が「今ここで涅槃を成就させる」と言うので、私が「今ここに涅槃がある」とするので、彼は怒ります。

 彼の利益を損ねるのかどうかは知りませんが、彼は「今ここでの涅槃と言って人をだます」と、あるいは「今ここでできるので、涅槃の価値を下げる」と非難します。

 彼は何万生も、何十万生も先にできると信じさせます。それなら非常に価値が高いですよ。今ここでできると簡単なことになってしまうので、彼は反論して非難します。構いません。こういう人たちは要りません。私が涅槃の利益を得てもらいたいのは、一般の人です。心が涅槃に到達するには、取を捨てなければなりません。

 「取が生じている時は涅槃はない」という教えがあります。つまり心が何かに執着している時、心が何かを自分と執着している時は涅槃でなく、心が何にも執着していない時、その時が涅槃、現生での涅槃です。

 ある話をすると、熟慮熟考する勉強家の人たちがいました。すべて在家で、僧はいませんでした。インドラ神や清信士やお金持ちもいて、彼らはブッダに「なぜ人にはディッティタンマの涅槃がないのですか」と質問しました。つまり「人はなぜ生きている間に、自分の根の感覚で、涅槃に到達しないのですか」という意味です。ディッティタンマとは「自分の心の感覚」という意味です。なぜ人は今ここ(現生)で自分で感じる類の涅槃に到達しないのでしょうか。

 ディッタデーヴァ タンメー=自分で見えるタンマ。つまり今自分が感じている感覚であり、死後ではありません。死んだ後、感じることはできません。感じられるのは今ここです。ブッダは「そういうものだ」と答えられました。つまり目・耳・鼻・舌・体・心の話を、概要も細部も、一つ一つ説明しました。目が初めに形を見て、目が見た形はイッダー、非常に望ましい物という意味ですが、カンター、魅惑します。カンターはタイ語になってカーンダーになりました。カンターは非常に魅力的です。

 マナパー、非常に満足する。ピヤルーパー、愛らしい状態の。カームーパサンヒター、愛欲の基盤。その種の形は、愛欲が入り込んで住む所で、ラチャニヤ、心を染め、その形は「イッダー カンター マナパー ピヤルーパ カームパサンヒター ラチャニヤー」です。その形は愛らしくて必ず気に入り、魅力的なので愛欲が入り込んで住み、そして心を染め、非常に心を捕えます。その形はそういう状態なので、その人が見て喜べば、褒めちぎり、褒めちぎるとどうか、考えて見てください。

 それが気に入れば、美味しければ唾を啜る音を立てて、アピヴァダティ、狂人のように褒めちぎります。それが美味しいから、美しいからです。そしてアッチョサーヤティッティ、そこに心を埋めます。聞いているだけでなく、非常に美しい実物を想像して見てください。非常に夢中になり、非常に満足したと口で表現し、心がそこに埋もれます。つまり身体も言葉も心も、それに溺れます。これを、その人は惑溺して褒めちぎり、陶酔して埋もれると言います。

 その人の識は、それらの煩悩が入り込んで住んでいる識で、煩悩である愛、惑溺、欲情がその人の心に、その人の識、その人の心に入り込んで住んでいます。心に煩悩が入り込んで住むことを取と言います。美しい、女性、男性、何でも執着すること、そして俺のため、俺の物のためと執着することを取と言います。

 識に煩悩が入り込んで住み、煩悩が心を捕えれば、心はその感情に埋もれます。これを取と言います。取のある人は自分の感覚の涅槃になりません。つまりディッタタンマの涅槃になりません。

 次に反対の物を比較して見ると、形が可愛くて魅力的で愛欲の基盤なら心を染めます。その人、あるいはその比丘に十分タンマがあり、知性があれば、「それはそれだけ。そういう自然の現象」と見て、愛らしさも「それは人が可愛いと感じると仮定したこと」と見ます。

 そしてもっと深く緻密に「無我であり、苦である」と見ることもできます。この人に知識が十分あれば、どんな勉強をして来たか詳しく言いませんが、この人には十分知識があり、十分知性があるので、迷って惑溺せず、迷って褒めちぎらず、心も埋もれません。

 このような時、識、あるいはその人の心に煩悩は住んでいません。煩悩はその心に入り込んで住むことができないので取がなく、取がない人はディッタタンマ、今ここでの、自分の感覚の涅槃です。取と呼ぶ物が重要です。ノートに書き留めておくだけ、あるいは聞くだけにしないでください。それでは十分でないので、自分に本当にある取を知ります。

 誰でも愛欲の基盤である形に、愛欲の基盤である声に、愛欲の基盤である臭いに、愛欲の基盤である味に、愛欲の基盤である触に、心の中の愛欲の基盤である気持ちあるいは識に、本当に取があります。

 ブッダが言われているように、ほとんどは異性に関するもの、すべて異性のことばかりです。異性に関わる形・声・臭・味・触・考えは、何より心を捕え、何より取の基盤で、女性は男性に、男性は女性に、それが取です。六根から強烈な威力が生じるので、みなさん、言葉を見ないで本物を見てください。私たちの心に本当に生じる本物を見れば取を知ります。

 取があれば、この心は火で燻されているようで、突かれるようで、刺されるようで、焼かれるようで、炙られるようで、縛られるようで、包まれるようで、何でもされているようで、何と表現したら良いかわからないと知ります。取があれば涅槃はありません。つまり空でなく、冷静ではありません。心が自由なら、心は空で冷静です。

 取が生じる前に、間に合うように触と受を管理しなければなりません。夢中になって褒めちぎらないように、あるいは酔って埋もれないように、触れて来る物を管理できれば、今ここでの涅槃です。それだけです。あなたにできれば、この涅槃の話は本物です。話しておくだけの物でなく、話すだけで誰も騙しません。涅槃を知るので、みなさんは本当の仏教教団員になり、そして涅槃があるようにし、涅槃の味を味わうことができます。

 だから目・耳・鼻・舌・体・心に触れてくる物と闘い、勝つことができます。その奴隷になり下がることがなければ「取の捕縛がない」と言います。その時は涅槃です。つまり煩悩がなく、素晴らしい心の自然である涼しさ。これが今ここでの涅槃です。

 反論するなら、何万生も,何十万生もバーラミー(最高の目的を成就するために必要な善。波羅蜜)を積んでも良いです。感情の中に俺が一回生まれると、それを一生と呼ぶので、一か月で何百、一年で何千、何万、二十年、三十年で何十万生も生まれます。十分です。それ以上多くしないでください。

 懲りなくてはいけません。これで、棺に入るまでに何万生もバーラミーを積むことができるので、反論しませんよ。何万生も何十万生もバーラミーを積まなければ涅槃できないと彼が言う教えを、私たちはこのように実践できます。しかし彼のは宙に浮いています。

 彼は万回も十万回も棺に入るのを待たなければならないので、そのうち忘れてしまいます。十万回も棺に入ると、話すのが億劫になって消えてしまいます。私のは棺に入る前に俺の生死を何十万回も繰り返します。つまり矛盾しないということですね。何十万生もバーラミーを積んでから涅槃するのは、正しいです。

 しかし私はいまここ(現生)で十万生を作ることができ、懲りて煩悩を生じさせない賢い人になります。つまり十万生の間ずっと、煩悩を生じさせないようにします。随眠(本性の中に眠っている煩悩)がどんどん減って、そのうち無くなり、煩悩が生じられなくなれば、それが完璧な涅槃です。だからみなさんが一回感覚を管理できれば、それは一回バーラミーを積むことです。

 心を感覚のままに放置すれば、随眠が増えて蓄積され、心を管理できれば「俺はお前と付き合わない」になります。心をこのように管理できれば、一回ごとに随眠が減って行き、幾らもしないうちに無くなります。随眠は基盤がないので、煩悩を生じさせる元金がなくなれば、それが完璧な涅槃です。取が減るように注意すれば、段階的に涅槃に到達します。

 これは日常生活について話しています。日常で煩悩を生じさせ増やしているので、絶滅させる話も、日常の問題でなければならないので、日常のことと捉えなければなりません。惚れて溺れて褒めちぎり、酔って埋もれないで、煩悩が心に住みつかないようにします。取がなければ、今ここでのディッタタンマの涅槃です。これが涅槃の話です。

 最後に「涅槃はただで与える。お金は要らない」という言葉について、少し話します。ブッダは『誰にでもただで与える。誰からもお金は取らない』と言われました。涅槃に、あるいは何も報酬を求めないブッダに感謝したくなります。注意して取を生じさせなければ、自然に涅槃になります。難しくはありません。不可能ではありません。その上お金が掛からず、棺に入る前にできます。

 だから私は『死ぬ前の死は涅槃』という新しい言葉を言います。私もある老人から聞いた言葉で、誰が言ったのか忘れてしまいましたが、「天国は胸に、地獄は心に、涅槃は死ぬ前の死にある」と続いています。

 私たちの先祖はすごいです。「天国は胸に、地獄は心に」あります。昔から言てわれいるように「地下にある、空の上にある」と言いません。涅槃は死ぬ前の死にあるというのは、一日に何回も生まれる俺をすっかり死滅させることです。この体は後で死んで棺に入ります。これは非常に「今ここ」を表しています。体が死んで棺に入る前に、取の「俺、俺の物」を死滅させること、それが涅槃です。つまり死ぬ前の死は今ここでできます。そしてただで貰えます。お金は取られません。

 まだいらない人はどれほど愚かか、考えて見てください。私は非難される話をしました。私が「今ここでの涅槃」と言うと、(彼は)すぐに罵ります。でも変えることはできません。非難するならしてください。このように真実で、ブッダの言葉に根拠があるので、このように誠実に検証することができます。

 そしてこのように明らかに見えるので、サンディティコ(法の六徳の一つ。成就した人は自分で見ることができるので、他人から聞く必要はないという意味)です。涅槃はこのような状態を維持しているので、今ここで涅槃と、このように話します。

 後でもっと学習し、仏教の知識を十分にします。初めに言ったように、低いものから最高のものまで、必要な話だけ、幾つもない要旨だけを集めて話しました。涅槃の話は何か月も話すことができますが、要点だけ、教えである主題について一時間余り話しました。今ここでの涅槃、そして何が涅槃を生じさせない原因か、何が涅槃を生じさせる原因かも話さなければならないので、当然関連している他の話もしました。

 「涅槃は不可能だ。涅槃には利益がない。涅槃は面白くない。涅槃は何万回、何十万回も死ぬまで待たなければならない」と言うのは止めましょう。今ここでの涅槃にすれば、本当の仏教教団員になり、本当にできる涅槃があり、本当の仏教、つまり涅槃を知る仏教になります。本当の仏教教団員は、涅槃について知っています。これで講義を終わらせていただきます。




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