仏教徒を自認する人の信仰

 

 「私は仏教徒としての信仰がある」という宣誓は、他の信仰の人と違うかも知れません。仏教徒を自認する人の信仰とは、

1) 仏教徒を自認する人は、道理の威力下にいる人間として、直接理を信じます。これは適度の信仰であり、多すぎも少なすぎもせず、そして智慧が伴っています。仏教徒を自認する人は、鵜呑みに信じることは非常に恥ずべきことの典型と見なします。仏教徒を自認する人の信仰の中心であるブッダは、道理を知り、道理のある教えで物事を進行させるので、世界の愚かさを駆逐する人です。

2) 仏教徒を自認する人は、ブッダは本当の「清潔・清明・静謐」に自分の力で到達し、そして人類がそれらに到達できる道を示せるようになるまで、十分自分自身を修練することができた人であることを信じています。

 ブッダの伝記で教えと行動を調べて見ると、誰でも、ブッダを信仰しない人でも、ブッダは完璧で純潔で明るく、最高に穏やかな人だったから他人に教えることができた、とすぐに分かります。到達したタンマによって、ブッダは「ブッダ」と呼ばれます。

3) 仏教徒を自認する人は、ブッダが到達して教えたタンマは、すべてのものの不動の真実であり、すべてのものを自然の法則に従わせる威力があると信じます。特に、人間にとって最も価値があるのは、それを知ればすべての物事に対して正しく行動でき、そして完全に苦から脱出できる真実の法則です。この教えは、人間が学んで知り、それに従って行動し、体と心が完全に苦から脱出する結果を受け取るためにあります。

4) 仏教徒を自認する人は、「僧とは、ブッダの教えを他の人より早く知り、実践し、実践の結果として、ブッダの助言で普通の人よりも多くの苦から脱すことができる幸運な人」と信じるので、僧は尊敬されるべき人です。そして手本と見なされ、徳を求める人が徳を積む存在です。男も女も、出家も在家も、大人も子供も、金持ちも貧乏人も、誰でも本当の僧になれます。いろんな儀式を経て僧にならなくても、その人の行動と、その人自身のタンマの到達度によって、僧であることができます。

5) 仏教徒を自認する人は、この世界は人間がサンカーラダンマの法則、つまり世界のいろんな部分に在る自然の法則で循環しているだけで、世界を造った人、あるいは世界を支配している人はいないと信じます。それは当り前の法則ですが、複雑で精巧で神秘的なものは、それらを作る特別の人物がいると、一部の人たちを迷わせるに十分です。

これらがどう変化するかを十分良く知る知識があれば、人間はこれらのものから利益を得ることができます。あるいは十分平穏に暮らすことができ、天国から届けられたと主張する教典は必要ありません。タンマを理解する人、そして見えるとおり、知ったとおりに教える人の経典があり、他の人も同じようにタンマに到達できればそれで十分です。私たちはこれらの人を、すべてのブッダと呼びます。

6) 仏教徒を自認する人は、人間は誰でも、過去にその人が何をしてきたかによって、幸福と苦をもたらすカンマ、あるいは自分の行なった行為があると信じます。誰にでも自分のカンマがあります。自分の今後の成り行きを厳しく強制的に決定するものであり、「自分が持っているカンマこそが自分である」と言うこともできます。

美しい世界に住みたい人は、善いカンマだけを作らなければなりません。あらゆる種類の世界の暮らしに倦怠している人は、カンマにしないくらい、そしてあらゆる点でカンマを超えるまで自分の心を高める方法があります。悪いカンマを作った人は、悪いカンマの結果が出る前に、別の方法で善いカンマを沢山作って、カンマの威力を超える高い心の人になる以外には、罰を受けるか、あるいはそれなりのものを返さなければなりません。そうすれば、その悪いカンマから脱すことができます。

7) 仏教徒を自認する人は、本当の仏教は経典だけではなく、教え、あるいは経を唱え、祈願し、供え物をして祈ることでもなく、真実の法則に則った正しい行動をして、行動の結果である「清潔と明るさと本当の静かさ」を受け取ること、と信じます。仏教徒を自認する人は、自分自身の清潔な言葉と行動に仏教があります。

この清潔と明るさと静かさが、ブッダ、タンマ、僧(仏・法・僧)の本当の意味で、この三つは、本来は同じものです。だから仏教徒を自認する人は自分の心を、清潔と明るさと静かさに深く埋めるだけです。

この七項目すべてが、仏教徒を自認する人の信仰です。

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