本当の悪魔





 だから「たくさん勉強した。たくさん本を読んだ。たくさん考えた。何でもたくさんした。弁が立つ。何でも信用がある」と自慢しないでください。言うだけ無駄です。ここで試して見なければなりません。だから悪魔も利益があります。彼ら(西洋人)が描くようなバカらしい、人を騙しに来るお化けでなく、悪魔はタンマの一部です。

 悪魔をどこかに捨てて、すべてのタンマ(あらゆるもの。一切諸法)という言葉に含めないことはありません。すべてのタンマ以外の物は何もありません。

 だから人を試しに来るものが悪魔です。それもタンマと呼ばれる物から生まれますが、試す人、本当に上達したか試す人、間違いを犯すよう誘惑する人として現れます。本当に上達していれば、どんなに誘惑しても過ちを犯さないので、悪魔は消滅して普通のタンマ(もの)になります。現代は「悪魔は神様と闘う敵」とバカバカしい間違いを教えます。私は、そう教えることは最高に愚かだと言います。

 神様は人を試すために、試験するために悪魔を遣わすので、悪魔より愚かでなければ、神様の人として使い物になります。神様の道具である悪魔は、恐ろしい、嫌らしい、お化けの姿で描かれますが、それはバカです。

 悪魔は絶対に可愛らしく魅力的で、一目惚れさせるような容姿でなければなりません。そして試すために現れるから、人は怒ることができます。あるいは怒り、貪り、迷うのは、非常に魅力的だからで、醜ければ何も起こりません。非常に魅力的な状態で現れるから溺れます。

 今は「悪魔とは何か」も知りません。敢えて言いますが、キリスト教の人たちも悪魔とは何かを知らず、違う物と理解しています。神様が人を試す道具が悪魔です。私たちにはタンマだけで神様がいないので、悪魔は試すために来るタンマです。

 ブッダを妨害しに来た魔王と呼ぶ物は、神様がシッタッタ王子を試すために寄越しました。ブッダは本物か、ブッダを試すために現れ、本当のブッダになったので、悪魔はタンマに戻りました。

 すべてのタンマという言葉には悪魔も含まれます。しかし私たちは悪魔と呼び、悪魔には罪があると、いつでもそう言います。悪魔には罪があります。罪とはタンマ、罪の側のタンマで、罪のタンマが人間を試しに来ます。簡単な科学のように言えば、時々浮かんで来るどうしようもない考えです。シッタッタ王子のように、「家へ帰ろうか、どうしようか」と逡巡する時、悪魔は「家へ帰りなさい。家では、妻子が愛着で偲んで大騒ぎだ」と 囁きます。

 だから闘って帰るのを止めると、悪魔は消え、そしてブッダはブッダになりました。どうしようもない考え、悪が一時割り込むこと、これが悪魔です。罪のある悪魔は、晩年にも「涅槃しなさい。教えに行ってはいけない」と言いました。ブッダが「まだ人間はタンマを知らないので、私はまだ涅槃しない」と言うと、三か月後に涅槃するように悪魔が言い、ちょうどいいのでブッダは「今から三か月後(に涅槃する)」と言われました。

 広い意味でタンマと呼ぶもの以外には何もありません。そしてこのタンマは、正しい側のタンマと誤りである側のタンマ、俺の側のタンマと俺のない側のタンマです。俺の側のタンマなら、不善なので非常に大変です。そのタイプの真実、正しさ、美、正義は呑み込めないので、「俺、俺の物」がない側のタイプでなければなりません。そうすれば可愛らしさがあり、尊重でき、尊敬できます。

 苦はいつ始まるか見てください。間違って善悪を知った時に始まります。善悪を知ると自分に執着し、俺がいて傲慢になり、「目には目を、歯には歯を」ます。つまり「公正」になり、その人は間違って善悪を理解しているので、後で正しく善悪を理解すると、それではだめだと感じます。何もいらないのが公正、つまり私たちが何も求めない時が正常、あるいは偏りがありません。

 「目には目を、歯には歯を」は採用しません。これは最初から一方の罪の話で、そしてもう一方が罪を増やし、そっち側も罪を返し、こちら側もまた罪を返し、どんどん罪が増えます。これが公平でしょうか。彼が私を罵れば、彼は罪の側、あるいは汚れた側で、そして私が彼を罵れば、私も罪の側になり、彼がまた罵り、そして私がまた罵り、このようにやり合いになります。

 「目には目を、歯には歯を」は静かでなく幸福がありませんが、煩悩では「正しい」と言います。あるいは煩悩では公正なタンマと言います。

 次に「負けたくない、勝ちたくない」なら問題はなくなります。勝ちたければ、ヒト語の「勝ち」は対が増えます。その対は低劣さがどんどん増し、そして勝ち負けを繰り返して終わりがなく、そして破滅します。神様と闘うので勝ち目はありません。間違いや悪をすることは、タンマとの闘い、神様との闘いです。子どもと闘う、一人の僧や沙弥との闘うと理解しないでください。

 貪・瞋・痴が生じて問題になるのは、それがタンマとの闘い、神様との闘いなので勝ち目がなく、神様がちょっと悪魔を送りつけるだけで勝利は消えてしまい、神様に勝つ道がないからです。だから私たちは神様、つまり自然の法則、あるいはタンマと呼ぶものをと闘いません。

 いつでもそれを正しくし、それを勝たせます。つまり勝ち負けを無くします。ヒト語の勝ち負けを無くすことは、いつでもタンマ語の「勝利」なので、事は起こりません。問題は生じません。苦が生じることもなく、「俺、俺の物」も残らず絶滅します。

 さて私は、あるみなさんが良く聞いて、良く考えることを望みます。これは、三蔵、聖書、すべての教典を凝縮した話なので、世界中の物全部を聞いたのと同じです。世界中のすべての教典の教えを聞いても、「俺、俺の物」を断つ話だけで、それ以上の物はありません。

 毎日、毎晩「俺、俺の物」を断つ努力をしなければなりません。まだ断つことができなければ、「俺、俺の物」に支配されないように管理しなければなりません。この種の真実、この種の正しさ、この種の平等に支配されないように、しっかり管理しなければなりません。

 自分の心をいつでも空(俺、俺の物がないこと)にしておけば、心は自然に知り、自然に智者になります。「俺、俺の物」がない心は、何が公正か、何が公正でないか、そしてこの場合はどうするべきか、自分で知ることができます。

 そしてその心はブッダの答を求め、常自覚のある心は「この場合にはどうするべきか」ブッダに訊くことができ、五分か十分待てば、善い答が得られるので、問題は消滅します。

 だから「面白い話でも、口先のごまかしでも、言葉の遊びでもなく、時間の節約のために、すべての教典を凝縮して話した話」と見なさなければいけません。個人的には、みなさんはお寺や私の要望にそった、私が喜ぶような利益になることをします。そしてそれに対する報いは、最高に素晴らしいものです。




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