三欲





 タイ語の欲望には意味として二種類あることを知ってください。パーリ語で煩悩欲望、あるいは貪欲と言ったら、無明が原因の話でなければなりません。

 明に由来すれば違う呼び方をし、願望とか、期待とか、職務に勤勉などと呼ぶ物で、苦を生じさせる原因ではなく、苦を攻撃するものです。正しい願望は苦を生じさせず、苦や欲望を生滅させるものです。タイ語の意味が曖昧なのは、パーリ語のように厳密な意味でないからです。

1 カーマタンハー(愛欲)

 最初の欲は愛欲の欲望で、カーマタンハーは迷いや愚かさで陶酔、執着で愛欲を求めます。それは、欲望した時から、行動をし始めた時、実行している間も焦燥します。しかしこれは、一般の在家は愛欲(カーマ)と関わってはいけないという意味ではありません。愛欲にはいろんな意味があり、男性女性の性に関する問題である愛欲、これも関わりがありますが、そこまで行かなくてもカーマと言います。

 たとえば美味しい料理が好きとか、美しい音楽が好きなど、性に関係なくてもカーマ、愛欲と呼びます。深い部分で関連があるので、関われば、愚かさや陶酔で求めれば、焦燥、あるいは苦が生じるからです。

 しかし常自覚で関われば快楽は少なくなります。性の問題も在家の義務という気持ちで営めば、そして理性ですれば愛欲という意味は少なくなります。カーマタンハー(愛欲)の意味も少くなります。

 行為をする時、本当に純潔な心で、すべてを生殖する義務だけでするなら、そうできるなら、それを愛欲と見なさないで義務と見ることもできます。しかし普通では誰にもできません。

 自然の方が上手で神秘だからです。誰も好んでしたがらない生殖に、愛欲を混ぜ、愛欲で雇って、愛欲の感覚ですべての動物を雇って生殖をさせるので、どんなに面倒で大変でも堪えます。

 愚かに自然の罠に掛ってしまえば、欲愛と呼ばれる物から苦が生じます。まだ無明がある人は必ず愚かなので、餌食、無明の奴隷、欲望の奴隷に陥らなければなりません。そして人は欲望、特に性欲のためには苦労を厭いません。

 これをパーリ語で「噛みついて食う」と言います。つま愛欲の奴隷になっている人は、そのためにどんな苦労も受け入れると言います。これが愛欲、直接性の話という意味です。

 性の小道具である美しい音、楽しさ、味などは、直接性に関わらなくても愛欲で、直接性に関われば更に愛欲です。これが最初の欲で、カーマタンハー(愛欲)と呼びます。


2 バヴァタンハー(有欲)

 二番目は「なりたい」で、何であれ「なりたがる」ことを有欲と言います。バヴァ(有)とは何らかの立場であることで、有欲、何かになりたがることです。これも無明によってなりたがると言う意味です。あれになりたい、これになりたいと煩悩を刺激し、欲望を煽ります。

 時には女性になりたいとか、男性になりたいとか、性に関するあれになりたい、これになりたいというのもあり、愛欲が混って見分けがつかないこともあります。大物になって名誉がほしい。名声のある人になりたい。権力のある人、幸運な人になりたい。無明の愚かさで望めば強烈で、有欲になり、そして苦が生じます。

 しかしここに座っている学生のように善悪正誤の感覚があり、明があり、このような意味で善い学生、正しい学生になりたいなら、欲望ではありません。無明でするのでなく、常自覚(理性)で、智慧で望んでいるので、善い学生になりたい、善い生徒になりたい、善い主夫、善い主婦になりたいでも、愚かさや無明やそれらに関わる無知で願わなければ、欲望と見なしません。望むべき望みです。

 だから明(智慧)で望んでいるか、無明で望んでいるかを確かめるのを忘れないでください。ある団体の人、あるいはある集団の先生は、望みと名がつけばすべて欲望と教えていると信じますが、私はそう捉えません。そう理解しません。勉強を始めた時から現在まで、そう教えたことはありません。

 何かになりたいと言うのも、自覚で善くするため、正しくするため、役にたてるためになら欲望と呼びません。天人になりたいと望むなどは、無明で望んでいるので、熟慮すれば、天人はなりたがるほどの物ではないので、自然に望まなくなります。

 他になりたがる物、なるべき物があるか、善悪正誤を知る感覚で熟慮してみて、それになるべき、あるいはその義務を引き受けるべきなら、欲望にしないで、なることもできます。

 アーチャンになりたがるのは、欲望であることもあるし、欲望でないこともあります。その望みの原因次第です。完璧に正しい善悪正誤の感覚から生じていれば、欲望とする必要はありません。もっと大きく、村や市を治めたいなら、同じ原則で確かめなければなりません。

 貪りの心や、愚かさや、惑溺や執着で望めば、どれも欲望なので苦になります。善悪正誤の感覚できちんとした理由があり、目や耳を開け、常自覚があり、「同じ人間を助けるのは義務」と知って望むなら、こういうのは欲望ではありません。煩悩欲望ではありません。しかしそういうのは滅多にありません。そういうケースはほとんどありません。

 ブッダが、教典にあるような理由で「ブッダになりたい」と望まれだのは、そういうのを欲望と呼ぶことはできません。それが非常に強い望みで、真実の誓願でも何かでも、理性による、明による善悪正誤の感覚で望んでいるので、欲望ではありません。しかしなった後の結果に溺れて望むのは欲望です。


3 無有欲

 三番目は無有欲です。ああなりたくない、こうなりたくないから、死にたい、生きたくない、生きていたくないまで、「なりたくない」ことです。ああなりたい、こうなりたいは、常見に依存して永久不変に執着しますが、無有欲になると断見が生じ、死ねばすべてが消滅する、あるいは永久ではないと信じます。

 断見は無有欲を生じさせ、なりたくない、あれになりたくない、これになりたくないという欲望を引き寄せます。それは正しい知識によるものでなく、愚かさによるもので、愚かさによる「なりたくない」です。愚かさの倦怠で、最後には死にたくなって自殺したりします。欲望のない人には、このような望みはありません。ああなりたくない、こうなりたくないも、非常に焦燥します。

 みなさん観察して見てください。何も思いどおりに得られなかったと感じる時も、心が熱くなって苦になります。だからこの三種の欲望を持たないでください。そうすれば三種の欲望で説明した苦はありません。

 さらに微妙な苦が生じる原因を、ブッダは次のように言われています。

 ナンティラーガ サハガターは直接愛欲で、それ以外の問題は間接もあります。タッタララーピナンティ タンティニは何かに恍惚となって惑溺することで、ポノーパウヴィカーは新たな有、新たな生を生じさせます。

 欲望が生じると「私が望んでいる。私は望む人。私は願う。俺は期待する」と感じます。これを「欲望の後から自分が生れる」と言います。これをポノーパヴィカーと言うことができます。

 何もない時は、自分があるとも、何かが欲しいとも感じませんが、欲望を生じさせるような行動があると、望んだ後で強い執着が生じて取になり、この「俺」が何としても手に入れたくなります。つまり俺が欲しがります。

 だから欲望は「俺」を生じさせる原因と明らかに知ります。つまり「俺」の新しい有が生まれます。しょっちゅうこのように、いつでも新しいです。これは縁起でも明らかに見られます。

 私は小聖諦(四聖諦)で「苦が生じる原因は三種類の欲望。真実を知らないこと、無明による望みは、愛欲の形になある」とまとめて話します。性のこともあり、性に関係がなくても、あれやこれになりたい話もあり、そして無有、つまりあれこれになりたくない話もあります。




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