プッタタートになりませんか





 奴隷(奉公人)の一種で止める必要がなく、多ければ多いほど良く、全員がなれば世界は平和で危機に陥ることもないもの。それはブッダの奴隷(奉公人)で、プッタタートと言います。

プッタタートとは、命を捧げてブッダに仕える人という意味です。ブッダの大慈悲に借りがある身として、報恩と人類の利益を考えてブッダに仕えるために、ブッダが望みと信じることをするために進んで身体と命のすべてを捧げます。

 ブッダとは何でしょうか。

 ヒト語のように答えれば、ブッダは歴史上の人物であり、二千年以上前にこの世に生れ、大悟し、生涯動物に教えを説いた人ですが、タンマ語で答えれば「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える」とい言われているように、永遠に存在するブッダで、タンマが見えるすべての人の中にいます。

 それは「縁起が見える人は、タンマが見える」という教えで、苦を滅すことができる知性です。この教えを掴めば、自分の苦を滅すことができるタンマが見える知性で、他人の苦を減らす手助けもできます。そうすればブッダの望みである結果が、世界中の人に現れます。この仕事を、命の限りに果たさなければならない勤めとします。

 どのように仕えるのでしょうか。

 それは、学習も実践も、本当の結果が出るよう、正しさを生じさせる行動で仕え、人間同朋がタンマを知り、タンマを身につけ、タンマを使ってタンマの結果を受け取って、現生で、涅槃である穏やかな生活ができるようにします。自分の知性や能力に応じて、この種の知性を世界中に、どの世界にも広げます。

 ここで言う「どの世界も」とは、愛欲や形、あるいは物質、そして無形、つまり波羅密や福分など形のない善に溺れている人など、すべての種類の人間を意味します。もう一つの「天人も人間も」という言い回しは、人間は汗を流さなければならない人で、天人は汗を知らない人です。

 ヒト語で言う「世界」は、誰でも見ている人間の外部にある世界で、タンマ語の世界は、人の内部の世界で、境遇やレベルによって違う心の在りようのことです。タンマは、本当にすべての世界と、世界全体に広まるように支配しなければなりません。

 どう世界中に広げるのでしょうか。

 すべての段階のすべて人が、いつでもどこでも、つまり一瞬一瞬、そしてどこででも、自分の義務を行う時、知性と自覚とサマーディと忍耐があるよう、大衆の日常にあるようにし、そして誰もが楽しく義務を行い、働いている間中、満足と満足による幸福があるようにします。

 仕事の報酬を受け取った時、それでいろんな悪事を働かず、一日中正しさがあり、夜になって思い返すと自分を拝むことができる、現生での本当の天国です。どんな仕事でも、その仕事はブッダの時代より前から誰もが知っているタンマと考えるので、失業者はいません。

 学習も実践も結果の部分も正しくするにはどうしたら良いでしょうか。

 この正しいという言葉は理論的に正しい、あるいはフィロソフィの類の哲学的な正しさという意味ではありません。仏教教団員の教えである正しさは「誰も苦しめない」結果に現れ、誰でも自分の心で感じられる利益があります。誰かに教えてもらう必要も、誰かを信じる必要もなく(これがサンディティコ)、

 体現しているので、誰にでも見せることができる正しさで(これがエーヒパッシコ)、

 今とか、その時とか、あるいは来生とかいう時に関わりなく、その義務を実践している間中結果が表れています(これがアガーリコ)。

 正しさとは、誰も困らせないで、自分も含めてどちらの側にも善い結果があることです。明らかな意味は、争いや裁判になる必要はありません。正しい知識と正しい行いがあるので、

 学習(パリヤッティ)、つまり知識も正しく、

 実践(パティバッティ)、つまり行動も正しく、

 結果(パティヴェーダ)、つまり行動の結果も正しいです。

 どうすれば苦を滅亡させられるでしょうか。

 それは、日常的に穏やかな心でいることです。スンヤター(空)、タタター(後に説明あり。真如)、そしてアタンマヤター(後で説明)の知識が十分あれば、焦燥させる物は何もないので、その人の心は、正負の威力の下にありません。すべてを無常、苦、無我で見るので、何に対しても渇きがありません。

 自分の義務を正しく行ったと、そしてその汗は聖水、あるいは神様やいろんな真聖な物の助けを引き寄せる物と考えることで、「タンマである義務を行わなければ、何も神聖な物は助けに来ない。団体で助けに来ても、どうすることもできない。正しく義務を行えば、その汗がこの生で本当に頼りになる神様、あるいは神聖な物になる」と確信しています。

 その人は「何か実体のある物がある。それこそが、自分が無くなるまで助け、その後は誰の助けも必要としない」と確信しています。

 身勝手は苦ですが、身勝手でないこと、あるいは身勝手がなくなれば穏やかです。どんな仕事をするにも、知性や正しい見解でし、いつで心を炙る身勝手の威力でしません。

 どうすれば身勝手をなくしたと呼べるかは、自分がないことについて学ぶことでそうなります。体と心は、考えること、話すことを知っている自然、そして亡霊や悪霊に取りつかれることなく、何でもできる自然です。だから自分の求める結果に従って、何でも自然の法則で正しくしなければなりません。

 まだ愚かで自分があると見るなら、身勝手にならないでください。火と同じ状態がある貪りや怒りや迷いに噛みつかれます。

 どんな感情を受け取る時も、常自覚があって身勝手にならなければ、あるのはその感情を適切に処理する知性だけです。正しい見解があり、身勝手や心身や五蘊を自分と捉えて執着することは苦を感じる原因、あるいは苦その物と、いつでも明らかに見えます。

 この執着がなければ、苦は生じようがなく、人生が苦になることはあり得ません。

 最高に正しい見解とは何でしょうか。

 すべての物は作られた物で、原因と縁によって生じ、そして新たな物を作り出し、終わりがないと知ることです。それが変化の流れ、あるいは無常と呼ばれる不変でないことの流れです。

 無常である物によって経過しなければならないので、堪えがたい苦、あるいは苦(三相の二項目の苦)と呼ぶ物が生じます。無常であり、苦であるものに抵抗できる物は何もないので、「自分はない」、あるいは「自分ではない」、あるいは「無我」と言います。

 無常、苦、無我になることをタンマッディタターと言います。自然の法則によって支配されているので、当然そうなることをタンマニヤーマターと言います。

 このように原因と縁で常に変化することをイダッパチャヤター(因果)と言い、「神様」と呼ぶ物と同じ威力がある自然の法則です。

 因果の法則に逆らえる物は何もないことをスンヤター(空)と言います。自分がないこと、あるいは自分という意味がないことです。

 至高の真実をタタター(真如)と言い、誰の声も聞かずにそのようであることで、誰かが無理に自分の思うとおりにすれば、噛みつき、苦になります。

 最後に、依存できないこと、あるいはその後関わらないこと、庶民の言葉で言えば、「今後はお前に用はない」というように振り棄ててしまうという意味のアタムマヤターと言う感覚が生じます。

 振り捨ててしまえば、タンマティティヤーン(法住智)という聖果への到達で、サンカーラ(行)の真実について知ることが、アタムマヤターで終わり、その後はニッバーナヤーナ(涅槃智)の部類で、世界を脱した向こう岸、穏やかさ、あるいは涅槃の意味の始まりです。

 道徳がいっぱいなので、世界は穏やかになり、あるいは人の心が正常な状態になって混乱しないので、最後に世界は穏やかになります。この世界の常として体の外部は混乱していても、それらの人々にとって、穏やかさ(安心)は簡単に得られるものです。

 厄介な問題が起こっても、そういう物を受けつける愚かな執着がないので、社会では当たり前の物である刑務所、警察署、裁判所、神経科の病院、精神病院などの数が減り、その社会は、慈愛と誠実がどこにでもあります。

 弥勒菩薩の世界の状態で、原子爆弾が投下されても、自分に執着していないのと、別に珍しいと思わないので、正しい見解があるので、苦や恐怖を生じさせないので、全員が笑っていられます。これはすべて、ブッダの僕の一人一人が、知性で自分の義務を果たす努力をする結果です。

 ブッダの僕になれる人は何人いるでしょう。もし見過ごさなければ、プッタタートになっている人はたくさんいます。しかし名誉に傷がつくのでブッダの僕と名乗らないで、ウバソク(清信士)、ウバシカ(清信女)と名乗る方が良いです。

 誰でも夕方の読経で「プッタササーハサミ、ターソー、ワ、プットー、メー、サーミキササロー」と唱えています。毎日何とも思わずに、自分はブッダの僕と表明して暮らしているのでしょうか。どうでしょう。考えて見るべきです。

 しかしブッダの望みに叶う、あるいは十分なブッダの僕は、義務を完璧に行います。本当の意味も知らずに、声高に宣言するだけではありません。

 義務は何でもブッダの望みです。奮闘努力して、ブッダの望みで最後までやり遂げなければなりません。

 ブッダの望みを簡単に言えば、誰もが「知る人、眠りから覚めた人、そして明るい人」になることです。その後は苦を知りません。

 サンティッティカン(自分で見ることができ)、アガーリカン(時を選ばず)、エーヒパッシカン(『来て見て』と言うことができる)である涅槃に関する知識は、この話の本質ですが、誰もが不可能なこと、時代離れしていると見ています。この項目は仏教全部が消滅するのと同じくらい重みがあり、あまりに悲しすぎます。ブッダの僕に志願する人は誰でも、このことを十分に承知してください。

 誰でもプッタタートになれます。そしてそうなる準備はあります。足りないのは正しい見解、あるいは正しい理解だけです。良く見れば、多くの人が今既にそうであるのが分かります。本当にそう決意した時は、宣言する必要はないので、表明していないだけです。

 この誘いは、表明してほしいのではありません。穏やかに生きている人の手本になって、本気で実行していただき、そしてこの生き方がもっと理解されるよう、説明する努力をしていただきたいだけです。

 そして人間同朋が徳と捉えないで、あるいはどこかからも徳の報いを求めないで、タンマを知ることができるよう努力してください。誰でも、多少はできます。できないことはないように見えます。

 仏教教団員のみなさんが力の限りこのように実行すれば、最後にブッダの願いは最高に報いられ、天人界、悪魔界、梵天界の含めた動物群も、サマナ、バラモンも、天人や人間も含めた世界に、ブッダの望みと、そしていつもこれらの動物の名前に言及しているブッダの言葉によって、幸福という利益が十分生じます。

 みなさんプッタタートになりましょう。

 時も場所も非常に良い機会です。

 モーカパララーム(スアンモーク寺。プッタタート比丘が住んでいるお寺)へお出でなさい。


1988年4月30日


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