一切智とは





 「サッパンユー サッパタサーヴィー」、すべてを知る人、すべてが見える人とは一般によく話される言葉なので、みなさん前から聞いたことがあると思います。しかしもしかしたら「すべて」を知る、「すべて」が見えるという言葉を間違って理解し、勘違いしているかもしれません。

 ここでいう「すべて」という言葉を、一般的な教育を受けた人は、何でも漏らさず知ること、と理解しています。何語でも知っていて何語でも喋れる、あるいは何でもできると、誰もが誤解しています。ブッダはすべてを知っているのだから、現在のフランス語も中国語も喋れるし、難解な機械の操作をするエンジニアになれると理解する人までいます。

 パーリ(ブッダの言葉である経)やアッタカターの語句や意味を調べて見ると、「ブッダとして知るべきことすべてを知っている」と明記されています。ブッダとして知るべきすべての、最初の項目はあらゆる種類の苦を滅すこと。どんな方法、どんな角度でも滅苦について知ることを「一切智」と言います。

 滅苦や大悟に関わりがない、他のこともいろいろたくさん知っています。しかし今の外国語を話せるとか、あるいは何かそういう類のことと同等に語ることは、経にある教えと違うので「ブッダは滅苦の話と、滅苦に関係のあることすべてを知っている」とします。

 更に詳しく言うと、ブッダが何を知っていようと、滅苦ができる面を知らなければなりません。仏教以外のこと、あるいは世界のことをすべて知っていても、特に滅苦の利益になること、あるいは滅苦に関わることを知らなければならず、それだけでも膨大です。

 「私が知ったことは、森全体の木の葉のように多い。しかし教えるのはその中の一掴みだけ」と、ブッダは明言されています。これは、どれだけ知ってどれだけ教えているかを考えさせます。ですから私たちはこの項目を、一切智とはどういうことかを学ぶ人にふさわしい理解がなければなりません。あるいはふさわしく知らなければなりません。

 「すべてが見える人」という言葉の「見える」は、知ると同じ意味、つまり智慧で見ることで、「内なる眼」あるいは「心の眼」で正邪を見分けること、つまり見ることです。

 一方、普通の人のように外の眼、肉眼でも見えました。ブッダは一般的な視力もすごく良く見え、その外に智慧の視力、法眼の視力がありました。これは智慧の問題で、ブッダたらしめるタンマを見る目のようなものですが、それも最高にありました。

 私たち普通の人は誰でも、何かを見る肉眼の他に、智恵の眼を持っています。しかし少ないか、時には歪んでいて、違って見えたり勘違いしたりします。こういうのを眼がないと言います。

 パーリ語で「目がある」とは、肉眼もよく見え、内面の眼、つまり心眼も明るいことを「眼がある。タンマの目があって見える」と言います。

 ブッダはタンマの目があったので、物質を見てもタンマの面が見え、タンマを見ればすべてのこと、あるいはすべての物質を普遍的に見ることができました。目・耳・鼻・舌・体・心で感じることができる、形・声・香・味・触・考えをすべてと言います。つまり身体の器官である肉眼でも、すべての物がどのようかが見え、心眼や智慧でも、すべてのものが意味するものや真実はどのようか、すべて見ることができました。

 要するに「すべてのものは一般の人が考えるように本物ではない。それらはマヤカシ、つまり作り上げられ、そして止まることなく変化し続けるものだ」という真実が見えます。こういうのを「見える」と言い、それらのものが真実のままに見えます。

 だから愚かにそれらに溺れることがなく、そして人間に関わる物で、愚かにさせる物、溺れさせる物は何もないと見ることを、サッパタサーヴィー、「すべての物を真実のままに正しく正常に見える」と言います。パーリ語の言い回しで、好んで「知る」と「見る」が一緒に使われます。

 この二つを分ければ「知る」は知識であり、「見る」は知った後、心で、味で、試して見て、あらゆる方法で「これは不変ではない。苦であり無我である」と、肉眼で見るように明らかに見ることです。

 「知識」は一般的で基本的な知識で、「見解」は、知ることと見ることが重なって、十分明らかにはっきり見えることで、チャンターパサター、知る人見える人、ここではアユタサーヴィー、「知る人、見える人」という言葉があります。

 この、知る人、見える人というのは「ブッダ」という言葉、つまり教祖であるブッダの始まりで、ブッダは当然、すべてのものを正しく知って見ることから始めました。




ホームページへ 短文目次へ