平和はどこにある





 サンティサーン新聞社から、創刊の記事を書くよう依頼がありましたので、同じ平和を願う立場として喜んで本文を記します。

 幸福と苦、平和と大騒ぎは、次の例のように感じる人の心の中だけにあります。

 いつもゴム底の革靴を履いていると、世界中すべての土地は、どこもかしこも例外なく、天人がゴムを沁み込ませた皮を敷いたと感じる、あるいは結果になり、反対に自分が履いている靴の底に四、五本の釘が突き出ていたら、歩くたびに、この世界は天人が棘を撒いたと感じるだけなのと同じです。

 以上の理由で他人や他の物に関わらないで、自分である心を処理できれば、いつでも私たちは自分の望みどおりの世界にすることができるということです。

 人生は戦いなので、本当の平和はこの世界にはあり得ません。世界とは生きることで、生きることはただ緑や赤や、他の何色でも構いませんが、何も色のない物の上に絵の具を塗り重ねているだけです。

 欲望が塗る人、煩悩が刷毛、体、あるいは形は色を塗る紙で、何も色のない物は、紙でも塗られた絵具でもありません。紙にも何らかの色があり、少なくとも白い色をしています。

 あなたが色のない物を見つければ、あなたは平和を見つけたということですが、絵具の缶をひっくり返しても、紙を燃やしてしまっても、色のない物を見つけることはできません。

 色のない物には紙もあり、絵具もあり、刷毛もあり、そしてどこにでもあるので、絵具で紙を汚すことはできますが、それに塗りたくっても、色のない物を汚すことはできません。

 だからその世界に平和がないのに、世界以外のどこかから本当の平和を探してくる必要はありません。

 黒や赤や白や緑やその他色々な物から、無色の物を推測することができるように、一方で絵具を除き、もう一方で紙も除いてしまえば、色のない物を発見します。しかしそれを、ただの消滅と早合点しないでください。ただ消滅として現れたのなら、まだあなたには「目」がないと見なさなければなりません。

 平和、あるいは色のない物は、過去にも現在も未来にも、まだ作り上げられていない物、何も変化していない物、何も妨害する物のない物でなければなりません。この世界、あるいは命は、何かによって作られた物で、そして過去も現在も未来も、いつでも妨害で混乱させられています。

 生は、それの物ではありません。それは自分自身で生まれることができず、何種類もの物が他の理由で作り上げました。だから独立した自由がなく、まだ自由がない間は、静まることはできません。

 戦争をすること、経済や芸術や文化、文明、あるいは教育などの部分の対処は、どんなに良い対処をしても、その動物が平和、あるいは色のない物に出会う機会はありません。戦争、経済、芸術、文化、文明、そして世界のいろんな教育は塗りたくった絵具であり、そしてそれ自体が戦いであり、反乱だからです。

 常に水に溺れて死にかけている命、あるいはすべての世界を見抜いて、どうか向こう岸へ渡ってください。そうすれば平和、あるいは色のない物に出合います。塗りたくった緑色と黄色と赤を適宜に混ぜ合わせて白にし、それからもう一度白を取り去って何も無くしてしまってください。そうすればすべての動物の目標である、色のない静かさになります。それが平和です。

1946年3月6日


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