先ず身勝手を無くす

 

 仏教の教え、あるいは道徳の教えでも、最初に身勝手を無くすことを求めるので、仏教では、有身見、つまりこの体は自分のものと見る身勝手を、最初に捨てる努力をしなければならない項目にしています。

 仏教の実践をしようと志すみなさんは、そのようにしなければなりません。そして身勝手が完全になくなるまで、サンヨージャナ(人を輪廻に縛り付ける十種類の煩悩。十結)と隋眠を捨てる実践を続けなければなりません。

 身勝手が残らず消滅し、身勝手でなくなれば、その時、それ以後は苦のない人になります。つまり死なない人になり、死ななければならない自分がありません。苦がないのは、嘲笑する希望も残っている期待も何もないからです。

 つまりどんな小さなことを期待する気持ちも望む気持ちも残っていないので、生きたいとも、死にたいとも、何かを欲しがることもないという意味です。何かを望む自分がないからです。これが不死であり、苦があり得ないことです。

何がどのようになっても、この種の心が「苦」になることはあり得ません。それ自体に、狂った症状がないので、心の病気が完治したという意味です。この病気を受け入れる自分がないので、この病気の基盤や住処がないので、発病できません。この種の心は、心の病である執着の住処や居場所でないので、この種の心に病気が生じることはないという意味です。

これが、みんなと同じように苦しまないようにする、唯一の方法です。みんなと同じに苦しまないのは、みんなと同じように心の病気でならないからで、一緒に精神病にならなければ、一緒に苦しむこともありません。この世界が精神病の人でいっぱいでも、あるいは苦が溢れていても、この心は精神病にもならないし、苦もありません。

それがただ一つの解決法です。他に苦のない生き方、狂わない方法はありません。つまり学んで実践する努力をし、実践の結果を出すことで、執着をなくすタンマを、一掴みのタンマと言います。つまり他にはない、たった一つの話で、そのたった一つの話は簡潔明瞭、すなわち「俺、俺のもの」という執着を破壊するだけです。

しかしこの項目の教えを受ける人は、真実を覆い隠す雲か霞か霧のようにたくさんと受け取り、非常に膨大な、巨大なことだと見るので、八万四千項目全部を学ばなければならないことになります。幾つもの話、何十も、何百も、何千も知らなければならないので、すっかり目が眩ってしまい、身勝手を撲滅する話、「俺、俺のもの」という感覚を撲滅する話になりません。

以上の理由で、何度も繰り返し、身勝手あるいは自分があることを無した状態で生きるようお願いします。私たちは、人間がしなければならない仕事を普通にし、そしてその職業をすることは、身勝手な人にとって煩悩を生じさせる機会になるので、私たちはこの煩悩を撃退するチャンスがあります。

つまり常自覚で煩悩を騙しておびき出し、殺してしまいます。餌食を捕まえるために適当な場所に潜んでいるトラと同じで、しなければならないことは、それ以上何もありません。

ブッダは比丘をトラに、密林に潜むことを、サティあるいは念処、サティと呼ばれるものを密林に譬え、トラは密林に巧く潜んでいなければ、隠れていなければならず、そうすれば餌食、つまり煩悩を捕えることができます。

サティに欠ければ、その時密林は消え、トラは丸見えになってしまうので、射られて死んでしまいますが、密林があれば、つまり良いサティがあれば、トラは隠れている側で、餌である煩悩を簡単に捕えることができます。

狂った人にはサティがなく、サティがない人は狂った人です。自分を狂わせてしまえばサティがないので、密林がないトラと同じです。密林のないトラと同じなら、潜伏してもトラの意味がなく、トラの義務はできません。

比丘も沙彌も清信士も清信女も同じ実践者と呼びます。つまり攻撃して殺さなければならない餌食、つまり煩悩があれば、誰でもトラと同じでなければなりません。つまり本当のサティがなければなりません。

現代は狂ってるのが好きで、今笑い、今泣き、また笑い、また泣き、狂った人になります。一日中、一晩中このようにサティがないので、餌を捕えるために潜んでいる密林を失ったトラと同じです。誰のせいでしょう。煩悩であるもの、つまり「俺、俺のもの」は非常に蔓延し、それが子を産み、孫を産んで増殖するので、退治するのが困難になります。


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