仏教は自らを律する宗教

 

 

 行動面、あるいは実践面から言えば、「仏教は自らを律する宗教」です。威力のある神様のようなものに祈願する宗教、あるいは布施や徳を積んで、極楽の生活と商売のように取引する宗教ではなく、仏教は、自分にとって十分な理由があり、自らを律する宗教なので、「理の宗教」と言われています。つまり自らを律す練習課題のような教えです。

しかし教えだけを重要原則、あるいは真の仏教とするものではありません。「宗教」という言葉が教えを意味しても、本当の宗教あるいは梵行は、仏教の言葉で「戒学、心学、智慧学」と呼ばれる、教えに基づいた実践にあります。

 仏教徒を自認する人のほとんどは、「シッカー(学)」という言葉を文字通りに理解しすぎています。つまり「シッカー)の文字通りの意味は勉強ですが、ブッダは原則として、『三蔵を学ぶとは、学習することではなく、「戒学」と呼ばれる、行動と言葉が悪くならないように自分を律す教えと、「心学」と呼ばれる心の部分と、そして「慧学」と呼ばれる生き物が知らなければならないことを知るための熟慮、それらの教えで本当に行動すること』と言っています。

 戒学は、自分自身や他人や、その他関係のある物に対して、あるべき礼儀作法や道徳に基づいた言葉や行動になるよう、自分自身を律すことです。自分を一定に律すことの初等のものを、パーティモッカサンヴァラ(律儀)戒と言います。

(出家の習慣についてもあり、体の衛生に関した物もあり、訪問者を尊重し、他人を満足させることについてもあり、自分の物や集団の生活用品の維持に関してもある。この他に、在家も出家も、どちらも基本的に知って行動しなければならないこともあり、様々な部分がある)。

 眼・耳・鼻・舌・体が、世俗の形・声・臭・味・触によって思い上がらないようにすることを、インドリアサンヴァラ(根律儀。六根を慎むこと)戒と言い、命の維持に必要なものを、自分や他人を欺くことなく純粋に求め、手に入れ、摂取するよう自らを律すことをアージヴァパーリスッティ(活命遍淨)戒と言い、

 そしてそれらの必要なものを、欲望で摂らないサティ(自覚)があるように管理することを、パッチャヤサンニシッタ(資具衣止)戒と言い、これらをまとめて四遍浄戒と言います。この本当の行動を戒学と言い、初めに丸太の皮をき、大凡の形を削り出して整えるように、自分自身を直接律すことです。しかし目指すのは体と言葉だけです。

 心学、つまり自分の心を強制可能な範囲で、自分が望む状態になるように強制することとは、欲情や復讐心に走るのを制止したり、眠気で気がゆるんだり散漫になったり、動揺しないようにすることです。

要するに考えを止めたければ止められ、考えたければ考えられ、それだけを考えたければ、心のすべての力でそれだけを考えることができ、僅かの乱れもなくなるように訓練することです。こうなるよう練習に励むことを心学と呼び、心学があれば心を管理して静めておくことができます。そうすれば、智慧学の非常に重要な道具として使うことができます。

智慧学とは、支配下にある訓練された心で、人生の問題、あるいは人生に必要な問題の真実を洞察するまで、熟慮に熟慮を重ねることで、簡単に言えば、何が苦の原因で、どうすれば苦を滅すことができるかという問題です。

それは人生の幸不幸も含めて、すべては心の問題だからです。つまり自分が誤解しているものについて知らず、溺れて執着するから苦になり、幸福になるには、今まで執着して、愛したり怒ったり、憎んだり恐れたり溺れたりしていた物を、再びそうならないために、思考の流れを、すべてを洞察して納得する方向に強制的に変えることなので、そうなるよう努力することを智慧学と言います。

完璧なら梵行は終わり、梵行が終わるということは、宗教も終わり、幸福を味わう以外には、それ以後しなければならないことはありません。

 この意味で、「仏教は自分を律する宗教」と見ることができます。教えで言えば、自分を律する教えであり、行動あるいは実践で言えば、自分を律する行動であり、そして最後の結果で言えば、自分を律した結果である味が、深く染みわたることです。

 学習する時、実践する時、行動の結果を受け取る時、誰かの言葉を信じなくても、騙していろんな事をさせたり、脅して強制させたりするほど愚かな宗教ではないと確信できるように、自分に確信があるので、自分のために自分でする、自分自身の理由がある「自己訓練」です。

ある宗教教義は、外部からの支援を求めるので、自らを律する、自分で努力する教えがなく、ある宗教教義は自分を律しますが、理由がなく、単なる浅慮や推量なので、行き過ぎて自虐になることもあり、軟弱なのは歓楽ばかり求めて、欲情耽溺と呼ぶようになってしまうのもあります。だから明瞭で理路整然とした規律で自分を訓練する教えがある、仏教と異なります。

仏教の教えは戒、サマーディ、智慧、あるいは八正道という形で現れ、いつもきちっとした道理があります。つまり仏教は、本当に自分を律す、自分に克つ、自分を信じる、自分を拠り所にする宗教と言うことができます。

述べてきたことは、大海のように広大で深遠な講義を要約して、重要な点だけを読者の皆さんに指摘したにすぎません。つまり教えを知っていれば混乱せず、何か新しいことを知って知識が増えても、どう記憶したらよいか分からなくなってしまうことがなく、本当は戒、サマーディ、智慧の三つしかないタンマの教えに入れ、重ねることができます。

ですから、もしまだ理解できない部分があれば、他の講義からその内容だけのものを探して、続けて勉強するべきです。

                                          1935年9月27日

 


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