八項目の規律





 この八項目の、律を判断する状態は、アングッタラニカーヤ(増支部)のゴータミースッタの中にあります。出家して比丘尼になった母ゴータミーに言った言葉で、重要な教えと見なします。また一部には特に興味深い内容である、母の立場にあった人への報恩として選りすぐった内容があります。

 どう実践すれば教えに従って正しく滅苦ができるかという問題が生じた時、これらの規則を断固とした判断基準にすることができるので、仏教の重要な要旨について説いた教えです。

 それは、いずれかのタンマ(実践)が

1.心を情欲に染めるためになったら

2.苦があるためになったら(つまり困難にする)

3.煩悩の塊を集めるためになったら

4.大望のためになったら(つまり小さな望みではない)

5.今ある物で満足しないためになったら

6.交わるためになったら

7.怠けるためになったら

8.養い難くなるためになったら

 それらのタンマはタンマでなく、律でなく、教祖の教えでないと知らなければなりません。

 反対になればタンマであり、規律であり、教祖の教えです。

つまり、

1.情欲が緩む。

2.苦がなくなる。

3.煩悩の塊を集めない。

4.望みが減る。

5.ある物で満足する。

6.交わらなくなる。

7.努力するようになる。

8.養い易くなる。

  情欲で心を染めるとは、関わる物、あるいは取り巻いている物にますます夢中になること、と説明されています。実践、あるいは行動、あるいはどんな考えや言葉も、その人が何かに愛着していれば、誤った実践と見なします。

 映画や芝居などを見ると情欲の威力で心を染めます。穏やかな状態の人、あるいは静かな場所にいる人の心と比較すると、正反対に見えます。この例で形・声・臭・味・触の意味を比較すると、最後に、欲貪の基盤である物を考えて夢見ても、当然心は欲貪で染められます。

 苦があるようになるとは、困難であるべきでないこと、あるいはそれほど大変でないことなのに、誤解や真実を知らないことで自分を困難に追い込むという意味です。

 不思議なことは、人は誰も苦を好まないのに、なぜ自分が困ることをするのでしょうか。それは痴の威力、つまりほとんどは愚かさによって正反対に誤解するからで、出世したい、秀でたい、有名になりたいというような例も愚かさが原因です。

 他人に皮肉を言ったり、自分自身さえ皮肉るのも、ほとんどは同じ誤解、愚かさが本当の原因です。「アッタピラマターヌヨーガ」という修行である、愚かに自分を苦しめることです。

 煩悩の塊を集めるとは、身の周りに貪りと怒りと愚かさを増やすという意味です。欲情して心を染めるのと、この点が違い、障害、あるいは煩悩全般の発生を助け、どんどん増します。常に煩悩を育てる物を集めることは、一般庶民の場合は、煩悩の塊を集めることにならない物もあるかもしれません。しかし出家のように直接滅苦の修行をする人にとっては、非常に煩悩を集めるとします。

 在家にとっても出家にとっても、煩悩の塊を集めることとする例もあります。装飾品や生活に必要のない道具を所有して首丈になったり、図に乗って大望を抱いたり、競争したりするだけなら、際限なく煩悩を増やすことです。

 大望とは、状況や場所、あるいは自分の知性の標準を超えた望みという意味です。

 満足を知らないとは、このような大望という意味ですが、今ある物、あるいは与えられた物に満足できないという意味で、常に「自分は貧しい」という気持ちになるので、続いて大望、あるいは他の煩悩が生まれます。反対に自分を攻撃して自殺に至ることもあります。

 パーリ語で大望のことをマヒッチャターと言い、満足することを知らないことをアサントゥタティと言います。語句としては、あるいは事実上は段階が違い、部分が違い、種類も違うと区別できますが、行動面では一つの物と迷ってしまうほど同じ経過になります。

 交わるというのは、何らかの楽しみのために集団と交わるという意味です。その行動から、交わることから、多くはタンマーロム(イメージ)である味を味わうので魅力があります。目・耳・鼻・舌・体から入る感情(心が感じる物)に負けないのは、こういう理由です。

 だから集団と交わる味が癖になり、それが心を溺れさせ、沈むに沈めない状態になり、考えや読みが表面的になり、的確、あるいは深い考えにならなりません。学習するため、義務である用事の相談するために集まることについては、ブッダは今述べている「集団に交わること」と言っていません。

 しかしその一方で、過去に味わった形・声・香・味・触の記憶で煩悩に取り囲まれ、後で一人で夢想することも、集団と交わるという言葉に含まれると言われています。集団との交わりを懐かしむからです。

 「怠惰」と「養い難い」という言葉の意味ははっきりしています。滅苦の実践は重大事で時間掛かるので、努力と養い易いことが大切です。そうすれば必要以上に食に関わる負担がないので、時間と、他にもっと有益に使えるかも知れない物の節約になります。

 この八つの状態の一つ一つが滅苦の実践の敵です。直接の物もあり、ただ障害だけの物もあり、間違った実践もあるので、「タンマではない。律ではない。教祖の教えではない」とします。初めの八項目と反対の行動をすれば滅苦になるので、タンマであり律であり教祖の教えです。

 これは捉えるため、あるいは正しい道を行くための、滅苦の実践の道具であるタンマ集の一つと見なします。

(1957年)


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