家で出家する

(在宅出家の仕方)

 

 

第12回マーカ季土曜法話

 

 タンマに関心がある善人のみなさん。マーカ季の土曜法話、第十二回目である今日は、これからいつものように、実践に関した学習法について関してお話します。

 

この講義は、何か一つを特定してそれだけを詳しく述べるのでなく、話の概要として述べるので、「概要で勉強する方法」と理解を復習させていただきます。詳細はたくさんなので、自分で勉強できます。しかし今日の講義の題目は「在宅出家である実践」、短く言えば「家で出家する」話をしようと思います。聞くと奇妙です。

 

これには、女性や、家にいなければならず、出家できない理由がある人、あるいは至る所で行われている九日か十日間、尼として出家するにも出家できない人たちの中には、出家できないと残念がる人、悔しがる人がいるという話す理由があるので、「在宅出家」と言う、家で出家する方法を提案させていただきます。

 

出家してなぜ家にいるのかと怪訝に思われる方がいるかもしれません。それは、「出家する目的と同じにする」と答えることができます。出家という意味のパッバッチャーは、パッバッチャーという言葉の意味は、すべての行く(去る)べきものから行き(去り)、すべての避けるべきものを避けるという意味です。つまり苦である類の生活や実践を避け、苦のためになることは何でも厳格に避け、心の中を「家にいる」「寺にいる」としません。

 

実際は家にいますが、心では、家にいる寺にいると考える必要はありません。心をその意味と一致する実践行動にするだけ、つまりあらゆるレベルの避けるべきもの避け、行くべきものから行きます。

 

あるいはもう一つの言葉、つまり素晴らしい振る舞いという意味の梵行に依存しても、「家で」「寺で」と場所を限定しないので、行動できれば行動します。家で八戒、あるいは十戒を遵守するようなこともできます。梵行とは「十分な品行」、あるいは「厳格な品行」という意味で、長期間続け、生涯続けることもできます。簡単に「梵行である行動を、家ですることもできる」と言います。

 

 出家できない人、あるいは比丘尼として出家できない女性の中には、残念がる人、悔しがる人、あるいは他の理由で出家できない人もいますが、残念に思う必要も、悔しがる必要もありません。できる限り最善、最高の実践であるタンマの実践をする努力をすれば、それが家で出家することであり、「家で出家している」と言います。

 

良く聞いて見てください。出家とは避けるべきものを避けることであり、梵行とは、厳格に本気で、教えである正しい行ないをするという意味で、どんな小さなことでも、生涯継続して厳格に素晴らしい行動ができれば、「梵行」と呼ぶことができます。今みなさんが、仏教にあるどんな実践原則を実践規範にしても、お寺や森の中で出家している人たちと同じ結果が生じます。

 

その上、家での出家は、お寺や森で無意味な出家をしている人たちより善くできる場合もあります。以上の理由により、場所の問題はそれほど重要ではなく、重要あるいは厳格なのは、むしろ行動です。家で出家するには、どのようにすればできるか、みなさん良く聞いてください。

 

 

家で出家する時の実践原則

 

 家での出家は本物のタンマ、あるいは明確で不変な本物の仏教の教えに依存しなければなりません。ここで実践原則として依拠するタンマ集を選びますが、八正道のようなものは選びません。それはお寺でもどこでも良い一般の教えなので、もっと高い、もっと緻密な、「五力」というタンマ集にします。良く憶えてください。

 

 五力とは「信仰心・精進・サティ・サマーディ・智慧」で、それぞれを力(インドリア)と言います。インドリアとは「重要」、「重要なもの」、「重要な教え」という意味です。五項目すべてが一般の実践にあるように、サマーディをするにも、バーヴァナー(増やすこと。生じさせること)をするにも、五項すべてがあるようにしなければなりません。良く聞いてください。どの項目のタンマを実践するにも、この五つ全部が揃っているように実践しなければなりません。 

 

 

 

1.信仰 : 滅苦の道具であるタンマを信じる。

 

初めの項目は、「サッダー」、信仰という意味です。家での出家にも、タンマに最高に信仰心がなければなりません。何を信じるのでしょうか。何を信じるのかと言えば、滅苦を可能にする道具であるタンマを信じます。

 

一般に良く知られているのは、戒・サマーディ・智慧、あるいは滅苦をするタンマ、八正道で、みなさんは勉強しました。「これらのタンマは本当に滅苦ができる」、あるいは「これらのタンマは本当の拠り所である」と見るので信じます。

 

 そしてもう一度信じるのは、「このタンマを自分の体で実践できる」、「このタンマを実践するにふさわしい正しさが自分にある」と、自分自身を信じます。これがもう一つの信仰で、合わせて二つ、「滅苦ができる」と実践行動を信じ、「自分には十分滅苦をする徳行がある」と自分を信じます。

 

 このような信仰心があれば、家にいて家で出家することは威力が生じ、力、内面の力を生じさせることもで

きます。こういう言葉を使います。タンマ、つまり一般の教えである戒・サマーディ・智慧を実践する威力や力が生じます。

 

 たとえば家で戒を遵守するには、固い信仰心がある人の戒にしなければならないので、戒は滅苦ができる道具と信じ、そして自分は戒を遵守できると信じます。そうすれば信仰心のある人になり、そして最高の梵行をする人のように、その実践に安定と真剣と厳があります。

 

 ここでその信仰を、毎日あるべき状態に進行させると、その信仰心の威力が最高に本当に行動させるので、その信仰心から生じた気力は非常に多く、精いっぱい実践できます。

 

 今、人々は、「信仰。信仰」と口で言う上辺だけの信仰心しかなく、述べたような本物の、本当の信仰心ではありません。つまりブッダ(仏)、プラタム(法)、僧も本当には信じてなく、そして「自分はこれらの教えで正しい行動ができる」と、自分自身を信じていません。

 

出直してしまい、綺麗に拭ってしまい、家にいても二つの信仰があるようにします。これから実践するタンマを「本当に滅苦ができる」と信じ、「これらのタンマを実践できる」と自分自身を信じ、二つの力を合わせれば完璧な信仰になり、家にいても、家で「出家をしている状態」になります。

 

 

 

2.精進 : 努力と勇気があること。

 

 二項目はヴィリヤ(精進)で、精進とは努力あるいは勇気、努力と勇気を合わせたものを精進と言い、更に教えに対する信仰心と、自分自身への信頼があるので、精進は最高になります。信仰の威力に依存することは、世俗に関わることも世俗を超えたことも、すべてのするべきことを勇敢に努力する基礎です。

 

 しなければならないことを短くまとめた要点だけ言えば、四つあります。つまり勇敢に防ぐ努力、勇敢に捨てる努力、勇敢に創造する努力、そして勇敢に維持する努力です。この四つは、人間のあらゆる問題の「防止、捨てる、創造、維持」に使うことができます。

 

(1)防ぐとは、生じるべきでないことが生じないように防ぎ、それが生じそうなら、敵などは、敵がないように防がなければなりません。煩悩は何より凶悪な敵なので、大敵のように正しく防止して生じさせません。

 

(2)生じたものを捨てます。望ましくないものが生じてしまったら、それを捨てることに勇敢で、強く、忍耐努力があります。

 

(3)創造とは、まだないものを創ることで、善・美・徳・正直など、自分にまだない、自分にあるべきものすべてを、それへの信仰に依存して創造しなければなりません。そして信仰の項目で述べたように「実践できる」と自分を信じれば、最後には自分にまだないもの、自分にまだない善や徳を、自分の中に生じさせることができます。これを創造の面と言います。

 

(4)最後は、創造した分だけ維持しなければならないので、維持、あるいはますます発展成長させることが最後の義務です。つまりお金を手に入れたら、それを正しく維持し、正しく使い、正しく所有しなければならないように、維持します。

 

 みなさんは家にいて、家で出家していますが、精進があり、自分の中に悪や不善を生じさせない努力をし、あるいは最高に勇敢で勤勉で、十分防止でき。そして不注意によって不善や罪が生じてしまったら、完全に捨ててしまい、それからまだ生じていない善や徳を創造して生じさせることができたら、ますます発展するよう維持します。これを、「家にいて精進がある」と言います。

 

 ほとんどの人は、本当に結果を出すことに興味がなく、徳とカンマ任せ(運任せ)です。しかし今、在宅出家になりたいと望み、家で修行者になりたいと望むので、出家者として特別の決意をしなければなりません。家にいても、防ぐこと、捨てること、創造すること、維持することに正しさを生じさせる、注意深さがなければなりません。

 

 

 

3.サティ : すべての場合に、必ずサティを使う

 

 次はサティがあることです。サティと呼ばれるものは特別なタンマで、どんな場合にも使わなければならない必要で重要なタンマです。「どこでも、どんな場合にも使わなければならないタンマはサティ」と、良く憶えておいてください。どんなこともサティの管理でしなければならず、サティがなければ何もできません。

 

 立ち上がって歩くにも、サティがなければ転んでふらふら立ち上がるだけで、ご飯を食べるにも、サティがなければご飯を鼻に入れてしまい、あるいはサティがなければ煩悩でガツガツ食べます。何でも、家ですること何でも、考えて見てください。

 

 水を汲んだり薪を割ったり、鍋や甕を洗うなどの粗い仕事でも、サティと言われる感覚でしなければなりません。煩悩の話なら、更に注意深くしなければならないので、「触の度にサティがある」という高いレベルの教えがあります。

 

 触と言うものについては何十回も話しているので、みなさん理解していると思います。もう一度まとめると、外部にある形・声・臭・味・触・考えが触れるものである、目・耳・鼻・舌・体・心があり、触れる対象があると言います。触れる対象は、目は形と、耳は声と、鼻は臭いと、舌は味と、皮膚は接触と対で、これは身体の側、形の物の側です。

 

 最後の対は名(抽象)のもの、つまり概念(イメージ。法界)と、心の感覚を感じる心です。心は概念と対なので、いつでも出会わなければならず、そうすれば考えられます。過去のことをたくさん記憶できる記憶に依存して、これらのものが考える対象になれば心に触れます。これを触の対象と言います。

 

 目は触れるものである形があり、耳は触れるものである声があり、鼻は触れるものである臭いがあり、舌は触れるものである味があり、皮膚・体は触れるものである接触があり、心は触れるものである概念(イメージ。法界)があります。

 

 体にあるもの、あるいは自分の本当の体なのに、人は知りません。これについて熟慮してみてください。本当の自分の体なのに、人は、どうなっているか、どんなものかを知らず、考えません。

 

 タンマを勉強して本当のタンマにするには、この六組の対を明らかに知らなければなりません。何でもこの六対によって作られるので、あるいは世界のすべてが現れるのは、目・耳・鼻・舌・体・心があるからなので、この六対に関わるすべてを知ります。もし目・耳・鼻・舌・体・心がなければ何もありません。世界も、何も存在しません。

 

 いろんな物を出現させるために自分の中にあるものを知りなさい。いろんな話になるのはこの六つのせいです。だからこの六つのものは、正しく対処すれば善くなり、間違った対処をすれば、これ以上凶悪なものはないほど凶悪になる、重要な立場にあります。

 

 だからみなさんに是非是非お願いします。自分にあるもの、あるいは自分そのものとして、この六組を良く知り、これらが働く時にサティがあるようになさい。目が形を見た時にサティがあり、耳が声を聞いた時にサティがあり、鼻が臭いを嗅いだ時にサティがあり、舌が味わう時にサティがあり、皮膚が何かに接触した時にサティがあり、そして心にイメージが生じた時にサティがあり、それはどうか、その後どんな行動があるかを明らかに知らせます。これも知っておくべきです。

 

 たとえば初めの対の目と形は、目と形が触れ合うと目の識が生じ、これを目の識と言います。目と形が触れ合って目の識が生じ、一つの働きに(目と形と識の)三つが揃っていることを触と言います。触は目と形が触れ合うだけではありません。それは大雑把すぎる言い方で、ブッダの言葉で明瞭に言えば、内処入と外処入と、そしてその処入から生じた識の三つがなければなりません。

 

述べたように目が形を見て形に触れると、目で見ること、つまり眼識が生じ、目と形と眼識の三つになり、眼識は目を通じて形と触れる働きがあり、これをチャカスサンパッサ(眼触)と言います。同じように目・耳・鼻・舌などの触は三種類あり、感じる働きをすれば触と呼びます。触があれば、たとえば目の「触」があれば、「受」つまり満足や不満やどちらでもないなどと感じる三種類の受が生じ、「目の触から生じる受」と言います。

 

受が生じればそれに止まらず、続いて他のものを生じさせ、触の時愚かなら、つまり目の触がある時にサティがなければ、あるいは何の智慧もなければ愚かな触になり、管理するサティがない愚かな受になるので、その後考えを生じさせます。

 

つまりその触の時に喜べば満足させ、その触の時に怒りや憎しみがあれば満足でなく、あるいはその触の時に、心配や呆けが生じれば、知りたくても知ることができなくなり、ここで貪・瞋・痴が生じます。満足して受け取れば貪りが生じ、不満で受け取れば怒りが生じ、満足でも不満でもない感覚で受け取れば痴が生じ、貪・瞋・痴が生じれば火になってしまいます。

 

 ここで欲望と呼ばれるものが生じ、願望します。満足する受が生じた場合は貪りが生じ、手に入れるため、所有するため、もっと求めるために欲望が生じ、怒りが生じるのは、その感情が満足できないものなら怒りが生じ、殺したい、消滅させたい、あるいは少なくても怒りの状態の「突き離したい欲望」が生じ、どちらでもなければ堂々巡りで、痴の状態になります。

 

 このように貪・瞋・痴が生じ、火が生じ、心の中に火が生じます。しかし触の時からサティがあれば、こういうのは生じないで別のものが生じ、これは何か、どうすべきか、これはすべきか、これはすべきでないか分かり、すべきことができます。

 

 喜びや不満、怒りや憎しみに酔わないので火は生じず、苦は生じません。これは、触の衝撃がある時火が生じないように防ぐ本当のサティの威力です。

 

 欲しがることである欲望があると、続いて取、つまり欲しがる人になります。欲しいという気持ちが、欲しがっている人を作り、それは感覚だけで、自分ではありません。欲しがる人がいれば、苦になる話の最高点に達し、自分があることで重く感じ、そして自分があれば自分のものがあります。

 

 このように自分が生まれる時は、感覚の中に生まれます。本物でも何でもなく、「自分」という感覚だけで、自分が生まれると、外部のものも内部のものも、何でも自分のものにし、生老病死を「自分の」と執着します。それはどれだけ重く、どれだけ苦しく、どれだけ熱いでしょうか。

 

ここで外部のもの、財産や物、妻子や夫なども自分のものと執着します。それはどれだけ重いでしょうか。すべてのものを自分のものと執着する取があるので、四方が、すべての方向が重いです。これが触の時の間違いで、触で間違えば、このように苦が生じます。

 

 触の時にサティがあれば、つまり良く学習して訓練したサティと智慧があれば、目に何かが触れた時、間に合うようにサティが駆けつける賢い触、サティによる触で、迷って煩悩を生じさせず、反対にどうすべきかを知り、するべきようにし、何らかの利益を生じさせ、害は生じません。サティがなければ煩悩を生じさせるので、害が生じます。このようになり、目・耳・鼻・舌・体・心の六つは、このように苦を生じさせます。

 

 これは苦の話の自然科学です。仏教の教えの苦の話は自然科学で、このようです。幸・不幸は、触の時に正しくするか誤ってするかで生じると、こう言っています。精霊や神様、運勢、どこかの星か何かによって生じるのではありません。

 

 だからブッダは、「それは過去のカンマの結果は関係がない。今ここでの正しい行動、誤った行動、つまり触によって生じる」と言われています。私たちにはサティのある触があるので、触を管理するサティがなければなりません。

 

 サティという言葉はね、いつでも智慧があり、サティには智慧がなければなりません。サティは思い出すことができ、真実の真実はどうか思い出すことができる、それが智慧です。

 

 六処に触がある時、サティが智慧を運んで来るのが間に合うので、どうするべきかを知り、苦が生じないようにします。愛も生じず、怒りも生じず、嫌悪も生じず、恐れも生じず、嫉妬も生じず、妬みも生じず、未練も生じず、耐えなければならない苦の基盤であるいろんなものが生じないようにします。これを「サティがある」と言います。

 

 家で出家していても、このようにサティがあればどうか、考えてみてください。このようなサティがあって出家していれば、何も知らず、サティがあるとはどういうことかさえ知らず、出家してお寺にいるたくさんの僧より善いです。「家でも出家できる」、「述べたような完璧なサティがあれば、最高の出家になる」と、興味を持ってください。

 

 私は、「触、あるいは衝撃がある時はサティがなければならない」という教えがあります。目・耳・鼻・舌・体を通じて何かが触れて来た時は、サティがなければなりません。サティで触れれば、「明で触れる」「智慧で触れる」と言います。

 

 智慧で触れ、目も耳も開いて、目と耳を塞いでなく、目と耳が開いていれば正しく行動でき、失敗はなく、苦は生じられません。これを「毎日知性で世界に触れている」と言います。毎日毎日世界、つまり接触して来るすべてのものに、いつでもサティや智慧で触れれば、苦は生じません。

 

 家で出家して、家で出家者になり、このようにできれば、仏教の教えの最高の実践です。

 

 「触の時に間違えば愚かな触、無明の触で苦が生じる。真実のままに知る明で触れれば、明による触と言い、苦は生じない」と憶えてください。だから愚かさによる触が無いようにし、どんな感情(心が感じる概念)も愚かさで受け取らないで、サティや智慧でその感情を感じ、あるいは受け取ってください。そして常に訓練してください。

 

 これは話すことはでき、話すのは簡単ですが、実際にするとなると簡単ではなく、ぼんやりりし、あるいはできず、初めは何度も何度も苦があり、そして段々、少しずつできるようになります。そうすれば上手くなり、成功します。だから自分が好きなことを練習するように、最高に良く練習しなければなりません。

 

プロの技術やスポーツ選手は、考えられないほど練習します。タックロー(蹴鞠のようなスポーツ)のくぐり抜けなどは、大変な練習をしなければなりません。これも同じで、私たちも、触の度にサティがあるように、考えられないほどたくさん練習し、そしてうっかり失敗したら恥ずかしいので、「サティのない人、結果として苦が生じるほどサティに欠けるのは自分らしくない」と自分自身に恥じます。

 

私たちは苦のために生まれたのではないのに、なぜ苦のために生まれたようなことになったのか、不注意から苦が生じる度に深く反省すれば、そのうち不注意でなくなり、不注意が減り、最後にはなくなります。

 

 たとえば、歩いていて側溝に落ちるようなのは、きちんと歩かないから、良く見ないから側溝に落ちます。側溝に落ちると痛いだけでなく、恥ずかしいです。「誰かに見られたら恥ずかしい。側溝に落ちると痛いし、とても恥ずかしい」と良く注意すれば注意深くなり、二度と落ちなくなります。

 

 これが触と言われるものに最高に良いサティがあることで、このように決意し、不注意にならないよう強く望み、そして、それは苦であり恥であると、恐れなければなりません。

 

 今私たちはどちらも、あるいは何も感じません。恐れも恐れず、恥も恥じないので、恥がたくさんあり、内部は苦になります。誰も知りませんが、誰も知らなくても内部は苦になります。だから、外に表れて他人に知られて笑われることより、サティがないことを、もっと恐れ、恥じてください。

 

 タンマがある人は、極めて恐れと恥が身になければなりません。内部であるタンマに、このように慙と愧があるのは、外部の話、外部のものよりずっと利益があります。外部のこと、他人に見え、他人に分かることという意味ですが、これは誰も知らないことほど重要ではありません。

 

 しかし自分しか知らないことは非常に重要で、非常に損失があり、あるのを認められないものです。

 

 サティがあることに興味を持ってください。そうすればどんな場合にも苦から脱すことができます。苦を作れないので、苦が生じないように防止するものであり、精霊や神々に苦情を言う必要はありません。それは極めて愚かさを重ねることです。苦が生じるのを放置する愚かさは一つの愚かさで、精霊や天人に文句を言うのはもう一つの愚かさで、それは二つ三つの愚かさを重ねることで、どれほど恥ずかしいか、考えてみてください。

 

 幸、不幸が生じるのは、因果の法則と呼ぶ「触」の時に正しくするか、あるいは間違ってするかによります。パーリ(ブッダの言葉)でこれについて次のように語られていることを思わなくてはいけません。

 

 『幸不幸は神様が作るのではありません。幸不幸は古いカンマによって生じるのでもありません。そして幸不幸の原因はないのではなく、原因はあります。原因は、因果の法則で正しく行動したか、誤って行動したかであり、因果の法則に反した行動をすれば苦が生じ、間違わなければ苦は生じません。因果の法則で間違っている行動するのは、感情が触れた時で、触がある時は、因果の法則で正しい行動をしなければならない最も重要な時です。そうすれば苦は生じません』。

 

 サティをこのようにできれば、家で出家することは、どこのお寺で出家するよりも善いです。こう言うと怪訝に感じ、そして危険に思うかもしれません。しかし、家で出家してこのようにできれば、ほとんどのお寺で出家しているこのようにしない人より善いと主張させていただきます。このようにしない出家は、どこに住んでいても寝ぼけた出家です。

 

 

 

4. 定(サマーディ)。感情である涅槃を目指す。

 

 次は、良く意識するサマーディがあります。1は信仰心があり、2は精進があり、3はサティがあり、4はサマーディがあることです。

 

 サマーディとは何か、ブッダは偉大なサマーディを、「涅槃を感情とする一境心」と、最高に良く、完璧に規定しました。

 

 「涅槃を感情(意識する対象)とする一境心(エッカガターチッタ)」とは何か、感覚として分からなくて、意味が分からなくて混乱する人もいます。一境心とは、一つの頂点しかない心で、涅槃を感情とする一境心とは、一つを狙い、頂点が一つしかない心です。

 

 エカッガとは「尖端が一つ」という意味で、エカッガターチッタは、尖端が一つの心。つまり一つのものを狙います。これをエカッガターチッタ、一境心と言います。

 

この心は涅槃だけを目指し他のものを目指さないので、「涅槃を感情とする」と言います。感情として涅槃を狙う一境心が、サマーディと呼ばれるものの要旨です。どんなサマーディも、何種類、何十種類、多種多様なサマーディも、要旨は心の感情として、唯一の感情として涅槃を目指します。

 

 今ごく簡単に言えば、いつでも涅槃が感情(心が捉えているもの。心の概念)であることを望み、十分に涅槃を知ったら、いつでも涅槃を望む、それが涅槃を感情とする一境心です。

 

 家にいてもできます。苦の最中にいれば猶更するべきです。どんな苦でも涅槃を目指し、滅苦を感情にします。一般に、私たちは涅槃のために生きていると知っているので、心は感情である涅槃だけに注目して集中します。これがサマーディの意味です。

 

 人はあのサマーディ、このサマーディをし、いろんな段階があり、細かく分かれていますが、めとめれば涅槃を狙うことが感情です。たとえばサティが長い息、短い息を意識するのは、そのように意識して心をサマーディにしますが、行く手に望んでいる感情である涅槃があります。

 

 つまり終点に、最終目標に完璧な滅苦があるサマーディをし、サマーディになったらヴィパッサナーにして無常・苦・無我を見、それから倦怠し、欲望が緩んで解脱するので、涅槃が感情としてあります。この意味は最高に善いので、「サマーディと呼ばれるものは涅槃を感情とする一境心」と言います。

 

 どうぞみなさん、このような状態で心を維持してください。このような状態とは、注目する涅槃があり、目標である涅槃があり、何としてもそこに、最高に早く到達しなければならず、早ければ早いほど良いです。これが利益のあるサマーディです。本当の意味のサマーディは利益があり、涅槃を目指すことを感情にします。

 

 家にいるので、何でもしてください。しかし大きな意味を忘れず、最終目的として涅槃があることを忘れません。私たちがすることをまとめれば、最終目的、つまり涅槃に行き着きます。

 

 仮に稲作をするなら、米を作って食べられるようにし、食べられるようになって生活し、そして涅槃を明らかにします。果樹作りでも、お金を稼いて食べて使うのは生きるため、涅槃を明らかにするためで、商売、あるいはどんな職業でも、サムロー(三輪自転車)漕ぎで一日中汗を浴びていても、「私は苦がまったくない状態を現すために、生き抜くことができる」と望むことで、涅槃が感情である一境心を持つことができます。

 

涅槃と言うものは冷涼な暮らしで、まったく苦がない、涼しい暮らしを涅槃と言います。私たちは目的であるそれがあります。低い仕事で道路の清掃や下水管の清掃、サムロー漕ぎ、舟の船頭などをしていても、将来涅槃に出合う目標を感情にすることができます。

 

 座って乞食をしている人でも、「今、俺は乞食をしなければならないから乞食をして凌いでいる。生活が何とかなったら、その後は、休まず注意深く配慮するサティがある実践をする。そうすれば最終目的として涅槃があるようにできる」と、このように話して終わりにしてしまいます。普通の庶民だけでなく、乞食をさせてもサマーディがある機会、希望をもたせます。

 

 「サマーディ」「サマーディ」とこのように言うのは、一境心、つまり一つだけの心という意味です。つまり一つだけで、重厚で、目的として涅槃があります。だから在家の人は誰でも、涅槃を目標に、最終目的にすれば、意味として十分なサマーディと言います。

 

 心をサマーディに引っ張って行くサティ、述べたようなサティがあれば、心をサマーディがあるように導きます。自覚があり、初めに思い出し、初めに何らかの真実や知識を思い出せば、これをサティがあると言います。

 

 思い出すことができ、その気持ちを長く維持することをサティサンパッチャンニャ(常自覚)と言い、サティとサンパッチャンニャが手を繋ぎます。サティは思い出すことができることで、サンパッチャンニャは自覚することで、思い出したことを保持します。

 

たとえばサティが何らかの正しさをハッと思い出したら、それを保持するのがサンパッチャンニャで、サティとサンパッチャンニャは、このように同時に働かなければなりません。だから私たちに常自覚があれば、何も失敗せず、何をしても正しくなり、しなければならないことの善い結果を受け取ります。

 

 

 サマーディがあるとは、心が安定して動じないという意味で、その時妨害する煩悩がなく、その時の心は考えることに俊敏で、あるいは心の義務に敏速です。「サマーディ」「サマーディをする」というのは、座って身体を丸太のように固くするという意味ではありません。そういう意味ではありません。

 

 何でもいろんな方法でして、目的が一つになるよう、エカッガターという一つだけの感情になるよう、心を訓練するという意味です。そうすれば武器と力が一つになるので心に煩悩がなく、強固になり、心の義務に迅速になります。

 

心に考える義務があれば、サマーディである心は考えることに敏捷で、サマーディでない心は愚図愚図もたもたして考えられません。あるいは敏捷ではありません。サマーディとは妨害する煩悩がなく、一点に強力な力があるという意味で、そして考える義務に敏捷で、何かを考えるにも、するにも、決断するにも、サマーディですれば良くできます。

 

だから考えなければならない、決断しなければならない、他人に仕事を命じなければならない任務のある人は、何でもサマーディのある心でしなければなりません。

 

 ここで何かをしようとする時、いつでも心が一つの感情に密着しているよう、引き寄せるサティがあるサマーディにする練習をしなければなりません。つまりする前からサティがあり、している時サティがあり、そしてし終わった時もサティがあれば、失敗のしようがありません。考えてみてください。失敗する余地はなく、あるのは最高の正しさだけです。

 

 ここでみなさんが家で出家するなら、サマーディの訓練する機会を探し、毎日たくさん無駄にしている時間を、サマーディをするように変えてください。そして仕事をしている時も、どんな仕事をしていても、サマーディである心でサマーディをすることができます。

 

 農家で、水牛の後ろを歩いて田を耕しているなら、耕している鍬の刃先に絶えず心があれば、田を耕している時、耕している鋭い鋤の刃先に心があれば、それは耕すことでサマーディをしています。果樹園の仕事で、スコップで土を切り取り、土を掘り上げているなら、土を掬うスコップにサマーディがあります。

 

 家でしてもいいです。家ででもいいです。他の仕事も価値があります。しかし今私は、みなさんが家の掃除をしなければならず、床を掃くなら、掃いている時、土についている箒の先を心で意識してくださいと、最低の仕事にします。そのようにするのは難しくありません。土に触れてどんどん掃いている箒の先に心があり、常に心はそこにあります。これは良いサマーディ、上等なサマーディです。

 

 皿を洗うなら、皿を洗っている指先に心を置いてください。普通皿洗いは指で洗うので、皿を洗い終わるまで、皿を撫でている指先、触っている指先を心で意識してください。

 

 鍋を洗うのも中華鍋を洗うのも同じです。何かで鍋や中華鍋を擦る時、擦っているものが釜に触れ、中華鍋に触れている、そこに心があれば、あなたもサマーディがある人で、森の中で座ってサマーディをしている人と同じサマーディがそこにあります。しかし今は家でサマーディをしています。

 

 薪割りをするなら、薪割りは斧の刃にサマーディがあり、斧が薪と接触する時、姿勢にもよりますが、木を裂く斧の刃に、そこに心があります。

 

 ここで車の運転は、運転手のために話すと、地面と接す車輪の所に心があるようにし、地面と接している車輪に心があれば、車の運転をしている時は、素晴らしいサマーディになります。

 

 マッサージ師について言えば、押している指先に、深く圧している指先に心があるようにし、心が深く圧している指先にあるようにします。マッサージ師なら、マッサージをしている間中サマーディをしています。これを「人間がしなければならない仕事なら何でも」と言います。

 

 すべての立ち居振る舞いで、立っていれば足が床に触れている所、そこを意識し、歩く時も同じで、足を着いて上げて、足を着いて上げて、心は足の裏にあり、座る時はどこにも心を決めず床に正しく座り、床に触れているお尻に心を意識します。それもサマーディです。

 

 彼らには別のいろんな方法があり、たとえば呼吸を意識したり、腹の膨らみを意識したり、何でも意識します。しかし本当は、それは日常的なものの話であることです。

 

 ここで最低の話をします。尾籠だと非難しないでください。大小便をする時もサマーディの心があり、大便の固まりが正しく出て来る時に専念し、小便をするにのも、同じでようにサティとサマーディで排泄し、ぞんざいにしてはいけません。お尻を洗う時、ぞんざいにしないでください。お尻を洗う時は、指先にサマーディがあり、それも完璧なサマーディです。

 

 これが「在宅出家」の話です。分かりますか。家で出家し、出家していますが家にいて、戒・サマーディ・智慧のタンマの行動をする機会がたくさんり、すべての立ち居振る舞いに、仕事に、サマーディがあるサティがある話をしています。

 

 田を耕す仕事なら耕している鋤の先にサマーディと心があり、舟を漕いでいるなら、水に当たっている櫂の先に心があります。これが本当のサマーディで、他のすべての意味、すべての種類の利益になるサマーディです。

 

 

 

5.智慧 : 知るべき真実を知る

 

 最後は「智慧」です。1は信仰心があり、2は精進があり、3はサティがあり、4はサマーディがあり、5は智慧があります。智慧とは知るべきこと、知るべき真実、滅苦ができる真実を知る知識という意味です。

 

 いつでも真実を知り、いつでもサティで生活してください。サティが思い出し、サンパチャンニャ(常自覚)が意識しておき、そうすればいつでも博識のように智慧で暮らせます。心に「俺、俺のもの」の類の考えが生じるほど作らないでください。

 

 俺という言葉はかなり下品ですが、『「自分」「自分のもの」という意味の考えは誤りであり、非常に苦を生じさせる誤った考えであり、誤った知識なので誤った考えと言う』という知識が必要です。

 

 智慧は博識でなければならず、正しいことを知り、知るべきこと何でも知り、知るべきこと何でも知ることができますが、「俺、俺のもの」、「自分、自分のもの」という類のものを知らないでください。繊細で上品で非常に奥深いこと、つまり心の面を繊細で上品にすることを知っていなければなりません。触の話でお話したように、考えは変調するので、みなさんは「俺、俺のもの」という意味がある考えや知識を生じさせないでください。

 

 どうするべきか知ることができる知識で働きます。良く聞いてください。仕事をするなら、オフィスで働いていても、あるいはどこで働いていても、「何をどうすべきか」を知る知性で働いてください。そして「俺、俺のもの」、「俺のためにする」、「俺が手に入れる」、「俺がどうする」という類の考えを生じさせないよう注意してください。

 

俺、俺のもの」という類の考えを生じさせないで、仕事の結果を急ぐ気持ちを生じさせないで、仕事の結果を早く手に入れる望みを生じさせないでください。それは間違ったものばかり、危険なだけです。どうするか、正しくするにはどうするか、という正しい知識だけにして、そして、そういうのだけに興味を持ってします。これを、「最高の智慧で働けば、苦を生じさせる失敗も、失望も、欲望煩悩も生じない」と言います。

 

だから、「因と縁で経過する」という因果の法則の正しい知識、そして「必ずそうなり、他にはなりようがない」というタタター(真如)の知識。因果の法則とタタターの知識が十分あり、そして働き、結果を手に入れて、結果を美味しく食べ、楽しく使得るという期待の部分は、結果がなければならないと考えないでください。それは、「俺、俺のもの」の種類の考え、あるいは感覚なので、必ず苦になります。

 

 これについてパーリ(ブッダの言葉)にとても良い例えがあるので、「雌鶏は卵を良く温めるだけで良い。ヒヨコよ生まれなさい」と考える必要はない」と、時々話しています。

 

 雌鶏はね、卵を温める時しっかり温めるだけで、ヒヨコが生まれることを考えません。雌鶏は自然の方法で正しく卵を抱き、土を引っ掻いたり、卵を抱いたり、向きを変えたり、自然の仕方で正しく温めたり冷ましたりし、そうすれば、雌鶏が「生まれなさい、生まれなさい」と期待しなくても、ヒヨコは自然に生まれます。ヒヨコが生まれるよう期待して、「生まれなさい。生まれなさい」と念じている雌鶏がいれば、それはどうしようもないバカな雌鶏です。

 

人も同じです。「俺、俺のもの」である期待の考えをしないで、その行動に関した知性で正しく働いてください。「生まれろ」、「出て来い」、「結果が現れろ」、「手に入れ」、「儲かれ」、「こうなれ」、「ああなれ」というのは、「俺。俺のもの」の話なので苦しいだけです。それに、そうできないで、仕事を駄目にすることもあります。

 

 今私たちは、間違って教えていることがあり、「希望を持ちなさい」と言うようなのは、実際、期待しすぎて仕事中に心に割り込んでくれば、散漫になって良くできません。正しく、善くできません。どうするべきか分かる知性を、できるだけ沢山残して、善くしてください。

 

 考えの中に、ああいう結果がほしい、こういう結果にしたいという希望を生じさせれば不安定になります。「どうするか、これはどうするか」という安定したサマーディがあるようにしてください。それを智慧で生きると言います。

 

「自分、自分のもの」という考えや感覚がない心があり、「俺、俺のもの」という感覚や考えがなければ空の心なので、どのように考えることもできます。それをどう良くするかということも考えられます。しかし「俺のため」、「俺のもの」、「俺のものにする」、「俺が手に入れる」という考えが割り込ませないでください。そういう考えが生じれば闇になり、憂鬱になり、熱くなり、苦になります。これを仏教教団員だけの秘訣、あるいは最高に善く働く技術と言います。

 

 今みなさんは家で出家するので、家で出家するには、どうぞ智慧で仕事をし、智慧で生活をし、人間に生まれた最高に善い結果を受け取ってください。人間に生まれたら、最高に善いものを受け取らなければなりません。このようにすればでき、そしてそれは智慧で得ることができます。煩悩欲望でしないでください。自分のため、自分のもののために、あれを手に入れたい。これを手に入れたい。それは望む必要ありません。

 

自然の法則に合わせて正しくすれば、自然に結果が現れ、期待ですれば散漫になります。もう一つ簡単な例は、宝くじを買っても期待して精神病にならないよう、買ったら買っただけにし、時が来たら当たっているか外れたかを調べます。しかしこういうのが好きじゃない人がいて、買ってくるとバカになって期待するのが好きで、座って期待し、寝ても期待し、最後には本当に神経の病気になります。

 

 みなさんは、智慧で働き、あるいは暮らし、智慧に不注意にならないで、智慧を塗り重ねてください。

 

 つまり常に正しい考えで、仕事をする時は、これからする仕事に関わる智慧で働き、働いている時は、している仕事に関わる智慧があり、仕事が終わって結果を得る時も、結果を受け取ることに関した智慧があります。煩悩欲望で仕事の結果を受け取らないで、このような智慧で受け取ってください。このようになります。このようにすればこのようになり、酔って呆けて、常自覚を失う必要はありません。

 

あるいは、仕事の結果を受け取って食べるのも、蓄えて置くのも知性でして、心を苦しめてはいけません。仕事の結果を食べたり使ったりする時も、知性でし、失敗しないでください。他人に分けてやる時、布施をする時も、知性でします。

 

働く前も、働いている時も、仕事の結果を受け取る時も、結果を使う時も、食べる時も、布施する時も、何でも智慧でし、煩悩欲望で息苦しくならない、智慧で生活する在家という意味です。

 

 

 

 

本当に家で出家できれば、得るべき結果がある

 

 出家して家にいて、そして家で阿羅漢になり、阿羅漢になったら全部止めます。出家する必要も何の必要もありません。阿羅漢になったら出家を止め、出家という言葉の意味は終わります。出家、あるいは梵行は必要ありません。

 

 しかし今はまだ阿羅漢ではないので、全身全霊出家者になって家で生活してください。特に女性は、女性が出家できないことを気にする必要はありません。男性のように出家する機会がなくても、同じように、あるいは同じだけ家で出家できます。彼らが集団で九日か十日出家して、どんな結果を得るか知りません。

 

 私は、「今話したように出家なさい」と主張させていただきます。家にいて、信仰心と精進とサティとサマーディと智慧があり、家で出家して五項目のタンマで完璧になります。もう一度復習すると、「信仰心」があり、自分が拠り所にするもの、つまり実践あるいは教えに確信があり、そして「自分にできる。自分にもでき、不可能ではない」と信じ、そして信仰心がするようにさせます。

 

 同時に「精進」、つまり勇敢、努力があり、刻苦勉励し、することに楽しさがあり、することに満足し、している時に幸福を感じます。結果が出る時まで待たなくても、している時も満足し、幸福で、幸福で満ち足り、お金を使わずに幸福になれます。

 

 ここで「サティ」があり、考えや思慮や行動で失敗しないように、特に目・耳・鼻・舌・体・心で触がある時に、注意深く防止します。

 

 「サマーディ」があるとは、感情である涅槃に非常に安定した心があり、常に、一呼吸ごとに涅槃に目標があれば、涅槃を目指す一境心があると言います。そしてその種の心を維持すること、何でもすれば、いろんなサマーディの仕方の違いはあっても、どれも感情である涅槃があり、どれも苦からの解脱が感情としてあります。

 

 そして最後は智慧で生活し、智慧で生活するとは、しなければならないこと、あるいはするべきことを正しく明らかに知り、すべてを台無しにしてしまう「俺、俺のもの」のための煩悩欲望を介入させません。これを、「どんな仕事も空の心でする」と言います。

 

   どんな仕事も空っぽの心でし

   仕事の結果はすべて空にやり

     空の食べ物を僧が食うように食い

     それ自体ハナから死んでいる

 

  初めから終わりまで自分がなく、自分のものがなければ、苦はなく、問題もなく、智慧で純潔な心があり、そして穏やかな幸福です。これが家で出家することです。

 

 賛同する方は試してみてください。あちこち探し回って寺や森で出家するのは、家で出家するより大変で愚かになることもあるので注意してください。本当に決意し、本当に注意深ければ、お寺や森で出家するより、家で出家する方が善い結果になることもあります。お寺や森でする出家は、一般には出鱈目で、得るべき十分な利益が得られないからです。

 

 

 さて今日は、家で出家するという、かなり変わった話をしたということです。避けるべきものをすべて避け、家で生活し、そして行なうべき義務を、最善を尽くして行ない、自分自身の義務に対して、力の限り智慧の限り最善を尽くし、そして義務をすることに幸福があり、あれこれ結果を期待して煩悩に応える煩悩欲望がありません。家で出家する話はこれだけです。

 

 全員還俗させて家で暮らさせる、という意味ではなく、家にいても残念に思うことも、悔しがる必要もないという意味で、家で生活していても、最高に素晴らしくすることができます。

 

 家にいる人はお寺にいる人よりも多いので、これらの人が不利であるべきではなく、仏教教団員(比丘、比丘尼、清信士、清信女)が受け取るべきすべての利益を受け取るべきです。

 

 家にいる人、あるいはまだ家にいる人は、自分の生活が出家にふさわしくなるよう、タンマの学習、つまり「信仰心・精進・サティ・サマーディ・智慧」の五つのタンマが、実践の最初から最後まで関わっているようにしてください。

 

 森やお寺や密林で厳しい念処の修行をするなら、信仰心・精進・サティ・サマーディ・智慧が、実践に十分あるよう注意すれば、望みどおりの結果があります。

 

 今日の講義も終わりの時間になりました。ちょっと変わった話ですが、熟慮して見る必要があります。そうすれば家にいる時間を、最高に有益に使うことができ、まだ家で暮さなければならなくても、家を捨てて出家した人より、不利にも損にもなりません。

 

 簡単に言えば、もしできるなら、家で出家できるなら、お寺で出家するより驚異的です。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。

 

 


 

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