食べ物を食べる

 

 

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 今、一九六七年四月十五日、五時で、毎日何かを話すと決めた時刻です。

 

 今日は、食べ物を食べることについて話したいと思います。食べることには、留意しなければならない項目、あるいは考えて見る項目が三つあり、①どう食べるか、②食べる前に感謝すること、そして③食べる権利についてです。

 

 「比丘が食べ物を食べる権利」について考えることを放棄しがちですが、最終的に悪い結果、梵行あるいは自分の義務の遂行の弛みになる、非常に重要なことと見ます。

 

若い比丘、あるいは沙弥、あるいはほとんどの比丘も食べる権利があると、つまり出家したら、必ず快適に食べ物を食べられると思って食べ物を食べます。誰でも食べ物をお寺に持って来るのを見ているからです。このように食べるのは、バカと言うほどの愚かさと見なさなければなりません。なぜなら、権利と義務に責任を取ることを知らないからです。

 

本当のことを言えば、托鉢に行って食べることは、義務ではなく権利の結果を受け取りに行くと捉えるべきです。人々が食べ物を食べさせるために持って来ることを「衆生を救う」と見なし、庶民もほとんどは、「お坊さんが衆生を救いに来られた」と言い、食べ物をもらいに行って食べることを義務と言うなら、大昔からずっと、「托鉢に行くことは義務、あるいは衆生を救うこと」と、騙されていたのかもしれません。

 

 本当は、托鉢に行くことは、他の義務をした比丘だけの権利で、すべての梵行を正しく行動してこそ、食べ物をもらって食べる権利であるべきで、そうでなければ、出家すれば同じ権利があることになります。義務は歩いて行ってもらって来て食べることだけで、そしてそれを、私たち比丘の義務である衆生の救済と見なします。

 

私は、こういうのは正しくないと見ます。それはパリヤッティ(タンマの学習)、パティバッティ(タンマの実践)、パティヴウェータ(タンマの実践の結果を受け取る)の部分の義務を行った時に得るべき権利にすぎないはずです。托鉢に行って食べる以外何もしないほど不注意にならないよう、この項目に注意してください。

 

 ここで更に微妙な権利は、比丘の義務を完璧に行い、本当の出家の生き方があり、そして人々が献じた食べ物を食べることは、比丘らしさがあるか、比丘らしさが微塵もないかに関わります。もし比丘にパラージカである重罪があれば、その後比丘であるものは何もなく、その比丘は食べ物をただで食べる権利はありません。

 

お金を払わずにただでご飯を食べることを考えて見てください。もらって食べることができ、その上人々は、拝む一方です。これはなぜでしょうか。家を治めず、田畑を耕しませんが、タンマででもヴィナヤででも、私たちが出家の、家のない人の義務、最高の義務、つまり梵行の行動をし、滅苦を現し、そして他人に教える義務を負うと宣誓したことから生じます。

 

他人に教える義務は除外してもいいです。お願いするのは、畑や田んぼの仕事をする機会がないほど急いでする意味がある、本当の梵行の行動をする人であることだけです。世間の約束事として、十分に梵行の行動をする機会が持てるよう庶民が食べさせて支援するので、比丘はただでご飯を食べる正当な権利があります。

 

 比丘が梵行の行動をして聖向聖果に到達でき、在家も梵行の行動で聖向聖果に到達できるのに、どうしてこの人たち、つまり比丘たちにただで食べさせるのか、考えて見てください。それの理由は、ちょっとだけ早く行かせることです。他の人が協力して早く行かせるので、ただでご飯を食べる権利が生じます。

 

今みなさんが、不安定でくるくる変わって信用できず、向こう見ずで、愚図な人で、その上このように支援者の背中の上で快適さを求めれば、当然、ただでご飯を食べる権利は、確実に失われます。強引に食べれば地獄に落ちなければなりません。そのようにする公正な権利がないので、結局は欺瞞になり、窃盗になります。

 

 だからご飯を食べる、あるいは食べ物をもらって食べるには、いつでもこの義務を思わなければなりません。そして「自分はこの義務をし、托鉢した食べ物を食べる権利がある」と心に留めなければなりません。

 

 だからみなさんは、梵行の義務を全部漏れなく実践する努力を、能力の限りしなければなりません。そして不安定、不信用、向こう見ず、愚図をなくして、能力に応じて教えたいと望みます。これが一番目、つまりただでご飯を食べることに関わる義務と権利です。

 

私たちに食べさせれば、私たちは食べることで衆生を救い、支援者に結果を与え、徳を与え、儲けを与えると口実を言うのは正しくなく、確かでなく、安全ではありません。そのように考えてはいけません。気づかずに庶民を騙すことになりかねません。これが一つです。

 

 

 次に、「食べる前にブッダに感謝する」というのは、聞くと、食べる前に神様に感謝するクリスチャンのようですが、私は、クリスチャンではなく、私たちの徳行、私たちの本当の知性である、ブッダに対する比丘の恩返しと見ます。

 

 人々は多分ただで食べさせません。私たちの頭を護っているブッダの偉大な徳があるからただで食べる機会があり、何もしなくても、一日中寝ていても、食べ物をもらって食べることができます。ブッダの徳は非常に偉大だからです。

 

私たちは、ブッダのバーラミーに依存する状態でご飯を食べる前に、このように考えるべきです。クリスチャンのように thankgiving しなくても、私たちには私たちの方法、つまりブッダが私たちにさせたいと望まれた実践があるので、ブッダの望みに応えることを心で願い、それを思ってから食べれば、ブッダの恩に対して十分正しいです。

 

観察して見ると、食べる前にご飯を供える、ちょっとした伝統習慣があることが分かります。まだしている比丘が大勢います。托鉢から帰ったら、鉢を頭上に持ち上げてうずくまり、しばらくブツブツ言って、それから持って来て食べます。話を聞いたことがありますが、ご飯をブッダに供えるということが分かりました。しかし良く聞くと、むしろブッダへの感謝で、それから食べます。そうしないと、食べる気にならなりません。

 

 ここでブッダに最高の感謝をするなら、その時の自分の能力の限り、ブッダの望みに従ってする方が良いと、私は考えたいです。パッチャウェッカナから最高のダートゥパッチャウェッカナを熟慮して、それから食べます。こういうのを、「体を維持するためだけに食べる」、「ヤートゥラー チャ メーバヴィッサティ=この個体は、梵行を公開するなどのためにある」と言います。それから食べます。こういうのを、砂漠で我が子の肉を食べるように、車軸に油を垂らすように食べると言います。

 

どうぞ、ダートゥパッチャヴェッカナの内容に注意深くしてください。「ヤターパッチャヤン ダートゥマッタメーヴェータン」、略して「ヤターパッチャヤン ダートゥマッタ エーヴァ エータン」の、ダートゥマッタエーヴァは、「ダートゥにすぎない」、ヤターパッチャヤンは、「縁になる」、つまり、「それは原因と縁になるダートゥでしかない」。

 

「ヤディダン=言ったものは何か」、「チーヴァラン タドゥパブンチャコー チャ プッガロー」、チーヴァラについては、それ、つまりチーヴァラとチーヴァラを使う人、食べ物については、ピンタパトー タドゥパブンチャコー チャ ブッガロー、それは食べ物、そして食べる人も、すべてダートゥにすぎず、原因と縁になる」。

 

つまり私たちが食べるご飯もダートゥにすぎず、原因と縁になるので、もう一度、「ダートゥマッタコー=ダートゥにすぎない」、「ニッサトー=動物ではない」、つまり自分ではない、永遠の生き物ではない、「ニッチヴォー=チーヴァブッガラではない」。ブッカラはヒンドゥーの意味では soul です。スンニョー=自分である意味は空(ゼロ)である。これが仏教の本当の基本です。

 

 みなさんがこのように熟慮していれば、最高にブッダの教訓ですると言われます。そして遊びのために食べず、酔うために食べず、この個体を維持するためだけに食べます。これを、ブッダの恩に最高に報いると言います。そしてブッダに対する感謝であり、ブッダと私たちの間にある借りに対して最高の責任と言い、その後借りを生じさせることなく食べ物を食べれば、借金から脱すことができます。

 

梵行仲間であるみなさんは、「砂漠の中で我が子の肉を食べるように食べる話し」を、(三蔵の)中部で読んだと理解します。この例えについて述べている経は、夫婦が幼子を一人連れて砂漠を横断する長旅をしていて、道に迷って砂漠から出られなくなり、食糧が尽き、過酷な気候で幼子は命を落とし、夫婦は食べる物がなく、砂漠を脱出して家にたどり着くまで命を繋ぐために、我が子の肉を食べなければならないという要旨があります。

 

考えて見てください。美味しさ、楽しさで食べることが、どうしてできるでしょう。たぶん涙を流しながら、あるいはそのような何かで、死なないで何としても家に帰り着くためだけに食べます。今みなさんはこのような気持ちで食べているでしょうか。大勢で笑いながら、時には冗談を言いながら食べれば、そういうのは砂漠で我が子の肉を食べるように食べるのではなく、それはきっと長者のようで、知らないうちに長者になっています。

 

 しかし「車軸に油を垂らすように食べる」と言うのは、「油は滑らかにするだけ。少しで十分」とハッキリと見えているので、ここで「個体の薬」、「個体が本当に生きるため」と言います。

 

 だからこのような食べ方を、清浄道論では、「チャッターロー パンチャ アーローケー アブタワー ウダカン ピウォー=四五口残して、満腹するまで水を飲む」、「アラン バースウィハーラーヤ パヒッタタッサ ビックノー=自分を梵行、つまりサマーディバーヴァナーに追いやる比丘が、サマーディバーヴァナーをする時安楽であるには、これだけで十分」と明言しています。

 

これが車軸に油を垂らすように、適量があるように食べることです。そして砂漠で我が子の肉を食べるように食べるのは、美味しさに触れず、目指さず、まだ砂漠から脱せないので、まだ輪廻から脱せない苦に耐えなければならない悲哀で、砂漠から出るために求めます。

 

 だから、「少なくとも私たちには、食べ物をもらって来て食べることに関して注意して慎重にしなければならない項目が三つある」と見るべきです。つまり義務でなく権利と捉え、そして食べる前にブッダに感謝し、そして砂漠で我が子の肉を食べるように、あるいは車軸に油を垂らすように食べます。

 

 梵行仲間であるみなさん。ここにいる間中、精一杯注意深く慎重にし、課題の一つと捉えてください。だからみなさんが歩いて食べ物をもらいに行く時、黙って静かに、そして「私は今、注意深く権利を行使し、歩いている間中ダートゥパッチャウェッカナし、最高に注意深い心で歩くことで、借りを作らないようにしている」と想います。

 

そして食べ物を受け取っている時も同じで、罪、つまり入れる人にラーガ(欲貪)などの貪りを生じさせないために、あるいは入れられた物が気に入らない理由で怒りが生じないように、鉢の中に投入される食べ物、食べ物を入れる人、食べ物を受け取る自分もダートゥであることを、「ダートゥにすぎない」と見ます。このようなら安全を受け取り、パッチャウェッカナの結果を受け取り、そして本当にブッダの望みですると言われます。

 

そして、随喜した後、同じようにパッチャウェッカナである気持ちで歩いて、注意深さで戻って来ます。そして運が良ければ、このような注意深さ慎重さが、何か特別な考え(アイディア)を、少なくとも一つ生じさせ、帰ったらそれをメモしておけば、良い話は利益があります。毎日このようにすれば一年で、三百六十以上のアイディア、あるいは話が得られます。これはできることで、非常に善い結果があります。

 

私は、そのようにしたことがあるので、推測する必要も予測する必要もありません。忘れるのが心配な話もあり、勿体ないので後で懲りて、歩いて托鉢に行く間に忘れないように、誰にも見られないように鉛筆を探り出して掌にメモし、お寺に着いたら、その文を紙に詳しく書いたので、そのアイディアは消失しませんでした。

 

 このように突然思いつく良い考えは、消えてしまって二度と戻らないことがあるので、良い対処をしなければなりません。本気で記録しておかなければなりません。あるいはきちんと書いておきます。そうすればどこへも行かず、どんどん増え、最後には他人に教えられる自分の知識になります。

 

 だから「歩いて行く往きも帰りも静かに行動し、心は明るく覚め、戻って来たら、何らかの素晴らしいアイディアを毎日ノートに書き記さなければならない」と、梵行仲間であるみなさんの課題にしていただきたいです。

 

 これは、私から託された課題として努力してください。そうすればみなさんに善い結果があり、知らないうちに、将来、仏教に善い結果があります。どうかみなさん一人一人が注意深く熟慮し、それから最高に善く実践できるだけ、善くなれるだけ実践してください。

 

 これが、毎朝の決まりである談話です。これからみなさんは、みなさんの日課である勤め、つまり朝の勤めをします。

 

 


 

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