出家することとは何か

 

 

 

 

 タンマに関心がある善人のみなさん。ウィサーカ季土曜講義の第13回目である今日は、いつものように「何が何か」という話で、特に今日は「出家とは何か」と題してお話します。

 

 「何が何か」とお話しした前の講義を思い出してください。「みんな知っていることなのだから、時間の無駄だ」と理解する方もいますが、みなさんが知っていることは、「教育とは何か」「仕事とは何か」「社交とは何か」「宗教とは何か」「布施とは何か」「心とは何か」「財産とは何か」と私が指摘したようなこと、あるいはお話して来たようなものではないと熟慮して見てください。

 

 「財産とは何か」も話さなければなりません。みなさんは財産を持っていて、財産とは本当は何かを知っているでしょうか。知っていることを話すなら私が愚かですが、みなさんが十分な意味の財産というものを知らなければみなさんが愚かで、交替に愚かになることもあり、あるいはどちらも愚かということもあります。

 

 これらの問題にどんどん正しくなっていく理解を生じさせれば、「心とは何か」「財産とは何か」「仕事とは何か」と話すのは、滑稽です。もしみなさんがこれらのものを良く知っていれば、今生じているようないろんな問題はありません。

 

今日は、ウィサーカ季講義の最終日なので、出家について「出家することとは何か」という話をさせていただきます。どうして今日出家について話すのかは、今は出家する季節で、誰も彼も子や孫を出家させるので、正しくしなければ、出家するとは何かを知らない愚か者で、僧や沙弥になって、「出家するとは何か」を知らないと見える態度で、何人も気取って歩くからです。

 

 子や孫を出家させる親であるみなさんは、子や孫の思いどおり出家させるために、千も万ものお金を用意します。これは、千も万も愚かです。出家は、まったくお金を使わない話だからです。本当の出家なら、まったくお金を使う必要はありません。お金を使えば使うほど、出家でなくなるだけです。一人の子の五日間か七日間の出家に万というお金を使う愚かな人もいます。

 

 だから自分の子や孫を出家させるために、千も万も用意する人は、千も万も愚かになる準備をしておいてください。このように出家する季節なので、出家するとは何か、本当に千も万ものお金を使わなければならないかどうか、豚四匹殺し、牛一頭殺し、水牛一頭殺さなければならないか、そのようにすればするほど出家でなくなるとはどういう意味か、良く聞いて見てください。

 

 今述べた理由により、私は、「出家するとは何か」という問題で、出家することについて、一度話してしまうべきだと思います。

 

 

(イ) 文字、あるいは話し言葉では、出家することはパーリ語で「パッバッチャー」、あるいは「バップチャー」で、これを「出家する」と言い、出家者は「パッバチトー」あるいは「バップチット」と言います。バップチャーはバップチトと対で、出家することをバップチャー、出家者をバップチトと言います。

 

 次に、「パッバッチャー」、あるいは「パッバチトー」とはどういう意味か、ですが、この言葉は、「すっかり行く」「すべてを避ける」という意味です。何から行き、何を避けるのかは、出家に関しては、家庭内の窮屈さ、世界のいろんな問題からすっかり行き、すべてを避けます。もっと狭めれば、精神の進歩の障害であるものから(離れて)行き、それらを避けます。

 

 私たちは精神の進歩が欲しいので、家は精神の進歩の障害であり、これらの障害から脱すために出家します。これも家庭内にある障害からすっかり行くこと、あるいは家庭内にある障害を全部避けることです。文字の意味は、このように「すっかり行く」「すべてを避ける」です。

 

(ロ) 次に、この言葉の広い意味を見る方が良いです。そうすれば出家ということをもっと良く知ることができます。現在の出家は二種類あり、一般に出家という言葉の十分な意味で出家することが一つと、一時的に、あるいは極めて一時的に出家することが一つです。

 

 完璧な出家、あるいはバプチャーという意味の永久の出家が、今日、これからお話しすることです。一時的な出家については、間接的に、あるいはその中に織り交ぜてお話します。完璧で本当の出家が理解できれば、一時的な出家の目的は何か、理解することができます。

 

 今は出家する意味を理解できないので、一時的な出家はもっと理解できず、そしてその分だけ、何万も投資した結果が受け取れません。だから出家して五日か七日か十五日で還俗し、受け取るのは愚かさだけで、出家したことから得るものは何もありません。だからその意味、あるいは一般原則での完璧な出家についてお話します。

 

 

1. 最初に、「出家することは、何が善かを探しに行く、あるいは探求しに行くこと」という話をします。これは、ブッダが言われた言葉を借りました。ブッダが出家された時、「生老病死があるものを知らない世界で暮らしていたので、生老病死があるものに迷い、それが在家の生活を窮屈にし、埃つまり不潔な物でいっぱいにする。それならこの家を出て、何が善かを探求するために出家しよう」と考えたと、話されています。

 

 ブッダは、「何が善かを探求するために出家した」という言葉を使われています。だから出家することは何が善かを探しに出て行くこと、探求しに出て行くことです。これは、「家にいるのは愚かさの中にいること。迷いの中にいること。愚かさの中、迷いの中にいるので、家の中にあるものはどれも悪」と感じる人の感覚です。「それなら何が善かを探求するために出家しよう」。これがブッダの言葉です。

 

 これを原則にすれば、出家することは、善であるもの、つまり所帯を維持するより善いものを探しに行くこと、探求に行くことです。時にはブッダは、「昔から、人はなぜ出家したのか」と私たちに知らせる話をされました。意味は同じで、在家であることにはそれしかないので、繰り返すことにうんざりしていました。その方たちは、「それだけ」と知ることができました。それはどれほどでしょうか。それ以上に善いことはありません。

 

 だから彼らはそれ以上に善いものを探すために家を出て、そして新しい幸福、新しい知識である、心の面を満たす話を発見し、その後出家する手本を作り、代々教え伝承しました。しかし最高の発展ではなく、梵天に生まれることで終わります。彼らは出家すると、五欲がいっぱいのこの世界に関わらないと言われる、心の面、慈悲の面を満たします。これも、何がこれより善かを探すために出家するのと同じです。

 

 

2.次に、「出家することは、何も財産がない低い生活をすること」という話をしたいと思います。例えば三か月休職するなど一時的な出家の人は、練習、あるいは試しです。三か月、あるいはもっと出家期間が短い人は、これを聞いて見てください。愚かになりたくなかったら、この一時的な出家の機会を、低い生活、お金を使う必要がない生活、そして財産が何もない生活、乞食の状態の生活を試す練習と捉えてください。

 

 低い生活というものができるかどうか、どうして(そのような生活を)恐れるのか、そして財産が何もない暮らしはできるか、どうして非常に恐れるのかを知るために試して見ます。仏教でも、仏教以外の宗教でも、出家者はすべて低い生活、つまり誰かが何らかの方法で貰ってくる食べ物で命を養う乞食レベルです。もっとすごいのは、森で木の葉を食べ、果物を食べ、木の根を食べ、蓮の観を食べ、季節によってその時ある物を食べます。これも低い生活と言います。

 

 食べることも、身を纏うことも、住まいも、治療薬も、すべて「何も財産がない」という低いレベルの生活です。比丘は、荷物は翼だけと例えられる鳥のように、衣と鉢しか持つべきではありません。鳥は家も財産も必要なく、財産であり重荷である翼しか持っていません。比丘もそうあるべきで、あるのは鉢と必要なだけの衣。身につける荷物はそれだけです。

 

 そのような暮らしは、涅槃に到達する梵行の行動をするには、必要不可欠です。つまり低い生活をして自慢しないことは非常に善いことです。低い考えでなければ自慢しようと考えます。財産がない生活をすれば財産を掻き集めません。自慢と財産を掻き集める暮らしは出家ではありません。「出家のものではない」と教え罵る人は、誰も必要ありません。出家には、そういう教えがあるからです。

 

 

3.次に見て行くと、出家することは自分を支配する訓練、根を管理する訓練と分かります。これは、出家することはたくさんの戒を持すこと、教条を遵守することという意味で、すべては自分を支配すること、根を管理することです。間違いにならないよう、つまり煩悩になるなら心を支配し、感覚を管理し、そして目・耳・鼻・舌・体・心の根を管理します。根を管理し、そして愛するもの、世界の最高レベルの心を喜ばすものを犠牲にしなければなりません。

 

 欲界にいる生き物は、五欲、あるいは愛する物、最高に気に入ったものである欲情の問題があり、出家した人はこれを捨てなければならないので、これらのものに関わらないよう、あるいは懐かしまないよう心を支配し、考えを管理しなければなりません。だから感覚を管理し、「その後、このような感情を見つけたら、いつでも目・耳・鼻・舌・体・心を管理する」と言います。出家したら、異性の感情に触れない類の生活をする訳ではありません。

 

 出家して僧や沙弥になっても、まだ形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を見ることがあり、まだ異性の近くにいなければならず、托鉢に行かなければならないので、時には異性の話になります。僧や沙弥も、まだ女性の近くにいなければなりません。

 

 ここでみなさんの心を煩わせる厄介な問題は、映画館(映写会も行われるが、たくさんの絵画が展示してある、スアンモークにある建物の名前)の絵の説明(ガイド役)で、女性がたくさん来て、中には器量良しで挑発する人までいるので、参ってしまう僧沙弥も、あるいは心の面が壊れてしまう人までいます。

 

 これは、避けられない問題と考えて見てください。そして真人、勇者、本当の如来の弟子にとって課題、戦場と捉えてください。そうすれば自分を支配し、根を支配する訓練になります。これを私は、出家すると言います。つまり自分を支配し、根を強制して、心を欲界に暮らす人の領域の愛する物、気に入ったものから離す、戒と呼ぶ実践体系を遵守します。

 

 ここで一時的に出家する僧や沙弥について言えば、できるかどうか試す訓練で、多少は利益があります。本当の出家、永久に出家する人は試しの訓練ではなく、永久に本当にする話で、ちょっとだけ出家する人は、できるかどうか、試しに訓練します。

 

 

4.ここで「出家することは、世界の外へ旅するのに都合が良い」という話をします。これはイメージの言葉です。中には、「世界の外へ旅をするとは何? そして出家することは、世界の外へ旅するのに都合が良いとは何?」と、聞いて意味が分からない人がいます。世界の外へ旅するとは、心で歩いて行く旅で、世界の支配より上にいられるよう心を進歩させる、という意味です。

 

 世界の外へ旅するとは、心で旅して、心を世界が手出しできないようにするという意味で、心の面の高い徳に到達することです。体は世界にいても心は世界の外にいるので、この世界のどんな問題もその人を支配できず、その人を苦しめることはありません。

 

 「出家は世界の外へ旅するのに都合が良い」と言うのは、飛んで行く時の重荷は翼しかない鳥のように、出家すれば重荷は何も無いからです。簡単な例えでは、手ぶらで歩く人と、家を背負って歩く人と、どれだけ違うか、手ぶらで歩く人は、どれほど便利で動き易く、家を背負って歩く人は、どれほど大変かと言い、だから出家することは、このように世界の外へ旅するのに都合が良いです。

 

5.次にもっとハッキリ見えるように言えば、出家することは、人間の最高のものを得る機会、最高のもの、あるいは人間が得るべき最高に善いものを得る機会と言いたいと思います。人間が得るべき最高に善いものとは何でしょうか。それは子供たちにとって、あるいは一般の人にとって理解が難しいもので、それには最高点までいろんなレベルがある、人間の心の状態を知らなければなりません。

 

 経典で言えば、男性女性など、異性の話に満足を感じる普通の人、このような人たちを彼らは「欲界レベルの心がある」と言います。彼らの心は異性間の感覚だけを遊び回り、他のことを感じることはできず、他のことを考えることもできません。これが世間一般の人です。

 

 人間も天人も畜生もそうなりますが、人間ほどではありません。欲界レベルの人間、欲情(カーマーラマナ)に溺れる人間は畜生より多いですが、天人たちの方が重症だと感じます。天人は性欲の話しかしないからです。これらの生き物を欲界の動物と言い、心は欲情で遊ぶことだけを考えています。これは普通で高くなく、何も善くありません。

 

これより善いレベルも段階的で、欲情に溺れなければ欲情に関わらない純粋な物質に溺れ、幸福と言えば、形があるものに依存するサマーディから生じる幸福で、より高いと言います。つまり愛欲、あるいは性の問題に溺れません。簡単な例では、ある知人は闘魚や鳩を妻子より愛しているので、あるいは妻子より闘魚を愛しているので、一緒に暮らせません。あるいは妻子より鳩を愛しているので、一緒に暮らすのがとても大変です。

 

これは、すべて欲情に関わらない物質の話を教えるためです。同じように威力があり、ヨギーやムニー(牟尼)のある人たちを、形禅定から、つまり感情である形のあるサマーディから生じる幸福だけに溺れさせます。これが、初めのレベルより高い善で、初めのより高さは上です。初めのレベルは愛欲、二番目は形で純粋な物質です。

 

 次に、更に高いレベルは形のないもの、無形あるいは無形のものと言い、そして形のないものから生じる幸福、つまりすべての無形禅定を探求して受け取ります。ナックタム(僧の試験)の勉強をしたことがある人は、四つの禅定は何か、四つの無形禅定は何かを良く知っています。このレベルの人は無形禅定になり、無形禅定の幸福を求め、空無辺処などの無形禅定に溺れるので、更に高い心と言います。

 

 普通の言い方をすれば、善に溺れ、徳に溺れ、名誉名声に最高に溺れます。これは無形、名(抽象)の物に溺れる話で、今までのより高いです。つまり、庶民の例で話した闘魚や鳩に夢中になるより善いです。これは無形レベルで、無形界地と言います。形のレベルは形界地と言い、更に低いのが欲界地です。

 

 無形界地まで来ると非常に高くなり、二度と泥沼やぬかるみのような愛欲に落ちることがないので、一段移動すればロークッタラプーム(世俗から脱した境地。四つのレベルの聖人。出世間地)で、ロークッタラプームに容易に行けると見えます。

 

 つまりこの世界にある何も、彼の心を支配することはできません。愛欲の話も、形から生じる幸福も、無形から生じる幸福も二度と彼の心を支配することはできないので、彼はロークッタラプームに居続けることができます。これが人間が到達すべき最高のもの、最終目的です。

 

 出家することは、人間が到達するべき、得るべき最高のものを得る機会です。ロークッタラプームレベルとは、預流から阿羅漢までの聖人のことで、それは人間の最高のものを簡単に得る機会です。もう一度まとめて言えば、出家は解脱であり不死である、自由で何にも支配されない状態を得る機会です。

 

 ロークッタラプームは、自由あるいは独立という意味があります。つまり世界はその方々を支配できず、危害を加えられません。心が世界より上にあるので、世界は何もできません。こういうのを自由と言うことも、独立と言うことも、世界の捕縛からの解脱と言うこともできます。もう一度素晴らしい呼び方をすれば、「アマタ」、つまり「不死」と言います。

 

「動物もいない。生まれた人も、あるいは死んで行く人もいない。あるのは自然に変化していく自然だけ」とハッキリと見える真理に到達するので、死なないものを知ります。だから心は死を知りません。これを、不死のものに到達したと言います。出家することは、心を自由、独立、解脱、あるいは不死に至らせる機会です。

 

 出家した人は、出家はこのような状態であり、「人間が受け取るべき至高のものに到達する機会」と、良く聞き、良く見てください。

 

 

6.次にもう一度、もう一つのレベルの話をすると、「出家することは、すべての人の頭上にいること」と言います。下品な言い方をお許しください。「出家することは、すべての人の頭上にいること」は本当かどうか、考えてみます。出家すると、供養されるべき、供物で迎えられるべき、表敬されるべき、合掌されるべき、無上の徳の田(福の田)である、衆生が尊敬する所である聖人方や、聖人である僧の仲間入りをするので、出家することはすべての人の頭上にいることです。

 

 それまでは貧乏でも何でも、出家すれば誰もが合掌して拝みます。出家する前は誰も拝む人はいませんでしたが、出家すると誰もが拝みます。大旦那も大富豪も、王も大王も拝みます。これは、出家することはすべての人の頭上にいることと見ます。聖人方の仲間入りをするからです。

 

 考えて見ると、何か特別のものがあると見えます。だから、出家したばかりの僧や沙弥は、出家することの名誉名声に関して、何でも軽率にしてはいけません。間違えばそれらに噛まれ、出家することは、出家の意味を知らない人を破滅させます。出家した時、それはすべての人の頭上にいます。僧に何かを上げるにも、拝まなければなりません。食べ物を上げるにも拝まなければならず、僧がみなさんに与える時も拝まなければなりません。

 

 なぜ交替にしないのでしょうか。僧がみなさんに上げる時も拝まなければならず、みなさんが僧に上げる時も拝み、みなさんは、上げてももらっても拝みます。本当は、みなさんが僧に何かを上げる時は、僧がみなさんを拝むべきですが、そうではありません。レベルが違うので、僧に物を差し上げるにも拝まなければならず、僧がみなさんに物を与える時も、みなさんは拝まなければならず、みなさんは拝む一方です。

 

 だから「出家することは、すべての人の頭上にいること」と見なさい。すべての人の頭上にいることは、何か良いことがあるでしょうか。それは、本当に出家し、本当に学び、本当に実践し、本当の結果を得ること、つまり本当の出家になり、そして他の人に教えることだけです。だからすべての人の頭上にいる類の善があります。そうでなければ騙す人、奪う人、盗人です。最高の盗人である暮らしはこのようです。

 

 ブッダも、『煩悩を減らさない人は最高の泥棒。近くの動物を撃つために扮装して隠れている猟師のように、最高に騙す人』と言われています。僧も同じで、出家したことにふさわしいことを何もしなければ、この種の猟師のように、庶民の四依を消費するために扮装しています。しかし正しくすれば、「出家することはすべての人、三界すべての人の頭上にいる」というような形になります。

 

 三界とは何か、庶民の方は知らないかもしれません。三界とは、述べたように、欲界、形界、無形界の三種類で、タンマの言葉で言えば「三つのレベルの心」、人の言葉で言えば「世界」です。欲界は普通の人の世界で、一般の天人も含まれ、形界は形梵天で、無形界は無形梵天です。このように三つのレベルがあります。

 

 「三界のトップのプラアパイ」と、ユーモア詩で綴られた芝居を演じている人たちは、三界とは何かを知らない愚かな人で、三界のトップのプラアパイと書いています。プラアパイはバカみたいな人で、最高に愛欲に溺れている人で、三界のトップになれるはずがありません。三界とは「欲界、形界、無形界」で、プラアパイのような人は三界のトップにはなれません。これは、作者が三界とは何かを知らないからです。

 

 今、三界とは何かをこのように知り、そして「出家することは三界すべての人の頭上にいること」と知ることができます。つまり欲界の生き物も出家者を拝み、形界の生き物も出家者を拝み、無形界の生き物も出家者を拝むので、三界すべての人の頭の上にいます。これは大きなことが小さなことか、考えて見てください。

 

 

7.次に、「出家することは、他人に偉大な利益を成す機会」と見ます。出家することは、他人に甚大な、あるいは最高の利益を成すことです。誰でも自分が人であり人間であることを受け入れて尊重し、この人生を不毛にしたくないので、自分の利益になることをしたら、じっと座っていないで、他人の利益になることをします。

 

 例えば十分なお金があり、快適に眠り、どんな快眠でもいいですが、このように眠るのは、他人の利益を考えない人で、仏教では自分の利益と他人の利益を満たすことを目指します。

 

 出家者が自分の利益になることし終わったたら、時間が無くなるまで、力が尽きるまで、能力が尽きるまで、他人の利益に成ることを目指します。これは阿羅漢の項目で、阿羅漢も他人を支援し、他人の利益を探求すると言います。阿羅漢でなくても、できるだけ他人の利益を考えることはできます。

 

 私はバカな人のように話しません。つまり、「阿羅漢になってから他人を援ける」と言いません。私は、「まだ阿羅漢でなくても、自分で助けられるだけ援けなさい」と言います。あるいは言っています。知っているだけ教え、できるだけ教えます。同時に他人の利益になることするのを、阿羅漢になるまで待つ必要はありません。

 

 ブッダは、「自分の利益を成すにふさわしければ、不注意でないことで精一杯しなさい。他人の利益を成すにふさわしければ、不注意でないことで精一杯しなさい。両方の利益を成すにふさわしければ、不注意でないことで精一杯しなさい」」と言っています。

 

 出家することは、巨大な最高の他人の利益を作ることです。私は、出家しなければそのような機会でないと、話ししています。

 

 そのようにするにはどのようにするのか、これから詳しく見て行きます。偉大で最高の利益とは、

 

イ 世界の生き物の精神的指導者になります。

 

 世界の生き物は、暗い場所、牛小屋であり、悪臭のする不潔な家畜小屋である無明に閉じ込められていて、出て来ることができません。出家者あるいは聖人は世界の生き物を連れ出すことができ、これを精神的な指導者と言います。

 

 新聞記事によると、タイでは今、二十万人の人が精神病を患っているそうです。世界の出来事が変動しすぎて、正しい出口を見つけられないで精神を患い、自殺し、親を殺し、妻子を殺し、狂気と言われるいろんなことをします。これは、精神面の指導者がいないので精神は出口を見つけられず、無明つまり闇に噛みつかれた精神で何かをするからです。出家者は精神面の指導者になれる、これが一つです。

 

ロ 出家者は仏教を維持伝承することができます。

 

 宗教はサンカーラ(行)であり、作り出す原因と縁があり、何も作り出す物がなければ消滅して消えてしまうので、仏教を伝承する人、つまり本当に出家し、本当に学び、本当に実践し、本当に結果を受け取り、本当に教える比丘が必要です。これが、世界に仏教があり続ける因と縁です。

 

 世界に宗教があれば、つまりタンマがあれば何とか生活することができ、穏やかな幸福の機会があります。どの宗教も世界の生き物にとって必要です。出家をすることは仏教の寿命を延ばすことができ、伝承できても少しだけの在家より良くできるので、出家することは、仏教の寿命を延ばすことと見なします。

 

ハ 出家は大衆の幸福のような他人の利益も成すことができます。

 

 これは歴然と見えます。寛容な心の住職のお寺は、公衆の善で住民を援けることができます。特に昔は道路、濠、運河、公共の水源、東屋、お寺を建てる話など、住職は庶民より上手にすることができました。私自身を例にしたいと思います。自慢と見るならご勝手に。恐れません。このお寺は、スアンモークは、私が出家しなければ生まれることはできませんでした。

 

 このお寺は、私が出家しなければ生まれることはできなかったと、このように挑戦します。私が出家しなければ、あるいは出家して還俗してしまえば、このお寺は生まれることはありませんでした。お寺は一般大衆の利益になるので、出家することは大衆の利益を作る機会と見なします。

 

出家者は家庭がないので、ごたごたした重荷を引き受けなければならない妻子がいないので、暇がたくさんあり、犠牲にする機会がたくさんあるので、道路を作る手伝いでも、運河や溜め池の修繕でも、何でもできます。そして、したことがあります。これを、「本当に世俗のことである大衆の幸福も、住職は庶民より良くでき、そして庶民の班長になって庶民を導くことができる」と言います。

 

だから出家することは一般大衆の公益を作ることと見なします。このように見えないから、大衆の幸福のために生きることもできると考えないで、自分の利益のために還俗してしまいます。だから出家していることは、一般大衆の幸福の面で人間同胞を援ける機会、義務、あるいはしなければならないことと捉えてください。

 

ニ 出家することは、両親や祖父母親戚縁者を宗教に引き寄せて結び付けます。

 

 どこかの一族から出家した僧や沙弥は、両親や親戚縁者を引っ張って来て、そのお寺、あるいは仏教に関わらせます。だから人は、「出家すると、両親を仏教の親戚にする」と言います。子が出家しなければ、両親はあまり関心がありません。これはどこでも、たくさんの例で明らかになっています。子が出家しなければお寺、あるいは仏教に関わりませんでしたが、我が子が出家すると、自分の(子の)お寺に忙しく関わるのを見たことがあります。

 

 だから「出家することは両親を仏教の親戚にする」と、今後ずっと原則にすることができます。つまり関わりが生まれ、両親を仏教に引っ張って来ると言います。

 

 この四項は、「出家することは、他人に膨大で最高の利益を作ること」という言葉の説明として十分です。膨大とは広大でたくさんという意味で、最高とは最も高いという意味です。他人のためにする膨大な利益。最高の利益。出家は、それを容易にしてくれます。

 

 非常に多くの出家が、自分の利益でなく、他人の利益のためのものを生じさせたのを見ることができます。世俗のことでも、学校を作り、何を作るのでも、出家が作る方が善くできます。これは目に見えています。

 

 

8.次に、出家することは最高のヴェーサ(性)にいると言います。

 

 この性という言葉は、男性女性という意味だけでなく、別の意味、つまり暮らし振り、別の様式の行動振る舞いを意味します。時には「身分」「別の身分」と言うこともあり、意味は別の性です。このような身分は性という意味があり、タイ語では「在家の性にいる」「出家の性にいる」「サマナの性にいる」と言います。出家することは、最高の性の仲間入りすることです。

 

 サンマーサンブッダは在家の性ではありません。サンマーサンブッダは在家の性ではなく、独覚ブッダも在家の性ではなく、阿羅漢も在家の性ではなく、サマナの性、つまり出家の性だと良く考えて見てください。だから在家の性は最高ではなく、まだ低い、あるいは低すぎます。

 

 出家することは最高の性にいることです。なぜ善いもの、素晴らしいものと見て、永久に、あるいは少し長くサマナの性にいないのでしょうか。今は一か月だけ出家して、それでも火のように苦しくて還俗します。時には七日で還俗します。あるいは耐えている人も、衣が火でできているかのように焦燥します。

 

 これは、出家するのは阿羅漢を維持する、独覚ブッダを維持する、サンマーサンブッダを維持する最高の性と見ないからです。私たちは、「出家することは最高の性にいること」と見れば満足します。

 

 出家する人と出家する人の両親が、出家することは何かを理解できる十分な説明を、あらゆる角度からお話しました。出家する人の両親は、特に出家するとはどういうことか、良く熟慮して見てください。そして自分の子や孫の出家が、正しい出家になるようにしてください。

 

 出家するには何千何万のお金が必要で、牛を二頭殺し、水牛を三頭殺さなければならないかどうか、考えて見てください。私は、本当の出家には一銭もいらないと言います。しかしバカな人は、(一銭もいらないのは)好きじゃありません。

 

 ブッダの時代には、出家する人は両親の許可を得てからお寺へ行って、ブッダあるいは阿羅漢大長老に身を委ねれば、その人が出家させてくれました。衣はある物を探して来て、残っている物でも、あるいはどのように生じる物でも、彼らは売買しないで与えました。だから戒師は与える人でもあります。

 

 その人を出家させると引き受けたら、どこからでも衣を探して来て、それから出家させるのは戒師の義務で、そして出家させるのに一銭もお金は掛かりませんでした。考えて見てください。それがブッダの時代の本当の出家です。

 

 今は、出家するには何百何千のお金を掛けなければなりません。所によっては何万と言います。それは何倍愚かで、百倍愚で、千倍愚かで、万倍愚かで、出家でなくします。出家して出家でなくします。この辺でもあります。出家するために豚を三匹殺し、牛を一頭殺し、水牛を一頭殺します。

 

 何だって出家するのでしょうか。出家に関係なく、食べることに陶酔させ、人間にふさわしくない行為に陶酔させる原因なので、出家でなくなってしまいます。それで何だって出家するのでしょうか。子や孫を出家させる親は、これを良く考えなさい。そして、これから出家する子や孫は、

 

〇出家することは、家を治める暮らしより善いものを探求しに行くこと。

 

〇出家することは、財産が全くない低い生活の実践。

 

〇出家することは、戒を実践し、自分を律し、根を管理し、この世界の愛するもの、最高に気に入っているものを犠牲にすること。

 

〇出家することは、世界の外へ旅をするのに都合が良い。これは例えの言い方。

 

〇出家することは、人間が手に入れるべき最高のものを手に入れる機会。つまり心が危機を脱し、心の不死を手に入れる機会。

 

〇出家することは、本当の出家ならすべての人の頭上にいること。

 

〇出家することは、他人に利益を成すことで、世俗的な利益でも、出家していない人より良くできる。真実の人で、他人の利益のために行動したいと自分に偽らなければ、他人の利益のために行動するためにだけ出家しても十分で、聖向聖果涅槃に到達しなくても、大衆の幸福の支援をすることで、煩悩、身勝手をなくす機会はある。

 

〇出家することは、最高の性、つまり阿羅漢サンマーサンブッダ、独覚ブッダ、そして一般の阿羅漢を維持する性であるサマナの性、と私がお話ししたように、これを良く考えなさい。

 

 このように熟慮して見てください。このように理解すれば黄衣もそれほど熱くなく、二年、三年、四年、五年、出家でいることができ、還俗を忘れてしまいます。

 

 私はこのような利益を見るので、今日は、「出家することとは何か」という話をしています。出家することは、このようです。それはどれほど素晴らしいでしょう。それで、お金の投資は必要なく、「涅槃はただで与えるもの。お金は要らない」と言うようなものです。これが本当の出家、本当の、そして永久の出家です。

 

 残るは一種類、一時的な出家についての話です。一時的な出家と言うのは、非難でも何でもありません。このように能力があるなら、一時的な出家でも本気でして、本当の結果があるようにしてください。一雨安居(三か月間)だけでもいいですが、出家の意味と一致する行動にしてください。

 

①家にいるより善いものを探求する。

②財産のない低い生活を試してみる。一雨安居(三か月)だけ出家する僧や沙弥は、財産を何も持たなくても良い低い生活を試す機会と捉える。

③自分を律し、心を支配し、感覚を管理し、目・耳・鼻・舌・体・心を管理してみる。

④財産、愛しているもの、気に入っているものを犠牲にしてみる。試して見るべきものすべてを試してみる。

 

 三か月だけ出家するなら、昔のアーチャンが考えるための譬えで、他に言いようがないので、「空全体を紙にし、シネル山を筆にし、地面を墨にし、海水で墨を摺って空いっぱい書いても、出家することの功徳は書き尽せない」と言われたような、偉大な功徳がある出家にします。昔のアーチャンは言い様がないので、喩えてそう言いました。出家は、本気ですればそのようにたくさんの功徳があります。

 

 今みなさんは、そのような功徳を受け取っているでしょうか。なぜなら出家することとは何かもほとんど知らないからです。だから戒師と出家者、出家者と出家者、出家者と両親、親戚・多くの友人で、「私は出家することから、その目的にそった正しい何の利益を得るか」と、勉強し直してください。

 

 次に「一時的な出家はどのようか」についてお話します。三か月間の出家は新しい伝統習慣で、ブッダの時代には三か月間の出家の話はありませんでした。三か月の習慣はありません。今、私たちは利益があると見るので、よし!と、三か月出家させ、本当に出家し、本当に学び、本当に実践させます。

 

 

 次にもっと少ない、もっともっと少ない、一日だけの出家と呼ぶものがあります。今日は菩薩日なので、菩薩戒(八戒)を持せば出家の一種、一日出家です。つまり菩薩日に、阿羅漢の足跡を追う教条の意味と一致する八項目の菩薩戒を遵守して、心で出家と同じいろんなものを受け取ります。

 

菩薩日に菩薩戒を遵守することは、必ず別の心、解脱した自由な心、静かな涅槃の味、つまり煩悩の妨害がない、取って捨ててしまったように心配がない穏やかさを味わう心にするので、命も考えず、残っているのは阿羅漢の足跡を追う行動を最高に善くすることだけです。

 

 これを、「阿羅漢の足跡上にいる」、「あるいは阿羅漢の後を追って歩いている」と言います。だから出家することには、菩薩戒などを遵守する一日出家もあります。あるいは、似たような別の種類の出家を遵守する人は、一日、二日、七日、何でもできます。

 

 伝統習慣では、「菩薩日には出家なさい」と言っています。菩薩日には出家なさい。一日出家することは、阿羅漢の後を追うことです。そして、お話ししたような出家した功徳を、多少なりとも受け取ります。

 

 さて、「一日菩薩戒を順守することは、在家でいるのと出家するのと、どちらが善いかを探求すること」と十分見えるようにお話します。これは阿羅漢の足跡にいること、つまり何が善かを探求するために出家することです。

 

 その日に菩薩戒を遵守している間は、最低の生活、何も財産のない生活で、サティがあり、目・耳・鼻・舌・体・心の根に注意し、迷いの基盤である愛す物、気に入ったものがなく、タンマの面で向上する快適な日です。ロークッタラ(出世間)に行って欲界に関わらなければ、誰もから尊敬されるに十分です。

 

菩薩戒を守る親は、その日は特に子や孫に尊敬されます。これも善いです。例えば周囲の人に繰り返し教えるなど、他人の利益を成すこともできます。菩薩日に周りの人に教えてしつけをし、教育します。そしてその日は在家であることを離れて純潔な戒を遵守し、夫婦として暮らす人の行動はありません。

 

これが菩薩戒、つまり一日出家で、それでもこんなにたくさんの功徳があります。どうか良く熟慮して見て、自分が菩薩戒を持すことで、話したような功徳が、益々生じるようにしてください。

 

 すべては、「出家することとは何か」という言葉に含まれます。出家であればあるほどお金は必要なく、お金を使えば使うほど出家でなくなり、反対にバカが酷くなります。バカと出家は違います。

 

 出家することにたくさんお金を使った僧や沙弥は、出家してもまだ使い、お金を集める機会を狙っています。それは出家ではなく、バカです。

 

 だから今日は「出家することとは何か」という話をしてしまいました。それもいいです。今は入安居の時期で、出家の季節なので大勢出家して来ます。今、大勢出家しています。この時期に、出家するとは何か、お話しするのは善いです。

 

 今日は、出家とは何かという以上に、何もお話しするつもりはありません。関係がある理由があるので、支援者の方は子や孫の出家の準備をし、大々的に入安居に関わる積善(宴会)をし、若者は入安居、雨安居するために出家します。

 

 徳のため、善のため、仏教を維持するために出家すると話すのは、聞く価値があります。しかしそのようかどうかは、私が一時間、出家するとは何かとお話しした項目で、熟慮して見てください。

 

 今日の講義は、これだけにさせていただきます。いつもより少ないですが、時期にふさわしいと思います。ウィサーカ季の最終日である今日の講義を終わらせていただきます。来週の土曜日は、アーサーラハ季の講義です。

 

 

 

註: 菩薩戒=八戒

 

1.生き物の体や命に危害を加えない

2.所有者が与えないものを所有しない

3.梵行、品行でない行動をしない 

4.真実でないことを言わない

5.サティを狂わせる物を嗜まない

6.正午から翌日の夜明けまで食事をしない

7.歌舞音曲に触れず、テレビなどの娯楽番組も見ない

8.豪華で贅沢な寝具で寝ない


 

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