出家について

 

 

 

 

 出家することについて話す時、最初に忠告したいことは、出家はブッダの時代から今日まで、志願して出家をする、ということです。出家するよう誰にも強制されず、そして強制するどんな必要もなければ、みなさんの出家は純粋で正しいと見なします。みなさんは自分で志願し、自分自身の責任で、「沙弥にしてください」、「比丘にしてください」と言ったことを考えなければなりません。

 

 だから沙弥や比丘という名にふさわしい行動と振る舞いで、自分自身の名誉を維持しなければなりません。みなさんは自分の意志で実践を受け入れてもらいました。そうでなければ、自分で乞い、確認し、受け入れながら違えて実践しない人で、言葉と名誉を損ないます。

 

 次に心に銘じなければならないのは、沙弥や比丘にしてくださいと願い出たのは、神聖な場所、つまり菩薩堂で僧に囲まれ、首領であるブッダの代わりの仏像の前で行った儀式なので、遊び半分でなく、本気でしたと見なすべきです。なぜなら神聖な場所で、神聖な三宝の名の下で、そしてこの行動が最高の善であるようにという、そこに集まったすべての人々の精一杯の期待でしたからです。

 

 だからこそ出家者は、神聖な場所で神聖な機会に、大きな声で「沙弥にしてください」「比丘にしてください」とお願いしたこと、そしてブッダのダンマウィナヤの行動をすると宣誓したことにふさわしい振る舞いをしなければならないと、心に銘じなければなりません。そうでなければ、神聖な場所と、ブッダの名の下に集まった人たちの面前での欺瞞であり、甚大な損害と見なします。

 

 もう一つ忘れてならないのは、

 

出家したみなさんは、後援者であり大恩人である両親の望みだけを考え、真剣に、そして本当にこの望みでするなら、ブッダのダンマヴィナヤ(法と律。教えと規則)を、気力体力の限り実践しなければなりません。そうすればペテンにならず、恩人であるそれらの人たちの期待と信頼を踏みにじることになりません。

 

 要するに出家した人は、自分で「沙弥にしてください、比丘にしてください」とお願いしたこと、神聖な機会に、神聖な場所で儀式をしたこと、何よりも先に両親の期待に応えるためにすることを考えなければなりません。その考えは、その人がそう考えている間中、忍耐し、そして気力体力の限り、知性の限りダンマヴィナヤを実践する力と強制力になります。

 

 これが、出家に関していつでも忘れないよう忠告する初めの項目です。

 

「出家する」とは何かという問題が生じた時、一番良いのは、出家(ブアット)という語句の要旨を掴むことです。ブアットというのはタイ語で、パーリ語のパッバチャーという言葉から来ています。パッバチャーは、パ+ヴァチャという語根があり、パは「全部」、あるいは「すっかり」という意味で、ヴァチャは「行く」あるいは「避ける」という意味なので、ブアットは「すっかり行く」「完全に避ける」という意味になります。

 

 「すっかり行く」というのは、在家であること、つまり家を治治めることから出家であること、つまりまったく家を管理しない所へ行くことです。もっと高い言い回しでは、ブッダは「世界からすっかり行く」と言われました。世俗の人の境域を完全に捨ててしまうという意味です。

 

「在家であることから行く」というのは、家から出るという意味で、

 

 財産を所有することを捨てる

 すべての親戚を捨てる

 在家のような身なりを止める

 在家のような食事を止める 

 在家のような消費を止める

 在家のような行動や物言いを止める

 在家の感覚や考えを完全に止めることを意味します。

 

 だから、「在家であることから完全に行く」あるいは「世界から完全に行く」と言います。

 

「財産を所有することを捨てる」とは、財産のいらない生活を受け入れ、前に述べた出家の公正な権利で、求められるだけの物で生活をするという意味です。あっちの財産は在家のもの、人が信仰心で献じる物を食べる公正な権利がない人のもので、本当に高い徳を探求する出家者には必要ないと、先のことについて述べることができます。

 

「すべての親戚を捨てる」というのは、世俗の人たちがしているように関わり合い、助け合う親戚に愛着がないという意味です。中には、食べ物その他の、腹と口のことばかり考えて親戚と関わらなければならないので、出家者のすっきりした自由を受け取る機会がない人もいます。

 

出家について述べているパーリ(ブッダの言葉)では、いろんな所で親戚を捨てること、そして直接ブッダが言われた言葉の形の中にいるよう強調しています。ブッダの時代の出家者の中には、遵守して生涯自分の家を訪問しなかった人もいます。しかし仏教は、一般の在家の心情である、親戚への愛着を捨てることだけを目指します。

 

「在家のような身なりを避ける」がどんな意味かは、当然良く見えます。しかし、美しさ、あるいは衣服の肌触りのしなやかさへの陶酔で衣服を着用しないという要旨を掴んでください。それは、出家者のチーウォン(衣)をまとっていても、美しさや手触りのしなやかさで纏えば、まだ在家のような衣服を使っているという意味があります。

 

「在家のような食事を避ける」とは、時間外の食事をしないという意味だけ、あるいは沙弥や比丘にふさわしくない食べ物を避けるだけではありません。在家は楽しさのために、わいわい、だらだら美味しさで食べ、在家の性として口うるさく、基本的に気ままですが、出家したら、在家のような食べ方を厳格に避けなければならないので、「この体が、すべての苦から出るダンマヴィナヤの実践をするにふさわしい快適さを維持するためだけに食べる」という感覚だけで食べます。

 

要するに、「みなさん、食べ物は車軸に垂らす油のように、あるいは砂漠で道に迷った夫婦が、(携帯した食糧が尽き)、自分の命を支えるために、砂漠で死んでしまった我が子の肉を食べるように食べなさい」と言われている、私たちが「父であるブッダ」と尊敬するブッダの言葉を思い浮かべながら食べます。

 

このような行動は、「在家のような食事を完全に避ける」ことです。

 

「在家のような消費を止める」とは、住まいや消耗品、食器などを、豪華さのため、したいようにする楽しさのため、あるいは美しさや豊富さ等の自慢のために、在家のように使わないという意味です。

 

これを消耗品の使用の面で、在家からすっかり行くと言います。

 

「在家のような行動や物言いを止める」とは、在家は当然自分のしたいようにする楽しさや、夢中になれることを求めるので、煩悩欲望の言いなりで、管理に欠ける便利なだけの行動・発言がありますが、出家した人は、「サマナのどんな行動。発言も、私はその発言・行動と一致するようにする」という言葉の、サマナの行動。発言があります。

 

出家してこの自覚を忘れる人は、当然すべてに在家のような行動・発言があります。在家である友人が訪ねて来ると、在家同士だった時のように迎え、中には膝を重ねて足を組む人までいます。これらの体と言葉の行動を、ブッダは決してサマナのものと見なしません。この他にも山ほどある在家のものである行動・発言を、出家した人は最高の常自覚ですべて捨てなければなりません。

 

「在家のような感覚・考えを完全に止める」とは、通常在家の人たちは、家の考え、愛欲の考えをし、いつでも考えが愛欲へ流れて行くままにしていて、愛欲の考えが生じると、当然制止しようとせず、反対に満足し、陶酔によって、考えがもっとその流れに乗るように放置しているという意味です。これを在家のような考えと言います。

 

出家した人は、最高の常自覚でこのような考えを厳格に捨て、考えの流れが出家者の考えに流れて行くよう管理しなければなりません。これを、在家のような感覚・考えを完全に捨てると言います。

 

 財産を捨て、親族を捨て、在家のような装いを捨て、在家のような食を捨て、在家のような消費を捨て、在家のような体と言葉の行為を捨て、そして在家のような考えを捨て、全部をまとめると、タイ語でブアット、パーリ語でパッバチャーという、「在家であることから行く」と言います。言葉の意味は十分です。

 

 これが「すべて行く」という部分の、出家という言葉の意味で、家を治める人、あるいは在家の性である人から、すっかり行きます。

 

 「すべてを避ける」という、出家という言葉の意味は、出家になったら、ブッダが言われたように完璧に、避けるべき物を避けなければならないと説明します。

 

 これは、出家した人は、律の部分とダンマの部分の何が避けるべきものか、あるいは捨てるべきものか分かるまで、当然タンマと律の教育を受け、それから「出家は自分で志願した」、「神聖な場所で神聖な機会に、出家する誓約を述べた」、そして「十分な功徳がある出家は、両親の最高の望みである」、そして「正しい人間であるには、実践行動によって自分を高い所へ前進させ、向上させなければならない」、あるいは、「いつでも人間であることの頂点である」という自覚から得られる力に依存して、避けるべき物を完璧に避ける努力をすればふさわしいです。

 

 このように思い出せば、避けるべきものをすべて、律の規定で純潔に完璧に避ける心の力があります。

 これが、すべてを避ける部分の出家という言葉の意味です。

 

 「すっかり行く」と「すべて避ける」という言葉を一つ合わせると、「本当に出家するとはどういうことか」という状態を漏らさず表す意味になります。

 

 

出家の基盤は何か

 

 出家することの基盤である物質について述べれば、熟慮すれば、「大地はすべての樹木の基盤であり、だから木が立っていられるように、出家するにも依存する基盤であるものがあれば維持できる」と、当然明らかに見えるという意味で、出家することの基盤は三宝、つまりブッダ、プラタム(教え)、僧が基盤だと、簡単に述べることができます。三宝がどのように出家の基盤になるか明らかに分かるまで、三宝を理解しなければなりません。

 

 三宝、つまりブッダ、プラタム、僧は、外面は、三つそれぞれ違って見えます。つまり

 

 ブッダはすべての苦を完璧に根絶する素晴らしいタンマを発見した人で、自分で苦をすっかり根絶できたので、他の人も後に続いて苦を根絶できるよう教えました。

 

 プラタムはブッダが発見し、そして苦を根絶する道具として使うもので、教えあるいはパリヤッタムという学習の形、そしてパティバッタムという体と言葉と心の実践行動の形、そして聖向・聖果・涅槃である、パティウェータムという実践結果の形をしています。パリヤッタムとパティバッタムとパティウェータムを合わせて、プラタム(教え)と言います。

 

 僧はブッダからプラタム(教え)を受け取って勉強し、そして教えの結果が出るまで実践する人です。外部の状態を述べると、三宝はこのように違います。

 

 しかし内部の深い意味で述べれば、当然同じものに見えます。つまりブッダは、ブッダの心の内部にある、ブッダをブッダにした素晴らしい徳である重要な意味があります。この美徳は、最高に純潔で、最高の明るさと明瞭さ、そしてブッダにある最高の静かさである穏やかさです。

 

 プラタムの本当の意味は、今述べた同じ美徳にあり、パリヤッタムは最高の清潔、明るさ、静かさを学ぶことで、パティバッタムは清潔、明るさ、静かさに到達する実践で、パティウェータムは、実践の結果として受け取る、最高の清潔、明るさ、静かさです。

 

 だから三種類のプラタムは、ブッダの心にあるのと同じ最高の清潔、最高の明るさ、最高の静かさに集約されます。僧とは、ブッダは最高の清潔、明るさ、静かさである美徳があるので、ブッダを尊敬し、清潔、明るさ、静かさに集約されるプラタムを受け取入れ、ブッダの内面と同じ清潔、明るさ、静かさを自分の心に生じさせるために実践行動をする人という意味です。

 

 だから私たちは、外部のものに注目しないで、清潔、明るさ、静かさをブッダ、プラタム、僧の本物、あるいは本質と見ることができます。

 

 清潔、明るさ、静かさが一つになった状態の三宝を知れば、当然みなさんの出家の機会は、基盤として依存する三宝があると、簡単に見ることができます。

 

 つまり、自分の心の中に清潔、明るさ、静かさを生じさせることで本当の三宝に理解する機会であり、そして三宝に理解する機会は、みなさんにとって本当の拠り所、つまり苦の火を消すもの、煩悩の火を消すものであり、みなさんが自分の心の中に生じさせることができた本当の三宝である清潔、明るさ、静かさだと、明らかに見えます。

 

だから出家したみなさんの心には基盤であるものがあり、本当の三宝を理解でき、その三宝はみなさの心を護ることができます。だからみなさんの出家には盤石な基盤があり、基盤である良い土地に依存する樹木が繁茂するように、みなさんは仏教で発展します。

 

 だから出家したみなさん全員が、述べたような清潔、明るさ、静かさがある心を目指し、気力・体力の限り実践することで三宝に心を埋め込んで、三宝に住んでください。みなさんの出家生活に、本当の三宝を理解するための基盤がなく、しっかり定めた目的がなければ、風に吹き飛ばされる軽い物のように揺れ、しっかりした目標を持てないので、出家したことは不毛になり、本気の決意があっても望んだようになりません。

 

 だからみなさん、出家生活の基盤であるものを本当に理解し、体力気力のすべてを本当に注げば、出家したことの結果を、望みどおりすべて受け取ることができます。

 

 

出家することの功徳は何か

 

 出家することの結果あるいは功徳について述べれば、出家した人は出家したことの結果を、少なくとも三つに広げておくべきです。出家することの功徳は、当然、全部詳しく述べられないほど広大でたくさんありますが、集約すれば大きく三つに分けることができます。つまり、

 

1.出家者自身が依存できる功徳

2.両親を初め、他人が依存できる功徳

3.そして仏教にとって依存できる功徳

 この三つです。

 

 出家者自身が依存できる功徳のほとんどは、煩悩あるいは苦の火に焼き炙られることから脱すこと、あるいは涅槃と呼ぶものを意味し、これが拠り所です。そこに至らなければ、当然煩悩の火、苦の火が焼き炙っても少しだけで、どれだけダンマヴィナヤの実践行動ができるかは、自分次第です。これは永久に出家する人についてで、風俗習慣で一時的な出家をした人については、まとめた結果を得ます。

 

 つまり自分が信じる宗教を身近で学習でき、滅苦の道具であるタンマの実践を、自分でできるだけ試して見ることができ、そして最後に、それまでより家族のリーダーにふさわしい善人になって戻ることができます。すべてを、「その人の功徳は自分だけが得るべきで、そして出家した機会を無駄にしないで、すべてを本当に受け取れるようにしなければならない」と言います。

 

 両親など他人が依存できる功徳は、当然、恩がある人の恩に報いることを目指すという意味で、それらの人物の代表である両親がいます。みなさんが生まれて目を開けて世界を見る前から、多くの人に言葉で表せないほどたくさんの恩があり、両親については言うまでもありません。子にとってどれほどたくさんの恩があるか、当然明らかになっているからです。

 

 「目を開けて世界を見る前から、たくさんの人に恩がある」と言うのは、子が生まれると、医師や、赤子の衣服を考えること作ることを知っている人、そして何やかや支援してくれた人の知性や知識に、気づかぬうちに依存しなければならないので、生まれた時には、世界中の人の恩を受けていると言うことができます。だから恩返しすべき代表として両親がいる、すべての恩人の恩に報いなければならない善人としての義務です。

 

智者である方(ブッダ)は、「その恩人たちに至高の善を受け取らせること以上に善い恩返しはなく、至高の善、至高の美としては、苦からの脱出、あるいは煩悩の火、苦の火の焼き炙りから脱すより素晴らしいものはない」と言われています。だから両親に恩返しをしなければならない子は、両親などが、何よりも先に苦から脱す善を受け取れるようにしなければなりません。

 

 智者である方はこれを例えて、「両親を膝の上で扶養し、生活に気を配って心配を掛けず、一劫の間膝の上で地面に下ろすことがないようにできても、まだ両親の恩に十分、あるいはふさわしく報いたとは見なしません」と言われています。しかし続けて「間違った見解の両親を正しい見解に変える、あるいは正しい見解の親を完璧に苦から脱すほど正しい見解にすれば、それがふさわしい恩返しです」と言われています。

 

 だから私たちは、両親に恩返しをする機会は、出家することの中に非常にたくさんあると見ることができます。つまりその出家で両親の仏教への信仰心を揺るぎないものにし、宗教に近い人、あるいは仏教の親戚にし、ダンマヴィナヤの実践行動に近づかせ、ますます深遠なダンマの知識や理解があるように、少なくとも、三宝に揺らがない人、悪趣等に落ちることがないと保証される人にします。

 

 だからこの正しい出家は、両親に本当の恩返しをする機会と見なします。しかしこれは、当然その人が本当に出家し、本当に勉強し、本当に実践し行動して、本当に一所懸命他人に教えるという意味です。すべてをこのように本気ですれば、敬愛する両親の恩にふさわしい、本当の恩返しである結果があります。

 

 出家したみなさん、「それらの方は、私にとって恩があり、あちらが先にしてくれた。私はそれらの人に恩があるので、述べたように本気でダンマヴィナヤの実践行動をして、両親の恩にふさわしい恩返しをする。両親の期待を、何一つ裏切ってはならない」と胆に銘じ、両親の恩を盾になさい。これを、両親など、すべての恩人が依存できる出家の功徳と言います。

 

 最後の「仏教にとって依存できる功徳」は、仏教も変化させる縁があるものなので、寿命の伝承を作らなければ絶滅することもあるという意味です。だからみなさんが出家することは、一部に仏教の寿命を延ばす目的があります。みなさんが出家したのは仏教があるからで、仏教がなければ出家できません。みなさんを出家させた仏教の恩は、良く理解されていることなので、私たちは仏教に恩返しをしなければなりません。

 

もっと長い時間で言えば、ブッダの時代から今日まで、仏教を伝承して来た戒師の恩を順に考えなければなりません。それらの戒師のお蔭でみなさんは出家できたので、みなさんは、その恩を考えなければなりません。それらの方々は、私たち後世の弟子がみんなで仏教の寿命を延ばし、途絶えることなく伝承するよう望みました。これが本当に仏教を伝承することであり、それらの戒師やアーチャンに恩返しをしなければならない理由です。

 

更に長い時間で言えば、私たちは仏教を生み出した人であるブッダの恩を、仏教を樹立する苦労を厭わず奉仕された角度で、ブッダの恩を思わなければなりません。ブッダの素晴らしい経歴を学ぶと、ブッダは仏教を創設して布教するために、普通の言い方をすると、私たちのほとんどの人のようにクティで亡くなるのでなく、「道中の木の下で亡くなる」ほど、奮闘なさっていたことが分かります。

 

 要するにブッダは、みなさんも含めたすべての生き物の利益のために、仏教を創設して世界に繁栄させることに並々ならぬ努力と希望がありました。だから私たちは仏教を伝承するために、ブッダがなさった手本にふさわしく、そして私たちも含めたすべての生き物のためにブッダがなさった偉大な恩にふさわしく、奮闘しなければなりません。

 

 仏教を、本当にふさわしく伝承するには、道は一つしかありません。それは本当の出家をし、本当に学習し、本当に実践し、本当に梵行の結果を受け取り、そして他人に本当に教える努力をします。そうすれば、仏教の寿命を延ばすことになり、ブッダの恩に本当に報いる供物になります。

 

 だからみなさんは、ブッダの恩、私たちの時代まで仏教を伝承して来られた戒師やアーチャンの恩を思い、そして、生き物の苦を本当に治療するものである仏教の恩を思い、このように本当に学ぶこと、本当に実践することで、仏教の恩、戒師の恩、ブッダの恩に、本気で恩返しなければなりません。

 

 これを、「仏教が受け取るべき、出家することの功徳」と言います。その功徳は菩提樹の木陰、榕樹の木陰のように、人間界と天人界のすべての世界に広がり、すべての生き物を涼しく護ります。

 

 出家した人自身が依存できる功徳、両親を初めすべての恩人が依存できる功徳、仏教が依存できる功徳の三つの功徳は、本当に出家し、本当に学習し、本当の実践し、本当の結果を受け取り、本当に教えることを生じさせるために、忍耐ですべてを犠牲にしなければならないことにとって十分と見ることができます。

 

 この行動より素晴らしい行動はないと、自信をもって言うことができるので、これを、みなさんが受け取るべき、出家したことの功徳と見なします。

  

 

出家した人の道具は何か

 

 出家した人、あるいは既に出家している人でも、出家の利益のため使う道具、そしてブッダが「刃のある草は、掴んで引き寄せる人の手を傷つけるように、正しく受けない出家生活は、当然出家した人が危険を受け取る」と言われているように、出家したことから危害を受け取らないよう防止する道具が必要です。だから出家する人は、出家したことが自分の危険にならないよう、初めから十分な道具である知識がなければなりません。

 

 最初に出家者は、「黄衣、あるいは袈裟(渋染めの布)と呼ぶものは、阿羅漢の勝旗と見なす」という気持ちがなくてはなりません。あるいは承知しておくべきです。パーリ語で「オラハッタジョー」と言う、語句としては阿羅漢の勝旗という意味のくすんだ渋染めの布は、天人にも人間にも畜生にさえ尊敬されるべき立場にある純潔で素晴らしい人の象徴です。

 

ブッダは、「渋染めの布は、当然敵がない人、阿羅漢の象徴と感じる」と言われています。だから、渋染めの衣、あるいは阿羅漢の勝旗を身にまとうことは、衣服の一種という以上の意味があり、その人にその渋染めの衣をまとう十分な徳行がなければ、即座にその人にタンマの面の危害が及びます。

 

これは、ブッダがいろんな折りに言われている教えです。例えばパーリ(ブッダの言葉)で、「アニッカーサヴォ カーサ」と言われ、これは先ほど述べた要旨の初めの部分です。

 

だから、その日出家する人に渋染めの衣をまとわせる時、袈裟をまとう人の心を洗って袈裟をまとうにふさわしくするために、初めに皮五観法を述べて教える規則があります。

 

皮五観法は不浄念処の類で、熟慮して、その在家が今まで迷ってきた偽物の真実を見て、かつて自分が迷ってきたことに衝撃を受け、在家の性の迷いの害を見て、在家の心のレベルより高いと言えるまで高い心、それなりに清潔で明るく静かな心にします。ブッダは、それからその渋染めの衣をまとわせました。

 

 だから出家したみなさん全員が、この非常に重要なことを考え、出家させてくれた戒師の皮五観法の答えを思い出し、そして、自分を脱ぎ捨て、意味なく黄衣を着る危険から脱すためにこれらの念処を受け入れたことを思い出してください。そして自分を不注意でなくし、不注意の危険が見える人にし、自分が出家したこと、あるいは阿羅漢の勝旗を身にまとうことが自分に危険を及ぼす機会を作らないよう、これらの念処の実践を受け入れることを思ってください。

 

 これを、出家から生じる危険を脱すよう初めの段階で防止する、出家者の素晴らしい道具であり、後には危険あるいは欲貪など、すべての煩悩の侵略から脱すよう自分を護り、出家生活を安全にし、そして永遠に進歩向上させる道具と見なします。

 

 だから出家した人は、出家の道具、あるいは常に携帯する武器に関心を持ってください。つまり主人である念処、不浄念処から、部下である念処、四依つまり衣、食べ物、住まい、治療薬を消費することのパッチャヴェッカナ(省察)と呼ぶ熟慮に、勤勉に努力すると、それは永久に黄衣をまとうにふさわしい美徳を維持するよう自分を引き留める道具になります。

 

 

出家者の権利

 

 出家者の権利について述べる時、「出家者は与えられるべき物、あるいは庶民が献じた四依を消費する公正な権利がある」と述べると理解してください。通常出家者は、農業や商売等の職業を営まず、世間の人の犠牲によって生活していると見えています。

 

 次に考えなければならないのは、支援者が尊敬で献じた与えられるべき物を消費する公正な権利はどこから来るのか、ということです。

 

 ここでの公正な権利は、自分を本当の出家にしている人、そして初めに述べた意味の正しい人にだけあります。この権利は、出家しただけの出家者にある訳ではありません。公正な権利がないのにこれらの縁を消費すれば、当然その人にとって借りになり、与えられるべき物の施主である支援者に借を返さなければならないと見なされ、ブッダは滑稽な例えで、「それらの供物の施主である支援者に奉仕するために、死んだら牛やロバに生まれなければならない」と言われています。

 

 みなさん、この項目を深く、詳細に熟慮しなければなりません。そうすれば、本当の出家者はそれらの支援者の供物を消費する、公正な権利が本当にあると見ることができます。

 

 本当の出家をし、本当の学習をし、本当の実践をし、本当の結果を受け取り、本当に他人に教える人の出家は、当然本当に仏教を伝承します。

 

 本当に仏教の寿命を延ばすことが、出家者に、述べたような与えられるべき物を消費する公正な権利を生じさせます。本当の本質での仏教の伝承は、本当に聖向聖果に到達するために実践する人が世界にいることにあり、聖向聖果の実践に成功すること、世界にその実践があることは、他のことは何も考えず真剣にする人の、本気の決意から生じ、そうすれば結果があります。以上の理由で、一心不乱に実践する人は、職業を営むことを考えなくても良い、実践の機会が得られます。

 

 だから聖向聖果への到達がまだ世界にあるようにするために、実践者が実践に専念することは、個人で返礼をする必要なしに、与えられるべき物を消費する公正な権利を生じさせます。だから本当の出家は、述べたようなそれらの縁を消費する公正な権利から、一般世間の人から拝まれ尊敬を受ける公正な権利、自由な梵行をする権利まであります。これを、出家だけの特別な権利と言います。

 

 出家したみなさん。絶対に「牛やロバになる」状態に陥らないで、この権利を維持する努力をするために、この権利について考えてください。すべては繰り返し述べてきたように、本当の出家をし、本当に学び、本当に実践をし、本当の結果を得、本当に教えることで成功させることができます。この権利がなければ、今日でなくても必ずいつか、後悔、つまり焦燥が生じます。疑うまでもありません。

 

 

出家する目的

 

本当の目的である出家の目的について述べるなら、伝統習慣、あるいは述べたような三種類の功徳が欲しいのではない、と知るべきです。本当の目的はもっと素晴らしい結果で、聖向・聖果・涅槃への到達を早さを生じさせることです。

 

 一般の教えでは、人は、本当に正しいダンマヴィナヤを実践することで聖向・聖果・涅槃に到達しますが、在家の性にあればもたもたし、あるいは脇道へ逸れて挫折することもあります。その在家に、どんなに強い決意があっても、在家であることから生じる障害は尽きず、職業を営まなければならず、疑うまでもなく遅らせる原因である他の妨害もあります。

 

 出家のような生活をすると、当然それらの障害から解放され、梵行の行動を素早く前進させ、まもなく結果に遭遇することができます。これを、必要な出家の結果に素早く到達させる、出家することの本当の目的と見なします。

 

 次に注意しなければならないことは、

 

 家を捨てて出家して家のない人になったら、本当に家のない人の心がなければならないので、在家のような行動や態度から感覚・考え、そして仕事をすることまで、完全に捨てなければなりません。在家に日常的に生じる何らかの気の重さは、出家した人にあるべきでありません。

 

 美しさ、楽しさ、美味しさ、あるいは欲情になる考えは、出家者の心にあるべきではありません。たくさん呪文を唱える仕事、非常に責任が思い仕事、散漫や落ち着かない原因であるこれらの仕事も、出家した人はするべきではありません。

 

 これらのいろんなものがまだ心にあれば、あるいは出家した人の生活にあれば出家とは呼ばず、黄衣をまとって托鉢の食べ物を食べ、お寺に住んでいても、聖向・聖果・涅槃に到達する早さは生じず、仏教の寿命を延ばすことも、喜ばしい経過になりません。

 

 自分が出家したことが、本当の目的にそって正しくなるよう望んで出家したみなさん。在家であることが、出家生活に生じて隠れていないよう注意なさい。梵行の進歩にことごとく遅れを生じさせる、いろんな妨害するものを拭い取ることに、注意深くなさい。

 

 他の功徳を出家の本当の目的にしないで、出家したことの結果に到達する早さ、あるいは早さを生じさせる機会を出家する本当の目的とするのは、直接の目的や出家の精神は、早く何としても本当に行かなければならないことにある、と見なすからです。

 

 早さの次に重要な目的について、冒頭で述べた三つの功徳の他に、もう一つの結果について述べたいと思います。聖向聖果に到達する早さの次に重要な出家する目的は、自分の利益、他人の利益を広大に、最高にすることです。自分の利益と他人の利益を広大にするのは、在家ではできません。

 

 在家であることは、当然煩悩の威力下にあるので、ほとんど自分や自分の家族の楽しさ、美味しさばかり考え、どんなに犠牲と決意があっても、いろんな環境に縛られることから脱せません。出家した人はそれらの障害から解放され、自分の利益と他人の利益を、本当に存分に満たすために、すべての時間と、すべての気力体力を投げ出すことができ、普通より高いレベルの自分の利益と他人の利益を満たす機会も、たくさんあります。

 

 だから、自分は欲情に溺れる本能の威力下に落ちない自信があり、自分の利益と他人の利益を満たすことで、人生を本能より高い、最高に価値あるものにしたいと望む、獅子の心を持った良家の子息は、ブッダを頂点とするすべての聖人に倣って、家を捨てて、家のない人になって出家した人の、高いレベルの自分の利益と他人の利益を満たす、すっきりした機会を見なさい。

 

 低い感覚、つまり本能の威力で欲情に引っ張って行く考えと戦って勝利した良家の子息は、「物質的、身体的幸福を与えるだけより高いもの、自分の利益や他人の利益を満たすことより価値があることは何もない」と、自分で感じることができるので、無限に広い涅槃に到達し、すべての苦を完璧に消滅させる、高いレベルの自分の利益と他人の利益を満たすために、出家したことの中にある機会を掴む勇気と明るさがあります。

 

 短くまとめると、聖向聖果への到達の早さに次ぐ出家する目的は、利益を満たす広い範囲を生じさせることです。

 

 ブッダは、簡単に「遺言」と呼ばれる、最期の忠告で、私たちに、「比丘のみなさん。不注意でないことで利益を完璧になさい」と言われています。これは、自分の利益と他人の利益を満たすことは、ブッダのたっての望みであることが分かります。

 

 もしみなさんが、ブッダの言葉の意味で不注意でない人なら、自分の利益と他人の利益を満たす機会を、努力あるいは本当に不注意でないことで探求しなければなりません。そうすれば最後には、「その機会は出家した目的にあり、そしてその不注意でないことは、広大な自分の利益と他人の利益を満たすために出家する機会を掴むことにある」と見ることができます。

 

 これは早くならなくても、煩悩より上にいる自由な生活で、奮闘して高い美徳になるので、無限に広くする結果になります。本能の低い考えの部分で自分に勝った人は、理に適った熟慮をして、出家した二番目の目的であるこの機会を、何としても掴むべきです。

 

 そうすれば人間に生まれたこと、そして仏教に出合ったこと、食べる、寝る、危険を感じて逃げる、性交をするより高いことをする機会を得たことが無駄になりません。食べる、寝る、危険を回避する、性交をする、この四つは、畜生でもすることを知っています。

 

 まとめると、出家する本当の目的あるいは精神は、家を治める生活を捨てて、述べたような家のない人の生活をする、心が普通レベルより高い人の、自分の利益と他人の利益を満たす早さと、範囲を広げることです。

 

 出家したみなさん。出家の精神である本当の目的を理解することに関心を持って努力なさい。そうすれば偉大な善になり、勇敢になり、至高の結果のために世俗的な結果を犠牲にし、天人も人間も本当に尊敬したくなるような、極めて高い方向へ前進することができます。

 

 

 まとめ

 

 出家した結果を受け取りたいと望んで出家した人は、自分の意志で出家を願い出たのですから、自分が出家したことによる失敗、または成功に責任を取らなければならないと考えなければなりません。自分の宣誓を傷つける人にならないように忠告するものである神聖な場所で、神聖な機会に、三宝の名の下に集まった人たちの最中で、自分の出家式を行ったことを思い出すべきです。

 

 自分が宣誓したように自分の名誉を維持することに、慚愧がなければなりません。本当に出家したこと、つまり在家のような家、衣食、消費、行動、話すこと、そして考えから、すっかり行った人の状態を思う人、そして仏教のタンマと律で避けるべきものをすべて避ける人であることは、自分の出家生活を純潔で正しくし、出家したことで自分に危害を招きません。

 

 清潔、明るさ、静かさに集約される重要な要旨がある三宝が依り処にするものとしてあり、自分、自分の恩人、仏教に対してまで依存できる結果をもたらす出家であること。このようであることは、その出家の素晴らしい武器、つまり不浄念処などを初めとする念処があるので、当然最高に成功させます。

 

 そして部下である念処があり、熟慮があり、出家が依存する四種類、四依の熟慮があって、それから消費して純潔な利益を得れば、それは武器でもあり、自分が出家であることに生じる危険をなくす防具もあると見なします。

 

 その結果、布施を受ける権利、天人にも人間にも合掌して拝まれる正しい権利があるようにし、「出家であることは、皇帝であるより素晴らしい」という意味のパーリ、「アピ ラッチェナ ヴァラム」という言葉にふさわしく、出家する本当の目的である最高の利益、つまり聖向聖果への到達の早さと、自分の利益と他人の利益を無限に広く、最高に満たす機会を掴むことを知っています。このように、疑うべくもありません。

 

 みなさん。サンマーサンブッタの仏教のサーキャプッタサマナとして出家したみなさん。述べたようなすべての原則で出家した結果に巡り合い、何としても、サーキャプティヤサマナとしての名誉を維持なさい。

 

 


 

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