怒りを倉庫に閉じ込める

 

 

 

 

 還俗するみなさん。第六回目の講義は、「怒りを倉庫に閉じ込める」と題してお話しします。

 

 理解の復習をさせていただくと、私は、最初の講義でお話した細かい題目についてお話しています。一時的な出家から還俗する人は、できるだけたくさん、何かを身につけて帰り、そして「それは別の話だ」という誤解、つまり、出家である人の話と、在家として暮らす人が使うものは正反対のように違い、別物だという

誤解を正すことで、できる限り多くの利益を得るべきです。

 

 私は、出家している間は学習するため、あるいは一時的な出家をする人の目的と一致させるために、人間の一般原則として使える出家の味見であると、証明して見せる努力をしています。その知識は、在家の些細な話であるだけなく、理想のレベルの在家から在家のレベルの聖向聖果に到達するまで進歩します。だからこのような状態の要旨を掴むことに、できるだけ関心を持ってください。

 

 人が悪霊の話、お寺の僧の話と見ているパラダットゥーパジーヴィー(他人の施しで生活する者)の話を、私は、村でも町でも国でも、家族で住んでいても、この教えを使えば簡単に平和な世界にすることができると説明して見せます。

 

 すべての人を生老病死の友とする基本の愛があり、そして私たちは一人では生きられないと言います。私は、こういうのが最高の、本当の「社会主義精神」と信じします。だから良く観察して見てください。

 

 「低く暮らして高く行う」という項目は、少ない投資、あるいは低い投資で、多くて高い結果を得ることをいい加減にさせません。今世界中が、ナムプリックを搗いて川に流す(無益な浪費という意味)ような、象を殺して牙を取るような状態で、物質面も精神面も世界を破壊しています。

 

 そしてムニー(牟尼)は、「智者、緘黙な人、心静かな人」という意味で、家を治める性と言われる在家の中にもいると言います。

 

 そして自然と親しむことは最大限に自然にします。しかし現代人の煩悩に逆らう感覚は、自然に傾かせるには多すぎるように感じます。

 

 この種の言葉を信じる人は誰もいません。私も知っています。マハータマ・ガンディーは、「都市、あるいは大都市のように暮らさないで、村のように暮らせば平和がある」、そして「誰もが手機を織って自家消費する方が、織機を発明するより良い」とまで言っています。誰も理解できる人はいません。豊かになること、美しくなること、美味しいこと、何でも過剰なことに貪欲なので、問題が多くなります。

 

 至る所に散在している小さな集落で自然に暮らし、クルンテープのように暮らさない方が平和です。しかし「発展しない」と言います。手機で布を織って百年使っているのは、「発展しない」と非難しますが、人は平和で、穏やかで幸福に暮らします。

 

 つまり誰でも仕事があり、あまり掻き集めません。昔のチベットのような暮らしは、穏やかな暮らしと平和がありました。しかし人は、「最高に遅れている」と言います。このように訳の分からないことを言います。

 

 しかし私は別の面、別の角度で見ることができます。食べること、着ること、何でももっと自然を尊重してください。そうすれば暮らしに関わる仏教の要旨で、自然と離れる生活は、仏教の教えから少しずつ遠くなります。

 

 出家するとこれらを味わわせるので、簡単に味見をする機会があるので、きっと理解、あるいは満足します。今後も続けるか、あるいは在家式の人間の話に合うように調整すれば、世界全体が広い社会になります。

 

 

 

 怒りを閉じ込める倉庫を造る

 

 次に今日は、「怒りを閉じ込める倉庫を造る」、あるいは「怒りを倉庫に閉じ込める」話を、できるだけたくさんお話します。みなさんが出家している間は、善い伝統では怒ることはできません。どこでも不変の教えとして遵守しています。どの教義、どの宗教の出家でも、怒りは出家にとって最低の悪と見なします。インドでは、出家のためのこのような一般の教えがあります。

 

 妨害する怒りがないように、あるいは妨害が少ないように暮らせば、涼しさを受け取ります。怒りは火のようで、怒らないことは水のようで、例えて言えばこのようです。そして怒りは、身体面も精神面も自然ではありません。身体面は何があるか、医師や生理学者は良く知っています。激怒している時、体内はどのようになっているか、それは、何百パーセントも異常だと推測することができます。

 

だから怒らないことは自然です。例えば海は、波がなければ正常で、嵐でも波でも何でもあれば、どれほど、何百パーセント違うでしょうか。だから怒りについて、たくさん勉強するべきです。

 

 「倉庫を造って怒りを閉じ込める」、あるいは「怒りを倉庫に閉じ込める」と言うのは、溜めておいて怒りで豊かになる、あるいは閉じ込めておいて一度にたくさん使うという意味ではありません。倉庫に閉じ込めるというのは、外で大暴れさせません

 

 簡単に怒り、あるいはたくさんあるので、「倉庫に閉じ込める」と言うくらいしなければなりません。今はまだ、捨てられないからです。まだ煩悩があるので、煩悩は使わないで仕舞ってしまい、煩悩がなくなれば大丈夫、何も問題はありませんが、煩悩があるなら、煩悩を使わないのが善いです。

 

 次に人は、自分の思い通りにする本性があり、何でも習性でします。そして怒りにも美味しい味があるので、良く怒り、怒るのが好きな習性になります。だから「倉庫に閉じ込めて外へ出さない」と言うようにしなければなりません。

 

 特に異境にいる人は、昔の人はたくさん教えています。三蔵のパーリ(ブッダの言葉)にもあります。外国でもどこでも異境にいる人は、怒りを閉じ込める大きな倉庫を造っておきます。そのような場所で自分を怒らせることは、自分自身に加害するのと同じです。

 

 私たちは外国にいる訳ではありませんが、怒りを閉じ込めて支配することを考えるべきです。怒っても何の利益もありません。大きな怒りがあれば、穏やかな幸福はありません。

 

 

怒りの状態

 

次に怒りの状態について、認識して憶えておくものとしてお話します。

 

 小さな怒りを「不満」と言い、例えばイライラと心に障るようなのは、小さなレベルの怒り、パーリ語でパティカと言う低いレベルです。

 

 二番目は「怒り」で、十分な意味の怒りは憤怒させ、パーリ語ではコーダと言います。

 次は、「怒りを抱く。怒りを溜めておく。恨み。復讐心」。こういうのをウパナーハと言います。ウパナーハとは怒りを溜める、あるいは恨みを抱く「復讐心」です。

 

 これが、「あまり多くない怒り」、「十分な怒り」、「溜めておく怒り」まで、それぞれ違う状態がある三つの怒りです。パティカとは、イライラ、気に入らない。コーダは十分な怒り。ドーサは危害を加えようと考えることで、怒って、更に恨みを抱きます。今みなさんは怒りだけで、他人に危害を加えようと考えません。ウダナーハは恨みを抱きます。

 

 次に日常生活を見ると、多数の人と関わる家やオフィスや、職場にいると、これらがあります。タンマ、あるいは宗教の訓練を受けていない人なら、現代の劣悪な教育があれば、イライラ、衝撃、パティガが最高にたくさんあります。幼い子供の教育で、怒りを根絶させ、怒りに注意するよう教える体系は、世界のどこにもありません。昔はまだマシでした。

 

次に目一杯怒ることは、たまにあります。そうでなければ殺し合いで全滅します。次に怒りを溜めておくことにも、自分を燻すと言うような小さくないものもあります。他人、あるいは恨まれている人は感じていないこともありますが、恨みを抱いている人、あるいは復讐心に燃えている人は、絶えず自分を攻撃しているのと同じです。

 

だから誰のでも試して見てください。誰でも、自分にどれくらい怒りの病があるか、そしてどのようか、試して見てください。これが怒りと言うもので、大きくは、このように三つのレベルがあります。

 

 

怒りの原因

 

次に怒りが生じる原因についてお話します。短いブッダヴァチャナで言えば、ブッダは、「それは欲望から生じる」と言われています。怒りは欲望から生じます。欲望とは、「無明の威力で欲しがること」です。

 

 欲望の話は、時々忠告させていただかなければなりません。願望という意味は本当ですが、パーリ語では特別な意味があり、愚かさの威力で望むという意味で、知性で望めば、それは欲望ではありません。善悪正誤の感覚が、するべき何かを望ませるのは、その望みは、欲望ではありません。欲望は、愚かさ、つまり無明の威力でいろいろ欲しがります。だから、「怒りを生じさせる原因は欲望」と答えることができるので、それはどうか、良く見ます。

 

 欲望の話は一般の教えで三つあります。自明の理として欲望は三つあると憶えておいてください。

 カーマタンハー(欲愛)なら愛欲の面の、特に異性に関した望みです。これが欲愛で、欲愛によって望み、欲愛によって愛し、欲愛によって嫉妬します。

 

 ここで欲望どおりに得られないと怒りが生じます。欲望どおりに得られなくても、「欲望によって」と言います。欲望がなければ欲しがらないので、怒りません。良く聞いてくださいね。愚かな欲望がなければ、怒りが生じる余地はありません。今欲愛があり、愛、嫉妬、望みがあって、それで欲望のとおりにならないと、欲愛によって怒りが生じます。

 

 次はバヴァタンハー(渇愛)によって生じる怒りです。ああなりたい、こうなりたい、ほとんどは出世したい、傑出したいで、侮辱や軽蔑されれば、それは出世でなく、傑出でなく、優越感や何やらそのようなものを見せられないので、怒りが生じます。誰かに軽蔑されると怒りが生じる、それが有愛(渇愛)による怒りです。

 

誰も軽蔑できない誰よりも上の人でいたい。あるいは、名声がある、傑出している何かを見せたくて見せられない有愛が怒りの原因です。法螺を吹けないと気に入りません。法螺を吹けないと。時間の節約のために、下品な言葉を使ったことをお許しください。法螺を吹けないと怒るのは、この怒りは何によるかと言えば、有愛によります。

 

 ヴィバヴァアタンハー(無有愛。無渇愛)による怒りは、「所有したくない。存在したくない」です。だから自分が見たくない、聞きたくない、あってほしくないものが現れると、私たちは怒り、あるいは気に入りません。

 

 例えば自分が大切にしているものを妨害されたり、奪われたりすること。そしてサンカーラ(行)の変化から老いや病気による妨害。あるいはサンカーラ(体)が言うことを聞かないこと。自分は病気になりたくない。病みたくない。死にたくない。だからそれらが現れたのを感じると怒り、気に入らず、それを通り越して嫌悪し、恐怖し、苦になります。だから私たちは怒り、動物や物にも怒り、誤りがない物質を叩きます。

 

 だから、欲望と呼ぶ望みについて学べば、「欲望どおりにならないと怒りが生じる」と見えます。だから、自分はどこで怒り、何種類の怒りがあるか分けて見ると、それは望みどおりにならないことから生じると分かります。だから貪り、あるいは願望次第ですが、今は別れて、一時火のような症状があります。

 

 ドーサは、「ラーガ(貪り)、ドーサ(怒り)、モーハ(愚かさ)」、あるいは「ローパ、コーダ、モーハ」と呼ばれるものの、ラーガあるいはローパの次の二番目です。貪りがある時が一つの症状で、貪ったように、望んだように得られない時は怒り、これも一つの症状で、そして陶酔し、呆けて疑い、こだわり続ける、これも一つの症状です。火になって妨害して焼き炙るものとしての怒りを知ります。

 

 

怒りの害

 

 次に怒りの害を見ます。これも難しくなく見ることができますが、私は部類別に、あるいは普通の人が自分で見るより、自分で感じるより深遠に見せます。私はパーリ(ブッダの言葉)でたくさん説かれているのを見つけたので、それを熟慮して見ます。

 

 怒りは武器の錆=コードー サッタマラン ローケー。教科書では、「怒りは世界の武器の錆のよう」、「武器の錆のよう」と訳されています。学生でも誰でも、武器が錆びたら使い物にならないと理解しますが、私は熟慮して、この言葉は、武器(サー サ タラ)という言葉に注目していると見ます。

 

 武器(サータラー)はですね、切るための物です。ここでサータラー(学問知識)という知識のサータラは、精神面の武器です。だから武器とは、何らかの利益のために今勉強している知識で、たとえば科学、歴史、言語学、何学でも、これらは「切るための鋭い武器」という意味を借用しています。

 

 ここで「怒りは武器の錆」とは、「怒りが生じたら、サータラ(武器、あるいは学問知識)と呼ぶものはすっかりダメになって使い物にならない」という意味です。何らかのサータラを使わなければならない時、知識のサータラも、何のサータラも、怒りが生じれば使えません。

 

 怒りはサータラの錆で、サータラは知識です。こういうのは「怒りは武器の錆より」重要です。(刃物などの)武器であるサータラは別の意味で、重要な方の意味を捉えていただきたいと思います。

 

 まとめると、今勉強しているのでも、今使っているのでも、私たちにあるすべての学問知識は、怒りが生ればすべて台無しになり、サータラでも何でもなくなります。だから学問知識がある人は、十分あると自慢しないで、その学問知識の錆であり、危険である怒りに注意してください。幾つ学問があっても、これらすべてのサータラは、怒りが生じれば錆びてしまい、使うことはできないと熟慮して見てください。

 

 別の角度から見ると、ブッダが「怒りは悪運、あるいは疫病神」と言われています。パーリ(ブッダの言葉)には、「ナッティ ドッサモー ガホー、ナッティ ドッサモー カリ」とあります。ガハとは運で、人を破滅衰退させる悪運を意味し、(タイ語では)クロと言います。

 

 怒りほどの悪運(ガハ)はなく、怒りほどの疫病神(カリー)もありません。つまり怒りと並ぶ悪劣なものは何もありません。要するに、怒りがあれば悪運を呼び、疫病神を招きます。

 

 カリーはパーリ語、インド語で、昔からたくさん使われています。カーリーという言葉から来たようですが、意味はカーリーと違います。パーリ語のカリーは、庶民が「カリーだ」と呼んでいるカリーで、カリーと呼ばれるものは、善や美がない不祥、不吉です。だから怒りがある人はカリーがいっぱいで、悪運で満ちています。

 

 「その人は悪運。この人は悪運」と、違う見方をしないでください。今怒っている時の自分自身が最高に悪運で、最高にカリーです。カリーバラという文芸の言葉の、カリーバラは幽霊、悪霊の名前です。

 

 また別の角度から見ると、怒りは善を払い落す原因です。ブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)で、「コダービブトー クサラン ジャハーティ=怒りに支配された人は、当然善を放棄する」と言われています。怒りに心が支配されると、怒りでしたいので善を考慮せず、善と知っていても善を払い捨てて、怒りに従う方を選び、怒りの味方をしたいと志願し、善、あるいは正しい方の味方をしないという意味です。怒ってしまったからです。

 

平常心があれば、善の側に立って悪を恐れますが、怒りが生じると、善を振り捨てる覚悟、善であるものを捨てる覚悟があります。これは非常に危険です。怒りのことしか考えないので、悪も辞さず、死も辞さず、破滅や衰退も辞さず、正しい教えを掌握せず、赦さず、止めようとせず、何もかも受け入れません。これも怒りの危険の一つです。

 

 ブッダは、「怒っている人は、自分の母親でも殺せる」と説かれています。生まれた子は、この世界に母親ほど親しい人、あるいは自分に温もりを与えてくれるものは何もないので、母親を喩えに使い、怒りが生じれば、母親を殺すこともできます。ハンティ クッドー サマータラン=怒った人は、当然自分の母親も殺せます。

 

 新聞、あるいはラジオのニュースでは、自分の母親を殺すのを、非常に頻繁に見ます。昨夜のラジオのニュースでも、自分の母親を殺した事件がありました。現代は迷わせる餌、何かにさせる餌が沢山あり、怒りの餌は強烈なので、望んだようにならないと自分の母親を殺せます。ね、良く見てください。

 

 ここでもう一つ説かれているのは、「怒っている人は理が見えず、タンマが見えない=クッドー アッタ ナジャーナーティ、クッドー ダンマン ナ パッサティ」で、理(アッタ)を知らず、タンマが見えません。怒ってしまった人は当然理を知らず、タンマが見えないということは、原因と結果が見えません。

 

 アッタ、ダンマの二語は、普通の場合は道理を意味しています。ダンマは原因を、アッタは結果を意味しますが、他の意味があることもあります。例えば「意味も言葉も知らない」などは、アッタは要旨あるいは深遠な意味で、ダンマは題目、集約した題目を意味します。

 

 要するに、怒ったら理が見えず、理を駆使しないので、アッタ(結果)もダンマ(原因)も知りません。

 

 自分が怒った時心はどのようかを観察して見ると、理は使えません。理、あるいは意味、あるいはそのことの深さを明らかに見る術はありません。怒った人は、アッタを知らず、タンマが見えません。ブッダは「知る」という言葉と「見える」という言葉を使われています。

 

 「アッタを知らない」は要旨を知らず、「タンマが見えない」は題目が見えません。道理が見えなければ結果を知りません。これは重要ではありませんよ。「途端に理のない人になる」ことだけを憶えてください。

 

 ここでもう一つ、最高に興味深いのは、怒りは悪を、簡単にできることにします。

 

 通常は、普通では、私たちは何が悪かを知っていて、悪を恐れ、悪事をしたくないので、悪事はし難いことです。例えば自分の親を殺すことなどは、非常にするのが難しいですが、怒ればその難しさは簡単になります。パーリ(ブッダの言葉)には、「ヤン クッドー ウパローデーティ スカラン ヴィヤ ドゥッカラン ヴィヤ ドゥッカラン=するのが難しいことが、簡単になる」とあります。

 

 怒ると、その人は危害を加えたくなって悪を成すので、成し難いことが成し易いことになります。

 

 これを小さなことと見てはいけません。心の中でこの真実が明らかになっていれば、人は怒りを生じさせることはできません。あるいは何でも怒りですることはできません。だからいつでも怒りの危害が見えていなければなりません。

 

 これが十分な例です。あるいは他に何種類の害があっても、すべて述べた題目に集約することができます。

 

 復習すると、怒りが生じると、すべてのサータラ(学問。武器)はサータラでなくなり、悪運と疫病神を招きます。例えば怒ると、善を振り落して怒りを選び、善を考えないので、母親でも殺すことができます。理が見えず、タンマが見えず、成すのが困難な悪事が、簡単に成せることになります。これが、怒りと言うものの、恐ろしい危険です。

 

 

怒りの魅力

 

さて次に、怒りの魅力を見ます。私はこのような言葉を、二つの目的のために使います。つまりブッダがタンマ語の中で使われた言葉、あるいはパーリ語をどのように使われたかを知らせるため、そして、憶えて使ってもらうため、つまり知っている言葉を増やすため、ブッダが深い意味の言葉、あるいは深い意味に集約できる言葉を使われたと知ってもらうためです。

 

だからすべてのものにはアッサーダと言う、パーリでアッサーダと言う、多少の魅力があります。それが私たちを引っ張って行って奴隷にする、下僕にする、あるいは行為者にする魅力です。

 

 ここで怒りに魅力があるのは、それは愚かな人の美味、智慧の劣る人が喜ぶ美味しさだからです。パーリ(ブッダの言葉)には、『コドー ドゥマメーダゴーチャロー=怒りは智慧が劣る人のゴーチャラ(喜んで入り浸る場所)』とあります。

 

 ドゥメーダは、悪い知恵、劣悪な知恵、劣った智恵があるという意味で、ゴーチャラは、田んぼへ行けば草が食べられ、草は美味しいので、「牛や水牛が満足する場所である田んぼのように美味しい所、満足する所、行きたい所、行って食べたい、行っていたい、行って何かしたい所」を、ゴーチャラと言います。これがゴーチャラという言葉です。こういう意味があります。好んで行き、好んで食べに行き、好んで行って親しむ場所すべての場合に使うことができます。怒りは智慧の劣った人のゴーチャラです。

 

 「怒るのが好きなのは愚かな人だけ。智慧のある人なら、怒るのは好きではない」と言うこともできます。よく怒るのは、それが美味しいからで、怒っている時、美味しいと感じています。こういうのを、怒りの魅力と言います。よく怒る人は美味しさを感じ、そして怒り、怒鳴り、叩く味の中毒になっています。だから人は、よく怒鳴り、よく叩きます。

 

 奴隷がいた時代は、奴隷だった人にはしたいようにしました。奴隷たちを叩いて罵るのは、主人の心にとって美味です。これを怒りの旨味、つまり怒りの魅力と言います。

 

 ここで怒り終わると焼き炙ります。怒っている時は美味しい蜜のようで、怒り終わると毒になります。だから初めは美味しく、後で苦い症状があります。パーリ(ブッダの言葉)には、『パッチャー ソー ヴィガテー コーデー=怒りが消えた後、アッギダットヴァタッパティ=彼は当然、火に炙られるように苦しむ』とあります。

 

 怒っている時は気持ち良く、愉快で美味ですが、怒り終わって我に返ると、次は火に炙られるよう、実に火に炙られるように苦しいです。これは、怒りには美味しいものがあり、初めは旨味である美味しい味があるということを表しています。

 

 勉強のために、魅力あるいは旨味という言葉を憶えておいて、何にでも旨味があると、常に注意してください。悪でも何でも、自分を引っ張って行く、自分を引っ張って行ってさせる美味しい味があるので、餌のよう、撒き餌のようと言います。

 

 この美味しさは撒き餌のような働きをしますが、それは美味しいという意味なので、注意しなければなりません。怒りも魅力なので、その魅力に迷えば怒るのが好きになり、しょっちゅう怒れば、簡単に怒って冷めにくい習性になります。

 

 

怒りの秘密

 

 ここで怒りの秘密、あるいは隠されていることについて別の角度から見ると、怒ると闇になります。普通は明るく、このように平常心の時は明るい世界にいるようですが、怒りが生じると闇の世界にいるようになり、闇以上の闇で、陽射しも灯かりもない闇です。これが、私たちがあまり観察しない、あるいは良く見ない、怒りと呼ぶものの隠されたことです。

 

 見えれば、怒りが闇にし、闇になれば間違ったことを例外なく何でもできるので、怒りの恐ろしさに驚愕します。パーリ(ブッダの言葉)には『アンダタマン タダー ホーティ ヤン コードー サハテー ナラン』とあります。これらのブッダバーシタを、ナックタム(法師試験)の学校の教科書で見ることができます。『=怒りは当然誰でも支配し、闇は、その時その人にある盲目と同じ』。

 

 彼らはアヌッタマン、つまり「盲目と同じ闇」という言葉を使っているので、夜より更に暗いです。盲目の人は、昼も夜も何も見えません。夜の闇は、目の善い人は何とか見ることができます。

 

 見てください、暗い夜も星などがあり、何とか見えます。あるいは、太陽やいろんな物の反射光があるので、真っ暗闇ではなく、暗い時でも歩くことができます。特にある種の動物は歩くことができます。ここで盲目の人はね、夜以上にもっと深い闇なので、怒りに「盲目のような闇」という言葉を使います。

 

 もう一つは、『怒っている人に明かりはない=ゴーデン アビブータッサ ナ ディーパン ホーティ キンチャナン』という言葉です。ディーパン、プラティープ、灯火は、怒った人、怒りに支配された人には、ほんの少しもありません。ナックタムの教科書では、ディーパンという言葉を、拠り所と訳しています。私は自分が正しいと見ているように訳し、彼らは「怒った人のための拠り所はない」と訳しています。

 

 このディーパという言葉は、「拠り所」と訳すこともでき、「灯かり」と訳すこともできると憶えておいてください。そこで私は「灯かり」と訳し、「怒った人のための明かりは、ほんの僅かもない」と訳します。

 

 これを怒りと呼ぶものの隠されているものと見なします。怒りに良く対応しなければ、怒りというものの秘密を知らないので、簡単に怒りの奴隷になります。

 

 

怒りを閉じ込める倉庫

 

 ここで怒りを閉まっておく倉庫、怒りを閉じ込める蔵についてお話します。怒りを閉じ込めるための倉庫を大きく造るにはどうすれば良いでしょうか。

 

 

【怒りを追放する忍耐】

 

 この話で初めに思い出さなければならないのは、カンティ(忍耐)というダンマです。カンティ、あるいはカンティーは忍耐という意味です。このカンティーは、忍耐、耐えられること、待てること、忍耐という意味です。

 

 表面的に見れば、忍耐できないから怒り、忍耐できれば怒らないと見ることができます。怒りは我慢できないから、つまり忍耐がないから生じます。

 

 だから怒りと闘うもの、初めに思い出さなければならないものはカンティ、忍耐です。パーリには、『カンティー サーハサヴァーラナー=カンティ、忍耐は、かっとなるのを』、ここでは怒りを意味しますが、『禁じるもの』とあります。だから忍耐が習性になるよう、忍耐の訓練をたくさんすれば、怒り難くなります。

 

 ここでみなさんは忍耐が好きでなく、名誉を傷つけるとか、あるいは負けっ子とか、何かそのようなことと見るので、益々忍耐しません。それは怒りにチャンスを与えることなので、忍耐、辛抱の訓練をたくさんします。特にまだ出家している時は、すべての修行者の梵行の中心であるカンティ(忍耐)と呼ぶものがある、本当の出家でいてください。

 

 今、忍耐が好きな人は誰もなく、いくら教えても、いくら忠告しても忍耐しません。だから怒るのが好きで、怒り返すのが好きです。

 

 ただ「怒る」は、初めに怒るという意味で、それに「怒り返す」は、他の人が怒ったら、自分は更に激しく怒り返します。忍耐がなければ怒り、そして怒り返します。

 

 ここで怒る習性は癖になるので、忍耐を思い出す必要がなく、何か変わったことがあると怒り、耳障りなことがあると怒り、時には怒るために、その人物に対して前もって考えておくことまであり、怒る準備ができているので、顔を見ただけ、声を聞いただけで腹を立てます。出家している間中、能力の限り忍耐の訓練をすれば非常に利益があり、習性が変わり、それを持ち帰って、家で在家として使うことができます。

 

 

怒りを追放する自制

 

 ここでダマ=自制を思い出し、智慧、あるいはこの場合はふさわしい知識を思い出します。パーリ(ブッダの言葉)には、『自制で怒りを断ち、智慧で怒りを断つ』とあります。良く分からなければ、「自制と智慧は同じ、あるいは同じ働きがある」と思ってください。パーリに同じ形、同じ文章があるからです。『ゴーダン ダメーン ウッチンテー=自制で怒りを断ちなさい。ゴーダン パンニャーヤ ウッチンテー=智慧で怒りを断ちなさい』。どちらが正しいしょうか。

 

 論理で見ればどちらかが誤りですが、実際には、自制は初めの部分で断ち、智慧はその後、あるいはいつでも断ちます。

 

 自制は自分を支配することで、世界中で Selfcontrol と言われている言葉に相当します。自分を管理できること、自分を支配できることをパーリ語でダマと言います。自分を律すことは、初めの部分で怒りを断ち、怒りが噴出しないよう心を律すことができるので、初めで断ちます。

 

 

怒りを追放する智慧

 

 ここで智慧で断つと言えば長く断ち、「根こそぎ」という状態で消滅させます。だから智慧はより深く、あるいは永遠に断つことができます。

 

 しかしそれには、智慧が間に合うようにする、別の道具に依存しなければならないので、サティと関わっています。サティにも関わります。サティが間に合うように思い出して自制を生じさせれば、そうすれば怒りを断つ知識が十分に働きます。

 

 だからこの三つ、自制と智慧とサティを連携させますが、価値があるのは、あるいは見事なのは智慧で、知ること、知るべきことを知る博識です。だからこの場合、怒りの場合の智慧は、怒りに関わるすべてを知ること、これが智慧です。

 

 

怒りを追放するサティ

 

 衝撃、あるいは躓くものがあると、サティが、「これは怒りになる。怒りの話だ」と気づき、すると自制が追って来て自制し、それから智慧がその話を断つ智慧を使って、智慧で怒りを本当に断つことができます。初めにダマで断つにはサティを使い、これが仲を取り持ち、その後サティは防護である別の働きをします。

 

 防護するものという意味で最高に価値があるサティという言葉を憶えておきます。サティほど防護するものは何もありません。だから怒りを防ぐには、怒りから護るにはサティで、あるいは何を護るにも、どの煩悩の流れも、サティで防がなければなりません。

 

 今怒りも煩悩の一つであり、この煩悩の流れが来ないようサティで防ぎ、来たら続かないように防ぐことができます。これは全部、サティで防ぐ話です。

 

 このタンマは十分に連携したがるので、自制、智慧、サティ。それらが良く連携するように使います。サティは思い出すことができ、自制は自制して止めておき、そして智慧は排除する働きをします。

 

 ここで智慧、つまり知識の話を少しします。仏教、あるいは仏教の教えで説かれている、ブッダバーシタで智慧と呼ぶ状態のものを知るなら、ブッダは最高に理由がある十分な意味を限定しています。私が観察した限りでは、論理的にも最高に理由があり、何の学問知識で話しても最高に理由があります。つまり、何かを知るなら、これらの項目で知らなければなりません。

 

一、それの状態を知り、二、それのアッサーダ(旨味)つまり魅力を知り、三はアーディナヴァ(害)つまりそれの劣悪さを知り、それからサムダヤ(原因)、つまりそれが生じる所を知り、そして消滅、つまりそれを維持できなくさせるものを知り、そして最後の項目ニッサラナ(出離)、つまり出口、それから脱出する方便を知ります。

 

 怒りの場合をもう一度見ても良いです。怒りにはどんな状態があるかは、たくさん話しました。

 ここで怒りを、どんな例や喩えがあるか種類別に分けると、それはすべてこの項目の中にあります。怒りにはどんな状態があるか、何種類か、何に例えるべきか、説明し、話し、講義するなら、それは怒りの状態の話です。

 

 アッサーダ(旨味)は、怒っている人にとって美味しいとお話したように、怒りの魅力です。

 アーディナヴァ(害)、それの低劣な害は、お話したような危険です。 

 

 怒りが生じるサムダヤ(集。原因)は、愚かさの威力で欲しがることで、愚かさに至れば、愚かさを通り越して無明に至り、それが遠すぎる原因で、近い原因は愚かさで欲しがり、望みどおりに得られないことです。

 

 怒りが維持できないこと、アッダンガマ(没滅)は、タイ語ではアッサドンコットと言い、アッサドンコットは「隠れる。沈む」です。私が今話しているアッサダンガマは欲しがることを断ってしまい、それは最高に正しく、愚かさによる願望を消滅させてしまいます。

 

 ニッサラナ(出口。出離)は怒りから出て、脱出させる道である方便。これが、私が今、「忍耐があり、自制があり、智慧があり、サティがある」と話しているもの、あるいは如意(常に思い出す)ダンマ集に集約できるものです。

 

 みなさん、如意という言葉を憶えておいてください。八正道は如意ダンマで、すべての問題解決に使います。滅苦をする、あるいは問題解決をするタンマを思い出せなかったら、とりあえず八正道を思い出します。ブッダは八正道を、すべての場合のニッサラナ(出口)と規定されています。

 

 例えば怒りなどそれだけのことをする時は、他の名前のタンマを選んで、直接病気と一致させることもできますが、それらのタンマは、すべて八正道に集約できます。忍耐、自制、智慧、サティと話しても、何でもすべて八正道に含まれています。

 

 だからニッサラナ(出口、出離)、怒りから出てしまう方便も、先ずサティがあり、それからダマ(自制)が何としても自分を支配し、そして智慧が切りつけて終らせ、消滅させます。

 

 ここでニッサラナは非常に広く、防衛、調整、変化、改善、何でも意味するので、他の名前のタンマが顔を出します。

 

 サティという言葉まで来ました。サティは広い意味があり、サティの大きな意味は防ぐことです。良く似ていて、そして支援する言葉、サンヴァラ(抑制防止すること。律義)があります。このサンヴァラは何種類もあり、サティサンヴァラ(念律義)が最も重要です。みなさん、サティによる慎み、慎重にするサティを持ってください。

 

 

怒りを追放する律義

 

 このサンヴァラという言葉も似たような意味で、防ぎます。サン-ヴァラ、防ぐ、あるいは良く警戒します。サンヴァラ。何でサンヴァラするかは、サティでします。サティを良く警戒する道具にし、四六時中サティで防御し、すべての挙措に自覚するサティがあれば、サティサンヴァラがあります。

 

 

怒りを追放するサッチャーディターナ(諦住処)

 

それを濃くするとサッチャ、あるいはアディターナというダンマになります。タイ語ではサッチャーディターンと言います。サタヤーディターン、あるいはサッチャーディターン、どちらでも書き方次第です。

 

サッチャーディターナは、必要に応じてサティを、自制を、何でも濃くします。つまり心をそのようにするサッチャ(誠。真)があるよう請願します。サッチャ(誠)、ダマ(自制)、カンティ(忍耐)、チャーガ(棄捨)がある在家のダンマと同じサッチャで、そのサッチャがこれからすることを本当にします。アディターナとは、安定しているという意味で、サッチャーディターナがあれば、これからすることに、これを捨てる行動に、サッチャで心を維持します。

 

 

怒りを追放するチャーガ(棄捨)

 

ここで更に安全にするには、チャーガ(棄捨)という非常に利益のあるタンマを思い出さなければなりません。

 

チャーガは、語句としては「捨てる」という意味ですが、私たちは布施をする話だけで知っています。このチャーガは、本当は、高いレベルでは「煩悩を捨てる」ことを意味します。煩悩を誰に布施しますか。捨てれば貰う人があるお金や持ち物と違って、誰も貰いません。だからこのような場合のチャーガは、捨てるべき機会に煩悩を捨てることを意味し、放っておけばどんどん抑圧し、強く押されれば爆発します。

 

だからチャーガは、自然に漏れるように作ってある穴やバルブのように、抑圧と言うまでにしないために、常に捨てる練習をし、常に赦し、あるいはどんな方法ででも常に捨てます。サティがあり、智慧があり、常に感覚があるようにすることも、常に捨てているのと同じで、穴を開けて常に悪いものを流出させ、その人の本性に貼りつかないように維持します。

 

 だからみなさん、物や何かを与える意味のチャーガより、捨てる意味のチャーガがなければなりません。そして常に煩悩が出て行く穴を開け、常に穴を作らなければなりません。

 

 本当に賢ければ、本当にいつでもでき、新聞を読むにも、穴があって煩悩が流れ出るように、本を読むにも穴があるようにします。つまり、いつでも少し煩悩を攻撃する知識を生じさせます。そうすれば座って何の念処に励むより、もっと大きな排泄口を開け、たくさん排出させ、残さないようにでき、穴を開けることで生活し、毎日毎晩、本性から悪を流れ出させます。

 

 

蓄積した怒りの随眠

 

 怒りは、怒ると「怒り」と言いますが、一度怒ると、怒りの随眠、パティカーヌサヤという美しい名前の捨て難いものを作ります。パティカーヌサヤ。一度怒ると、一度パティカーヌサヤが増え、しょっちゅう怒れば、怒る癖が増えるという意味です。その癖をアヌサヤ(随眠)と言い、漏れる用意ができています。それをアーサヴァ(漏)と言います。

 

 一度怒ればそれで終わりと理解してはいけません。それは非常に愚かです。怒る度に怒りの随眠が増え、怒る癖はどんどん濃くなるので、益々怒りっぽくなります。

 

 だから怒らないように注意すれば、煩悩に餌をやらないで餓死させるのと同じなので、それが一番良いです。よく怒れば、あるいは毎日毎日、しょっちゅう理由もなく簡単に怒るままにしていれば、抜き取れないほど厚くなり、抜き取るのが難しくなるので、「怒りは怒る習性を作り、自分に困難をもたらす」と、怒りを恐れます。

 

 この機会に話してしまうと、愛や何やらの話も同じで、一度すると、ラーガーヌサヤ(貪随眠)という随眠が増えます。あるいは一度愚かになると、アヴィッチャーヌサヤ(無明随眠)と呼ぶ愚かさの随眠が増えます。

 

 だからアヌサヤ(随眠)と呼ぶものは自分を困難にするもので、自分は怒りたくなくても、それが電光のように怒ってしまい、自分は愛したくなくても、それが電光のように愛してしまいます。これは随眠と呼ぶもののせいです。

 

 だから、「チャーガは援ける孔で、流出させ、流出させ、溜めて随眠にしない」と、この項目を思い出し、そして日常的に怒らない訓練をしなければなりません。

 

 

怒りを追放する慚愧

 

 話すなら、「まだ、他の道具もあります。サティがあれば、すべてのダンマを引き寄せて使うことができますが、私は関連のあるものだけにします」と、全部話してしまいます。そのタンマは、例えば慚と愧です。慚は自分自身に恥じること、愧は自分の善悪の感覚で恐れることで、その事に慚と愧があれば、怒ることはできません。

 

 今、私の(寺の)僧や沙弥は非常に厚顔で、誰かに腹を立てて恥じません。そして怒りの罪を恐れません。だから厚顔な僧、沙弥にならないでください。特に、この雨安居だけの一時的に出家した人は、怒ったら大いに後悔し、大いに恥じ、大いに恐れなさい。これが慚と愧です。

 

 古い僧を見習ってはいけません。古い僧が怒っても勝手に怒らせておき、新しい僧は真似しないで、大いに後悔し、大いに恥じなさい。怒った時はいつでも、僧であることは消滅し、つまり慚と愧がありません。慙と愧があれば、怒ることはあり得ません。

 

 だから頑丈な基礎、つまり慚と愧を造りなさい。そうすればどんな場合にも利益があり、戒があり、何でもたくさんあり、慙と愧に基礎があります。自分自身の心に悪を恥じ、自分自身の道理で悪を恐れます。基礎である慚と愧を思えば非常に怒りを防ぎ、怒るとびっくりして、そしてすぐに払い捨てることができます。

 

 

怒りを追放するカンマッサカター(業自性)

 

 ここで思わなければならないのは、カンマッサカターのようなタンマです。カンマッサカター=生き物は自分のカンマの結果があり、どんなカンマを作っても、そのカンマの結果を受け取ります。みなさんがほとんど毎夕唱えているアビナハパッチャヴェカナを、カンマッサカターと言います。

 

 生き物は、必ず自分のカンマの結果があります。これを思えば、続いて、「怒りもカンマの一つで、私はこのカンマの結果を、確実に受け取らなければならない」と思うことができ、恐れさせ、慙と愧があるようにします。

 

 

怒りを追放するマラナーヌサティ(死隨念)

 

 次に、死について思わなければならないのを、マラナサティ、あるいはマラナーヌッサティとも言います。

 今、世界中の人が死を忘れているので、死に意味がありません。つまり死を忘れているので、世界中が何でもいい加減にしています。

 

 「間もなく死ななければならない」と思えば、現在しているような間違った仕方はしません。死を思うことは、何かを犠牲にし、何かを受け入れ、何かを簡単にする助けになります。死を考えると挫けて何も手につかないのは、愚かな人だけです。

 

 自分に死が近づいていると考えるとどのようか、私は自分で試して見たことがあります。それは、挫けさせません。何かを早く、あるいは最高に善く終わらせたいと思い、少なくとも、まだたくさん残っている仕事を、死に間に合うように片付けたいと思います。挫けて、「何年もなく死んでしまうなら、何もしないで快適に寝ている方が良い」とは思いませんでした。

 

 だから、死ぬまで自分を律して、利益があることをすることができます。このような気持ちがあれば、あるいはこのように悟れば、死の一瞬まで、あるいは最後の一語を話し終わるまで、世界の利益、あるいは地域社会の利益になることをする機会を探求します。

 

 あるいは最高に善い行動、つまり最高に善い死に方を人に見せるのも、見た人たちの利益になります。これを「最後の一瞬まで利益を成す」と言うことができます。

 

 死を思うのは、このようでなければなりません。そうすれば手本に照らして正しいです。このように正しく思えば、怒りを非常に効果的に防ぐことができます。

 

 

怒りを追放するアッパマンニャーメッター(無限の慈)

 

 ここでお話しするべき最後の項目は、アッパマンニャーメッターと呼ぶダンマです。メッターとは慈しみ、つまり友情、善意で、アッパマンニャーメッターは無限の、限度のない、測ることができない、限度のない慈しみです。

 

 この言葉は古い言葉で、ブッダ以前から、ブッダの時代より前からあり、家を出て出家したすべての出家の重要な要旨でした。このタンマはタンマのすべてであり、その人がその当時の聖向、聖果、涅槃も何も知らなくても、死んだら梵天界に行くと言う、これがありました。

 

家を出て密林で暮らし、すべての生き物は、互いに慈しみを持つべきだと熟慮し、その結果すべての生き物に対して慈しみの心があり、そして行動しました。だから命がある生き物を苦しめず、いつでも慈しみの心を保持し、死んだら梵天界へ行き、そこをそのような教義を信じる人の涅槃と見なしました。

 

 ここで今みなさんはいろいろ十分勉強したので、愛し合うより善いことは何もないと、結論するべきです。つまり憎しみ合うより、愛し合わないより、あるいは無関心より善いです。

 

 この世界は今、非常に慈しみがなく、そして慈しみの話を軽蔑します。

 

 物質面で発展した人の現代式教育は、物質に迷わせ、物質の奴隷にさせるので、昔の慈しみの感覚、つまり限度のない慈しみが生じるのは困難です。慈しみの練習課題は蚊を打たない、アリを殺さない、そのようなことをしないことなどからあり、これは慈しみの基礎です。

 

 蚊を殺すことができなければ人を殺すことはできない、とこのようです。今アリを殺し、蚊を殺し、魚を殺し、カニを殺し、何でもこのように意味もなく殺すので、それほど難しくなく、あるいは段階的に、次第に簡単に人を殺せます。そして一度に何十万もの人を殺せる爆弾を、何の意味もなく落とします。そしてこれらのものに頼ろうとこれらを集めます。慈しみと呼ぶものは、現代にはありません。

 

 私が「慈しみ」と言うと、人は笑います。「限度のない」と言えば、目の前で笑って見せます。しかしタンマについて話すなら、他にありません。世界を危機から脱すよう助けるタンマは慈しみであり、身勝手で、無責任に他人を攻撃することではありません。

 

 怒りを閉じ込める倉庫を造る話としては、これらのタンマ、つまり忍耐、自制、智慧、サティ、律義、諦律義、棄捨、慙と愧、業自性、死隨念、最後に無限の慈しみがあるタンマで十分です。

 

 これらのタンマは、私が組み立てました。教科書のどこにもないと非難しないでください。自分で組んでも、ある教えは捨てていません。見やすくするためにこのように組み合わせました。大暴れして自分と他人を危険に曝さないよう怒りを閉じ込め、そして食べ物を与えなければ、徐々に腐って消滅します。

 

 まだ怒りはあっても、それの縁(食べ物)が無くなって消滅するまで出て来て大暴れさせないので、「倉庫に怒りを閉じ込める」と言います。

 

 

出家している時に倉庫を造る

 

 だから出家している間に、怒りがないことによる涼しい生活をたくさん味見する努力をしてください。そうすれば、怒りの火がない涼しさを好きになり、涼しい味を好きになります。そうすることは、怒らないために新たに反対の習性を作ることで、在家に戻っても怒りが少なくなり、あるいは今までより怒り難くなります。

 

 本当の出家なら怒りを全部倉庫に閉じ込め、同時に怒りを全部倉庫に閉じ込めたダンマの味見をします。だからどこにいようと、その間は梵天界です。自分が怒っていない時はいつでも、その間その人は梵天です。

 

 還俗したら、『ブラフマーティ マータピタロー=両親は家庭の中の梵天』とパーリ(ブッダの言葉である経)で言われているように、還俗して善い戸主になることは、怒らないことで成功します。

 

 その他にも家族を怒らない人にし、家族の怒りを少なくさせ、監督下にある人の怒りを少なくするので、直接あるいは間接に、すべての人間にとって利益があり、互いに幸福になります。

 

 そして家畜にとっても利益があり、犬猫はあまり叩かれず、どんぶりや茶わんやコップも、過失もないのに投げつけられて割れ、砕け散りません。しかし怒りで愚かになった人はできます。怒りがなければ、命や心がない物も、穏やかになります。例えればこのようです。

 

 述べたダンマの教えで本当に怒りがなくなれば、関連しているので他の煩悩も比例して少なくなります。すべての煩悩は関わりがあるので、この煩悩を支配すれば、あっちの煩悩に波及します。このように本気で、何としても怒りを支配すれば、家にいても、在家でも不還になることができます。

 

 知らなければ知ってしまってください。不還レベルの聖人に、在家でもなれると規定されています。しかし愛欲を味わうこと、あるいは怒りはまったくありません。つまり怒りと愛欲を断つことができます。家にいて、在家で、親を扶養し、何でもでき、そして家の中で不還にする結果があります。

怒らないことはこのようで、家は言いようもないほど穏やかになります。戸主が不還である家族は、筆舌で表せないほど穏やかな家族です。

 

 だから怒りを管理することに関心をもって、出家している間にたくさん怒りを閉じ込めて攻撃し、そして還俗したら、できるだけたくさんの利益を受け取ってください。

 

 時間も過ぎましたので、今日の講義を終わらせていただきます。

 


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