具足戒を乞う人への訓辞

 

 

 1972年3月19日

 

 今みなさんは出家することを望み、ブッダ、プラタム、僧を帰依するものとして尊重すると表明して、沙弥として出家させてくださいと、直接「沙弥にしてください」という意味のパーリ語を述べ、戒を乞う言葉を述べました。「涅槃されて久しくても、帰依するものとしてプラタム、僧と共に、ブッダに至らせてください」という要旨がある「エーサーハン バンテー スチラパリニップタムピ」などの請願の言葉を三回述べ、それから「慈悲でこの私に黄衣を与え、沙弥にしてください」と乞いました。

 

みなさんが述べた言葉には、このような要旨があります。先ほど口先だけで言っていたら、今、意味を知って、心の中を真実にしてください。自分がそう望んで出家を願ったと、心でそう思い、口で言い、そして本気でそう感じなければなりません。

 

 

(1) 次に、みなさんがお願いした「バップチャー」という言葉を、正しく、そして適度に知らなければなりません。だから、バップチャー(沙弥として出家すること)とは何かという話をします。

 

 バップチャーは、乞われるものである時は、パーリ語でパッバジャムと言い、普通名詞ではパッバチャーで、「すっかり行く」、あるいは「すべて避ける」という意味です。タイ語になると「ブアット」になりましたが、「すっかり行く」「すべて避ける」という意味です。何をすべて避けるのか、つまり初めに在家のものをすべて避け、黄衣をまとった後は、在家のようなものは何もないと知ってください。

 

 着る物、これは見えています。食住、話すこと、考えること、夢や望み、何かを望むことなど、すべて在家のようなものを止めなければなりません。そうすればバップチャーという言葉と一致します。そしてそれが、みなさんが望んだことですね。

 

 「すっかり行く」「すべて避ける」は、在家であることを避けるだけでなく、ブッダが避けるよう規定されたいろんな教条で避けなければなりません。だから出家することは、当然出家を望んでこれを遵守する人を苦しめることもあります。それはブッダの直接の目的で、ブッダは、「梵行は研き落とすこと」と規定されたからです。

 

 出家することは研き落とすことでなければなりません。梵行は研き落とすことでなければなりません。蘊に、体、言葉、心の本性にあるべきでないものを研き落とさなければなりません。ほとんどは正しくないこと、誤り、悪、粘っこい煩悩を、削り落とさなければなりません。削り落とす時は、多少は痛みがあります。教条を完璧に遵守するには忍耐しなければならず、以前のように、したいようにできないものもあります。

 

 例えば時間外に食べ物を食べることはできず、お腹が空いても空いたままで、映画を見に行きたくてもできません。これは、そのように楽しいことに慣れている人にとって、痛みがあります。そのようにすれば出家でなく、梵行でないので、このようにしなければなりません。ブッダが明確に規定されたようにすれば出家であり、梵行です。

 

 出家したら、忍耐しなければなりません。あるいは忍耐をすればできますが、そうしなければできません。古疵があるので、梵行は常に研き落とすことと言います。悪性腫瘍は削り落とさなければなりません。血が出るまで削り落とせば、新しい傷になり、薬を使うことができます。これは昔式の治療法で、彼らはこうしました。必ず痛みがありますが、犠牲にして忍耐しなければなりません。そうしなければ出家したことにならず、梵行になりません。何度儀式をしても、なれません。

 

 儀式はあっという間に終わってしまいますが、出家、梵行は、その後ずっと続けなければならず、そして本当にしなければならず、そうすれは出家になれます。出家することは儀式でなく、本当にすることです。

 

 まとめると、出家とはすべてを避けること、在家であることが終り、削り落とすことなので、忍耐で仏教の梵行の行動をします。

 

 これが、みなさんが何も条件をつけず、直接選んだ出家で、確実に望む、確実にするということです。確実でなければ、今止めてもいいです。家へ戻ってもいいです。しかしみなさんは、このように宣誓しました。

 

 

(2) 次に、出家することの利益・功徳は何か、何故みなさんはそれほど好きなのか、出家することにどんな利益があると見て頼みに来て話したのかを知るべきです。

 

 出家することの功徳は極めて多く、話せばキリがないと主張させていただきます。昔のアーチャンは、「空全体を紙にし、シネル山を筆にし、地面を墨にして海水で墨を摺って空いっぱいに書いても、出家することの功徳は書ききれない」と言いました。 これは詳細に言いましたが、種類で言えば、たった三種類にまとめることができます。

 

 1.出家を望んだ人が受け取る功徳。これが一つ。

 2.親を初め、すべての親戚が受け取る功徳。これが一つ。

 3.人間同朋、世界のすべての生き物が受け取る功徳。これが一つです。

 

 良く聞いてください。出家を望んだ人であるみなさんと、すべての親戚、出家することの善を共有する人全員。出家することの功徳は述べたように三種類あります。出家した子や孫を支援して、この功徳を受け取ってください。

 

 時には、親の愚かさが梵行の障害になることもあり、たくさんあります。在家の親戚が妨害しに来て家へ招き、砂糖水を飲ませ、何やかやしてやるのは何も利益がなく、話にならないと言ってしまうことができます。このようにするなら、子や孫を出家させる支援でなく、そして三種類の功徳を簡単に受け取ることはできません。

 

 個人の部分と言う一番の功徳は、新しく、そして最高に善い何を受け取らなければならないでしょうか。それは、本当に出家することです。それを、「本当に出家させ、本当に学習させ、本当に実践させ、本当に結果を得させる」と言い、これを、「本当に出家して、出家している間に本当に結果を得る」と言います。これはアーチャンたちの話で、その後教えることで支援ができます。

 

 本当にそのようにすれば、その人の心の中に変化が現れ、清潔、明るさ、静かさなどがあり、これらの新しい味を味わい、強く安定した心の人になり、身体的、精神的能力が以前より増し、それまで知らなかったあれもこれも、たくさん知ります。

 

 これを、その人が手に入れるべき最高に善いもの、つまり人を苦から脱出させるプラタム(教え)を受け取ると言います。個人的な利益はこのようなので、その人に受け取ってもらいます。

 

 

 二番目の功徳は、両親などすべての親戚が受け取るべき功徳です。これも、子が本当に出家し、本当に学習し、本当に実践し、本当に結果を得、あるいは本当に他人に教えれば、最高に善いです。子供がこのように本当に出家し、本当に学習すれば、両親は歓喜し、この宗教のダンマに更に満足します。

 

 みなさんは、子が出家した途端に両親は喜ぶので、両親を前よりも仏教の親戚にするため出家したと捉えてください。一方で、「子が出家した途端に、両親はつまらないことをしてはいけない」と言います。子が出家したことはいろんなことを生じさせ、例えば両親の信仰心が増し仏教に安定するなど、両親を以前より、ブッダ、プラタム(教え)、僧に近くするので、ますます仏教と親戚になると言います。

 

 昔からこういう言葉を使いました。子が出家すると、両親は益々仏教の親戚になると。だからこの功徳は、両親などすべての親戚が本当に受け取ってください。

 

 出家させることは、親側にとっての責任でもあります。子が本当に出家し、本当に学習し、本当に実践すれば、その途端両親の仏教と親戚であることが増えるべきで、出家した人自身も、両親への恩返しと捉えるべきです。だからみなさん、本当に出家し、本当に学習しなければなりません。そうすれば両親への結果があります。

 

 両親への恩返しは、みなさん、最高に重要なことと捉えてください。なぜ最高かは、命は両親から貰ったからです。今の親は、「自分は両親から生まれたので、両親を尊敬しなければならない。私は何でも親に譲ることができる」と説明して、子が理解できるように教えません。昔はこのように教えました。

 

 子は、両親を至高の人のように尊敬しなければなりません。ブッダは「親は子の阿羅漢であり、子の梵天であり、最初の先生」と言われています。これはブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)です。両親は阿羅漢のように最高の立場にある人という意味です。

 

 子は、訳もなく両親から何かを要求する現代の子のように、何かの権利を要求することはできません。正しくは、親が子に要求する側であるべきです。親は利益になること、善だけしか要求せず、それ以上は欲しがらないからです。

 

 みなさんは親に反論しないでください。親に抵抗してはいけません。親が望むことは何でも、望んだようにしてください。「自分は自由だ。民主主義だ」と考えてはいけません。それは現代の愚かな人の考えで、ブッダの考えではありません。

 

 私たちは自分で生まれることはできないので、必ず両親から生まれなければなりません。木の穴から生まれることはできないので、両親から生まれなければなりません。命は百パーセント両親からもらいました。そうでなければ真実と違い、違いは愚かさによる違いです。

 

 みなさん。ブッダは「両親は子にとって阿羅漢であり、子にとって最高の人であり、梵天である」と言われていると、憶えておいてください。両親以上に子に慈悲をくれる人は誰もいません。両親は子にとって最初の先生で、特に母親はこの世で目を開けた時から、子に教えます。

 

 乳を飲むことから、子が何でもできるよう、座れるよう、立てるよう、ほら、母親が最初の先生です。ブッダは「プッバーチャリヨー=最初の先生」と言われました。このようです。

 

 それはふさわしいです。子が親の気持ちに背く理由は何もありません。仮に両親が、みなさんが賛同しない要求をしても、みなさんは従うのが適切です。みなさんは百パーセント両親のものであり、そして子に、するべきでないことをするよう要求する親はどこにもいないからです。

 

 だから両親を信頼して良いです。一致しない時は、話し合ってもいいです。しかし要求する権利を行使してはいけません。あるいは両親を支配しないでください。そうすれば本当の子供です。

 

 もう一つ知るべきは、昔のインドの考えでは、子は両親を地獄から引き上げる義務があります。この地獄は子がない人のためにあり、子がない夫婦はこの地獄に落ちますが、子がいれば両親はこの地獄、つまり子がない人の地獄に落ちません。どのような焦燥、悲しみ、そして遺憾があるか、子を持ったことがない人に訊いて見てください。それが子のない人の地獄です。

 

 ここで子ができると、子は両親をその地獄から引き上げてくれます。これが、このような要旨のある目的です。しかし人々は、どの地獄か知りませんが、地獄は地下にあると飛躍した言い方をします。あの地獄、この地獄と呼ぶものは、両親は落ちる必要がありません。両親を地獄から引き上げる子がいるからです。

 

 これもいいです。こういうのもいいです。しかしまだ遠く、今ここでなければなりません。子は最高に善く振る舞って、両親を安心させてください。そうすれば両親を今ここで、本当の地獄から引き上げることができます。

 

 みなさん。本当に出家し、本当に勉強し、本当に実践し、本当の結果を出してください。そうすれは両親を地獄から、つまりいろんな心配や焦燥から引き上げることができます。どうぞ、ブッダの望みどおり、このようにしてください。ブッダの律にはこのような望みがあります。これを、両親を初めすべての親戚友人が受け取る功徳と言います。

 

 

 三番目の功徳は、人間も天人も、全世界のすべての生き物、そして宗教も受け取る功徳です。これは関連があり、すべての生き物というものと宗教は関連があります。世界にまだ宗教があれば、すべての生き物は安全で、すべての生き物が安全なのは、世界に宗教があるからです。だからみなさんが、世界に宗教があるようにすることは、すべての生き物に利益を成すことです。

 

 みなさん。仏教を伝承するために出家なさい。仏教を消滅させてはいけません。仏教を消滅させる悪や過ちをしてはいけません。みなさんの出家が何日でもなくても、何か月でもなくても、出家している間は仏教を伝承することでなければなりません。正しいこと、美しい善だけを行えば、それは仏教を伝承することです。

 

 この宗教が消滅せずに寿命があることができるのは、

 

①出家する人、学ぶ人がいる。

②正しく実践する人がいる。

③実践の結果を受け取る人がいるからです。全部をパーリ語で、パリヤッティ(学習)、パティバッティ(実践)、パティウェーダ(実践を結果を受け取る)と言います。

 

 パリヤッティは学習で、パティバッティは実践で、パティウェーダは実践の結果を受け取ることです。必ずパリヤッティ、パティバッティ、パティウェーダの三つがなければならず、三つがあれば、「宗教はまだある」と言います。だから出家したらパリヤッティ、勉強をし、それからパティバッティ、実践して体と言葉と心を正しくし、そしてパティヴェーダで実践にふさわしい実践の結果を受け取ります。

 

 このようにすれば、この行動は仏教の寿命を延ばすと言います。一日出家すれば一日、二日出家すれば二日、三か月出家すれば三か月、出家の義務として仏教の命を延ばします。

 

 還俗して在家になったら、在家式に仏教を伝承しますが、出家者とは違います。僧でも沙弥でも、出家すれば直接仏教を伝承すること、あるいはそれ以上で、パリヤッティ、パティバッティ、パティウェーダで伝承します。これが本当の仏教の伝承です。在家は伝承を支援する人で、例えば四依を布施して生活できるよう、学習や実践ができるようにします。

 

 しかし今、みなさんは出家したので、出家者として仏教を伝承しなければなりません。沙弥として出家したみなさんは、何としても善い沙弥にならなければなりません。本当に出家し、本当に学び、本当に実践して、本当の結果を受け取れば、仏教の伝承があるので、世界にまだ宗教があります。

 

 少なくともみなさんは、亡くなった人の恩を思わなければなりません。その人たちのお蔭で、今日まで仏教が伝承されて来たのですから。それらの人々が伝承して来なければ仏教は消滅していて、みなさんは出家できませんでした。私も出家できず、誰も出家できません。

 

 だから、今日まで仏教を伝承してくれた、亡くなった人たちに感謝するべきで、みなさんも力を合わせて伝承しなければなりません。三か月の出家は三か月伝承し、二か月の出家は二か月伝承し、還俗したら次の人に委ねて、途絶えさせてはいけません。

 

 宗教、特に仏教が、ブッダから数えれば二千五百年余り消滅せずに伝承されているのは、不思議です。だから私たちの時代で途絶えて消滅しないよう、注意し、全員で力を合わせて仏教の寿命を延ばさなければなりません。世界に宗教があれば世界は沈没せず、燃え上がりもせず、何ともありません。どの宗教も多少はこのような利益があります。

 

私たちの仏教はこのようで、このような目的で、このようにできると、目一杯見えています。だから、仏教の寿命を延ばすため、天人も人間も、すべての生き物の利益のために本当に出家し、本当に学習し、本当に実践し、本当に結果を得てください。これが、すべての生き物と、仏教が受け取る三番目の功徳です。

 

 一番目の功徳は自分自身に、二番目の功徳は、みなさんは出家して両親への恩返しをするので、両親などすべての親族に、三番目の功徳は、過去も未来も現在も、世界中すべての生き物に。これが出家することの功徳です。本当の出家なら、これほど得ることができます。

 

 このような功徳を見れば、何としても功徳を得るために犠牲と忍耐する気力になります。この梵行が涙を流すほど削っても、涙で梵行の行動受け入れます。これは、ブッダがそのように言われている言葉です。涙を流さなければならなくても、変更してはいけません。こういうのを人は、「涙で梵行をする」と言います。

 

 涙を流すほどでなくても善い決心をすれば順調になるので、本気で決意して欲しいだけです。これを出家することの功徳と言います。つまり避けるべきものをすべて避け、梵行の行動をすれば、この三つの功徳が得られます。

 

 

(3) 次に、もう一つ、常に心で明らかなものとして、知っておいていただきたいのは、「出家することの基盤は何か」です。周囲を見ると、樹木の基盤は大地で、大地がなければ樹木は生きられませんが、今大地はこのようにしっかりしているので樹木は生きていられ、大地は樹木の基盤と見えます。出家することも樹木と同じで、出家にも善い土台、善い基盤がなければならず、人はこれをブッダ(仏)、プラタム(法)、僧と言います。

 

 みなさんは、自分自身の中に、自分が出家している基盤であるブッダ、プラタム、僧がなければなりません。ここでのブッダ、プラタム、僧とは、本当のブッダ、プラタム、僧という意味で、ブッダの身体、あるいは外面だけではありません。「涅槃して久しい」と言うように、外部のものは消えてしまいましたが、本当のブッダはまだいます。

 

 「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える」。ブッダはこのように言われました。今、タンマはまだあるので、タンマが見える人はブッダが見え、タンマが見えれば、必ず心にタンマがあります。心にあるタンマとは、心の清潔、明るさ、静かさで、それがタンマです。

 

 タンマが見える人はブッダが見え、プラタムも見え、僧も見えます。だから、いつでも心に清潔、明るさ、静かさがあるように努力なさい。それが、いつでもブッダ、プラタム、僧がいることです。

 

 ブッダの本質は、清潔、明るさ、静かさであり、プラタムの本質も清潔、明るさ、静かさであり、僧の本質も、ブッダと同じ清潔、明るさ、静かさなので、みなさんに清潔、明るさ、静かさがあれば、心にブッダ、プラタム、僧があります。

 

 先ほどみなさんは、「この出家はブッダ、プラタム、僧に捧げます」と言って、「出家させてください」とお願いしました。だからみなさんは、供養する物、つまり本当の意味のブッダ、プラタム、僧が、心に本当になければなりません。これは、出家と呼ばれるものの、盤石で安定した基礎になります。

 

 だからみなさん、ブッダ、プラタム、僧、つまり清潔、明るさ、静かさについて考えなければなりません。出家している間、この三つの状態を供えようとすれば基盤があり、そして良い大地と良い水と良い空気、良い物がある樹木が成長繁茂するように、この出家生活も成長発展します。

 

 「私の出家生活は、ブッダ、プラタム、僧を供養し、ブッダ、プラタム、僧の美徳を基盤とする」と、知っておいてください。そして出家としての梵行行動が、必ずしも涙を流すほどである必要はありませんが、必ず涙を流さなければならないか、あるいはそれ以上の何かになる、複雑困難な方向へ歪んだ仕方だけは避けます。

 

 みなさんが願った出家することは何か、出家することの功徳は何か、そしてどんな方法ですれば盤石な基盤があり、発展成長するか、今知ってしまってください。今までお話したように知れば、出家するにふさわしいと見なします。心配は、「儀式をしたから出家した」と、寝言を言うことだけです。

 

 そのようなのは儀式だけの出家なので、十分ではありません。儀式だけにしないためには、本当にしなければならず、本当にするには、「それはこのようだ」と、心で感じなければなりません。出家を求めている間中、常に心に常自覚があり、そして沙弥になり、決められた期間中、出家生活をします。これが、出家することに関した話です。

 

 

(4) 次は最初のレベル、あるいは最も初歩の業処(念処)、あるいは「根本業処」という言い方もある規則についてです。これは髪、体毛、爪、歯、皮膚を知るように教える話で、五番目に皮膚があるので、「皮五業処」という呼び方もありますが、同じものです。この業処を教えるのは、初めの段階でみなさんの心を黄衣を着るにふさわしく染めるためです。だから良くお聞きなさい。

 

 まだ何時間でもないつい今しがたまで、みなさんは在家でしたが、今は沙弥になり、出家者の黄衣をまとおうとしています。阿羅漢の勝旗をこの身にまとうには、ふさわしさがなければなりません。そうでなければ、得るものはなく、失うものがあります。

 

 在家には、大きな問題として煩悩の基盤である美しさ、綺麗さに関した愚かさがあり、その種の心を出家生活に持ち込むことはできないので、美しさ、綺麗さに関わる愚かさを、初めに捨てなければなりません。美しさ、綺麗さは、貪りなどの煩悩の基盤だからです。

 

 ここでこれを理解して、その種の考えを何としても払い捨てる話は幾つもありません。それはこれから話すこと、「ケーサー ローマー ナカー ダンター タチョー」です。みなさんは、頭上にある髪の美しさに迷って、私の髪は美しいと他人を騙して自分を好きにさせるために、いろんなおしゃれをしたことがあります。それは、煩悩が厚い凡人にとっては正しいですが、智慧のある人は、本当はそれほどそれに夢中になって大切にするべきでないと見ます。

 

 ブッダは不浄想で、それらのものの醜さを見るよう教えられています。

 

一番目は髪の話で、パーリ語で「ケーサー」と言います。形は醜い長い線で、色は黒や白や灰色で醜く、臭いも厭わしい臭いで、生えて伸びる自然も醜く、血やリンパ液で髪を営養している頭皮も醜く、埃を受け止めるために頭にあります。このように五つの醜さを見るだけで十分です。

 

 髪は形も醜く、色艶も醜く、臭いも厭わしく、生えるのも伸びるのも嫌らしく、働きも厭わしいので、美しいと迷うことはできません。以前、つい数時間前まで美しいと迷っていたものを、今は心を変えるために、黄衣にふさわしくするために捨てなければなりません。

 

二番目は体毛で、パーリ語で「ローマー」と言います。似ているので髪と同じように熟慮します。違うのは体中にあって細いだけなので、髪を熟慮したように熟慮します。細かい体毛が被っている体全体を、普通に美しいと見てはいけないと言います。

 

 三番目は爪で、パーリ語で「ナカー」と言います。形態は醜く、色も醜く、臭いも嫌らしく、生える場所、伸びる場所も醜く、働きは掘る、えぐり出す、掻くなど、これも厭わしいです。爪はこのように厭わしいので、爪が美しくなれと言い、絶えず爪は美しいと見るのは愚かです。そしてその種の愚かさは、黄衣をまとう前に無くさなければなりません。

 

 四番目は口の中の歯で、パーリ語で「ダンター」と言います。これは一番見やすいです。歯の形態は醜く、どれも醜く、色は骨のようで、これも醜く、自然の臭いも厭わしく、生える場所、つまり歯茎に生えますが、これも醜く、噛み潰す働きも厭わしいです。だからみなさんは、歯は美しいと言う愚かな考えで、「この人の歯は美しい、あの人の歯は美しい」と見る必要はありません。この愚かさは、黄衣をまとう前に無くさなければなりません。

 

 五番目は皮膚で、パーリ語で「タチョー」と言います。体を覆っている皮膚を、「本当は形も醜く、色も醜く、臭いも厭わしく、ある場所も醜く、それの働きも嫌らしく、全身で埃を受け、熱を取り入れ、あるいは体内の汚物を排出する」と、真実のままに正しく熟慮してください。美しい、しなやかだ、良い香りだと見るのは愚かで、この愚かさは、黄衣をまとう前に無くさなければなりません。

 

 もう一つ、皮に関した特別なことは、他のすべてのものより最高に煩悩を生じさせる「皮膚の接触」の基盤であることで、これは危険です。皮膚は醜くて危険です。迷って「美しい。良い香り。愛らしい」と言うのは愚かです。この愚かさも、黄衣をまとう前に無くさなければなりません。だからみなさんは、自分が言った言葉に心を配り、心を黄衣をまとうにふさわしく変化させなさい。

 

 これが、ブッダが言われている皮五業処、あるいは根本業処で、これから黄衣をまとうみなさんに教える規律があります。みんなを失望させないで、煩悩と戦うためにこの知識を掌握します。みなさんにこの知識があれば、涙で梵行をする必要はありません。

 

 つまりブッダが下さったこの種の武器が掌中にあれば、涙を流すほど困難ではありません。これを、「沙弥になる人の心を、黄衣をまとうにふさわしくするために、皮五業処を教える」と言います。みなさん。今から、心をこのように正しくなさい。

 

 


 

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