勤めと、伝統的実践方

 

 

 

1979年2月4日

 

 先ほどしたような勤めの様式を、「伝統大宗派式」と言い、何百年も続いていて、千年になるかどうかは言い難いですが、少なくともスコータイ時代から八百年にはなります。スリランカでも使われています。タイから伝わり、彼らはタイから受け入れ、タイが教えました。

 

 伝統大宗派式の勤めは、スリランカにはたくさんあります。少なくともサヤーム派には。スリランカのサンガにはサヤーム派があり、タイのテーラ(長老)団が樹立しました。私たちはこの形の勤めをし、出家する時もこの方式でします。私自身も、ウカーサ式で出家しました。

 

 次に、比丘と沙弥のみなさんに、勤めをすることにはどんな意味があるか、知ってほしいと思います。

 

 ウカーサ ワンターミ バンテーなどは、敬意を表し、

 サッパム アパラータム カマタ メ パンテーなどは、お互いに詫び

 マヤー カタム プンヨム サーミナー アヌモーッティタッパムなどは、徳の部分を交換し合います。

 

 これが三つの意味です。

 

 一つは、敬意を表すべき時に敬意を表すこと。

 

 二つ目は、詫び、許します。まだ凡人である私たちの通常は当然過ちがあり、誤ったと感じたら詫びなければならず、そして詫びられたら、堪忍しなければなりません。相手が謝ったら、堪忍しなければならないと憶えておいてください。

 

 三つ目は、徳の部分を交換し合います。「私が作った徳を、あなたに分けさせてください。あなたが作った徳を私にも分けて、随喜させてください」。これが三つ目です。

 

 知っていただきたいのは、私たちの世界は、この三つの勤めの要旨で暮らすことができることです。今世界はどんどん道徳が失われ、平和がありませんが、この種の昔の大宗派式の勤めの重要な要旨である実践行動で解決できます。

 

 一番の、パーリ(ブッダの言葉)で「ウカーサ ヴァンターミ バンテー」と言う、敬意を表すべき時に敬意を表すことは、この世界には尊敬がありません。欧米の国々は、大統領や大臣を名前で呼び、呼び捨てにし、おまけに「野郎」まで付け足します。敬称で呼ぶことも、敬語で話すことも、尊敬で何かすることもありません。

 

タイも西欧の真似をしているので、訓辞・忠告、あるいは敬うべき順に敬う行動がありません。だから尊敬しないで軽蔑し、見下し、踏みつけます。尊敬する人がないので非常に混乱し、ブッダが破滅の道と言われている、尊敬することがない暮らしになります。

 

 尊敬する人がなく平等に暮らすことは、パーリ(ブッダの言葉)で「トゥッコー サマーンサムヴァーソー」と言うように、破滅の道です。紀律として尊敬することがあるべきで、両親や先生から治世者、上は国王まで順に敬わなければなりません。

 

 そうすれば、これよりずっと善く、競い合い奪い合って仲違いし、尊敬する人がいないよりずっと善いです。だから若い比丘や沙弥は、尊敬するべき人を尊敬する人になるために、勤めを行うことを遵守してください。

 

  ここで、それは尊敬すべきでないためにあるのではないと、教えてしまいたいと思います。少なくとも人間同士、沙弥同士として尊敬しなければならず、何であれ、「私も人間、彼も人間」と、人間である権利を尊重することを知らなければなりません。この系統でない人でも必ず善があるので、誰でも善いところを尊敬できます。不善、悪は構わないで、関心を持たないで、その人にも善は必ず多少はあるので、誰でも尊敬できます。

 

 伝統習慣を守る人は、すれ違えば同時に合掌して拝んでしまいます。誰が先に拝むか、待つ必要はありません。ヒンドゥーの最高位の僧であるサワーミーたちは、顔が見えれば同時に合掌して拝み、どちらが先で、どちらが後に拝んだか分かりません。このようなのが習性になっています。彼らは、尊敬があれば、傲慢による依怙地、邪見、何でもたくさん防ぐことができると言います。

 

 私たちが喧嘩別れをし、危害を加え合うのは、この性質、恭順謙譲に欠けるからです。どうぞ、恭順を教える仏教のたくさんの教えで、恭順でいてください。私が庶民に随喜を施す時も、その度に「アピワータナシーリッサ ニッチャン ウッターパチャージノー」、いつでも尊敬し、恭順でいなさいと教えます。

 

 これを、「基礎としてなければならない基礎である徳行」と言います。どんな集団でも尊敬し合っていられれば快適で、愛し合い睦み合い、団結できます。これを一番目として憶えておいてください。

 

 二番目の「サッパム アパラータム カマタ メ パンテー」などは、堪忍し合うことです。これは当たり前です。私たちはまだ凡人なので、必ず煩悩があります。ハッキリ言えば、気に入らない、喜べない原因である煩悩が悪い考えをさせ、悪いことを言わせ、悪い行動をさせるので、してしまって気づいたらすぐに謝り、詫びられた人は堪忍しなければなりません。

 

 ブッダは、「恨みを制えなさい。恨みは保持しないことで抑えられる」と言われています。だから、詫びたこと、堪忍したことを喜んでください。ほんの少しの間違いでも、あるいは間違ったことをした疑念があったら、詫びる方が良いです。そして詫びられた時は堪忍します。それが一番善いです。そうすれば、再び衝突し合う前の善い状態に戻ります。

 

 まだ聞いたことがない若い比丘や沙弥は、「堪忍すること、詫びることはアリヤウィナヤであり、聖人の伝統習慣」と、聞いてしまってください。聖人の方々はパティパダー(道)にして伝えました。だからみなさん、いつでも詫びる準備がある心でいてください。

 

 つまり、体と言葉と心で誰かに無礼を働かないよう注意深くし、無礼を働いてしまったらすぐに謝り、謝って負けた側になり、間違いを認め、そして詫びます。そして詫びられた人は、愛で、慈しみで、悲で、急いで罪を許し、「誰でも、今後長い間、生老病死の友でなければならない」と捉えます。ほら、謝ることと堪忍することで成功します。

 

 三番目は、「マヤー カタム プンヨム サーミナー アヌモッティタッパム」などの徳の交換は、「私が成した徳を随喜してください。あなたが成した徳も私にください」。これは、「互いに慈悲で見て喜び、満足し、歓喜し、徳や善の部分は与え合って交換し合いなさい」という意味です。

 

 昔はこの言葉を良く聞きましたが、現代はほとんど聞かなくなってしまいました。私が子供の頃、六、七十年前は、あちこちで聞きました。「母さんに徳を上げる」。「兄さんに徳を上げる」。「弟に徳をやる」。「子や孫に徳をやる」。今はあまり聞かなくなってしまいました。どんな理由かは、自分で考えてください。

 

 心が非常に変わったので、誰の徳も欲しがらず、誰にも徳を上げたくないのかもしれません。慈悲や仁愛がどんどん無くなっているので、虐め合いを見ることが、どんどん増えています。心が、他人を愛す方へ傾かないからです。

 

 どうぞ善を分け与えてください。物でもいいし、徳と呼ぶ恩恵、名(抽象)の物でもいいです。何かあったら互いに分け合いなさい。何か善いことがあったら互いに分け合い、徳や善を分け合います。

 

 もう一度タイ語で、「私が成した何かの徳、何かの善を、梵行仲間全員に分配させてください。そして梵行仲間全員が成した何らかの徳は、最高に随喜させてください」と言わせていただきます。そして、みなさんはこれから先もずっと、利益のため、教祖の宗教の維持のために、一緒にして行かなければならい義務があるよう望みます。

 

 これが、出家したばかりでまだ聞いたことがない若い比丘、沙弥に話したい話の一番目です。勤めをする項目は三項あると関心を持ってください。

 

つまり、敬意を表さなければならない時に敬意を表し、罪を説明しなければならない時に詫び、赦さなければならない時に赦し、そして徳の部分の交換をすべき時には、徳の部分の交換をします。

 

これは各人が穏やかな幸福で暮らすためのタンマであるばかりでなく、世界中を穏やかな幸福にするタンマでもあります。世界中がこの三つの教えを守ってください。そうすれば世界は静かになり、穏やかで平和になります。

 

つまり怒り、憎悪、妬み嫉み、加害する考えや復讐する考えが心に粘りついていないので、すべてが終わります。だから生涯行動規範にしてください。まだ比丘の性でいてもこの三項を実践し、還俗してもこの三項を実践してください。つまり家庭でも互いに尊敬し合い、いつでも謝り、堪忍し合い、そして徳の部分、つまり善を交換します。

 

二つ目は仏教の維持、繁栄、安定のために、みなさんは助け合って力の限りしなければならないという話に言及したいと思います。私たちは誰に教えられなくても、「たとえば僧が減ってお寺にあまりいないことでも、教育が十分でなくて国民に道徳を教えることができないことでも、世界の人々の道徳が低くなっている」と、みなさん自身で見ることができます。

 

これは政府から、あるいは公的に、僧に学校で道徳を教えてほしいと助力を求められても、教えられる僧が見つからないという問題になって現れています。だからみなさん、教えられる僧がいるように、見つかるように改善してください。そしてみなさん、大衆に尊敬される人であるような生き方をしてください。

 

以前大衆はまだ何もなかったので僧を尊敬しましたが、今大衆は進歩して僧を越え、僧は時代遅れになったので、僧を尊敬しません。僧、つまりみなさんをあまり尊敬しません。だからみなさんは努力して自分を向上させ、自分を庶民より上にしなければなりません。そうすれば庶民が尊敬するので、維持できます。

 

三番目は、私の比丘と沙弥はどのように安定できるか、という話をしたいと思います。

 

今年は話す機会をいただきます。煩さかったらお許しいただき、しっかり聞いてください。非常に関心があると思います。それは、私の僧が何年でもいられるか、あるいは出安居までもたずに慌てて還俗するかです。これは増えています。出家して、出安居までもたずに還俗したがり、還俗させなくても還俗します。そして雨安居に入らない出家が好まれて増え、十五日間、七日間の出家が増えています。雨安居になると出家しないで、出家する人が減り、あまりいられません。

 

 あまり長くいられない項ことを判断するために、これらの問題を改革する権力がある、私と同年代の重要人物、住職、僧町長、あるいは僧何長でもお招きして、私の考えをお聞かせしました。私は、支配してどうにかする権力がないので意見を差し上げ、賛同すれば実施するかもしれないからです。

 

 仏教の僧を落ち着かせる伝統習慣はあります。つまり、みなさんが迷信と捉えがちの、昔からの、昔風の伝統習慣です。迷信は、霊験、あるいは神聖なものと反対で、霊験と神聖さは本当にさせ、本当に実践させ、本気にさせてくれるので、適度に霊験と神聖さがあるべきですが、騙され易い必要はありません。

 

 騙され易いのは、理解できないから、何も知らないから騙されます。だから「出家した人は毎日自分の仕事を実践する」と熟慮し直して、みなさんが迷信と見がちな、先生の先生の先生がして来たような方式に改めてください。

 

 初めに一つ一つの項目の説明をし、それから熟慮判断させていただきます。出家生活には必ず勤めがあり、例えばお寺に来てヤターパッチャヤンを勉強しました。今はもうしないように見えます。「お寺に住んだらヤターパッチャヤンを勉強しなければならない」は、すっかり止めてしまったと理解します。

 

 お寺に来たばかりの頃、初めて勉強したのは「ヤターパッチャヤン」で、ヤターパッチャヤンは、仏教の本当の本物の要旨です。

 

 「タートゥマッタメーウェータン」は、それは自然のタートゥにすぎない。「ニッサトー ニッチウォー スンヨー」は、動物でもなく、人でもなく、自分としての意味はない。つまりこの人も、この人がまとっている衣も、食べる食べ物も、住んでいる住まいも、飲む薬も、これらを消費する人も、それは動物ではなく、人ではなく、自分としての意味はなく、ただのタートゥにすぎません。これが仏教の要点です。

 

 信じないなら、座って見てください。仏教の要点は何を教えているか、すべてを捕らえて体系化して見てください。無我の話、空の話、自分がない話です。心で生まれる自分がある話は、ブッダが生まれる以前から教えられていて、ブッダが大悟して、「おお、本当はそれは自分ではない。あるのは縁生の流れだけだ」と、見えたように教えました。

 

 私たちは、「これが自分」、「生まれた」、「死んだ」と、仮定することはできます。ヒト語で普通に話せば、道徳のように話せば、「自分がいる。生まれた。死ぬ」と話すことはできますが、第一義で話せば、自分はいません。ブッダは二つの言語を同時に話されました。

 

 同じ本の中で、ある個所では「アッター ヒ アッタノー ナートー=自分は自分の拠り所」と言われ、これは自分がいますが、また別の所では、「アッター ヒ アッタノー ナッティ=自分自身はいない」と言われています。ブッダも、常に二つの言語を話されたと、最高にたくさん観察して見てください。仮定の言葉では「自分はある」と言われ、仮定でない言葉では、「自分はない」と言われています。

 

 「自分は無い」は本当の言葉で、本当の仏教です。だから出家した最初の日から、仏教の要旨を勉強してください。出家したばかりの人も、仏教の要旨を学ぶことができます。

 

 無我、空、「動物でない、人物でない」話は、私が出家した頃は、それが何か知ることはできませんでしたが、勉強して憶え、教えているように実践したので、今私は、ヤターパッチャヤンを勉強するよう話すことができ、「こういう意味で、それは仏教の核心部です」と教えることができます。

 

どのように話しても、仏教の要旨である教えと違うことはありません。あるいはヒト語で間違って話せば「仮定の言葉」と言い、「仮定だよ。自分があり、何やらがあるのは仮定で、本当は、必ず自分はないよ」と教え、そして仏教の要旨を正しく掴んでおきます。そうすれば呆けることはなく、そして心は少しずつ無我が見える方へ傾きます。

 

 お寺に来た日にヤターパッチャヤンを勉強するのを復興させてください。戒師である先達はこのようにしてきました。そして私が危機を脱して来られたのも、これのお蔭です。これのお蔭に違いありません。私が還俗しないで危機を乗り越えてきたのは、これらのお蔭と信じていますね。これに関した霊験や神聖さが刻み込まれたと感じます。

 

 

 四番目は、彼らはどのように薫陶教育して来たか、について順に話します。

 夜明けの四時に起床しなければなりません。この時刻に、私は四時の鐘をついて起床させます。

 

 そして「夜明けに偉大な着付けがある」は、チーヴァラ(黄衣。中衣)を着るには、簡単に羽織るようにでなく、神聖な儀式のように着るという意味で、「偉大な着付け」は、着付けのチーヴァラを着て、それから心を鎮めてサマーティやらパッチャヴェッカナやらを夜明けまでするという意味です。

 

だから彼らは、着付けの衣を神聖と見なし、終わったら脱いで畳んで包んでおき、それから托鉢に行く、仕事に行く普段着のチーヴァラをまといます。彼らは着付けのチーヴァラを特別と見なし、中には最初の着付けのチーヴァラを二十年以上、まだ変えずに使っている人もいます。着付けのチーヴァラを非常に神聖と見なすからです。

 

 次に偉大な着付けをするには、サボン(内衣)をつかむ時、その内衣を律の要旨として掴みます。律の要旨は、「アー、パー、マ、チュ、パで、アーディカム パーチッティー マハーワッガ チュラッワッガ パリワーラワッガ」とあり、これが律の要旨です。内衣を着ようと掴む時、律の要旨を言って掴み、着る時、ヤターパッチャヤンのチーヴァラの文句を言います。

 

 チーヴァラ(中衣)を掴む時は、スッタンタ(経)の要旨、つまり経蔵の要旨である「ティー マ、サン、アン、クで、ディーカニカーヤ、マッジマニカーヤ、サンユッタニカーヤ、アングッタラニカーヤ、クッダカニカーヤ」と言い、チーヴァラをまとう時は、ヤターパッチャヤンのチーヴァラの文句を言います。

 

 サンガーティ(外衣)を掴む時は、アビタムの要旨を、「サン、ウィ、ター、プ、カ、ヤ、パ」、つまり「サンギニー ウィパン タートゥカター プッガラパンヤッティ カターワットゥ ヤマカパッターン」と言い、外衣を羽織る時は、 「ヤターパッチャヤン」のチーヴァラの文句を言います。

 

 腰帯を胴に当てる時は、「イマン カーヤパンタナン アティッターミ」と言います。

 

 衣を着つけて立ったら、座って、自分の住まいでお供えするものに火を点けます。一緒に菩薩堂へ行くのでなく、自分の住まいでします。お供えするものに火を点けて、「アヤムアッタバーオー アスチ アスバン マラナパリヨーサナン カンマッターナン バーウェーティ=不潔不浄であるこの個体は、最後には死ぬ。念処で発展し、自分の住まいで、適宜に念処、不浄念処に励みなさい」という言葉で、個体を熟慮します。

 

 それから適当に読経して、パッチャウェッカナ(省察)、アディータパッチャウェッカナ(過去省察)の四つをして、パーフンで祝福を申し上げ、ブッダの八徳を称賛し、それから水を注ぎます。これが読経で、家で唱えるように唱えるのでなく、勤めとしてするよう、儀式としてするように唱えます。

 

 まだ時間があります。まだ明るくなりません。もう一度横になると途端に夢を見てしまうので、横になってはいけません。まだ時間があっても、もう一度寝てはいけないなら、勉強として経を唱えます。つまり勉強の、憶えなければならない経です。以前は勤めの実践として、唱えなければならないので唱えましたが、ここでは勉強のため、暗記するため、憶えるために唱えます。

 

 そして罪の告白をしてください。罪を宵越しにしないために、夜が明ける前に、罪の告白をする友がいます。考えられても、考えられなくても、夜明け前に罪の告白をしてしまいます。

 

 ここで夜明けを迎えます。夜明けは、「パトモー アルナ セトー」、「トゥティヨー タームパマン チェオ」、「ティヨー オタートー 」、「チャトゥットー ナンダムキヨー」の四つに分けられています。

 

 白んで来ただけで、まだ明るくなく、白く曇っているのを夜明けの一番と言い、夜明けの二番は、赤か黄色で、夜明けの三番になると明るい白で、夜明けの四番は、顔がハッキリ見えます。「手相の大きな線が見える」と言うようなのは、夜明けの四番にならなければなりません。そうすれば新しい日になったと見なします。

 

雨安居に関わる、一週に関わる、夜明けと呼ぶ色んなものに関わるウィナイカム(律に適合させるためにする行動)は、このように数えることを知っておいてください。夜明けの四番目になれば、新しい日で、新しい日になったら、日が改まったら、着付けの衣を脱いで、偉大な着付けをした衣を脱いで、元通りに畳んで包んでしまって、そして新しい日になった仕事をしに行きます。

 

 まだ、「イダーニ アルノーダヤム アープッチャーミ=夜明けを告げさせていただきます」と、夜明けを告げるために唱える言葉があります。つまり「夜明けを迎える」と言う自分に夜明けを告げるまで、「夜が明けたので、昨日の勤めと新しい日の間で、いろんなことをすべて正しくしなければならない」と誓願するように、夜が明けたことを自分に告げます。

 

 ここで托鉢に行く話になり、鉢を持ったら、昔式の鉢なら鉢の紐を肩に掛けて、掌を広げて手で鉢の中を撫でます。これは、彼らは「しなければならないこと」と明示しています。

 

 掌を広げて鉢の中を撫でて探り、そして「チャッターロー サティパッタナー カーヤーヌパッサナー サティパッタナン ヴェーダーヌパッサナー サティパッターナン チッターヌパッサナー サティパッターナン ダンマーヌパッサナー サティパッターナン」と言い、四つのサティの名前を上げなければなりません。掌で鉢を撫でて、それから鉢に蓋をして、それから托鉢のために歩いて行きます。

 

 托鉢に行く時、「サッペー サッター アヴェラー ホントゥ」、あるいはそれ以上に、「アッバヤーパチャナー アニーガー スキー ウッターナン パリハラントゥ」と念じるか、思わなければなりません。托鉢に歩いて行く時は、心の中をこのようにしなければなりません。

 

 家の前に立って、人が出て来て入れるのを待つ時は、心の中を「ナーマルーパン アニッチャン ナーマルーパン ドゥッカン ナーマルーパン アナッター」にします。口に出しても構いません。立って食べ物を待つ時は、無常、苦、無我を熟慮し、托鉢に来た自分も無常・苦・無我であり、鉢に食べ物を入れた男女も無常・苦・無我であり、鉢に入れられた食べ物も無常・苦・無我です。

 

 彼らが鉢に入れている時、ヤターパッチャヤン パワッタマーナン等々、ピンタパートーの言葉を心の中で唱えます。スンニョーだけでも良く、最後まで言ってもいいです。ふさわしさ、あるいは場合によります。

 

 托鉢を終えてお寺に帰ったら、鉢を置く場所に鉢を置いて、「イダーニ アーハーラカウェーシ ドゥッカン サンウェガワットゥーティ ウッチャッティ=今食べ物を探すことに関わる苦を、ブッダは憐れの物と言われた」と言わなければなりません。その日の食べ物を探すことから生じる苦は、ウッチャッティ、それをブッダは、憐れの物と言われています。つまり食べ物を探すことは憐れな物と感じます。

 

 食べ物を食べるには、みなさんが実践している勤め、例えばボーチャナサンユッタに関わるセーキヤヴァットゥ、あるいはパッチャウヴェッカナ、あるいはサティで食べるべきです。砂漠で我が子の肉を食べるように、あるいは車軸に垂らす油のように食べます。「支援者に最高に儲けがあるようにする」と考えなから食べます。妄信か妄信でないか、バカか善いか、良く聞いてください。

 

 このようにすればだんだん沁みて、「霊験がある。神聖だ。最高だ。遊び半分ではいけない」と言う気持ちが沁みて、本当の意味が沁み込みます。そうすれば自分自身に利益が生じ、支援者に利益が生じ、そして仏教にも利益が生じます。

 

 次に、評論のような説明をします。「内衣を手に取る時は律の要旨を着る」というのは、「私は律蔵を着る」と理解するに近いです。

 

 律蔵は私たちの衣服で、律蔵の服を着たら、間違いを犯すことはできません。悪はできません。

 

 チーヴァラをまとう時、みなさんは経蔵をまとうので、すべての滅苦を経蔵の目的で知らなければなりません。

 

 外衣を完璧に美しく羽織れば、みなさんは最高に高く、最高に美しい論蔵式の深遠な解説である論蔵を羽織っていることを意味します。

 

 みなさんが律蔵を着、経蔵をまとい、論蔵を肩に羽織って、心に霊験や神聖さが生じれば、心を非常に掴んでおくことができ、初めての時は出家した最初の日のように感動し、食べ物を欲しがりません。なぜか出家したその日は、空腹を感じません。出家した霊験と神聖さが一杯で、喜悦や歓喜が異常に残っているからです。

 

 今も同じで、内衣を着る時、律蔵を着ると感じて着、中衣をまとう時、経蔵をまとうと感じ、外衣を羽織る時、論蔵を羽織ると感じれば、最高に善い加護や支援があります。

 

 帯を腰に当てる時は、「イマン カーヤパンタナン アディッターミ=私は意志が強い人でなければならない」と言い、腰帯を締めるように強固な人になると、帯に祈願します。

 

 衣を着付けたら、座って「アヤン アッタバーウォー アスチ、アスバ マラナ パリヨーサーナン カンマーッターナン バーウェティ=どうぞこの個人が、不浄念処によって発展するよう。そして完全に尽きる所である死があるよう」と、熟慮します。つまり、直接自分の体で不浄念処をし、それから経を唱え、パッチャヴェッカナをし、ブッダの徳行を思って祝福します。

 

このテキストは、イティピソーの代わりに、ブッダの徳の代わりにパーフンを使います。パーフンは、ブッダの徳を非常に賞揚し、頭上に頂き、称賛するからです。それから水を注ぎます。これは毎朝、夜明けの度に水を注ぎ、ブッダの徳を称賛し、パッチャウェッカナし、四つすべてアディータパッチャウェッカナします。

 

 時間が余っても、もう一度寝るのは禁止です。だから起きて偉大な着付けをしないで、明るくなるまで、友達が起こしに来るまで甘い夢を見ている比丘や沙弥とは、大きな差があります。起きてパッチャウェッカナやら何やらして、時間が余ってももう一度横になって寝てはいけません。

 

勉強でも何でもして、その罪が宵越しにならないように、夜明け前に罪の告白を終え、「夜が明けたよー」と告げます。それが夜明けだと言うように、「夜が明けたよ。一日が終わったよ。一日が過ぎたよ。一日の課題で、正しくすることができるよ」と、自分に夜明けを告げます。

 

 鉢を肩に掛け、鉢の蓋を開けて掌で撫で、四つすべての念処の名前を言うのは、サティが欲しいからで、サティをもって、サティがある人になって托鉢に行きます。サティをもって托鉢に行くので、鉢を撫でる時に、四つの念処の名前を言います。

 

 鉢を隈なく撫でるのは、彼が規定したことで、少なくとも、中に何かが無いように、防ぐことができます。不注意な比丘や沙弥が托鉢に行って鉢を開けると、沐浴の布が入っていることもあり、スプーンとフォークがあることもあり、滞りがあります。この項目の勤めを本当の勤めでしないからです。

 

昔から、托鉢に行く前に鉢を撫でて見なければなりません。そして「食べ物を献じた人も、受け取る人も、その食べ物自体も、動物でもなく、人でもなく、自分でも他人でもない。縁起の流れになるダートゥ(四大種。元素)に過ぎない」と、銘じることができるように、サティ、サティ、サティ、サティ、この四つのサティでしなければなりません。

 

 歩く時は、「サッペー サッター アウェラー スッター アウェラー ホントゥ アッバヤパチャナー アニーカー スキー アッターナン パリハラントゥ」。私は慈しみを施し、恨みを脱ぎ捨て、動物を踏んで死なそうという恨みを防止し、あるいは何かを死なそうという恨みをこの言葉で脱ぎ捨て、そして慈しみを施し、慈しみを施す心で歩きます。

 

 立って待つ時は、「この名形は無常・苦・無我であり、どの名形も無常・苦・無我であり、名形の内部も無常・苦・無我であり、名形の外部も無常・苦・無我であると、無常・苦・無我にサティがあります。鉢に食べ物を入れた人が非常に美しくても、心は無常・苦・無我を思っているので、忘れるほどにはなりません。

 

 後世の弟子がその通りに実践すれば、托鉢に行く時のヴィサバーガーラマナ(異なった感情)による危険はないので、昔のアーチャンが防いでくれるようなものです。美しい女性が食べ物を入れることを、彼らはヴィサバーガーラマナと言い、善くしなければ、毎日少しずつ僧であることは減少し、後には、居られないほどになります。

 

 人が食べ物を入れる時は、「ニッサトー ニッチウォー スンニョー」というヤターパッチャヤンの托鉢の文句で、入れられたものをしっかり熟慮なさい。そうすれば、心に深く埋め込まれます。

 

 次にお寺に着いたら、鉢を置いて、自分に「食べ物を探しに行かなければならないことの苦は、憐れなものであると世尊は言われている。私は憐れむことができる。食べ物に貪欲にならない。散漫にならない。異常な心にならない」と、自分に言い聞かせます。

 

 心が憐れに感じれば煩悩は生じ難く、「私の暮らしは低く、乞食に行かなければならない」と人生を悟るほど憐れな物です。食べ物を探しに行かなければならないことは、憐れな物です。そして不注意でなく、自慢せず、威張らなければ善いです。

 

 次に食べ物を食べる時は、パッチャウェッカナ(省察)があるように、衆学作務があるように食べてください。そしてマッジマニカーヤ(中部)のパーリ(ブッダの言葉である経)にある、砂漠で我が子の肉を食べるように食べるだけです。

 

 砂漠の中で道に迷い、仕方なく両親は死んだ我が子の肉を食べなければならず、美味しく食べることはできません。あるいは車軸に垂らす油は滑らかにするだけで、零れるほどたっぷり垂らさないのと同じです。そして、人々の食べ物を食べている間中、「食べ物を入れてくれた支援者に、変わらず儲けがあるように」とだけ考えます。

 

 これが要旨です。私が実践したことがあるものだけですが、それでもたくさんです。そして昔からある物を本から引用しました。その本は「プッタランシー トゥルッサディーニャーナ」と言い、この項目を非常に詳しく説明しています。だから戒師、住職、チャオカナのみなさん、調整して見てください。私たちがこの伝統を復活させれば、出家したばかりの比丘・沙弥の心を掴んで引き止め、最初の日からしっかり埋め込むことができると理解します。

 

それは黄衣が熱くないように、(出家を続けて)いられる類の心にします。なければ、風に飛ばされるように徳とカンマ任せですが、このようにあれば、杭を打ち込んだのと同じです。私たちはどれだけ、律蔵を着て、経蔵をまとい、論蔵を羽織っているか。良く考えて見て下さい。

 

 これは譬えのような言葉で、律蔵は悪や間違いを行うのを防止するので、律蔵を着ていれば悪や間違いはできず、そして滅苦を説く経蔵をまとえば、滅苦に愚かではいられないので、明らかに理解しなければなりません。それから論蔵を羽織れば、風貌は最高に威厳があるという意味です。私たちは詳細なレベルのタンマ、深遠なレベルのタンマ、アビダンマのレベルのタンマがあります。

 

私は、「アビダンマを否定する。アビダンマを嫌う」と非難されますが、私には、私式のアビダンマ、空のアビダンマ、空になる本当のアビダンマがあります。彼のアビダンマは偉大な善を求めて担ぐことなので、私はほしくありません。別のアビダンマです。

 

 もう一度憶えてください。若い僧、若い沙弥は律蔵を着て、経蔵をまとい、論蔵を羽織れば、すべてをしたのと同じで、腰帯を腰に締める時、「私は強く動じない人で、この帯のようにできる。これは私をこの梵行に繋いでおく」と言い、それから不浄、死を、最低でも日に一度、夜明けに熟慮し、念処します。寝込んでしまって、煩悩が首に乗り被さって来ないように、夜明けには急いで起き上がって座り、偉大な着付けをします。

 

彼は偉大な着付けと呼びました。僧は偉大な着付けで、沙弥なら小さな着付けで、それで最高に堅固にします。パッチャウェッカナ(省察)は、数珠玉を最低百八回弾けばもっと善いです。これがパッチャウェッカナです。あまり意味を理解できない人は、「迷信だ、迷信のようにする、霊験のよう」と言いますが、意味を知れば迷信でなく、護ることができる神聖な霊験、本当の霊験です。

 

 律蔵を着、経蔵をまとい、論蔵を羽織って腰帯を締める時、「私は強く安定した人で、この帯のようにできる。これは、私をこの梵行に繋いでおく」と言い、未明から不浄念処を熟慮し、それからパッチャウェッカナして祝福し、ブッダの八徳を称賛し、それからすべての生き物に水を注ぎます。まだ明るくなくても、二度寝をしないで、夜明け前に罪の告白をします。罪に宵越しをさせてはいけません。

 

夜が明けたら、「夜明けだ。夜が明けたよ。夜明けだよ。イダーニ アルンタヤン アープッチャーミ」と告げます。夜明けを告げ、鉢を掴んで鉢を肩に掛けたら、四つのサティで、四つの念処で鉢の内側を撫で、「サッペー サッター アウェラー ホントゥ、等々」と告げながら歩き、そして慈しみを施します。

 

立って待つ時は名形を、自分の名形も他人の名形も、あるいは物質も、無常・苦・無我と熟慮し、受けている時は、「ヤターパッチャヤン」と言い、お寺に帰ったら、「食べ物を探しに行かなければならないことは、憐れな物とブッダは言われている」と、もう一度サティがあります。そして律の規定で正しく、常自覚で食べます。

 

 

 どうぞ、持ち帰って熟慮して見てください。復興させることに賛同するなら、もう一度話してもいいです。私が投資して印刷してもいいです。便利なように、勉強しやすいように、何でもしてもいいです。今は、好きか嫌いか、賛同するか否か、提案として話すだけです。みなさんがこのように実践すれば、私たちの僧・沙弥は安泰で、霊験と神聖で堅固になり、一年、二年、三年ばかり居ることができます。この種の心でいれば、ずっといられるかもしれません。

 

 宗教と呼ばれるものが霊験や神聖に依存しなければならないなら、それなら存在できずに消散しますが、正しい理由がある本物の愚かでない霊験や神聖、正しい霊験や神聖なら、その霊験や神聖は害ばかりでないので、正しく使えば恩恵があります。

 

 どうか持ち帰って熟慮して見てください。私たちの若い比丘と沙弥を昔式に薫陶して強固にするなら、続きは後日相談して、様式として復興させます。新しくするのではなく、古いのを使います。賛同するなら古いものを使えば、少なくとも私の僧と沙弥は穏やかに暮らせます。私たちの僧と沙弥は熱くない心で、いつでも涼しく暮らすことができ、社会に関わる部分も今のように怒りっぽくなく、簡単に喧嘩別れしません。

 

 これを熟慮するようお願いします。今年はこのことについて、「忘れている善いものがあるので、みんなで埃を払って使う」という話をしました。どうぞ頑張ってください。

 

 さて、ちょうど時間になりました。雨が降りそうなので、これで終わります。

 


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