本当のブッダを見る

         アーサーラハ説法

         1969年7月17日

 今回は、みなさんも良く知っている、毎年巡ってくるアーサーラハ祭についてお話します。今日私たちは、十分、あるいは最大限に効果のある儀式を行いますので、初めに、お互いによく理解しなければなりません。だからこの法話はその行事のためです。どうかみなさん、しっかり聞いてください。

行動には本当の利益、あるいは時間に見合った利益があります。みなさんのほとんどは遠方からお出でになって、見合ったものが得られなければどうでしょう。嘆かわしい、気の毒、ばからしいといったことになるので、利益になるように、つまり、来た甲斐がある何かが得られるよう、特に関心を持ってください。

 儀式の初めの項目は、今日のようなアーサーラハプナナミーの日、つまりブッダが世界に、誰も反論することができない法輪を公開した日を迎えることです。出家であろうと梵天であろうと、天人やバラモンも、この宇宙全体のどこの何も、誰一人反論できる人はいません。

 この項目も知っておく価値があります。なぜパーリ(ブッダの言葉である経)に、「誰も反論できない」とあるのかと言えば、それは真実であり、検証すればするほど真実が見え、検証すればするほど真実の前に敗北するからです。そして実際は、当時のインドには、いつでも反論しようと待ち構えている出家やバラモン、先生たちが大勢住んでいましたが、ブッダは、かつてない新しいタンマを教えるために誕生しました。

 要約すれば、それまであった教義には彼らがアートマンと呼ぶものがあり、善や悪を知るまで輪廻の輪の中を回遊していて、その後同じように善や悪から抜け出すこともできますが、それから永遠の自分になる、ということを憶えておかなければなりません。ここを憶えておいてください。アートマンは永遠の自分になります。

 一方ブッダが生まれると同じように教えましたが、自分はなく、あるのは心、心だけです。心はあらゆることを知るもので、すべてのことを知って、最後には善悪を捉えなくなり、善悪に関わらなくなり、善悪から解脱します。しかしそれは永遠の空になります。あっちのバラモン教、ヒンドゥー教でも何でも自我を掴み、永遠の自我があります。

仏教では永遠でないこと、煩悩がないこと、苦がないこと、自分がないこと、あらゆる問題がないこと、心が永遠に何もないことに到達して終わります。終りがこのように違います。簡単に憶えておけば、論争しないで済みます。一つは永遠の自分に向かい、もう一つは永遠の空に向かいます。

 ブッダは、反論する人はしなさいと言いましたが、誰も反論する人はいませんでした。しかしブッダが言ったのは聖諦の話で、たくさん話す必要はありません。一切の苦がないと話すだけで、死後の話や死ぬ前の話をする必要はありません。この教え、つまり「八正道で生きれば苦はない。一切の苦はない」と言うだけで終わります。執着する自分は永遠にない、と言います。

これが違いです。ブッダのタンマチャック(法輪)はこうだ、と宣言して以来、反論できる宗教、教団、教義はありません。パーリには、「これを引き戻させようにも、反撃して戻らせることができるものは何もない」とあります。ブッダが法輪を回転させて以来、何も反撃して引き返させられるものはありません。サマナもバラモンも、天人も、梵天も、何でもです。アーサーラハプナナミーの要旨は、このような満月の日です。

 ブッダは、国の統治権を宣言するように、法輪を宣言しました。しかし心の、精神の権力で、智慧のある人にとっては重大な出来事でした。愚かな人には何も意味はなく、愚かな人には何も起こっていませんが、智慧のある人にとっては、これからは苦に完璧に勝つことができる偉大な意味がありました。

忌憚なく言えば、彼らは永遠の自我で終わり、永遠の自我あり、それは重荷である暮らしです。今私たちは止め、初めから自我がなく、あるのは、解脱して煩悩のない、苦がない、自分がない、問題のない究極の空に至る心だけです。そしてそれを涅槃と呼び、生きているうちに到達できます。死ななくても到達でき、到達した後も、この自分が無くなっても、死ぬ必要はありません。

 このような規定、このような教えは、誰も教える人はいませんでした。それまではここまで教えませんでした。解脱して永遠に完璧な自分になる教えも、一番新しい教えには違いありませんが、ブッダのはもっと新しいです。それまでは彼らの話だけで、信じたものを祭って供え物をして祈願懇願しました。

 一つ例をあげれば、それまでと言うのはブッダが生まれる前という意味ですが、インドでは、いつでも地下にある地獄、天にある極楽の話が教えられていて、すべての人が信じていたので、それを変えることはできません。このように固く信じて疑わない人々の中に生まれたブッダは、言うだけ無駄なので、反論も廃止もしませんでした。

その言い回しを使って、善い行いをすれば死後は極楽に生まれ、悪いことをすれば死後は地獄や苦のある場所に行くと話しました。地下に地獄があり、天上に極楽があるのは真実か否かは言う必要はありません。それには触れる必要はありません。その後のある日、ある吉日と言ってもいいです。ブッダは「地獄が六処になるのを私は見た。極楽が六処になるのを私は見た」と言いました。

 ブッダが誰にも反駁も反論もしなかったことを考えてみてください。人々が何と言おうと反駁も反論もしませんが、反論や反駁にならない形で話しました。変人の仏教教団員は反論好きで、反論好きは自然に喧嘩になり、他のグループは言うまでもなく、仲間内でさえ反駁して、誰にも反論しなかったブッダを真似ようとしません。

 人々が「地獄は地下にあり極楽は空の上にある」と言うのを見て、ブッダは「それらは六処にある」と言い、「私は見た」と言って、そしてどうなるかを説明しました。つまり六処が誤った時は、触も誤り、受も誤り、何もかも誤り、その時その場で、目・耳・鼻・舌・体・心は、その人の過ちにふさわしい地獄になります。死ぬまで待つ必要はありません。極楽も同じです。触や受の段階を正しくすれば六処に苦がなく、非常に満足するので、その時が極楽です。

これだけでも、たったこれだけの話でも、誰も反論あるいは抗議できる人はいません。目で見えるから、この目ではっきりと見えるからです。誰を信じなくても、目・耳・鼻・舌・体・心が誤れば地獄で、目・耳・鼻・舌・体・心が正しければ極楽だと、目に見えるからです。

誰も信じる必要はありません。他人を信じなくて良いことを、「自分を信じる。カーラーマ経の教えで自分を信じる」と言います。みなさん良く勉強してください。とても役に立ちます。

 ここで私個人のお話しをさせてください。関りがあります。地獄は自分の顔が嫌いな時にあり、極楽は自分が好きな時、自分自身を拝める時にあります。もっと意味を近づけて言えばブッダのと同じです。自分の顔つきが嫌いな時は、自分を見ると嫌なものばかりなので、すぐその場で地獄になります。自分を見て満足し、正しく、満足して自分を拝むことができれば、その時は極楽です。

 しかし「プッタタート師は誤った見解だ。地獄を否定し極楽を否定する」と手紙で非難する人がいました。新聞に書いて載せる人もいました。考えてみてください。これを「まだ違いがある」と言います。しかしそれが真実か真実でないかは別問題です。地獄がどこにあるのか、地獄は地下で極楽は空、あるいは六処にあると言うのが正しいか間違いか、あるいは自分に満足している時、嫌っている時か、誰でも自分の好きな方に決定してください。これは、誰も抵抗して反転させることはできないという例です。

 要するに智慧のある人の地獄・極楽は心にあり、愚かな人の地獄・極楽は地下やはるかに遠い空の上にあり、死んだ後行きます。智慧のある人の地獄極楽は心にあり、行動すると同時に、そうなった時に、生きているうちにあります。

 これは私たち仏教教団員が、仏教とはどういうものかを知る助けになりります。仏教はどんなものか、仏教の教えと一致しなくても、正しくなくても、反論したり争ったりする言い方はしないで、相手の気に入ったようにさせておきます。これが、「宣言したら世界中に、宇宙全体に、誰も反論できる人はいない」という言葉の例です。

 これは、仏教教団員が心をそのようにしていれば、その後役に立つ大切な出来事です。つまり自分の苦を消滅させ、そして最高に役に立つ素晴らしいことを崇拝します。ブッダがその日話したのは、タンマチャックカッパワッタナ経(転法輪経)です。

  そして非常に崇拝するべきは、延々と苦に敗北し続けてきた人間の勝利を告げたことです。今は苦を消滅させることができる法輪があり、そして更に高くなっていく部分があり、誰もそれ以上に高い教えを規定することができない、そういう高さです。これを崇拝するべき、と言います。

 だから私は、良く調べずにする賑やかで楽しい儀式と違う祭り方をします。そういうのは正しくないし、仏教教団ではありません。正しい知識で崇拝して満足して帰依すれば、本当に崇拝すると言えます。私たちは心を正しくしなければなりません。つまりこれを理解し、満足し、そして崇拝します。これが、理解しなければならない初めの項目です。

 次にお知らせする項目は、今日(陰暦八月の満月)、つまりアーサーラハ祭の日はブッダの日と並ぶ、つまりブッダの誕生と大悟と涅槃の日とされているウィサーカ祭の日と並ぶタンマの日です。ウィサーカ祭はブッダの日ですが、今日アーサーラハ祭はタンマの日、つまりブッダが世界で初めてタンマを公開した日です。初転法輪、つまり転法輪経と呼ばれます。それまでの人が知っているものと、あるいはその時知っているものと違う形の、世界で初めて公開されたタンマは、新しいもの、珍しいもので、それが説かれたタンマです。

 私は誰を信じる必要もありません。私には「今日はタンマの日で、タンマが出現した日」と捉える理由があります。法輪を説くと、一人だけタンマが見える人がいたので、僧の日と呼んでも構いません。僧の日と呼びたい人はどうぞご自由に。私は、今日はタンマの日、タンマが出現した日と見ます。

 「プラタム(仏法)」と呼ばれるものに関心を持たなくてはなりません。つまりタンマという言葉の重要な意味です。初めに一般的に見れば、タンマがブッダとすべての阿羅漢を生んだと言います。ブッダを長とするすべての阿羅漢がこの世界に生まれたのも、タンマがあるからで、タンマゆえに、タンマを知ったから、タンマを悟ったからタンマに到達し、タンマで変化します。これを「タンマがブッダと阿羅漢を生んだ」と言います。

 プラタムは他にも、個人にも社会にも平安と平和をもたらし、タンマがあれば平和があります。信じる必要はありません。自分で試してみ、実践してみれば、心にタンマがある時、自分に穏やかな幸福が現れます。これがタンマという言葉の重要な意味です。

 他のたくさんの教義にも同じようにタンマがありますが、その種の幸福を私は喜びません。私はブッダが大悟したタンマを喜び、本当に完璧な、あるいは最高の幸福に到達できると信じます。学校で教えられているように、タンマは仏教にしかないと言うバカにならないでください。学校では良く調べずに、「タンマはブッダの教えです」と教えて、他の宗教、他の教義にも同じようにタンマがあることを知りません。彼らはタンマを、彼ら式の呼び方をしています。

 そしてこのタンマは、宗教が生まれる前の人間の言葉にあります。ある人が義務と言われるものを見て、生き物にとって必要な義務を「タンマ」と呼びました。タンマとは義務。彼らはこの言葉を使いました。タンマという言葉には、「持ち上げておく」「高く上げておく」「落とさない」という意味があるからです。そういう意味です。

この言葉を、彼らが新しく観察したもの、つまり義務のある人の、義務を行う人の義務を呼ぶのに使いました。義務も掴んで持ち上げて、苦の中に落とさないようにするのでタンマと呼びました。長い間、タンマ、タンマと呼んでいるうちに高くなって、道徳の教義、宗教の教義になり、苦から完全に脱出させることができる仏教の最高の言葉になり、最高に高くなりました。タンマは穏やかな幸福を生じさせるものです。

 ここで、「タンマは命であり、タンマに欠ければ死ななければならない」と指摘したいと思います。つまりタンマに欠ければ義務に欠け、義務に欠ければ死ななければならず、義務を行わなければ、手や足や腕や脚が義務を行わなければ、腎臓や肝臓や腸が義務を行わなければ、死んでしまいます。

あるいはこの命を構成している細胞が義務を休めば、一瞬で死んでしまいます。生き物はすべてのものが義務を行っているから生きています。タンマは義務であり、命であり、命の伴侶です。このように「タンマは命の伴侶」と捉えていただきたいと思います。

 夫婦のような伴侶は三か月離れていても死にませんが、タンマである伴侶つまり義務は、休めばすぐに死んでしまいます。すべての細胞がちょっと義務を休むだけで、すぐに死んでしまいます。誰にとっても確実に命の伴侶です。必ず命と一緒にあるという意味です。だから命が維持されます。それが命の伴侶です。

 だから最高の伴侶はタンマであり、タンマが命から出てしまえば死んでしまいます。このような状態を知っておいて、つねに命を涵養するものにしなければなりません。これがタンマです。タンマを遊び半分にしてはいけません。

 ここでまだ特別なのがあります。ブッダは、「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える。このようにタンマが見えない人は、たとえ私の黄衣に触れて掴んでも、どこかへ一緒に出掛けても、掴んだ黄衣を放さなくても、その人にタンマが見えなければ、まだ私を見たとは言われない。タンマが見ええた時はいつでも私が見える。黄衣を掴まなくても、一緒に住まなくても、別の時代に生まれても」と言っています。

たとえば今タンマを見てもブッダが見えると言われ、「タンマが見えたときブッダが見え、タンマが見えなければブッダは見えない」という重要な要旨があります。タンマがなければブッダはいないので、滅苦を助けてくれるものは何もありません。 

 

次にタンマとは何でしょう。そのタンマとは何でしょうか。別のパーリでは、「縁起が見える人は、タンマが見えると言われる」と言っています。時と場所を限定せず、縁起が見えればタンマが見えます。

 縁起とは何でしょう。この言葉は、文字から言えば、依存し合って生じてくる状態、依存し合って消滅する状態、という意味です。良く聞いてください。お互いに依存し合って生じる、あるいは消滅する行動を縁起と言います。この状態が見える人を「縁起が見える。タンマが見える」と言い、初めの「タンマが見えればブッダが見える」という文章と重なります。だから縁起を見ることが、本当のブッダを見ることです。

 良く見てください。良く聞いてください。最高の利益になることもあります。何かが依存し合って生じる状態、依存し合って消滅する状態に目をやって見れば、明らかにはっきり見えれば、縁起が見えると言われます。それはタンマが見えることであり、ブッダが見えることでもあります。その人は、いつでもどこでも何でも見えます。見えないのは愚かだからで、明かないから、目が開かないから、つまりその人は理解できないからです。

 土と水と風と火の要素が依存し合って何らかの形が生まれ、それから分離して消滅するのが見える。こういうのでもいいです。そしてもっと近いのは、目と形が依存し合って視識が生じ、それから触が生じます。あるいは科学で教えているように簡単に見ると、例えば二つの元素で水が生まれ、あるいは火が生まれるように、さまざまな元素が集まって生じます。

 そしてどこにでもあり、どこででも見えるという点を見てください。どこを見ても、今木の葉を見れば、依存し合っているものが、依存し合って木の葉になっているものがあります。依存し合わなければ木の葉にはなりません。そしてそれは依存し合って消滅します。木の皮もそうです。これを「何でも」と言います。

しかしそうは見えませんね。依存し合って生じる状態、依存し合って消滅する状態は見えません。確実不変、そのまま固定しているように見えるので、「いつも変わらない確かなものだ」と言う愚か者になります。それは常に変化していて、依存し合って生じ、依存し合って消滅し、常に変化していると見ないで、木を見れば、「あれはこうだ。こういう状態で固定している」と見ます。これは見えません。

すべての部分に、すべての細胞に、その木のすべての何かに、依存し合って生じ、依存し合って消滅するもの、つまり変化の状態が見えれば、変化によって木が成長するのが見えます。この細胞が消滅し、新しい大きな細胞が生まれれば、木は大きくなります。

 命のない物も依存し合って新しい物に生まれ、そして変化します。命のない物について少し勉強しなければなりません。科学的に勉強します。いろんなダートゥ(要素)、昔風に言えば土・水・火・風が合わさって、あれやこれやの形になり、それからバラバラに分散します。

 魂の要素、空気の要素が混ざれば、命のある物になります。四つの要素はすべての物質を生み、六つの要素は生き物を生みます。合わされば人にもなり、動物にもなり、草や木にも、すべての生き物になります。

 誰でも目を閉じてそれらの物の、これらのものの変化や作り出すことが見えれば、生き物にしているのがパーっと、どこもかしこの世界中すべてがパッと見えれば、それを「縁起が見える」と言います。つまり依存し合って生じ、依存し合って消滅する状態が見えます。目を閉じた方が目を開いているより見易いというのは、ちょっと不思議です。目を開けると別のものが見えて、固定しているように見え、確実不変に見え、愚かに間違うかも知れません。

 目を閉じて見てご覧なさい。だんだん、「ああ、本当に変化している。依存し合って新しいものが生まれる。つまり古い物が消滅し、新しい物が生れている」と見えてきます。こういうのを縁起と言います。良く憶えておいてください。とても役に立ちます。つまりブッダが見えます。これがブッダが見えることです。

 今みなさんにブッダが見えないのは、これが見えないからです。身近なもの、私たちが食べている食べ物、それも変化します。体に入れば変化して、血になり肉になり、何かになり、どんどん変化し、このように依存し合って生じ、依存し合って消滅します。しばらくすると便や小便になって出るにしても、どこででも依存し合って生じ、依存し合って消滅しているのを見てください。

 仮に、土を一かたまり持って来てここに置いて毎日観察すれば、少しずつ変化して、最後には何もなくなるのが見えます。花を一つここに置いたら、放っておけば少しずつ変化して、「無になること」が、依存しながら生じます。木から取ってきた時は花ですが、捨てておけば依存し合いながら消滅して、無になるまで変化します。

 最高に偉大な、最高に大きな、私たちの最高の愚かさはここにあります。依存し合って生じるのが見えず、依存し合って消滅するのが見えないので、「本当にある」と、「確実で変化することなく、実体がある」と見えます。

 この体の中をよく見てください。あるのは依存し合って生じ、依存し合って消滅するものばかりです。すべての細胞、すべての細胞の集まりは、依存し合って生じ、依存し合って消滅します。そして生き物の体のすべての部分は、依存し合って生じるものばかりです。血液系統も同じです。

 目を閉じて見れば、私たちの体の中には依存し合って生じ、依存し合って消滅するものばかりなのが見えます。眠たい人は、「どうして見える。自分の体の中は依存し合って生じ、依存し合って消滅すると言われるものばかりだと、どうして見えるのだ」と、何の話をしているのか意味が分かりません。

 外部の方が見やすいので、見てください。他人でもいいし、どこにでもいる他の動物でもいいです。すべての原子、あるいは原子で作られているすべての細胞、あるいは私たちの体、使い慣れているタイ語で言えば「すべての毛穴」ですが、体のすべての毛穴、一つ一つの毛穴のすべてが、依存し合って生じ、依存し合って消滅することを見せています。

 見えても見えなくても自由です。見てみてください。もしかしたら全身のすべての毛穴に、そこで生じては消え、生じては消えているものがある縁起の状態が見えるかもしれません。

 これは、すべての毛穴に縁起が見えることは、自分のすべての毛穴にブッダが見えるのと同じということです。すべての毛穴にブッダが見えると言っても誰も信じません。誰も信じないばかりか、バカ呼ばわりされ、人を騙す説教者にされます。バカみたいな人は、そういうことをします。

 今みなさんに、ブッダはすべての毛穴にいると言っても、愚かな人には縁起が見えません。どこにでもいるのが、すべての毛穴にいるのがどうして見えないのでしょうか。そのような状態があればどこでも、そこにブッダがいると言います。

 この部分は聞いて難しいです。発生と消滅があり、依存し合って生じ、依存し合って消滅する状態があるれば、必ず何かそのような状態を見せているものがあり、それがブッダです。一つ一つの原子が依存し合って生じ、依存し合って消滅する状態を見せています。

 すべての毛穴も依存し合って生じ、依存し合って消滅するのを見せているので、そこにブッダがいます。なぜ見えないのでしょう。なぜすべての原子に、どこにでもブッダがいるのが見えないのでしょう。

 

 次は、細胞についてお話したいと思います。細胞について禅の人たちは、冗談なのか本気なのか知りませんが、挑戦的な言い方、あるいはバカな人に教える話かどうかはどうでもいいですが、ブッダはどこにでも、たとえば犬の糞のような汚物の中にもいると言います。その不潔さがいっぱいの汚物の中には、依存し合って生じ、依存し合って消滅するものがあり、常に依存し合って生じ、依存し合って消滅しているからです。

目で見ても見えませんが、心で見れば見えます。これも同じように見れば汚物に見えず、すべてブッダに見えます。清潔なものも不潔なものもすべてブッダに見えます。すべてが依存し合って生じ、依存し合って消滅するのですべてブッダに見え、清潔も不潔もありません。すべてがブッダに見えます。

 縁起の状態がすべての原子の中に本当にあるので、彼らは、ブッダは例外なくすべての所にいると言います。こういうのをどう言えばいいでしょう。これを話す私も、彼らの代わりに罵られます。汚物の中にもあると言うのは、私たちが不潔、あるいは清潔と言う何にでもあるからです。すべての作られた物と、すべての原子に、この(依存し合って生じ、消滅する)状態があり、体は全部こうであり、すべての原子は、いいですか、例外なくブッダでいっぱいなのが見えます。

空気の中に混じり合って空気になっている元素があるというなら、それらの気体の元素も依存し合って生じ、依存し合って消滅しています。空気の中はブッダでいっぱいだからです。このように見える人は、バカでしょうか、賢いでしょうか。どこでも構いません。水の中でも、陸上でも、空の上でも、物の中でも、物の外でも、依存し合って生じ、依存し合って消滅するもの、つまり縁起ばかりです。

 「縁起が見える人はタンマが見える」。ブッダはそう言いました。「縁起が見える人はタンマが見える。タンマが見える人は私が見える」。さて、タンマと言われるものを遊びにしてご覧なさい。タンマが見えればブッダが見えるとは、縁起が見えることです。だからそのタンマがブッダです。タンマが見えれば、つまりブッダが見えます。縁起が見えればブッダが見えます。

 縁起の状態はどこでも、至る所で見ることができます。どこでもこのような状態を見せているので、そこにブッダ、つまり縁起の状態を見せている人がいます。良く聞いてください。縁起の状態を見せている人、あるいは物があればどこでも、そこにブッダがいます。

これはすごいです。どこもかしこもブッダでいっぱいです。息を吸って吐くのもブッダです。呼吸もそのようで、私たちはブッダである息を吸って吐いています。理解できなければ「バカ」と言います。しかしパーリ(ブッダの言葉である経)にあるタンマを根拠にすれば、「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える。縁起が見える人はタンマが見える」とこのようにあります。

だから縁起の状態が見えれば、吸っては吐き、吐いては吸っている呼吸に見えるのは、全部ブッダです。息の中のそれぞれの原子には、依存し合って生じ、依存し合って消滅する状態があるので、ブッダがいっぱいです。受け入れても入れなくても自由です。時にはバカバカしいと言われます。何を話しているのか分かりません。しかし話さなければなりません。パーリ教典にこう書いてあるので、パーリを取り上げました。

自分自身で見てください。自分で見れば、パーリに依存しなくてもそう見えます。他のものには見えません。依存し合って生じる状態、依存し合って消滅する状態が見え、そしてブッダ、つまり真実が見えます。変化しない自我(実体)はないという真実が見えます。無常であり、苦であり、無我である究極の真実が見えます。無常、苦、無我が見たければ、このように見てください。

理解できなければ、最高にバカらしい言葉だと誹謗します。「この宇宙はブッダでいっぱい。ブッダでいっぱい」と言う、その人は聞いても何か分かりませんが、聞いて意味が分かる人は、「ああ、世界中、依存し合って生じ、依存し合って消滅する状態でいっぱいだ。つまり縁起の状態であり、この状態を見せているものがある。それがブッダだ。だから世界中がブッダでいっぱいだ」と言います。

いいですか。私たちの全身にブッダがいて、呼吸もブッダでいっぱいです。しかし人は愚かで見えないので、何の利益も受け取らず、無常・苦・無我が見えず、自分自身と信じているものに倦怠することも、欲情が緩むこともありません。愚か以上に愚かで、「サンカーラの塊全部が俺だ。俺だ。これが自分だ。これが俺だ」と執着して、「それはただの自然の元素」と見ることができません。

非常に細かい微粒子で身体や何かが作られ、その一つ一つが生じては消え、生じては消えます。このように見えればタンマが見え、真実が見え、何かを自分、自分のものと執着することはありません。「本当にタンマを知れば、どっちを見ても縁起の状態があるので、ブッダが溢れているのが見える」という言葉を憶えてみてください。

ここでちょっと、これが分かる人は、今話していることが分かる人は、遠くからお出でになった甲斐があると付け加えさせてください。この話が理解できるなら、高い汽車賃と時間を掛けて来た甲斐があります。

他人を信じる必要がなくなるまで自分で縁起が見えれば、それが「誰も信じる必要はない」という仏教の教えです。ブッダを信じる必要も、三蔵を信じる必要も、先生を信じる必要もありません。カーラーマ経で述べられているように、誰も信じる必要もありません。どうぞもう一度読んで復習してみてください。

自分で見えていることを信じ、あるいは、「これはこのようだ。苦はこうした原因で生じる。苦が消えないのはこうした原因だ」とこのように見ている自分を信じます。自分の目で見て、自分を信じます。見せている物にブッダがいることは、お話しました。ブッダはどこにでもいて、発生と消滅を見せています。

ブッダはそのような状態を見せ、見えればその状態を信じるので、直接ブッダを信じます。しかしブッダは、人物であるブッダ、あるいは経典を信じることを禁じ、自分で見ること、自分で見たことすべてを心で信じるよう教えています。経典に書いてあるから、あるいはああ聞いた、こう聞いたという理由で信じる必要はありません。

自分自身で見たことや自然に見えたことと、経典に書いてあること、あるいはブッダが言ったことが一致すれば、同じならば、それは使い物になります。しかしまだ自分で見えなければ、まだ成功しなければ、ブッダが言った言葉が経典の中にあるのを聞いた(読んだ)だけなら、まだ利益がありません。本当に生じては消え生じては消えていると自分自身で見えるまで、滅苦はできません。

これが至る所にある、依存し合って生じ依存し合って消滅する状態です。宇宙を構成しているすべての原子はこうです。自然ではこうです。「自然ではそうなのだ」という項目になりました。自然では、それはそうなのです。

どこの神様にそうしてもらう必要はありません。どこの天使にこうしてもらう必要もありません。依存し合って生じ、依存し合って消滅する状態は、自然の法則によるそれ自身(それ自体)のものなので、神様や天使や精霊に手伝ってもらう必要はありません。

ここで話は、「それは苦や幸が生じるまで加工する」、ということに関わってきました。それは自然にあるすべての元素、土・水・火・風のすべての元素も依存し合い関わり合って発生と消滅を繰り返し、互いに加工し合い、そうして元素から新しいものが生まれ、命のある細胞が生まれます。

命のある小さな細胞がたくさん集まって細胞の塊になり、生き物の中の細胞の集まりになり、組織になって、やがて感情を知る神経系統になり、これで神経系統ができます。神様の助けを借りなくても、自然に、それ自身でなります。

感じる神経系統ができれば、もう逃げられず、触あるいは接触と呼ばれるものを生まずにはいられません。神経系統に触れるもの、つまり形、声・香・味・触・考えの六つはどこにでもあるので、それらが神経系統に触れるのは、簡単だからです。だから避けようもなく触、あるいは接触と呼ばれるものが生じます。

神経系統があれば必ず接触があり、接触するものは至る所にあるので、どうにもできません。接触があれば、どうしても受(感覚)があり、誰も止められません。受が生じないように助けてくれる人は誰もなく、接触があれは受があります。神様に依存しなくても接触があれは受があります。

受があって受を感じれば、必ずその受に従いたい欲望があり、そうすれば取があり、「俺、俺のもの」と強く執着します。受があれば俺が、受の主体である俺が生まれます。これが、受は無我であることの隠された部分です。受から生じる愚かさで「自分、俺」が生まれます。

たとえば病気になると、「俺は病人だ。俺が患っている」という感覚が生じ、神経系統にとって美味しい食べ物が口の中にあり、美味しさに支配されると、美味しさを味わっている「俺」が生まれ、心に愛が生まれると、愛する俺が生まれ、心に嫌悪が生じると、嫌っている俺が生まれます。この「俺」は後から生まれ、俺が生まれると、複雑困難な問題や苦になります。

心に俺を生じさせなければ、問題は何もありません。自然ではこうです。神様がいてもいなくてもこうで、神様が現れても、ブッダが生まれても生まれなくてもこうで、神様や精霊に無関係で、星や運にも無関係で、占い師にも何にも関わりなく、経済にも政治にも貧富にも関わりなく、動物や人間にも関わりなく、必ずこうなります。自然では必ずこのようになります。

どうかこの真実を見てください。つまり宇宙全体がブッダでいっぱいに見えます。いろんな形で依存し合って生じ、依存し合って消滅し、形の(物質的な)ものもあり、名の(抽象的な)ものもあり、カンマ(業)もあり、カンマの結果もあり、依存し合って生じ依存し合って消滅する状態の何にでもなります。

最後には、場合によって苦あるいは幸福が、最後の「加工すること」の結果として生じます。このような加工から、苦あるいは幸福が生じ、幸福にふさわしければ幸福と呼び、苦にふさわしければ苦と呼びます。

ブッダは「幸不幸は古いカンマから生じるのではない。幸不幸は神様が生じさせるのではない」と明言しています。良く聞いてください。ここに座って聞いているみなさんの多くは、幸不幸は古いカンマから生じると信じているかも知れません。それはブッダの言葉に反論することです。ブッダは、「幸不幸は古いカンマから生じるのではなく、縁起の法則に対して正しくない行動から生まれる」と言っています。

話している縁起の法則で、苦を生じさせる行動をすれば苦が生じ、苦が生じない行動をすれば幸が生じ、幸不幸は古いカンマから生じるのではなく、縁起の法則に対して正しい行動か、間違った行動かによって生じます。

そしてもう一つ、シヴァ神の威力によって現れるのでもありません。ここで言うシヴァ神とは神様という意味で、イスワン神の仕業ではありません。パーリではイスワン神と言います。古いカンマの結果ではなく、神様が与えたものでもなく、縁起の法則から見た正しさと誤りで生じます。

どの面でもふさわしいと言いましょう。誤りはありません。苦にふさわしければ苦になり、幸にふさわしければ幸福になり、それは正しさばかりですが、私たちは仮定で、望みと一致しなければ間違いであり、苦である間違いと言います。

これは、縁起の状態は自然にこのようにあり、苦あるいは幸福に加工するという仏教の重要な教えです。自分自身で見てください。信じる必要はありません。本当はそのようだと自分で見えない限り、どんなに他人を信じても成功せず、自分で見えれば、そうすれば行動が変わり、以前のような苦になる行動をしないので、しても苦にならない行動に変わるからです。私たちは、行動しても苦にならない方針、あるいは実践規範がなければなりません。

 

さて、もう一つの重要な話、八正道になりました。いろんなものがこのようなら、私たちはどうしたら、すべてを苦がないようにすることができるか、絶対苦にならないよう、正しく実践しなければなりません。そのために八正道の話をしなければなりません。それこそが、その日、アーサーラハの満月の日に説いたタンマの核心で、「中道」と呼びます。

転法輪経の核心、八正道を先に話します。調べて見てください。パーリ・転法輪経を調べれば、ブッダは「愛欲、苦行の両極端までしてはいけない。中道を維持しなさい」と言っています。「中道」は、それ以前は誰からも聞いたことがないもので、ブッダが自分で悟って広めました。八正道と言います。

誰でも唱えられ、憶えられますが、まだ十分な利益がないように見えます。まだ本当の道になっていないからです。ただ唱えるだけで、まだ本当の道になっていません。

八正道の八項目の初めの二つは智慧で、智慧と戒とサマーディ(三昧)を八つにまとめて、八正道と言います。八つのうち、智慧が最初にあり、最初に智慧が二つ、次に戒が三つ、それからサマーディが三つということは簡単に分かります。ブッダは「智慧・戒・サマーディ」と言いました。これは、「戒、サマーディ、智慧」と聞いている一般の人の感覚と違います。

私はクルンテープ(タイ語ではバンコクをこう呼ぶ)のある教祖に、間違って教えていると叱られたことがあります。「智慧・戒・サマーディ」と、智慧を先に教えていると。その人は、戒を先に、まず戒を強調するよう教えなさいと言います。それはできません。

なぜなら智慧が先でなければ戒は暗礁に乗り上げ、正しく航海できないからです。智慧が先になければ、サマーディも暗礁に乗り上げます。ブッダは正しく言っていると捉えてください。八正道では、ブッダは智慧・戒・サマーディと言っています。

だから本当の実践について話すなら、智慧、戒、サマーディの順でなければなりません。「智慧、戒、サマーディ」が、本当に実践する三学です。学校の勉強のために話すだけなら、「戒、サマーディ、慧」と憶えても構いませんが、実践では智慧が先になければ、非業の死を遂げても滅苦ができません。

智慧が先でなければなりません。智慧、戒、サマーディ。智慧が戒を先導すれば、戒も正しく歩け、サマーディも正しく歩け、その後初めの智慧より高い智慧が生じるように促すので、それは煩悩を断ち、苦を絶滅できます。

だから三学には二つの形があり、一つは話すため、唱えるためで、「戒、サマーディ、智慧」と言います。中道であるもう一つの形は、本当に苦を消滅させるためなので、必ず「智慧、戒、サマーディ」と言わなければなりません。憶えてください。慣れないので言いにくいかもしれませんが、「智慧、戒、サマーディ」、「智慧、戒、サマーディ」と慣れるように言ってください。

これから実践を始めるなら、必ず智慧、戒、サマーディでなければなりません。智慧がなければ戒はすっかり誤って戒禁取、つまり妄信である戒、目的を誤った迷信になり、サマーディも間違いだらけになり、妄信のサマーディで目的と一致しません。智慧が先導しないからです。これを戒禁取と言います。

智慧が先導すれば正しい戒になり、純潔な戒と言い、純潔な戒があれば純潔な心があり、それから続いてどんどん純潔になり、最後には煩悩が無くなります。このように智慧が先でなければなりません。話す時、憶える時は「戒、サマーディ、智慧」で、実践する時は必ず「智慧、戒、サマーディ」でなければなりません。

ここで実際に、本当に煩悩を断つ時になると、ブッダはもう一つの言い方、「正しいサマーディは七つの家来がいる」と言っています。この言葉はとても重要ですが耳慣れません。話す範囲でないので、聞いたことがありません。「正しいサマーディには七つの家来がいる」というのは、最後の「正しいサマーディ」を基本、主人にして、残りの七つをサマーディの家来としています。

サマーディが涅槃へ傾かなければただのサマーディで、涅槃に傾けば「正しいサマーディ」と呼び、そしてこの正しいサマーディが、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい仕事、正しい職業、正しい努力、正しいサティの七項全部を家来にします。

だから正しい見解が先頭で、道を知り、方向を知り、どこへどう行くかという正しさを知っている先導者で、そして「こうしたい」と願うのは正しい考えで、正しい努力で正しく歩き、正しいサティで道を正しく歩くので、正しいサマーディの家来にします。

正しい言葉と正しい仕事と正しい職業は、ブッダは、通常既に正しいと見なしています。仏教徒でないごく普通の人でも、ほとんどの人は正しい言葉、正しい仕事、正しい職業をしています。しかしいずれにしても正しい見解の管理下でなければなりません。この八つは連結して働くので、分けることができません。聖なる正しいサマーディには七つの家来がいると言います。

サマーディは煩悩を断つ力がある大将であり、他の七人は七種類の義務を行うので七人の家来がいると言います。戒とサマーディと智慧が本当に煩悩を断ち、煩悩と闘って煩悩を絶滅させるには、七人の家来を従えた正しいサマーディの形でなければなりません。七つ道具でも構いません。七人の家来も七つ道具も同じです。

みなさんは、「智慧は重要で正しさを生む。でなければ正しくない」と見えます。どんな信仰でも、智慧に導かれなければ、いつでもその信仰は道を誤り、煩悩の好きな方へ行ってしまいます。しかし智慧が管理していれば、滅苦の正しい道になります。

ですから、仏教は智慧の宗教であり、智慧を基本に、教えに、力に、最初に使うと、是非知ってください。他の宗教が信仰やら何やらを力にしても彼らの自由で、他の宗教の話です。しかし仏教は、智慧を核心にしなければなりません。ブッダ、ブッダとは知る人、目覚めた人、明るい人という意味で、智慧ばかりです。智慧がなければ知らず、目覚めず、明るくなれません。私たちには、仏教の核心である智慧があります。

だから生きる道具として智慧をもってください。智慧で生きればすべて正しくなります。どこにでも縁起が見えるほどの智慧。信じない人がバカだと言うのは自由です。すべての毛穴にブッダがいるような智慧をもってください。私は、ブッダは、「縁起の状態がタンマであり、タンマが見えれば私が見える」と言ったと、主張させていただきます。

どこにでも、すべての毛穴にある縁起の状態を、それがタンマと見なさい。タンマが見えればブッダが見えます。もう一度言わせていただきます。この知識があれば、遠くから、遠くの県からお出でになった甲斐があります。たくさんお金を使い、時間を掛け、疲れて、何でも大変な、その苦労に見合います。このようなブッダが見えれば甲斐があります。

これからは智慧で生活し、人生が旅のように、人生が人生式の旅のように歩き、人生式の旅をし、いつでも智慧で旅をします。このような智慧があれば、いつでもブッダが見え、至るところでブッダに会い、ブッダと一緒に旅をします。いつでも、どの過程にも涅槃があり、ブッダと一緒に歩き、涅槃があること、つまり煩悩がないこと、苦がないことと一緒に歩きます。小さな涅槃。次々と小さな涅槃があり、最後には完璧な涅槃になります。完璧な涅槃です。

今はタンマを見てください。タンマを見るとはブッダを見ることで、そうすれば愚かでなく、「確実不変だ」と迷うことはなく、無常であり、苦であり、正しい無我であり、迷いはなく、ブッダと一緒にいます。

こう言うと、ブッダと同じように知り、ブッダと同じように見、ブッダと同じように苦を滅し、そしてブッダになってしまうと驚き、みんなは「バカ」と言いますが、構いません。私はバカでも構いません。でもまだこう言います。

みなさんブッダと一緒に、つまり縁起が見える智慧と一緒に旅をしてください。ブッダと一緒に旅をし、完璧な涅槃になるまで、いつも小さな涅槃があり、ブッダが知ったのと同じように知り、ブッダが見たのと同じように見、ブッダが苦を滅したのと同じように苦を滅し、そしてブッダになってしまいます。つまり明確にはっきりと縁起を説明できれば、それがブッダになったです。

 

今日をアーサーラハプナナミー(陰暦八月。太陽暦では六、七月頃)の満月の日と言います。月が、アーサーラハという星座の中で満月になることをアーサーラハプナナミーと言い、その日にブッダが転法輪経を説き、中道、八正道を公開しました。智慧、戒、サマーディの三学に要約することができます。

しかし最高の義務を行うと言えば、正しいサマーディが主で、その他が取り囲み、正しいサマーディには智慧と正しい見解が溢れています。正しいサマーディに智慧が溢れていれば、疑うまでもなく正しい見解が煩悩を断つことができます。

みなさんは最高に高いブッダの訓辞、つまり八正道あるいは法輪を受け取ります。今日は、ブッダが誰も反論できない法輪を公開した日で、出家もバラモンも天人も梵天も、という言葉を使い、誰一人反論できる人はいないという意味です。ブッダが公開したこの真実は、誰も反論できません。

みなさん、どうかこれを知ってください。今日これを知ってください。ここにお集まりのみなさん。アーサーラハ祭の儀式と言い、どこでにも、すべての原子すべての毛穴にブッダを見つけることができるよう説かれている、その方法を知ってください。サティと、ブッダが見える智慧で旅をし、すべての毛穴にブッダがい、すべての過程に涅槃があり、旅する話は終わります。タンマについての話は終わります。この知識を得れば、苦労した甲斐があります。

 

もう一つ最後の話は、おまけ、あるいは付録で、これからはキリストのように、みんなで仏教を広めなければならないと言います。聖書には、「貰った時ただなのだから、ただで与えなさい。お金の計算をしてはいけない」とあり、ただで貰ったら、ただで与えます。私たちも同じで、仏教も同じ、仏教徒も同じです。

ブッダからただで滅苦のタンマを受け取ったら、どうかタダで上げてください。商売して儲けないでください。思い上がらないで、高慢にならないでください。自分が教祖になって利益を求めてはいけません。こういうのは役に立ちません。純潔な心による本当の奉仕で、法輪を世界に広めます。

みんなで力を合わせて、タンマを世界中に広めてくださいとお誘いしたいと思います。。世界中というのは「誰でも」という意味ではありません。誰もがタンマを知ることはできませんが、世界中ならできます。世界中には、タンマを知ることができる人はいます。

しかし「誰でも」ではありません。タンマを知ることができない人は、何か素晴らしいものに出合っても、それを好むことができません。こういう人もいます。こういう人たちは知ることができないので、後にします。しかし、もしかしたら分かるかも知れない人が世界のどこかにいるので、広くみんなにタンマを知らせるよう、力を貸してください。

毎月来る西洋人たちに喜んで教え、薫陶し、訓練するのは、タンマが分かる人がいたら知ってほしいと望むからです。疲れも覚悟で、あらゆる困難も覚悟でなぜするのかは、ブッダの功徳を崇拝するので、ブッダが私たちにくださった偉大な慈悲、恩に報いるためです。

そしてブッダは、人間と天人がタンマを知ることができるように、みんなで世界中に広めることを望まれています。「仏教教団員全員で、みんなでこのダンマヴィナヤを、天人の世界も悪魔の世界も、梵天の世界も、あらゆる所に広めなさい」という言葉があり、このように望まれました。

この利益を受け取ったら、その恩に報いなければなりません。タンマを世界中に広めてください。直接的なら直接教えることで、間接的なら力を合わせて、後援部隊と呼ばれる(教える人の)便宜を図ることでも良いです。直接教える人は、直接教え、直接教えられない人は、教える人たちに炊き出しをするのでも善く、これを間接的と言います。

このように協力し合えば成功し、タンマが教えられ、実践され、明らかに理解され、そして先へ広められます。これが、タンマとはどんなものか、滅苦とはどんなものかという、最後のおまけです。この利益を受け取ったら、利益をその先に広めてください。あるいは宗教の命を伝承して、後から生まれる人が利益を得られるようにします。これが最高に崇拝すること、最高に祭ることで、これ以上の崇拝はありません。

今私たちがアーサーラハ祭と呼んでいるアーサーラハの満月の日の祭事は、ブッダの時代のその日と同じようにするより善いことはありません。アーサーラハの日にブッダは世界に何をし、世界はその日に何を受け取ったか、私たちは力を合わせてこのアーサーラハの満月の日に、五比丘と同じようにタンマを知り、知ったら次に広めます。

これを本当のアーサーラハ祭と言い、口で言い表せないほど大きな利益があります。みなさんは長時間掛けて遠方からお出でになり、非常に疲れてたくさん散財して大変でも、いずれにしてもそれ以上の価値があります。どうかそのようにしてください。 

終りに、私はみなさんの心を、アーサーラハ祭の儀式をするのにふさわしいように整えたということです。続いてアーサーラハ祭の儀式をするために、説法を終わります。

 


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