9.タイの独自性であるタンマ





1979年3月18日

 タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日の法話は「タイの独自性であるタンマ」と題してお話します。どのタンマがタイの独自性なのかと、怪訝に思われる方がいるかもしれません。私は、すべての宗教の本質である、「他人を愛すというタンマ」という項目と答えます。

 ここで理解しておかなければならないのは、どの宗教にも「他人を愛しなさい」という主旨の教えがあります。ある宗教は「神様が私たちを愛すように、彼らを愛しなさい」と言い、仏教式に言えば、菩薩が自分より他人を愛すように「自分よりも他人を愛しなさい」です。要するに他人を愛すことで、どの宗教も身勝手を追放したいので、他人を愛すように教えます。他人を愛せば、自然に身勝手は追い出されるからです。

 タイ人仏教教団員は布施をするよう、戒を守るよう、絶えず慈しみの念を育てるよう躾けられています。

 どうぞ「慈しみの念」という言葉に関心をもってください。いつでも慈しみの念を育て、慈しみで他人を愛し、「すべての動物は生老病死の苦の友」というくらい他の生き物を愛します。

 布施も他人を援け、他人を愛し、戒を守るのは、他人に迷惑を掛けないため、他人を愛すからです。他人への愛があれば更にすべての項目、あるいはすべての面の実践です。絶えず他人への愛があるので、微笑みの国と呼ばれるタイ人の習性になりました。互いに愛し合い、慈しみ合うので微笑みます。珍しいお客が来ても、同じ家の親しい間柄でも、いつも微笑みます。私たちタイ人はこのように躾けられてきたので、いつでも微笑む習性になりました。

 私たちは他人を愛すよう教育されたので、使いきれないお金がある人はお寺を建てる伝統が生まれました。お寺を建てて子供を遊ばせるのも他人を愛すことで、余分なお金があれば東屋を建てて寄付し、道を往来する人を憩わせました。

 私は子供の頃、このような東屋を見たことがあります。米や魚の干物など何でも揃っている所もありました。これを「金持ちになってお金が余ったら、お寺を建てる」と言います。そのお金でマッサージ店や、何やら悪徳である事業を大々的にするのではありません。

 これが私たちタイ人の他人を愛す性質です。現在私たちは、戦争難民や政治難民を、ほとんど国中溢れるほど受け入れています。そうできるのは他人を愛し、他人を許し、他人に譲ることができる性質に依存しています。お金持ちは養父と呼んで、貧しい人と友達のように暮らします。

 「養父」という言葉は、正しい意味では純粋でなければばらず、そして吸い取り紙の資本家ではありません。資本家と養父は正反対ほど違います。一方は貧しい人の友人で、もう一方は他人を愛さないので、貧しい人と友人になることはありません。

 タイ人は血の中に他人への愛があることに関心をもってください。血の中に仏教があるので、仏教には他人を愛させるタンマがあるので、他人を愛すことはすべての基礎です。

 みなさん、意味がないと考えないで、少し詳しく熟慮していただくようお願いします。つまり「他人を愛す」という一言で十分です。これだけで、私たちの平和と平安に関わるどんな種類のどんな問題も解決するに十分です。他人を愛すという一言で、純潔な五戒を遵守できます。

 他人を愛したら、殺したり危害を加えたりできるでしょうか。できません。初めの戒は完璧です。他人を愛したら、盗んだり騙したり横領したりできるでしょうか。二項目の戒も完璧です。他人を愛したら性的に誤った行動、他人が愛している物を侵すことができるでしょうか。当然これもできません。三項目の戒も完璧です。

 他人を愛したら、嘘を言って他人を騙すこともできません。四項目の戒も完璧です。他人を愛したら、他人に害を与える元である酔う物を飲むでしょうか。五項目も望み通り完璧になります。今はどんなに五戒を授かっても五戒は完全でなく、生じもしません。資本である他人への愛がないからです。

 だから「他人を愛す」という一語だけを思い出してください。そうすれば五戒も十戒も何百戒も完璧になります。考えて見てください。

1.他人を愛せば、余分は他人を援けるためにあり、余分に使ったり余分に食べたりしません。これが他人を援けるために余分を残す理由です。今は他人のことを考える人、他人を援けるために余分を準備する人はほとんどいません。

2.他人を愛せば汚職はできません。汚職は相手に損害を与えることです。

3.他人を愛せばロクデナシにはなりません。ロクデナシは国中どこにもいて、首都には真っ昼間でもロクデナシがいて、言語を絶するような悪辣非道をしています。これは、他人を愛す気持ちがないから、人間同朋を愛したことがないからです。

4.他人を愛せば誠実で恩を感じ、非常に団結できます。今は誰も愛したことがないので、互いに誠意がありません。

5.他人を愛せば人間にとって非常に利益のある仕事に関して、協力する用意があります。協同組合などができないのは、誰も他人を愛さないで、いつでも共謀組合にするつもりだからです。

 どうぞ広く見てください。そうすれば個人としても全体としても、私たちの世界に平和がないのは「他人への愛」というたった一つが欠けているだけです。他人を愛せば、個人的にも全体的にも穏やかな幸福が生まれます。今は闘争や分裂がいっぱいで、永続的な危機になっています。国際連合も、連合の理念を実現することができません。国連は紛争の調停に手一杯で、人を愛し合うようにさせる時間がありません。

 そしてカニを捕まえてザルに入れるようなやり方をします。つまり際限がありません。人間の基礎に、他人への愛がないからです。

 それぞれの国が、自分たちの宗教の精神に従った他人への愛があれば、誰も他人を苦しめないので、国連はなくても構いません。国連が他の仕事をできない理由はたった一つ、つまり他人への愛、つまり人類への普遍的な愛に欠けるからです。

 次はタイの独自性、あるいはタイらしさについて熟慮します。「タイ」とは「自由」、何にも支配されない自由があるという意味です。タンマという言葉も自由、正しさ、善、真実、公正という意味です。あるいはタンマであることとは、煩悩から自由になることを意味します。

 「タイ」と「タンマ」は、自由という意味、あるいは重要な要旨が同じです。だからタンマはタイの独自性で、タイは、煩悩つまり身勝手に支配されない自由です。身勝手の威力の下にいる人は自由でないのでタイ人ではありません。

 タイは自由でなければなりません。悪に、悪いことに、煩悩に、身勝手に、支配されない自由なので、タイ人は他人を愛すことができます。他人を愛すことができ、他人からも愛されます。つまり互いに愛し合ってタイの独自性になり、いつも微笑んでいます。要するに「他人を愛す」ことがタイの独自性です。

 タイの独自でないものをタイの独自性にしないでください。タイ式家屋はタイの独自性ではないと、もう一度繰り返させていただかねばなりません。他人に飲ませるために家の前に置いてある水鍋、地面にしっかり埋め込んである托鉢台がタイの独自性です。他人への愛の象徴だからです。

 いろんな陶磁器やタイ美術やタイの歌、タイ音楽はタイの独自性ではありません。それらは他人を愛す状態を表していないからです。タイ舞踊、たとえばコーン(歌舞劇)、コーンを熟慮して見ると、トッサカンのような登場人物は誰かを愛せません。そして誰かが愛す、あるいは誰かに愛される状態でしょうか。

 だから私たちは、タイの独自性は「愛し合えない原因である、煩悩に支配されない自由」に注目しなければなりません。身勝手が愛し合えなくさせています。身勝手でなければ愛し合います。

 分かり易いのは、子に缶ミルクを飲ませるのはタイの独自性ではありません。タイの独自性は、子は母乳を飲まなければなりません。母親が何のことばかり考えているのか知りませんが、子に母乳をやらないで、缶ミルクを飲ませます。だから子供は缶を愛して、母の胸を愛しません。子供はミルク缶や哺乳瓶を愛していて、母の胸を愛したことがないかもしれません。それでどんな問題が起きるか、良く考えて見てください。

 愛について別の方法で「他人を愛せば身勝手がなくなる」と、最後まで見なければなりません。他人を最高に愛せれば、自然に身勝手は無くなります。あるいは身勝手がなくなれば、自然に他人への愛が最高に生じます。他人への愛は、利己主義を無くすことに掛かっています。あるいは利己主義が消滅すれば、それが他人への愛です。

 世尊の慈悲は、自分があると感じない人の自分のない類の慈悲です。自分への執着が消滅したので、他人を非常に愛します。世尊の慈悲は無我の類で、捉える自分、あるいは贔屓する自分がありません。熟慮してよく見ると、この利己主義が人類の敵であることが見えます。

 前回お話した三種類の動物について、もう一度繰り返させていただきます。この三種類のどちらのタイプにタイの独自性があるでしょうか。

 経済的動物、社会的動物、政治的動物にタイの独自性はあるでしょうか。道徳的動物、宗教的動物、平和的動物。これにはタイの独自性はあるでしょうか。二組あり、一組三種類ずつです。どちらの組にタイの独自性があるでしょう。

 なぜ経済的動物と呼ばなければならないのかは、自分の利益ばかり考えるからです。なぜ社会的動物と呼ぶのかは、社会で際立つ豪華さばかり考えるからです。なぜ政治的動物と呼ぶのかは、掻き集める時に策略を使いすぎるからです。こういうのはタイの独自性ではありません。タイの独自性は身勝手に勝つこと、他人のことだけを考えることだからです。

 政治面で言えば、てんでに先を争うような民主主義は、タイの独自性ではありません。越えてしまいましょう。権利を持ち出しても、まだ生老病死の友と言いません。平等な物なら、てんでに先を争うためではなく、愛し合う自分になるためです。奪い合うために政党に分かれるのはタイの独自性ではありません。集団の仕事をする時に他人を愛すことで譲歩を知ることが、タイの独自性です。

 世界は今、普遍的な愛でなく、てんでんばらばらの民主主義を生む間違った教育をしています。私たちには集団で暮らす本能があると、自然の面を見ることもできます。人間の本脳に関する生物学を学んだ方は、集団で暮らす本能のある動物は、人類だけでなく、動物も集団で暮らす必要があり、それが習性になったとはっきりと説明されました。これが本能です。

 だから私たちは、集団の中で互いに愛し合わなければなりません。私たちには平和に共存しなければならない義務があります。私たちは集団で暮らす本能があるので、平和に共存する義務があります。これが、他人を愛さなければならないと厳格に強いる自然の面です。他人を愛すことは、人間にとって「苦しめない」という言葉より高い最高のタンマと捉えてください。

 みなさんが聞いたことがあるのは、他人を苦しめない「非暴力」という言葉だけです。これが最高のタンマと聞いていました、しかし私は、他人への愛には敵わないと言います。他人への愛は非暴力よりも高い、人間にとって最高のタンマです。非暴力は苦しめないという意味で、他人を援けるかどうかは分かりません。苦しめないだけです。

 しかし他人を愛すと言えば、他人を援けなければなりません。だから他人を愛す方が苦しめないことより優れています。人間にとって最高のタンマは他人を愛すことと明らかに見え、受容できるまで見てください。今他人を愛す練習をして見てください。仏教の教えには「慈無量心」という手本、課題があります。

 みなさん、静かに心を集中させて「私に敵や危害のある動物はいない。あるのは友情ばかり。だから私は他人を愛す」と、将来に目を向けて見ます。

 それから心を集中して過去を見ます。後ろにも敵や危害を加える動物はいません。いるのは、私たちが全身全霊で愛している人ばかりです。

 それから左側北側に心を集中させると、復讐心や害のある動物はいません。いるのは全身全霊で私たちが愛している人ばかりです。

 そして右側南側に心を遣っても、敵や害のある動物はいません。いるのは私たちが全身全霊で愛している人ばかりです。

 それから上の方に心を向けても、復讐心や危害のある動物はいません。いるのは私たちが全身全霊で愛している人ばかりです。

 そして下の方を見ても、誰かに復讐心や悪意のある人はいません。すべては生老病死の苦を共にする友ばかりです。

 疑惑を抱いて仲違いをし、憎み合う人がいる方向があれば、他よりももっとたくさん、特にその方向に心を集中します。これを他人を愛す練習課題と言います。今私たちが練習すれば、最高にタイの独自性があると思います。限界の無い、範囲のない他人への愛で四方へ慈しみを広げる。これがタイの独自性です。つまり「他人を愛す」という項目のタンマは、述べたようにすべての宗教の心臓部です。

 「他人を愛す」という言葉はいつも話している四つの意味のタンマの、三番目の意味のタンマです。一つ目のタンマは自然、二つ目のタンマは自然の法則、三番目のタンマは自然の法則に従った義務、四つ目のタンマは自然の法則による義務を行なうことの結果です。

 他人への愛は三番目の意味のタンマ、つまり人間、あるいはすべての動物が自然の法則に従って正しく行なわなければならない義務です。他人を愛すには、人間のために厳格にある自然の法則と一致させることです。

 誰でも平和を願っています。どんな人でも平和を求めています。コミュニストも「平和がほしい。世界を平和にする」と叫んでいます。誰でも、自分にも他人にも、平和を求めています。

 どうしたら私たちは世界を平和にできるでしょうか。仏教教団員の方法は、他人への愛を心に刻み込んで、格差があっても共存できるようにすることです。どんなに格差があっても、必ず共存できます。「他人を愛す」ことは、一心同体になるまでお互いに愛し合うことを意味し、どんなに格差があっても共存できます。

 木の根元の青々した低木も、雲に届くような大木と共存できます。みなさん考えてみてください。雲に届くほど高い大木も青々した灌木と、皮で、根元で、根で、手を繋ぐように共存できます。これが愛という言葉の意味として正しい愛です。それが共存できる原因であり縁で、愛し合う結果、一心同体になります。

 今後は喧嘩をする時間はありません。今私たちは、人間性を完璧にするために愛し合わなければなりません。みなさん人間になって、仏教に出合ってください。人間に生まれて、仏教に出合ってください。生まれて来て他人を愛すことを知らない、ただのヒトではいけません。

 タイの独自性は他人を愛すことです。タイとは「利己主義の原因である煩悩に支配されない自由」だからです。身勝手ゆえにまだ煩悩の奴隷でいるなら、タイ人ではありません。

 タイ人であることを愛し、タイ人と自称したいみなさん。利己主義を追放することでタイ人になり、そしてタイの独自性として他人を愛してください。憎しみ合うことに夢中になっていれば、タイの独自性は消滅します。タイの独自性であるタンマは他人への愛です。これは、述べたようにすべての宗教の心臓部です。

 短くまとめると、すべての宗教の教えである「他人を愛す」という教えに出合った人間になってください。身勝手だけで他人を愛すことを知らないただの人にならないでください。何をタイの独自性とするかは、タイの独自性は当然他人を愛す状態を表している、という一点に注目してください。他人を愛す兆候がなければ、タイの独自性はありません。それは利己主義の奴隷だからです。

 タイ人仏教教団員のみなさん、タイ人仏教教団員であることにふさわしく、タイ人であるためにタイの独自性をもってください。

 時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。




ホームページへ 短文目次へ