生き方としてのタンマ

 

                                   1979年1月22

 タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日の法話は、「生き方としてのタンマ」と題してお話します。つまり、「タンマと生きることは同じ」と言っています。「生き方」と言うと、文学の言葉に聞こえます。しかし聞いて、どんなことを意味するのか、理解していただけると信じます。

タンマの原則で言っても、あるいは生物学で言っても、人生は絶えず進行しています。常に変化しているという意味です。変化する原因と縁のあるすべての行のように、絶えず進行しています。人生はしぜんに進行しています。次に私たちは、人生の進行を管理する人間として、正しくしなければなりません。つまり人生を進行させなければなりません。

今は新年なので、よく「新年はちょうど一回りした」と言うことを考えてください。新年は、毎年一巡りして戻って来たという意味で、紐を丸い形に置いて端をくっつけたように丸く廻ります。こういうのは進行でなく循環で、じっとしています。世界中の神聖なものに助けを求めても、どうにもなりません。人が進行しないで、そこに投げ捨ててある水牛を繋いでおく紐のように、丸まっているだけだからです。

 私たちはこれを、幹線道路の路肩にある、どこまでもずっと距離を知らせている里程標のように、区間ごとに前進させなければなりません。こうすればできます。正しい状態になれば、それ自体が神聖なものになり、二度と神聖なものに助けを求めなくても、頼ることができます。

 みなさん、「私たちは旅をして、疲れたら休まなければならず、疲れが取れたらまた歩いているようだ」という教えを捉えてください。このような生き方があります。私たちは歩いて来て疲れたら休むように、去年を追い出し、疲れが取れたらまた歩き続けます。それが新年です。これが、私たちが見ることができる普通の「生きること」です。

 生きることは、それ自体がタンマだと、もう一度繰り返させていただきたいと思います。生活して、そしてタンマがあるようにすると、二つの話に分けないでください。それも正しいです。とても正しいですが、私はそれ以上に、つまり今進行している生活をタンマにしてほしいと思います。

 幾つもの意味があるタンマという言葉を思い出してください。三番目の意味は、生き物が、自然の法則に従って正しく行動しなければならない義務という意味です。生き物には、自然の法則で正しくしなければならない義務があります。

これは重大な問題です。生きていれば、義務を行っているという意味があり、その生きることを、自然の法則で正しくすれば、それがタンマ、最高のタンマで、それ自体が神聖で素晴らしいタンマです。つまり正しい目的に向かって進行します。

 今私たちは、なぜ生まれてきたのかを知りません。なぜ生まれてきたのかを知らなければ、どっちの方向へ歩いて行ったら良いか分かりません。ラジオをお聞きのみなさん、自分はなぜ生まれてきたのか、興味をもったことのある人はいるでしょうか。興味を持ったことがなければ、きっと、どっちへ、どの方向へ向かって生きて行くのか、終点がどこにあるのか知りません。

 一つ観察して見るべきは、幼稚園から最高の大学まで、どこでも話したことがなく、教えたこともなく、なぜ生まれてきたのかアドバイスしたこともありません。私はそう信じています。このことを良く知っている人は、幼稚園から大学まで、なぜ生まれてきたのか、という話をしたことがあるかどうか、調べてみてください。教育課程に、なぜ生まれたのか教える課程はありません。

みなさんの子供たちは、なぜ生まれてきたのかを知らず、自分の好き勝手に考えています。最終目的にどう到達するかということに興味を持つ必要はありません。今は、それが間違いか、あるいはどう正しいのかを学ぶことなく、彼らの好きなように、彼らの煩悩が好きなようにします。

 実に多くの子供たちは、これを、私たちはなぜ生まれてきたのかを知らなければならないというのを、受け入れません。「私には生まれて来る意思、あるいは根拠がないので、私は知らない。私の責任ではない」と言い訳し、「私」が美味しいと感じて満足すれば、それを追い求めるので、それのために生まれてきたと勘違いします。この種の人は煩悩の奴隷であり、肉体の奴隷であり、丸めてある紐のように、世俗の味や娯楽や陶酔の中を回転します。

 新年も去年と変わりません。たくさん食べ、たくさん遊び、何か楽しいことをたくさんするだけが新年です。それはマヒしている生き物と呼びたいと思います。野原に投げ捨ててある水牛を繋ぐ綱のように、丸く丸まっている生き物で、どうしても進行しないと見てください。これらの人々は、生きることを煩悩の言いなりに放置しています。

 政治家も、世界をどっちに導くべきか知りません。なぜ生まれてきたのかを知らない政治家は、世界をどっちに導くか知りません。最後には、世界を自分の好きな方向へ導き、自分の利益に導きます。それが間違いでも正しくても、責任を取りません。自分の利益を得ることが正しいことなので、目的がないと言います。ぐるぐる回っているので、丸まっている綱と同じです。

 世界は政治の目的のように平和になりません。それは、すべての政治家が「なぜ生まれてきたのか」を知らないからです。彼らが「なぜ生まれてきたのか」を知れば、きっと世界を最終目的、つまり永遠の平和へ引っ張って行くことができます。輪になった綱のように危機を繰り返すので、最終目的がなく、今は永遠の危機だけがあります。

 次に最終目的の話をします。何が最終目的でしょうか。私は「現在世界に溢れているいろんな問題が全部無くなった状態」と、自信をもって答えます。今の世界にどんな問題、どんな危機があっても、それを絶滅させること、それが最終目的です。私たちはそうしているでしょうか。この目標に向かっているでしょうか。

 もう少し響きのよい言い方をすれば、自分と他人双方に平和があること、それが最終目的です。この世界の誰もが人間性に溢れて、人間として意味があることです。つまり問題より上の、苦よりも上の、高い心のある生き物という意味です。

ここに留まっている生き物ではなく、水牛を繋ぐ綱のように、食と愛欲と名誉の間を巡っていません。それでは永遠の平和に出合えません。食べることと愛欲と名誉は身勝手を煽って自分の利益のためにするので、誰もが身勝手になり、他人の権利を侵害します。

 これでは、声が枯れるほど叫んでも、世界の人権を尊重することはできません。喉が裂けるまで叫んでも、世界の人権を尊重することはありません。私たちは、食べること、愛欲のこと、名誉の間を巡回しているので、心が利己主義に酔い、必ず利己的になるからです。

 利己的になると貪欲になり、たくさん欲しがり、利己的になれば、思ったようにならないと怒りが生じ、そしてそういう生活は痴、つまりそれ自体が迷いです。

 利己主義がなければ、必ず他人のことを考えるので、普遍的な愛が生まれます。つまり人間同朋すべてを、生老病死の苦の友と考え、愛しく感じ、俺もお前も、俺の側もお前の側もありません。それが人間の最終目的です。そこまで行くと、彼らは弥勒菩薩の宗教と呼びます。

 本当の弥勒菩薩の宗教には、「俺お前」があってはいけません。経典には、「みんな同じように善く、すべて同じなので、家から道路に出ると、誰が誰だか分からないとある。家に帰って来ると、これが子供、これが妻、これが夫と分かる。それくらい全部が同じように善い」とあります。これを、人間性の最終目的に到達した結果と言います。

 次に、どうしたら人間であることの終点に到達できるかについてお話します。

 仏教の教えで言えば、マッジマパティパダー、中道と呼ばれるもので、この中道は、二つに分けることができます。つまり一人一人の、個人の中道と、集団としてまとまった社会の中道です。

 今私たちには中道がありません。つまり不足か過剰、あるいは不足の問題や過剰な問題ばかりで、中間の適度ではありません。本当のことを言えば、誰も不足する人はなく、過剰な人ばかりです。不足が好きな人はいないので、不足はありません。いるのは過剰を目指し、過剰になる人ばかりです。不足があるとすれば、その人が望み過ぎ、つまり期待し過ぎるからです。

 貧しい下層の人も、金持ちを追い越そうと努力し、至る所に、分不相応な状態があります。こういうのは、不足か過剰か、考えてみてください。もし不足と感じるなら、期待しすぎるから期待どおりにならないのです。望みが過剰なら、過剰にする努力をしても、望み通りになりません。

 今私たちは過剰に食べ、過剰に装い、過剰な住まいや備品に囲まれ、過剰な娯楽があります。

食べ過ぎの問題は、誰にでも見られます。今自分は過剰な状態で食べていると、みなさん自身が私より良く知っているので、私が説明する必要はありません。良すぎる、高すぎる、多すぎる、頻繁すぎる、何でも「過ぎ」ます。もう寝るという時刻にも食べます。

 着る物も、あれこれ色や模様が派手な、高価なものを、惜しまず、いろんなオシャレをします。それも高価です。

 過剰な家具や什器は、煩悩が望む最高の物でなければなりません。住まいや家具什器も、自分が欲しい予算の範囲でなければ気が済みません。車は二台で足りなくて、三台四台ほしい。何万バーツの車では駄目、何十万バーツでなければ。何十万では駄目、何百万でなければ。

 過剰な娯楽もあります。善の敵である踊りや音楽や、いろんな遊びがなければなりません。これも過剰で、破滅させます。それから、必要のないいろんな物を塗っておしゃれします。これも過剰です。

 中道なら、過剰にしないで適度でなければなりません。そうすれば八正道と呼ばれる八つの正しさが生じます。

 八正道とは、「正しい見解」「正しい望み」「正しい言葉」「正しい仕事」「正しい職業」「正しい努力」「正しいサティ」「正しいサマーディ」の八つの正しさで、中道である道です。その八項目には、戒とサマーティと智慧があると言うこともできます。だから問題は無くなります。

体も言葉も誤りません。心も誤りません。知性や考え、思いにも、誤りはありません。誰かを苦しめるような問題は何も生じない生き方です。自分も苦しめず、他人も苦しめません。こういうのを個人の中道と言い、正しい生き方です。

 社会の中道は、右も左もなく、俺もお前もなく、あるのは「私たち」だけです。密林の植物を観察したことがありますが、お前や俺、右も左もなく、「私たち」だけで生きています。非常に大きな木と根元の灌木が共存し、そして根元にはシダ類が茂っています。ものすごい格差があっても、敵同士ではありません。

密林の中では、大木と根元の灌木、クワズ芋類、シダ類が共存しています。大木が切り倒されれば、シダや灌木は強い日差しで枯れてしまいます。あるいはシダ類や灌木がなければ、その木を大きく育てる十分な湿気がありません。非常に格差がありながら、このように適度に共存しています。

 格差は必ずあります。自然の法則で生じるので、どうしようもありません。必ずあります。カンマの法則があるので格差も必ずあります。しかしタンマがあることで共存できます。タンマがあれば、お互いに少しずつ混じり合い依存し合うことで、人間に格差があっても、タンマがあることで共存することができます。

 その後人間はタンマを捨て、宗教を捨てたので、身勝手な人が生まれて他人を押し退け、権力のある金持ちが生まれました。それが吸い取り紙の資本家、つまり他人の利益を乾くまで吸い取ってしまう資本家になりました。

 人間が宗教を捨て、タンマを捨てた時、吸い取り紙の資本家が生まれました。この世界にまだ生まれたばかりです。昔の慈悲深い金持ちは姿を消し、資本家を攻撃する残忍な労働者主義も生まれました。道徳がないことから資本家が生まれたので、貧民も、資本家と戦うために道徳を捨てなければなりません。

 このような忌わしいことは、人間が宗教を捨て、タンマを捨てた時に生れたばかりです。人間にまだタンマがあれば、まだ宗教があれば、このような主義が生まれることはありません。

どうか良く熟慮してください。資本家が世界を支配しようと考えるのは、かなり狂っています。しかし労働者が世界を支配しようと考えるなら、きっと更に、それ以上に狂っています。資本家が世界を支配するのは、最高に掻き集めることを考えていて、労働者が世界を支配するのは、自分のために掻き集める考えで、そして最終的には資本家になります。

だからタンマが世界を支配する方がいいです。双方、つまり資本家と労働者双方にふさわしい正しさがあり、その後格差は問題になりません。つまり、もし双方が「助け合わなければならない。タンマは助け合うことができる道具だ」と、はっきり知っていれば、資本家も労働者も共存できます。

労働者がいなければ労働力がないので、資本家は何もできず、資本家がいなければ、労働者はする仕事がありません。自分の望み通りにするために、助け合わねばなりません。あるいはこのように依存し合えば、どちらにも望みがあります。そうでなければ共倒れです。

これを、私たちは何としても格差の問題を解決し、「世界に自然の格差は必ずある」というような共存をしなければならない、と言います。海では、大きな魚と小さな魚が共存し、隙間がないほど海に溢れていました。人間が関わるようになって消滅しました。

密林には虎や鹿が溢れていましたが、人間が介入してからいなくなりました。自然のままにしていれば、どんなに格差があっても共存できます。これを、タンマがあるよう、生老病死の苦の友のように生きなければならないと言います。

最後に、非常によく言われることについてお話させていただきたいと思います。つまり「タイの独自性」についてです。タイの独自性というもの、それは、タイ文化である仏教の教えで正しい生き方です。タイの独自性は、人間同朋として、生老病死の友として生きることです。これがタイの独自性です。

タイの独自性は、金箔細工でもなく、タイの歌でも、タイ音楽でも、歌舞劇でもタイ舞踊でもなく、人々がタイの独自性と好んで呼ぶ何でもありません。タイの独自性は、私たちの先祖が暮らしていたように、格差があっても共存できることです。私たちの先祖は、タイの音楽や歌舞劇や踊りを、タイの独自性と認めません。

昔の人は反対に、朝晩時間を盗んでは胡弓を弾いて、歓楽施設にばかり出入りしている人をうつけ者と見なし、むしろ破滅させる人と見ていました。身についたタンマのある清潔さと、明るさと、静けさのある心で暮らさなければなりません。それがタイの独自性です。

タイ人はいつも微笑んでいます。心にタンマが染みているので、表情に現れて微笑みになります。本当のタイ人だった先祖たちは、自分を、つまりタンマを信じ、タンマの中にいるよう自分自身を律し、西洋人に負けないタンマがあったので、自分を尊敬していました。東洋へ初めて来た西洋人は、自分を信じること(self confidence)、自分を律すこと(self control)、自分を尊重(self respect)することを自慢しました。

昔外国へ留学した人は、大学を卒業すると紳士について話し、自分を信じること、自分を尊重すること、自分を管理することばかり話しましたが、今は聞きません。高齢の方は憶えていると思います。私が子供だった頃は、非常にこの言葉を聞きました。今は聞きません。

西洋人が変わってしまい、これらがない見本になりました。つまり自分を信じないで、自分を律しないで、自分を尊重しないで、物質主義と物質面のテクノロジーを見せるだけです。私たちも真似しているので、私たちはタイの独自性をすっかり失い、タイ音楽など以外には、本当のタイの独自性は何も残っていません。タイ音楽のようなは国を救うことはできません。タイであることを助けて危機を脱し、自由にしません。

どうかみなさん、タイの独自性を取り戻し、タンマのある生き方をしてください。タンマがあるとは、自然の法則と一致する正しい行動をすることで、そうすれば私たちは、生老病死の苦の友として生きられます。どんなに格差があっても、密林の植物のように共存できます。ものすごく大きな木が、クワズ芋類やシダ類、灌木と一緒に、問題なく生きられるのに、人間がこれらの植物より劣ってはいけません。

これが、永遠の平和と、穏やかな幸福をもたらす生き方です。格差の問題はなく、身勝手すぎて貪、瞋、痴を生じさせる原因である、食べすぎに関する失敗もありません。これを「生き方としてのタンマ」と言います。どうぞみなさん、生きることを、投げ捨ててある水牛の綱のようにしないで、進行させてください。

時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。


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