教育制度としてのタンマ

 

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 タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日の法話は、「教育制度としてのタンマ」と題してお話します。前回のように、もう一度復習させていただきます。私が「教育制度としてのタンマ」というお話をするのは、別のタンマと教育を撚り合わせるのではなく、教育制度としてのタンマです。

 みなさんが、タンマの四つの意味を憶えていれば、当然すぐに理解できます。自然であるタンマが一つ、自然の法則であるタンマが一つ、自然の法則での義務であるタンマが一つ、その義務を行なうことから生じる結果であるタンマが一つ、全部で四つです。この四つどれもタンマと呼びます。自然の法則での義務もタンマです。

 教育は自然の法則での義務なので、教育はタンマになります。同じものをタンマと呼ぶこともできるし、教育と呼ぶこともできます。

教育制度であるタンマは、以前に「政治はタンマ、経済はタンマ」と述べたように、タンマと教育を一つのものにしなければなりません。これは、これらの本当の目的に従って正しく振る舞えば、全部タンマになるという意味で、政治も経済も、戦争も正しい理由で行なえば道徳になります。

次に教育とは何でしょうか。現在私たちには、自然の道理による、あるいは自然の法則による教育は、少なくとも三つの系統があると知るべきです。

一つ目は知育とか何とか呼ばれる、勉強を教え賢くすることで、

二つ目は、職業ができるようにする職業を教えることで、職業技術や運動などもこれに含まれます。

三つ目は、心や精神の問題で、すでに勉強が良くできる人を、正しく完璧な人間にすること、つまりタンマがあるようにすることです。三番目の教育制度は、心の、精神の、タンマの、道徳の、呼び方はいろいろですが、そういうことです。

だから三番目の系統はタンマです。しかし学校は、現代社会の教育から切り捨ててしまい、残っているのは二つの系統、つまり勉強を知って賢くすることと、職業を教えるだけで、心の話、精神の話、タンマの話、宗教の話は、最近完全に切り捨ててしまいました。先進国が先に切り捨て、後進国が真似をして捨てたので、教育の系統は二つだけになりました。勉強を教えて賢くすることと、職業を教えるだけで、心の話、精神の話、つまりタンマの話はありません。

タンマの話がなければ、私たち人は何なのか、という問題がすぐに生じます。

大昔から、人と動物を区別するタンマに関した教えがあります。ブッダの時代より前からかもしれません。どうか良く聞いてください。この教えに反論する人がいるでしょうか。「食べ物を探して食べることも、眠りの幸福を求めることも、恐怖を知り危険を避けることも、異性間の営みも、これらは人も動物も同じにある。タンマだけが人と動物を区別する。タンマがなければ、人は動物と変わらない」。

今述べた理由で、食べること、寝ること、危険を避けること、性の営みをすることを知っているだけでは、人と動物は同じです。タンマを増やすことだけが、人を人にし、動物との違いを生じさせます。これに反論する人はいるでしょうか。この規定を容認しない人がいるかどうか、後で考えてみてください。だから、「私たちにはタンマがなければならない。タンマを学ばなければならない。そうすれば動物との違いがある」と見ることができます。

勉強だけさせて賢くし、職業しか知らなければ、タンマがないので動物と違いはありません。「人のような」と言われる何があっても、動物と同じ意味しかありません。だからこれから、「二つの系統の教育しかないのは人間として十分ではない。この世界に人間性がなく、教育も無になり、あるいは無になる。つまり平和にする人間性を育てることができない」と見ます。

道徳教育は名ばかりで、平和を築くには十分でなく、個人の平安を作るにも、社会の平和を築くにも足りません。私たちの道徳教育は名前だけで、勉強や職業の教育とは比較になりません。だから教育に三つの系統がなければ、本当の教育の目的である結果はありません。

完全でない教育に、十分な結果はないので、教育に関して、この世界にはまだ無駄があり、人間は、世界に平和、あるいは平安を築くことができる十分な利益がありません。人間の問題解決に必要なものを生じさせない部分で、教育は無駄です。

無駄なものは、二十から三十あり、熟慮するとびっくりします。タンマ、あるいは道徳に欠ける教育は、世界に人間性を築かない、無駄で役に立たない教育です。

初めの無駄は、私たちには発展したと言われる教育があり、世界中が列になって真似をしていますが、それでも麻薬の問題があります。教育のある人も麻薬を使い、麻薬を崇拝し、麻薬に夢中になるほど愚かです。ヒッピーの人だけではありません。

タイの学校、大学生たちも、今大学の中も、麻薬に汚染されていることが分かっています。これが無駄な教育です。つまり、人が麻薬を使うほど愚かになるのを防止できません。正しい教育なら、子供たちは決して麻薬の奴隷にならず、そしてみんなで麻薬撲滅をしなければならない問題は生じません。

次の無駄は、汚職の問題です。汚職は低いレベルから国家レベルまで、世界中にあります。教育にタンマがないので、人は汚職をするほど心が低劣です。

堕落の問題はどこにもあります。特に性的な堕落が新聞紙上で見られます。世界の大国の大都市でも、そういう堕落があり、路上でそういうことが行なわれています。発展途上国と言われるタイの話をするまでもありません。自ら先進国と名乗っている国でも、至る所に堕落があり、豊かさから生じる社会の危険があります。権力のある人はみな高い教育がありますが、それでもまだ十分ではなく、社会に危険があります。

私たちの子供はまだ、国を、宗教を、国王を知るのが少なすぎます。国王のいない国でも、国と宗教を知らなすぎます。だから彼らは国を変えたがり、宗教を何の利益もない麻薬と見ます。教育が完璧なら、国と宗教と国王に関わる若者の問題は生じません。

もう一度簡単に見ると、国会には、凶暴で喧嘩腰で、物を投げて乱暴をする議員がいます。世界の名誉ある国の国会に、物を投げる人がいます。タイの国会にもこの種の議員が出始めました。報酬や政党で議員を選び、民主的な心で選ばないからです。これは教育の不足で、だから理解し合えません。

資本家と労働者、つまり富豪と貧乏人が理解し合えないので、どちらかを消滅させなければならないという考えが生まれます。これは最高に愚かな話です。自然の法則は、人の群れの中に多少の格差が生じるよう強いています。これは必ずあり、仕方がありません。だから私たちは、違うものが共存できるようにしなければなりません。

たとえば非常に太くて大きな木は資本家で、根元の灌木は労働者のようなものですが、なぜ共存できるのでしょうか。大木を伐ってしまえば、根元の灌木は陽射しに晒され、枯れてしまい、生きていけません。労働者に仕事を与える資本家がいなければなりません。しかし、仲良く共存できる良い教育が必要です。

根元の灌木やシダ類は土壌を良くするので木は快適で、木も日陰を作って、灌木やシダ類を快適にします。人間にこのように見せる教育が十分でないと、お互いに攻撃し合う、何か知らないバカみたいな主義が生まれます。これが、教育の無駄です。

良い話である人権も、訳が分からずに、今日まで人権の話で口論し仲違いをしています。新聞を読むと、「教育が十分でない。人間はまだ愚かだ。人権の価値も知らずに、他人を責められるない」と知ります。

まだ生産者の搾取があります。生産者は機会があればいつでも搾取をし、人間同士に誠実がないので、タイは重大な問題に遭遇しています。どんな業者間にも誠意がありません。

特に協同組合はそうです。協同組合は、仏教の教えで人間を支援する、非常に良い仕組みですが、私たちは組合を作ることができません。人の心が低劣だからです。不正を企むので共謀組合になります。一緒に不正をする共謀組合になるので、協同組合ができません。教育はこれほど、国民が協同組合を組織することもできないほど無駄です。あるいは何もできません。つまり団結できません。

この地区もまだ団結できません。国のレベルでも団結できません。心にタンマがないので、喧嘩して分裂します。教育は団結の価値を教えることもできません。だから、これは教育が無になっていると捉えてください。

庶民は国の資源、自然資源を消滅させ、動物を絶滅させ、森を消滅させ、谷や沼や水路を消滅させるので、何も有効に使えません。公共の財産を維持することを知らないので、ロクでもない人になり、自分と社会の利益を消滅させます。だから貧しく、非常に低劣な職業をします。

仕事の怠け癖を止めない人は、仕事を嫌い、大変なことをしたがりません。誰でも「働きたくない。必要に迫られたことだけする」と言います。これが教育の不足です。仕事に幸福を見出すことを教えません。

タンマが十分あれば、道徳が十分あれば、働いている時に幸福を感じます。快楽を買うことができるお金をもらった時、心を満足させるものが得られた時が幸福ではありません。それは妖怪亡霊煩悩の話で、肉体的な満足のためにお金を使うと幸福になります。

仏教の善人なら、働いている時に幸福を感じます。まだお金をもらっていない、働いている時、まだ給料日にならなくても、働くことに満足を感じます。仕事を尊重し、自分を尊重し、自分は善人で善いことをしていると、自らを拝むことができます。

善を行なうことに幸福があります。教育が十分なら、子供をこのように、つまり、勉強している時幸福を感じるようにしつけてください。勉強は仕事と同じです。食べに行き、遊びに行き、煩悩のご機嫌をとって幸福になる必要はありません。

今は、仕事よりも心を喜ばせて夢中にさせるものがありすぎます。働く人は少しで、心を喜ばせるものを求めて歩く人は非常に多いです。だから心を喜ばせるものを好む主義になり、心が低劣で、裸に近い集会や罪な行事を催し、露出を好みます。心がこれほど低劣なのは、教育が十分でないからです。

教育にタンマがないので、これらの人々を根(感覚器官。六処)、つまり目、耳、鼻、舌、体、心の奴隷にします。

煩悩に支配されると、子供たちは先生や親を尊敬しません。今の子供で、「クンクルー」という言葉を使う子は滅多にいません。ただの「クルー」だけです。(註:クルーはパーリ語のグルで先生という意味。クンは君、目上の人に使う敬称)中には「おーい」と呼ぶ子もいます。「親は命をくれた人」、あるいは「恩のある人」と感じないので、彼らは尊敬しません。

現代の子には「罪」という言葉がありません。昔の子供は、「罪」という言葉を聞くとハッとしました。現代の子は「罪」という言葉を聞くと、舌を出します。私の子供の頃は、「罪」という言葉を聞くと、ハッとしました。現代の子は「罪」という言葉を聞いてもハッとしないで、誰かが罪と言うと、舌を出します。これを、子供たちは親や先生を敬わないと言います。

昔から宗教を教える人は、お寺のお坊さんか、教育をするお坊さんでした。西洋の国の大学も、昔はすべてお坊さんがしていました。お坊さんが学校を作ったのは、ブッダの徳を大切にするためです。

今は一般人が作るので、給料を貰うために作ります。ブッダを尊敬するための教育と、お金のため、給料をもらうための教育。これが同じであるはずがありません。だから道徳の消滅と言います。教育から道徳を追放したので、「教育がある」と言われる人たちにも迷信があります。

クルンテープ(バンコク)にもまだ迷信があります。ある「午年」のこと、午年生まれの人は死ぬと言って、国中が大騒ぎになりました。まだこういう状態があります。教育が十分でないから、考えが煩悩に負けます。タンマがないので、煩悩のことしか考えません。

現代は不潔な習慣が生まれました。今の葬式は非常に汚く、酒を飲んで酔って殺生をします。カティナは博打のため、出家式は酔える好機です。人はこういう習慣を作りました。教育が不十分だからです。

まだ社会にとって忌わしいことがあります。つまり、詐欺や降霊術や何か恥知らずなことも、人を騙すことです。人間同朋に対して誠実さがないので、何をしても、タンマの面、宗教の面の意味がありません。形式だけ、ただするだけ、あるいは過剰で上手く行きません。だから人は悪くなります。

小さな盗みや窃盗が次第に略取になり、過剰なものに溺れ、食べ過ぎ、オシャレをしすぎ、装いすぎ、道具を持ちすぎ、何でも過剰になり、煩悩が厚くなります。これを「教育の無駄」と言います。教育がタンマに関わらないから、タンマを教育制度に取り入れないからです。

タンマがある教育は、これらの悪い問題を全部解決できます。麻薬や汚職や堕落や、今ある、様々な社会の危険で人間社会に問題を生じさせません。

だから、「教育制度であるタンマ」、つまり本物の、自然の、自然の法則の教育は、自然の法則で正しく実践しなければならない義務を知っていると、良く見てください。知れば正しくできるので、問題は生じません。

今私たちはすべて間違っています。完全でない、つまりタンマでない、タンマがない教育なので、どんな対策をしても、善い結果は得られません。勉強も、昔より良くできず、職業も、信頼できる善人を作りません。お金があればあるほど身勝手で、どんどんずる賢くなります。

だから三番目のタンマ、つまり自然の法則で正しく行動しなければならない人間の義務を勉強しなければなりません。

もう一度復習させていただきます。昔の教育は、お坊さんが教育者だったので、宗教と切り離せませんでした。アジアでも、ヨーロッパでも、どこでもお坊さんが教育者で、古代から、教育と宗教は一つのものでした。その後どんどん教育が一般庶民の手に渡り、庶民は教育と宗教を分離させました。

最後には別のことと見て、宗教を教育から切り捨ててしまいました。教育から宗教を切り捨てること、secularization には反対させていいただきます。精一杯反対します。宗教から教育を切り捨てる、あるいは教育から宗教を切り捨てるのは、狂っている話なので、私は精一杯反対させていただきます。

どうぞみなさん、「教育省」という名前を、もう一度「タンマカーン(法務)省」にしていただきたいと思います。高齢の人は、昔は法務省があったことを知っています。最近になって教育省に変わり、昔はタンマカーンと言いました。教育と宗教は一体であり、宗教を重視していたので、省の名前をタンマカーン(タンマの仕事)としました。古い書類を調べればタンマカーン省というのがあります。その時はまだ、教育と宗教は一体でした。

私たちは間違っているでしょうか、正しいでしょうか。昔は正しかったのに間違ったのかどうか、考えてみてください。「教育制度としてのタンマ」は、世界を救うことができると言わせていただきます。タンマである教育を行なえば、教育であるタンマを整えれば、先ほど述べた二十から三十ある悪いことも、無くなります。

タンマはどう必要か、後で考えて見てください。人間が動物にならなくてもいいようにできるくらい必要です。人間と動物に違いが生じるのはたった一つ、教育です。ただ勉強を知って賢くなり、優秀な仕事に就くだけでは、動物であることから抜け出せません。それではタンマがないので、どんどん身勝手になり、自分を苦しめ、他人を苦しめます。それでは生きていけません。

世界に永続的な危機があり、平和がないのは、教育が無になっているからです。今のは教育ではありません。つまり教育制度にタンマがないので、人は利己的になり、欲怒りや惑溺が生じると、自分を苦しめ他人を苦しめ、穏やかな幸福がありません。

良く調べれば、この世界の至る所で、昔は今より幸福だったと分かります。今よりも慈しみ深い人がたくさんいて、今より快適に暮らしていました。今の教育はどこへ突っ走ろうとしているのか、それは破滅へ向かっています。利己主義の機会を増やし、利己主義を管理しない教育をするからです。

どうかタンマである教育、教育であるタンマにしてください。そうすれば人間は、すべての問題の上にいる高い心を持った人間になります。どうぞ、これを考えて見てください。私はこう主張させていただきます。これを後で熟慮して、この願いに応えてくださるよう望みます。時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。


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