経済制度であるタンマ

 

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 タンマにご関心がある善男善女のみなさん。今日の法話は、「経済制度であるタンマ」と題してお話します。お聞きの方の中には、経済は世俗の話で、タンマはタンマの話なので、あり得ないないと反論する方がいるかもしれません。

タンマを原則にする仏教教団員の視点で見れば、当然どこにも、経済制度と呼ばれるものにも、タンマを見ることができると理解してください。もしまだ、前にお話したタンマという言葉の意味を憶えていれば、タンマと呼ばれるものは、発達のどの段階でも、人間性から見て正しい行動体系です。

 今経済と呼ぶものも同じで、つまり、人間の発展のどの段階にも、人間が正しく行なわなければなりません。個人的にも、集団で関わっている社会でも、彼らの発達のどの段階でも、人間には正しい経済制度を行なわなければならない義務があるので、その意味でタンマになります。これは、この二つの言葉の意味に関する知識が、十分かどうかに掛かっています。

 すでにお話したように、タンマという言葉には四つの意味があります。つまり自然、自然の法則、自然の法則での義務、義務の実践から得られる結果を意味します。今経済と呼ばれるものは、人間が自然の法則で行わなければならない義務です。そして何らかの結果があれば、経済の結果です。

三番目の、自然の法則で人間が正しく行なわなければならない義務、という意味のタンマは、タンマという言葉の重要な要旨で、経済にもそういう意味があります。この二つの言葉の意味を完璧に知れば、それを、自然の法則に従って正しく行なわなければならない人間の義務、と見ることができます。ここで、正しい、正しくないと言うのは、どういうことか、という問題があります。

 私は、経済には、他人より優位になるために他人を支配する方便として使う目的があると見ています。それではタンマではありません。正しくないのでタンマではありません。タンマから見た経済という言葉の、正しい意味を見なければなりません。

それは、平和と幸福のためにしなければならない義務で、道徳、あるいは自然の法則での義務であるタンマです。経済の意味は、自然の法則で正しく、自分と他人の利益を生じさせるためにすること、という点が、タンマの意味と同じです。

 経済とは、価値の少ないものの価値を高くする、あるいは何もないものを何かあるものにすること、と定義するべきです。こういう面を見れば、神様を最高の経済家と見ることができます。神様は、無から、すべての物を造り出したからです。その前は何もなく、それから何かができたと誰でも知っています。誰の威力でしょうか。神様の威力、神様の名においてです。

仏教教団員は、自然の法則は何でもでき、自然が現れる前からあるので、自然の法則を神様と見なしています。いろんな自然は、自然の法則の威力で生まれました。だから、神様は万物より前から存在すると信じるように、私たちは自然の法則は何よりも前からあると信じます。 

 神様は、無からすべての物を造りました。無を資本にして、あらゆるものを得ました。こういうのを、神様は最高の経済家と呼ばずにいられるでしょうか。自然の法則は、究極の経済家である神様です。擬人化して言えば、究極の経済家です。タンマも同じで、価値の少ないものを価値の高いものにします。

たとえばこの体は腐った不潔なもので、価値は少ないですが、タンマは、涅槃に到達するほど、体の価値を高くします。すべての教えは、利益のないものを利益のあるものにし、あるいは、害のあるものを益のあるもの変えてしまうほどです。どれほど利益があるか考えてみてください。タンマ体系は、利益のないものを利益のあるものに変えます。あるいは害のあるものを、利益のあるものにします。

 だから、こういう形で正しく経済を行なうことは、タンマの行動です。あるいはこの場合のタンマの行動とは、正しく経済を行なうことです。タンマの目的は経済の目的で、価値の低いものを価値の高いものに、最高の価値に、あるいはまったく価値のないものを価値のあるものに、あるいは害になるものを益になるものに変えることまで目指すからです。これがタンマの目的で、経済と呼ぶものの目的でもあるべきです。

 「自然は最高の経済家」と言いたいと思います。みなさん、自然全般を見てください。人間世界や太陽や月には作れないいろんなものを作り出し、立派に進化させ、結果や儲けがあります。自然の法則は経済の法則です。

 自然には進化の法則があり、いろんなものを進化させ、自然の流れに進歩があるように、絶えず儲けがあります。これを、自然は最高の経済家と言います。見て理解し、そして手本にしなければなりません。自然の法則は経済の法則であり、そして随時、儲けである発展があります。

 今人間は、神様の経済、あるいは自然の経済を消滅させる凶悪な悪魔です。自然の神様が何かを作り、良い経済の状態、つまり繁栄する発展のあるものを作り、そして人間は、常にそれらを消滅させる悪魔になり、物質主義の時代になって、どんどん酷くなっています。

 熟慮して見れば、自然は人間の経済のために、世界中の資源を与えたことが分かります。この世界にどれほどの資源があるか、測り知れません。これは自然が、人間の経済発展のためにくれました。人間は恩知らずの生き物のように、それを消滅させ、自然に感謝することを知りません。資本、あるいは元手として、人間に最高の利益を生じさせる発展のために、自然が与えた森林を消滅させました。人間はまだ抜け抜けと破壊し続けています。

 ブッダは木の根元で生まれ、木の根元で大悟し、木の根元で涅槃に入りました。木は努力を満たす場所であり、ブッダが最高に気に入っていたものと見なします。このようにブッダが非常に気に入っていたものを消滅させることは、仏教教団員の心を、ひどく踏みにじる行為です。これが罪か徳か、自分で考えてください。恩を知らない生き物は、童話の「恩知らずなホシジカ」のように、必ず破滅します。

 私くらいの年齢の方は、きっとホシジカの話を読んだことがあると思います。一頭のホシジカが、遠くから猟師が来るのを見て、木の茂みに隠れました。猟師に見えなかったので、猟師は通り過ぎ、鹿は命拾いをしました。すると鹿は油断して、その繁みの草木を全部食べてしまいました。

ちょうど猟師が帰り道でそれを見つけ、恩知らずの生き物にふさわしく、撃たれて死にました。自然は資源を与え、敵から身を護るものを何でも与え、人間は抜け抜けとそれらを消滅させています。人間が何のために自然を破壊しているのか、考えてみてください。

 考えて見たとき初めに見えるのは、自分の道徳のないことを促進させるためです。人間は煩悩を増やすために自然を破壊します。それらを、人間が所有する必要を超えた煩悩の餌にし、自然、あるいは神様がくれたものの価値を考えないで、破壊します。自分のためにあるものを消滅させるのと同じで、ますます発展させなければならないものを、消滅させてしまいます。こういうのを、自分の道徳が無いことを促進させると言います。これは、物質と精神、両面の経済を消滅させます。

 物質である資源の消滅は、精神面である心を低劣にし、それが人間性を消失させ、人道を壊滅させます。これが経済かどうか考えてみてください。それは破滅させ消失させるので、経済にはなり得ません。だからタンマでない経済、タンマのない経済は、世界を消滅させる種類の経済で、世界を破壊し、長期にわたる危機を作り、そして最後には破滅させます。この種の経済は、物質を溢れさせ、名のもの(抽象)である人間性の価値を無にします。

 私たちが物質を溢れさせることで失った人間性について考えてみてください。女性、あるいは母である人が、男性と同じに働かなければならないのは、妖怪たちの狂った経済だと、はっきり言いたいと思います。母親が父親と同じように働かなければならなければ、子供は、面倒を見る人がいないので、子の人間性は損なわれ、人間の人間である意味が少なくなります。

母親が父親と同じように働きに行かなければならないので、子供の精神を慰める人がいないからです。手にする仕事の結果は、自分の子供が正しいしつけを受けられないことと見合いません。これは、仕事の結果であるお金よりはるかに大きな被害です。二人目の働き手として母親が働きに出なければならないのは、物質面しか見ない経済主義です。

 資本家の経済は、物質面の結果しか狙わず、見るのは物質だけ、崇拝するのは物質だけです。なぜそれは、dialectic materialism だと、良く見ないのでしょう。なぜ心の面、精神の面を見ないのでしょうか。物質を重要視し、物質を溢れさせれば、すればするほど身勝手になります。そして最後に、私たちの暮らしはどうなるのでしょうか。どうぞ考えてください。

 人間は自然の経済、神様の経済を、物質的にも精神的にも消滅させました。物質的な消滅は森林破壊などです。一本の木を切ったら十本の木を植えると言うのは、数字だけです。観察した限りでは、数字があるだけです。人間らしく心を高める訓練をする場所である森林を破壊し、彼らの物質的経済を害すので、心の訓練を時間の無駄と見なします。

彼らは物質しか見ず、心を見ないので、物質的経済を害すとして心の訓練を嫌います。それが、最高に価値のある人間であることを、すっかり消滅させ、その結果手に入れた物質を崇拝します。比較しようにも、比較になりません。

 どうか良く考えて見てください。精神的な価値を破消滅させて物質的な価値を考えるのは、何の経済制度でしょうか。無明の、あるいは明の、天人の、あるいは妖怪亡霊の経済制度でしょうか。

 神様、あるいは自然の法則がある経済の法則もあり、利己主義で余分を求めないという一つの形になるかもしれません。余計なもの、過剰なものを求めるのは、自然の法則に反し、自然の経済原理に反します。給料が少ない階層の公務員が生活費に困るのは、過ぎた生活をするからです。

これは自然の、あるいは神様の経済に反します。良く見える余計な物を止めれば、経済を害すものはありません。余計な物、過剰なものを止めれば、タイの国は、今後はどの国に対しても貿易赤字になりません。余計に使う部分は非常に多いからです。

 この「過剰」とは、食べたり使ったりしすぎるという意味ですが、生産する側、作り出す側は、余計と見なしません。生産能力があるだけ生産し、結果を貰ったら食べすぎず、使いすぎず、たくさん残し、そして残した分で、他人を援助します。あるいは社会全体を発展させます。これが自然、あるいは神様の経済原則です。

人間に平和を生じさせる神聖なものには、余計な物はありません。それが神様の自然の経済で、自然の中に見ることができ、余分に求める物が何もないので、快適に暮らせます。

 自然に生きる人は、余計な物を手に入れる機会も、余計なものを蓄えておく蔵もありません。動物には蔵がないので、余分に取りません。植物も決まっただけ、あるいは必要なだけしか食べず、余計に取りません。クワズイモも余分に取らないので、一緒にいられ、安定しているので平和にします。

 経済のここを間違わなければ、つまり一人一人が余計に取らなければ、煩悩や身勝手は生じません。金持ちと貧乏人が一緒に暮らせ、愚かな人と賢い人も一緒に暮らせ、丈夫な人と病弱な人も一緒に暮らせます。森の中の太くて大きな木が、小さな木と一緒に生きているのと、蔦もクワズイモ類も、灌木も一緒にいられるのと同じで、経済的な侵略、つまり余計に取らないので、何でも増えます。

 ロクでもない人間が関わらなければ、お祖父さんお祖母さんの時代のように、それらの発展は維持されます。つまり森の中は、最高に大きな木から小さな灌木まで、共存する木々がいっぱいで、海は昔のように、魚がいっぱいになります。人間が関わって減ったのは、つい最近です。森の中は虎や鹿や他の動物がいっぱいいて、何も絶滅しないで共存できました。人間が関わった時、絶滅は始まったばかりです。

 煩悩による経済の多い人間が、余剰ばかり狙った結果、神様、あるいは自然の経済原則をダメにしました。だから神様、あるいは自然の罰が下り、危機で困窮し、常に混乱しています。良い方へ発展するものは何もなく、混乱する方の発展ばかりです。発展すればするほど問題が増え、苦と同居するようになります。

 簡単に見える神様の経済の教えは、八戒(菩薩戒)です。八戒を守る人が余計な物を求めることはありません。愛欲に関した戒は、性の営みは毎日する必要はないので、時々避け、長く避けることもできるという意味です。

八戒の六番目は、時間も、状態も、方法も、何でも過ぎた食べ物を摂りません。

 七番目は、余計なもので体を喜ばせません。歌ったり踊ったり楽器を演奏したり、飾り立てたり、化粧をしたりするのは余計です。

八番目は、過剰な道具を使いません。住まいも過剰でないように、ちょうど良い程度にします。これは、経済で困らないようにする八戒の経済の教えです。しかし人は古臭いと見て、興味のある人はいません。タイの人全員が八戒を持すだけで、貿易赤字はなくなります。

 これです。経済制度であるタンマはどのようか、それは本当かどうか、熟慮して見てください。一人一人を幸福にするタンマのある経済の意味なら、世界中を穏やかな幸福にします。タンマは最高の経済制度であり、神様、あるいは自然の経済制度です。

 人物のような神様と言っても、すべての物を造り、発展させる形で支配している自然の法則と同じ意味があります。世界の人間を基準に話せば、初めは何もなく、それからどんどん増えて、喜ばしいほどいっぱいになり、そして現代のロクでもない人間が、神様や自然の経済がないので、これらを全部壊滅させました。

 どうぞもう一度熟慮して見てください。そうすればタンマである、あるいはタンマに関わる経済だけが、世界を安楽に共存させる助けになると理解できます。最高に大きな木が小さな灌木と共存できるように、格差はあっても、安楽に共存できます。

 時間になりましたので、神様の経済制度であるタンマというお話は、これで終わらせていただきます。


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