労力に見合わなければならないと知るべきタンマ

 

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タンマにご関心がある善男善女のみなさん。今日も、道徳が戻らなければ世界は破滅するので、道徳が戻すことを目指してお話します。そして今日のテーマは、「労力に見合わなければならない」という題です。

この題を聞くと、道徳ではなく、経済あるいは商売の話のように聞こえますが、本当は、内容は道徳の話です。智慧の部分である道徳、あるいは明が最高に照らせば、価値に見合った労働は道徳です。なぜなら、価値の少ないものの価値を高めることは道徳だからです。

特に私たち人間はすべて、土・水・風・火・空気・魂の元素があります。あるいは五蘊、つまり形、受、想、行、識に分けることができます。しかし元の資本はまったく同じなのに、なぜほとんど価値のない人もいれば、最高に価値のある命の人がいるのでしょうか。

明日はヴィサーカ祭、人類最高の勝利を祝う日で、最初の人サンマーサンブッダが、煩悩に驚異的な勝利をしました。人類は絶えず煩悩の威力下に陥っていましたが、この日に一人の人間が、煩悩に圧勝することができました。だから私たちは、今日をお祝いします。今日を大々的に、つまり人間が煩悩に勝利したことを祝います。人間の名前で成し遂げたブッダがいるので、かつて煩悩の奴隷だった世界の生き物は、煩悩に勝って、煩悩の上にいる方法を知ることができました。

こういうのを考えて見てください。人間であり、私たちと同じように体と命があって、五蘊と六元素があるブッダが、なぜすべての人類の名において、悪魔に勝つことができたのでしょうか。これは労力に見合います。労力以上で、労力以上と言う以上、価値を越えた価値以上です。この命を、価値以上の価値、労力以上と言う以上の儲けがあることのために使うのは、道徳か、道徳でないか、みなさん考えて見てください。

頭が経済や商売の人は商売の面を見ますが、私たちは仏教教団員なので、当然道徳の面を見、つまり価値が少ないものの価値を高め、あるいは価値のないものに価値を生じさせます。これも道徳です。一般的な意味の経済で見れば、経済と呼ぶものも道徳です。なぜなら人間の利益のために、人間がより便利になるためにするからです。しかし道徳のある方法でなければなりません。

道徳がなければ、今世界を混乱混迷させているような、不正な経済です。不正な経済、つまり道徳がないので、経済面を見ても、道徳を維持することはできません。だから私は、労力に見合った仕事という題目で主張します。これは道徳を戻すための実践項目です。

次に、力を注ぐ、あるいは投資するという言葉を理解したいと思います。力を注ぐ、あるいは投資することは、自然では見合います。行動する意志のある人間の投資は別ですが、自然の投資は、非常に見合うと言います。

すべての進化を、価値ある労力の傾注と捉えてください。確実で見合った労力の傾注は、自然の進化の流れです。自然が、空っぽで何もない労力を注いで、太陽が生まれ、太陽の一部が分かれて地球になり、冷えると acneous stone という石の一種になりました。

そして世界はこの石を投資して、最後に世界にいろんな生き物を生まれさせました。これが最高に価値がある投資です。本当の自然は価値に見合った、あるいは価値以上の投資である進化があると言います。しかし私たち人間は、自然を真似ようとしません。

次に、人間の意志による投資を見ると、世俗的には、人間は金持ちになるため、食べるため、愛欲のために労力を注ぎ、投資します。文化の話も、見合うか見合わないか考えて見てください。今どんな状態でしょうか。人間は徳を生じさせ、善を生じさせ、名誉を生じさせ、公共の善を生じさせるため、最終的に天国を生じさせるために道徳面に労力を注いでいるでしょうか。それは見合うでしょうか、見合わないでしょうか。

最高のレベルを見れば、つまりパラマッタ(第一義諦。第一義説法)では、私たち人間は聖向聖果、涅槃のために投資し、そして望み通りの結果を得るのは、投資に見合うでしょうか。考えて見てください。

世俗的な投資も、私には、労力に見合わない状態が見えます。世界の人間は今、見合った結果がない状態の投資をしています。不正で、不誠実で、道徳がない身勝手で投資するので、悪い結果を生じさせる方向へ転がります。

取り上げて検討する価値のある例は、今人間は、四依に関わる正しさがないことで、食べること、衣服、住まい、そして病気の治療の問題は、満足するべき、望ましい結果に出合っていません。つまり平和がありません。

どんなに素晴らしい食べ物があり、どんなに最高の装いをしても、どんなに最高の家に住んでも、どんなに最高の治療をしても、それには非常に投資しなければなりませんが、人間は、投資に見合った結果が得られず、まだ危機がいっぱいあり、ロクデナシがいっぱいいて、道徳の欠如と悪劣なものがあります。

次に、発展する力と称賛されている教育への投資を見ると、私たちタイも教育に投資をし、何万という学者を輩出していますが、暇を持て余したことがない学者です。全員暇を持て余したことがない学者ばかりで、仕事がいっぱいで、何をしたら良いか分かりません。田んぼの仕事もできないし、家庭菜園もできません。私たちは、暇を持て余したことのないタイプの学者ばかりで、暇を体験したことのある学者を作る人たちには敵いません。

次にすべてのテクノロジーについて見ると、どの方向へ向かうのか分からないほど、非常に進歩発展していますが、すべての科学技術の知識は、いい気味ですが、どんどん人間を物質の奴隷にし、肉体面の味の奴隷にします。テクノロジーの結果は、見合うでしょうか。

すべての宇宙事業は、みんさんは、いつも宇宙のことについて耳にしていますが、結果はどうでしょうか。見合うでしょうか。何十万か、何千万か、それとも何兆か知らないほどのお金を費注いで、それでどれだけ平和になったでしょうか。結果を譬えて見ると、飛行機に乗ってバッタを獲るようです。

私たちの宇宙事業は、飛行機に乗ってバッタを獲るくらいの結果で、見合うでしょうか。

次に核の事業を、核の方面は進歩して、それが何を生むのか、どんな結果が出るのか、いつかどんな結果を生じさせるのか見ます。私は、すべての核の事業は、棺を用意して、前もって世界を入れているように、前もって世界に棺を用意しているように、最終的に世界を掃滅するように見えます。

そして次に、繊細で美しい物を見るろ、世界の芸術は進歩していて、芸術を愛好し、振興し、芸術について饒舌に話しますが、芸術の進歩によってどんな結果があるでしょうか。

芸術は、普通の人には理解できないほど進歩しました。もっとたくさん、もっと最高に愚かに勉強すれば、そうすれば芸術が理解できます。これには、時間の浪費が増える以外に、どんな利益があるでしょうか。

それに、平和に貢献したことがなく、昔のように宗教に仕えたことがない芸術で、人間の煩悩に仕え、人間の煩悩を増大させる芸術です。最高に良くて政治に奉仕するだけで、政治の利益のために政治に使える芸術で、まだ平和に繋がる道はありません。

労力に見合わないものを更に見て行くと、それは考古学と歴史学です。歴史や考古学に関わる詩文の発掘は、幾ら発掘しても人間を愛させる結果を生じさせません。

歴史と考古学が発掘するのは、戦いや復讐の応酬ばかりで、歴史に残るほど憎しみ合い、道徳を持たせる結果にしません。

例を挙げれば、どの派のどの部分のどの面の考古学や歴史が、人間を愛し合わせ、道徳を促進したでしょうか。前よりも更に復讐の応酬が激しくなるだけに見えます。

これを私は、「見合わない」と言います。非常にお金や時間や労力を投資しても、まだ歴史や考古学からは、投資に見合った結果が得られていません。

次はもっと身近な司法制度、法律を維持すること、刑務、過ちを犯した人の処罰も、まだ見合う結果がありません。たくさん投資しても良すぎるので、ますますロクデナシが増え、ますます世界のロクデナシを酷くします。司法制度、刑務などが良すぎるから、費用を掛けすぎるからで、昔のようにお金を掛けずに粗末にすれば、今よりもロクデナシは減ると信じます。

私は、例として挙げたものは、人はまだ価値に見合う結果が得られていないと見ます。すべての世俗的な問題は、四依(衣食住薬)から、暇を持て余したことがない学者を輩出する教育から、科学技術、宇宙事業、核の事業、芸術、考古学、歴史学、刑務、司法から、まだ見合う結果が得られていません。道徳がないので問題が増え、道徳がないのでこれらの問題を解決できません。それで無駄にお金や労力を投資し、力を注いでも見合いません。これは世俗のこと、本当の庶民のことです。

次に更に高い話を見ると、つまり道徳のレベル、この世界の道徳レベルの行動は、まだ見合いません。たとえば社会福祉は、大きくなることを知らない子育てのような支援をし、愚かに利己的にさせる物質面の支援だけで、自立に関して賢くする心の支援をしません。このような福祉は、生き地獄から脱出する役に立ちません。時には生き地獄がさらに増え、長引かせることもあります。

あるいは徳を積むこと、布施をすることを見ると、五千万(バーツ)の本堂を建てて、年に何日も使わず、一年中閉めきっておきます。五千万の本堂は、見合うでしょうか。地獄の役人は何と言うでしょうか。地獄の役人は、「価値のないことにお金を使った者、庶民のお金を価値のないことに使う者には、何を与えるべきか。いずれかの釜に投げ込むべきだろう」と責めます。

次に伝統文化を見ると、これらは見合うでしょうか。投資する必要のないものに投資しなければならなくします。

たとえば出家式は、ブッダの時代にはまったくお金は掛かりませんでした。行ってブッダと、あるいは誰とでも一緒に暮らし、彼らはお金を掛けずに出家しました。今はお金を、少なくとも一人一万から二万バーツ掛けます。担保を持って行って他人からお金を借りて来て、そのお金を投資して出家し、四、五日で還俗します。

これはどこに価値があるでしょうか。悪事でいっぱいにし、その人の出家に関わる悪事のように酔う水を飲み、悪事のように楽しくふざけます。

カティナも同じです。ブッダの時代のようにするなら、現代のようにたくさんのお金を無駄に使う必要はありません。今人々は酒を飲み、大騒ぎして博打をするためにカティナをします。これで車が転覆して、何組もの人たちが死にます。こういうのを、投資に見合うと言うでしょうか。

火葬も非常に変化して、お金をたくさん使うようになりました。生花代だけでもびっくりします。名誉ある一つの遺体に、何千、何万バーツです。

全世界に知られている偉人、マハトマ・ガンディーの火葬の写真を見ると、薪を積み上げてその上に遺体を置き、そして焼いています。そのうえ棺にも入れません。考えて見てください。一山の薪だけで火葬しました。それがマハトマ・ガンディーの火葬風景です。こういう光景はタイにあるでしょうか。乞食でももっと良くします。

私たちは、文化という響きの良い伝統文化に投資しすぎます。どうぞ出家式、カティナ、火葬などいろいろ、国の経済に何を生じさせているでしょうか。

さて次に、もっと高い、ヴィパッサナードゥラと呼ぶパラマッタム(第一義諦)レベルの仕事を見ると、ヴィパッサナードゥラは、ヴィパッサナーをする人を養うご飯に見合った結果がありません。費やした経済に見合いません。なぜならヴパッサナーは、誤解を生んでいることが多少あり、あるいはたくさんあるので、ヴィパッサナーという言葉の価値に見合いません。

最高に奇妙な言葉は、「ニッパーンパッチャヨー ホートゥ」、「どうぞこれを涅槃の縁にしてください」。こういうのはまだ意味がありません。行動したのに、あれこれ祈願嘆願するのは、まだ涅槃の縁としての意味がありません。

おまけに庶民はまだ涅槃という言葉を知りません。涅槃の話を、現世での涅槃を見えるように、簡単に説明しただけで叱られます。現世での涅槃を見えるように話して、私は幾度叱られたか分からないほど、叱られて来ました。

まだこのように妨害やすれ違いがあるのを、見合う結果にならないと言います。まだ私の投資は見合わないように見えます。良く見ると赤字で、後退で、良い結果よりはむしろ、悪い結果を受け取っています。

さて次に、投資に見合うようにするには、どうすれば良いでしょうか。私たちはもっと、あるいは完璧な仏教教団員の資質がなければならないと思います。つまりすべての仕事を管理する道徳があることです。それを、仏教教団員の資質を増やすと言います。

仏教教団員とは、知る人、目覚めた人、明るい人という意味です。知る人、目覚めた人、明るい人なら、何をしても誤りがなく、投資に見合わないことに溺れず、見合うことだけを選んですることを心得ています。これを、「仏教教団員の資質を増やしてください。そうすればどんな投資、どんな労力の投資も、すべて見合います」と言います。

あるいは道徳である経済にします。経済を道徳にし、道徳を価値が少ないものの価値を増やすものとして使い、利益のある結果のための行動は何でも、道徳が介入して管理すれば、道徳のある経済になります。家庭の経済も、お金を稼いで四依(衣食住薬)を消費するにも、どうぞ道徳でしてください。

「どうか仏教教団員式の長者になってください」と言いたいと思います。仏教教団員式の長者とは、たくさん生産して、少しだけ、必要なだけ食べ、そして残りは社会を助けるという意味です。これが仏教教団員式の長者です。

長者という言葉は、素晴らしい人という意味で、儲けるため、資力を増やすために投資し、そしてどんどん掻き集める資本家ではありません。そういうのは資本家です。しかし長者なら、たくさん生産して少しだけ食べ、残りで社会を援けます。長者は布施食堂があり、布施食堂で施す食糧が欠乏しないように、地下に財産を蓄えておきます。

この世界で仏教教団員式の長者になれば、資本家は自然に消滅し、コミュニストもする事がないので自然に消滅します。どうか仏教教団員式の長者だけになってください。あるいは私たちはすべての生き物と、生の友、老の友、病の友、死の友になるために生まれてきたという教えを信仰してください。このように友情を信仰すれば、苦しめ合うこと、あるいは助けないで見過ごすことは何もありません。

私たちは仏教教団の教えを信じ、あらゆるものと生老病死の友になるために生まれてきました。投資はすべての生老病死の友のためなので、すべての世界のためになります。

みなさんに考えていただくために、全世界の人に一つだけ戒を持ってくださいと、お願いしたいと思います。たくさんではありません。たった一つ戒を持すだけで、「他人を愛す」というたった一つの項目を持つだけで、世界に問題は無くなります。

他人を愛せば誰も殺せません。他人を愛せば、誰かのものを盗めません。他人を愛せば誰かが大事にしているものを侵略出来ません。他人を愛せば誰かに嘘は言えません。他人を愛せば他人を煩わせる酒を飲むことはできません。今は、酔うものを飲んで他人を煩わせることができます。他人を愛すというただ一つの戒があるだけで、五戒も、八戒も、十戒も、何百戒でも、この一項に集約できます。

世界は一つの戒を持すだけで十分です。つまり他人を愛すだけです。他人への愛を強調するのは、すべての宗教の要点です。どうぞ他人を愛してください。そうすれば投資に見合います。見合う以上の、それ以上の価値があります。愛と団結と慈しみで暮らし、誰にとっても敵や仇はいません。

世界中の人が他人を愛すという戒を持すだけで、弥勒菩薩の宗教も生れます。それが弥勒という言葉の意味です。弥勒(メートラヤ)とは他人を愛す、シーアーラヤとは素晴らしい、最高に素晴らしいという意味です。純粋な心で本当に愛してください。世界の問題は無くなります。

私たちの肉体や命には大した価値はありませんが、その体を資本にしてこの戒を持すなら、報いとして弥勒菩薩の世界になるので、非常に価値のある結果があると言います。

これは、何でも価値以上の結果を生じさせる方法です。死んだら誰も欲しがる人がいないこの腐った体にも、価値をつけることができ、忘れない人がいます。価値のある物にすれば、死んで何千年たっても、誰も忘れません。

サンマーサンブッダなどは、誰も忘れる人はいません。忘れる人がいる日はありません。ブッダは、価値のない体を最高に価値のあるものにし、そして他の人も出来るように公開したからです。

時間になりましたので、まとめさせていただきます。この世界の劣悪な問題は、道徳を戻せば解決でき、道徳が戻れば、すべての問題は世界から消滅します。

道徳を戻すにはどんな方法があるか、つまり人間として何をするか、項目を復習させていただきます。何をするにも一貫性がなければならず、ふさわしさがなければならず、頭とシッポがあること、つまり上下があって監督でき、アゴと喉に気をつけ、不正で求めて飲まないで、

古杭を抜いて新しい基礎を埋め、転輪か蓮の華かを見分け、煩悩は自分、タンマも自分でタンマだけを選び、人はまだ人間ではないは、新たに人間に生まれなければならず、仏教徒なら問題はないは、知る人、目覚めた人、明るい人だからで、智恵は理性を伴わなければならない、見解は正しくなければならない、明は照らさなければならない、そして今回は、労力は見合わなければならないで、投資をするなら、労力を注ぐなら、その価値に見合わなければなりません。

今世界は見合わない投資をしています。私たちタイの教育は、暇を体験したことがない学者を作り、すべての科学技術は、物質の奴隷であることを増大させ、宇宙事業は飛行機に乗ってバッタを獲るのと同じで、核の事業は前もって棺を用意して世界を入れておくようなもので、この世界に投資に見合うものは何もないので、永続的な平和がありません。

だからみなさんに、伏してお願いします。特に仏教教団員のみなさん、ブッダを見習ってください。労力を注ぐなら、見合わなければなりません。見合った価値のあることをするのは道徳で、経済や商売の話ではありません。「労力に見合わなければならない」とは、見合った価値のある生き方をしなければならないことです。自然の労力も人間の労力も、進歩とは、見合った労力を注いだ流れです。

最後に、これからは見合った労力を使い、自分の行動に満足し、いつでも幸福であることを願って、お話を終わらせていただきます。


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