明は照らすと知らなければならないタンマ

 

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タンマにご関心がある善男善女のみなさん。道徳が戻らなければ人間世界は破滅し、植物の世界も破滅し、動物の世界も破滅し、この地球も破滅し、世界は破滅すると信じるので、今日の法話も、タンマが戻るよう願ってお話します。

世界に正常な幸福があるのは、世界に道徳があるからです。だから私たちは、力を合わせて世界に道徳があるようにしなければなりません。新時代の発展で道徳が消えていくなら、みんなで道徳を戻さなければなりません。

前に一度お話した、戻す方法を復習させていただきます。私たちには、「一貫性があり、ふさわしさがあり、頭と尾があること、アゴと喉に気をつけること、古杭を抜いて基礎を埋めること、転輪と蓮の華を見分けること、煩悩は自分、タンマも自分、人だけではまだ人間ではない、仏教徒なら問題は無い、智恵には理性が伴わなければならない、見解は正しくなければならない」人間としての義務があります。これは既にお話したことで、今日は、「明は照らさなければならない」です。明はいつでも必ず照らさなければならず、照らさなければ明ではありません。

どうかみなさん、明(ヴィッチャー)と知識(ヴィチャー)は違うと観察して見て、意味を区別してください。タイ語のウィチャーという言葉は、ヴィッチャーとインドの発音をしません。

ヴィッチャーが形を変えてウィチャーになり、ついでに意味もだんだん変化しました。パーリ語のヴィッチャーは滅苦ができる知識で、滅苦だけで十分です。

一方タイ語のウィチャーは、直接滅苦を狙わず、反対に欲望、あるいは物質的肉体的な満足を増やします。その知識(ウィチャー)は完璧でないのでシッポのない教育で、教えるのは教養と職業だけ、知るのは勉強と職業だけ、滅苦ができるヴィッチャー(明)ではなく、一部の人が欲しがるウィチャー(知識)だけです。

この知識がテクノロジーに進歩しても、それでもまだ明にはならず、まだ白い闇、黒い光です。白い闇とはモヤで何も見えず、黒い光も何も見えません。

一般にあるのはこの種の知識なので、それは道を照らして世界に道徳があるように、あるいは平和にすることができません。学校の先生方は、まだ悪による、悪の方向の幸福を好んでいることが分かります。つまり肉体面の楽しさ、美味しさであり、知識に明るさがないので、学生や生徒たちは、麻薬に染まらなければなりません。学生は先生のまねをして煙草を吸い、酒を飲み、性的に熟す前にもいで食べます。

人生(あるいは命)がどこへ行くか誰も知りません。人生はどこへ行くのか、勝利の教えを知りません。非常にコンピューターを崇拝していますが、コンピューターは教えてくれません。この人生がどっちの方向へ行くのか、コンピューターは教えてくれません。なぜならコンピューターを作った人は、人生がどこへ向かうか答える、データの入れ方を知らないからです。

だからウィチャー(知識)を元に戻してヴィッチャー(明)にし、本来の意味にしてください。つまり原語であるヴッチャーを、元の意味で使い、滅苦ができなければなりません。煩悩を滅すことができなければなりません。それが本来の言葉で、本来の価値がある明です。今は一文字欠けてしまい、自分の望みと一致させたので、照らさなくなりました。

ヴィッチャーは心の話で、ダイヤモンドのようです。心の問題なので輝いています。ウィチャーはレンガのようで、物質なので輝きません。かつては輝いていたヴィッチャーを、光のないウィチャーにしたのは、人間が欲望煩悩の奴隷になってしまったからです。自分の当面の利益のために、分野別のヴィチャー(知識)にしてしまい、教育は欠陥があり、シッポ、あるいは尖端がありません。

この種の教育は、国と宗教と国王を教えても成果がありません。国を教えても、人はまだ国を知らず、国がなければならない必要性を知らず、国を愛すことを知らず、国のために命を犠牲にすることを知りません。知識として教えるので、本性の奥深くまで照らさないからです。だから学生生徒は国を知らず、国等がなければならない本当の必要性を知りません。

宗教を教えても宗教を知らず、宗教の必要性を知らず、宗教は人生の問題を解決することができると知りません。考えて見てください。知識は輝いていません。

国王のことを教えても、人は国王を知らず、国王は非常にいなければならない、本当の必要性を知らず、風俗習慣で国王がいます。

彼らには、自立することを教えても上手くいきません。幾ら自立を教えても、教え子たちはいつでも、他人に助けてもらうことを期待します。大人になることを知らない育て方をするので、彼らに自立を教えることがでません。彼らは他人に助けてもらうことばかり期待しています。一般の人間同朋を見てください。

照らさないレンガの知識の類の教育は、本当の意味の、受け取るべき結果が受け取れません。この種の教育は、国内で助け合わずに、ジャングルの中で国を救う学生を作ります。

この種の教育は、資本家と労働者に、資本家がいなければ労働者は仕事がなく、労働者がいなければ、資本家は生産する労働力がないので、資本家と労働者は恋人、配偶者でなければならないという真実を教えません。どちらが欠けてもだめで、夫婦のように愛し合わなければなりません。今は教育にシッポがないので、敵同士になりました。つまり述べたように知識(ヴィチャー)だけで、明(ヴィッチャー)でないので、一文字欠けてしまったと、観察して見てください。

資本家と労働者は、世界を治めるために競い合う主義を作るばかりです。資本家の主義も、労働者の主義も、どちらも世界を治めることを目指すので、理解し合えるはずがなく、際限なく敵対するしかありません。

これが資本家と動労者は恋人、配偶者でなければならないと、照らして教えることができない知識です。明ではありません。

明でない知識は、私たちを照らして、「道徳はあらゆる問題を解決でき、道徳があれば世界のすべての種類の問題は無くなる」と、教えることができません。

道徳の偉大さの最初は、道徳は他人を愛させることで、他人を愛せば人を殺さないし、人の物を盗まないし、人に対して性的侵害行為をしません。人に嘘を言わず、人を騙さず、人に迷惑を掛けることは何もしません。

道徳があれば、人は楽しく働くので、貧しい人はいません。

道徳があれば、人は自分を律し、煩悩を抑え、心、あるいは自分を抑制することができるので、自分を律すことができない人のような間違いを犯しません。道徳があれば、そういう問題も無くなります。

今、経済が問題を解決すると期待されていますが、その経済が問題を作る人です。世界のすべての問題は、経済を崇拝する人が作っていると、良く見てください。経済で人間の問題を解決するのはサギにカエルの飼育をさせるようなもので、カエルは全滅して、一匹も残りません。

経済が作り出した問題を、どうして経済で解決できるでしょうか。物質的発展しかないようにさせ、物質はどう進歩するか分からないほど進歩して、そのうえ道徳を世界から消滅させます。

明でない知識は、すべての問題を解決するのは道徳だということを、分からなくさせるとよく見てください。泥水で泥を洗うのではありません。

更に私たち仏教教団員を見てください。特に私たちには、ブッダ、プラタム、僧があり、ブッダは明るい燈火を掲げる人で、プラタムは燈火、あるいは明かりで、僧は燈火や明かりを次々に引き継ぎ、引き渡す人です。明の正しさになれば、仏法僧は照らすものであり、次々に照らし続けます。

今私たちには本当のブッダ、本当のプラタム、本当の僧がなく、本当のブッダのように照らさないブッダ、プラタム、僧がいるので、問題が生じます。私たちには照らすブッダ、明かりであるプラタム、照らし続ける僧がいません。仏教教団員の今の世界は、こうです。

仏教は今照らしません。なぜでしょうか。私たちが間違って教え、仏教でなくなってしまったからです。仏教を間違って教えたので仏教でなくなってしまい、仏教は照らしません。今は本当の仏教ではない歪曲した仏教を教えるので、照らしません。

神様も照らしません。神様がいる人は、本当の神様がいないので、今は照らしていないと考えて見てください。鵜呑みに信じるだけの神様しかいないので、その神様は照らすことができません。

首に提げているブッダのお守りも照らしません。本当のお守りを知らないからです。本当のお守りは、いつでも、一瞬たりとも危険が生じないように、私たちに正しい行いをさせるプラタム(ブッダの教え)です。私たちはプラタムをお守りにすることを知りません。あるのは土やレンガでできた仏像、何でできている仏像でも、照らさないもの、輝かないものばかりです。

また別の方向から見ると、私たちは知識や技術で繁栄しています。これらの技術は、騙す光、毒の光で照らすだけで、人間の利己主義を増やす技術です。著しい利己主義は物質の味に溺れさせるので、この種の技術が繁栄すればするほど、毒の光が照らすだけと言います。

照らさない知識しかないので、世界は今破滅しようとしています。ヴィッチャー(明)の一文字欠けてしまったので、明は照らさないヴィチャー(知識)になりました。

本当の明は心を照らして、人間の至高のものである涅槃へ到達させます。明は照らすからです。

明という言葉の本家であるインド人は、「人は明で不死になる」という教えを信じています。

要するに明は照らし、涅槃あるいは不死、あるいは苦の終わりに到達させます。

心の煩悩を無くすので、心に煩悩が無くなれば当然照らし、真実のままに知り、最後まで真実にそって歩かせます。煩悩がいっぱいの心は照らすことができず、輝きません。煩悩が支配しているので輝きません。煩悩のない心は当然光り輝き、広大に照らして、人間を危機から脱出させることができます。

現代の知識の重要な意味は、管理されていない点にあり、身勝手を増やすために教えています。身勝手を増やすのは煩悩で、光をすっかり覆って消してしまいます。知識は光をすっかり覆い隠してしまいます。シッポのない犬の知識は、どんどん光を覆い、パーリ語の本来の意味の明は、利己主義を攻撃し、利己主義を木っ端みじんに破壊するので輝き、照らします。

私たちに本当の知識があれば、その知識は「仕事はタンマの実践。自分の職務を行なえば、そこでタンマの実践になる。仕事机に、職場に事務所にタンマの実践があるので、すべての苦の問題を解決できる」と教えます。

私たちは、肉体面の幸福だけを考えて事務所を閉め、歓楽施設へ遊びに行くことに慣れないで、職場の机で、職場で、オフィスで、仕事をする部屋で幸福になるべきです。彼らは、人間らしく正しく働くことにうんざりしているので、給料に見合った働きをせず、飼い主が与えてくれる餌に見合った働きをする猫に敵いません。

キツイ仕事をする被雇用者は、あまり問題はありません。たいてい給料に見合った働きをします。しかし、公務員と名指しさせないでいただきたいのですが、お金持ちの被雇用者は、ほとんど給料に見合った働きをしないで、早く事務所を閉めて、娯楽施設へ行きたがります。知識は役に立ちません。知識しかないのは、暗くする役に立ちます。

本当の知識があれば、必ず他人を愛し、自分、あるいは煩悩を制御できるので、苦は生じません。いったいそれはどうなっているのか、現代の世界は、科学技術やその他の力で進歩発展し、昔の野蛮人よりはるかに発展しましたが、なぜ現代社界の人間は、原始人に恥ずかしいような危機で溢れているのか、明らかに見ることができます。

原始人は頭痛薬を飲むこともなく、不眠治療薬を飲むことも知りませんでした。彼らの世界には、現代の世界のように、至る所に危機はありませんでした。現代世界は原始人の時代より発展したのに、なぜ原始人よりたくさんの危機があるのでしょうか。それは、人々に明がないので、彼らの知識は照らさないからです。

私たちは、明が戻るように改めなければならない、明を戻さなければならない、あるいは私たちの知識を明にしなければならない時が来たと知るべきです。つまり教育を完璧にし、シッポのない、あるいは頭のない教育で勉強と職業だけを教えないで、完璧な教育にしてください。

賢くなるための勉強を知り、そして生活するための職業を知ります。しかし生き延びるだけでは十分ではありません。煩悩が頭に溢れ、心には苦しみがいっぱいあり、著しく利己的で、「たくさん生産して必要なだけ使い、残りは社会を助ける」という教えがありません。

この種(教えのある)の人物を、昔からの、ブッダの時代からの長者と言います。長者とは、最高に素晴らしい人という意味で、生産は、みんなで最高にたくさん生産し、最高の結果が出たら少し使い、少し、十分なだけ食べればたくさん余り、そしてそれで社会を助けます。こうすれば長者と言います。最高に素晴らしい人です。

凡人は身勝手な人で、たくさん生産すればたくさん食べ、社会を助ける余分がなくなるまで、食べ尽くします。だから長者と呼ぶことはできないので、むしろ資本家と呼ぶべきです。

長者はたくさん生産し、ちょうど良いだけ食べ、残りは社会を助けます。少なくとも布施食堂(貧しい人に食を施す食堂)があり、大長者は、幾つもの布施食堂があり、そして万一欠乏する時にも布施食堂を維持するために、緊急援助をする食糧を地下に蓄えています。

このような心を最高に素晴らしいと言わないで、どんな心を最高に素晴らしいと言うでしょうか。みんなでたくさん生産し、ちょうど良く消費し、余りは社会を助けます。これをパーリ語の意味の長者と言います。

現代の資本家はこうでしょうか。みんなでたくさん生産し、少しだけ使って、残っただけ社会、あるいは世界を助けます。直接助けるのは布施食堂などで、間接的に助けるのはお寺を建てることなどです。タイの昔の長者は、みんなお寺を建てました。長者はお寺を建てなければならないので、それが伝統になりました。しかし資本家にはこのような伝統がないので、違いがあります。

知識は私たちを身勝手にし、自分を愛して他人を愛しません。明は私たちを身勝手でなくするので、他人を愛すことができます。知識では世界の問題を解決することはできません。急いで明を戻してください。

まとめると、道徳が戻らなければ明が照らす機会はなく、道徳が戻らなければ、明が照らす時はなく、明が照らす機会がなければ、道徳は戻ってきません。このように関連していて、切り離すことはできません。

道徳が戻らなければ、知識は照らす明にならないので、明が照らす機会はなく、道徳も戻る機会はありません。だからどうしたらいいでしょうか。明が照らせるように道徳を生じさせるには、どう調整したらよいでしょうか。

どうぞ私たちの教育を、明、つまり照らすものにしてください。知識、白い闇、黒い光にしないでください。人を身勝手にし、世界の生き物を身勝手で他人を愛さなくさせ、経済的に仇同士のように闘わせる主義が生まれ、世界をかき乱して混乱混迷させ、静まる道はありません。

私たちには明がなく、明に欠け、知識しかないので、世界に光がなく、世界の生き物は今、白い闇、あるいは黒い光の中を、黙々と歩いています。つまり明がなく、あるのは,人間の欲望煩悩に応える知識だけです。私たちは今、人間の欲望煩悩に応えるために教育施設で教える知識しかありません。

私たちは、人間の欲望煩悩を撲殺する明がありません。これを、「世界は今白い闇、あるいは黒い光の下に潜んでいる」と言います。急いで知識を調整して明にすることで、急いで道徳を戻さなければなりません。

もう一度、道徳を呼び戻す方法を復習させていただきます。人間の義務を行なうことに、どうぞ一貫性があってください。つまり人間であることと一致させてください。

ふさわしくは、たとえば道徳が問題を解決するのに、経済で問題解決をしないでください。ふさわしくありません。

私たちは頭とシッポがあるようにしなければなりません。つまり上下、大小があり、監督し、保護することができます。

アゴに注意し、喉に注意する行動をしなければなりません。噛みつくべきでないものに噛みつき、飲み込んではいけません。

古い杭を抜いて、新しい基礎を埋めます。誤った見解を抜き取れば、正し見解が生まれ、「これが転輪でこれが蓮の華」と知り、正しく選ぶことができます。

煩悩は身勝手にする自分、タンマは身勝手を攻撃する自分です。

人だけではまだ人間ではなく、仏教徒になれば問題は無くなり、智恵はいつでも理性を伴わなければならず、見解は正しくなければなりません。そして今日は、明は照らさなければならない、です。

今日の法話の時間も無くなりましたので、これで終わらせていただきます。お聞きのみなさんが後で考え、道徳を戻すために、道徳が戻って世界が破滅しないように、見えた真実で実践できるよう願っています。

今日のお話は、これで終わらせていただきます。


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