見解は正しくなければならないと

知らなければならないタンマ

 

1981315

タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日のお話は、「見解は正しくなければならない」と題してお話します。

この法話は、道徳が戻らなければ世界は破滅すると信じて、道徳を増やして道徳を戻すためにしているので、毎回、道徳を戻すために話します。道徳を戻すための正しい品行をするようお誘いする題目が順に、一貫性がなければならない、ふさわしさがある行動でなければならない、頭と尾がなければならない、アゴと喉に気をつける、古杭を抜いて基礎を埋める、転輪か蓮の華かを知る、煩悩は自分、タンマも自分、人だけではまだ人間ではない、仏教徒なら問題はない、智恵は理性と一緒でなければならないとあり、今日は「見解(ディティ)は正しくなければならない」です。

ディティという言葉を怪訝に思われる方がいるかもしれません。みなさん方のほとんどは正しい意味を知らないと、見下しているように聞こえたらお許しください。知っていても別の意味で、今日話そうとしていることと違います。つまりこの言葉のタイ語の意味は、頑固で他人を認めないディティ(プライド。傲慢)で、ディティをこのように理解すると、パーリ語の意味と一致しません。

パーリ語のディティは、その人に常々ある考え方、あるいは見方を意味し、その言葉自体には良い悪いという意味はないので、正しい見解とか、間違った見解というように、形容詞を組み合わせなければなりません。だから初めに、見解という言葉を理解してください。

どうぞ見解と呼ばれるものを見て、今日お話しするように、「見解はその人である」と見えるようにしてください。正確に言えば、見解とは、つまりその人です。一人一人は、自分の、自分のものである見解があります。これが見ていただきたいこと、見ていただくよう懇願することです。それぞれの人の「自分である見解」という言葉を理解するための時間を、惜しまないよう懇願させていただきます。

「人は何をするにも見解でする。見解は行動させるものであり、何かを感じると見解で感じ、何かを考えると見解で考え、何かを欲しがるにも見解で欲しがり、話すにも見解で話し、行動するにも見解で行動する」と見えるまで観察し、熟慮して見てください。

何を食べるか考えるにも見解で選び、何かを使うにも見解で使います。私たちは見解に従って命を管理し、命を愛し、あるいは嫌うのも見解次第です。国会で論争するのも見解のせいで、世界中で争うのも、党派に分かれて争うのも、見解によってです。

どうぞ、見解とは何かという点を見て、見えるようになってください。そうすれば最後には「見解はその人、その人は見解」と気づきます。しかし私たちは、その人の見解と言い、その見解がその人と言いません。

今新たに、見解はその人と、熟慮して見てください。自分、俺、自分のもの、俺のもの、というのは見解です。自分とは見解。俺とは見解。自分のものも見解。誰かの見解は、その人そのもので、見解を何かすることは、自分に何かすることなので、私が見解について話すことは、自分について話すことです。

これは自然である真実で、言葉で言うのとは違います。自然の真実では、見解はその人そのものです。これが見解と言うものです。

次に見解を生じさせる原因を見ると、ブッダは、見解は受(感覚)から生まれると言っています。これは仏教の非常に重要な言葉で、いろんな考えや感覚は受から生じるということができます。

受は触の結果で、目・耳・鼻・舌・体・心で接触があり、受として感じれば、そういう見解、こういう見解が生まれます。

だからその触れることが学習なのです。母の胎内にいる時から何かに触れ、この世に生まれて何かに触れ、それが学習で、触れる度に受が生じ、その受が、受にふさわしい見解を生じさせます。だから人には、昔から触れてきた受があり、それが見解を生じさせる沼で、それが正しいか間違いかは、また別の話です。

これが見解です。あるいはその人が見解です。誰かの見解は、その人そのものです。どうぞ「その人は見解、見解はその人」と結論してしまってください。

次は、見解は正しくなければならないという文章の、正しいという言葉です。「サンマー」という言葉は、好んで「正しく」と訳されますが、まだ理解は十分ではありません。サンマーとは「正しい」という、事実上の意味でなければなりません。正しいとは、自分と他人にとって危険でなく、危機を脱すことに関するバランスで、これを「正しい」、あるいは「サンマー」と言います。

宗教的な意味の「正しい」あるいは「誤り」は、簡単に規定できます。正しいとは、自分と他人の利益になることで、誤りとは自分と他人の害になることです。だから「サンマー」は、「危険を脱すために正しい」という簡単な意味です。

次に、「見解は正しくなければならない」という教えがあります。あるいは言い方を変えれば、この自分は正しくなければなりません。正しい見解があれば自分も正しく、問題を作らない正しさで、自分が正しければ、見解が正しいのと同じで、正しい見解があれば、問題は生じません。

正しい見解とは、問題であるものを真実のままに知ることなので、私たちは正しい見解でいろんな問題を解決することができます。

一般的な教えでは、苦を知り、苦の原因を知り、滅苦を知り、滅苦に至る道を知ること、これを正しい見解と言います。

次にすべてのものは自然であり、自然に経過し、勝手な理解以外に本当の「自分」はないと、知ります。これを、すべてのものは因果律、あるいは因果律の流れと呼ぶものになると知ることによる正しい見解と言います。あるいは「すべての自然は成るようになり、成るように成る性質がある。自然に存在するものどんなものも、自分、生き物、人物と捉えるべきではない」と知ることです。

正しい見解があって、すべてのものは成るようになると見えれば、愛を感じ、怒りを感じ、嫌悪を感じ、恐れを感じ、難儀に感じ、人を苦しめるいろんな心配に苦を感じる愚かさは生じません。

その結果、心は自由になり、正常になり、すっきりして知性に溢れ、正しい見解があり、すべてのものの真実のありようが見えるので、解決できない問題はありません。だから「正しい見解があることで、人はすべての苦を通過できる」とパーリ経典にあるように、すべての苦を滅すことができます。正しい見解を、実践するべき項目として持すからです。世俗的にもタンマの面でも、世界でも脱世界でも、すべの苦を超えることができるのは、正しい見解、つまり正しい自分があることの威力です。

次に、「人あるいは自分は見解」と知れば、正しくなければならないが、それにはどうしたら良いか、正しい見解の必要性について考えます。

私たちの国に関してよく見る例は、まだ十分国に関して正しい見解がありません。国を教える、あるいは国がなければならない必要性を教えるには、まだ教育が十分でなく、この項目の正しい見解がありません。だから私たちの子供は、あまり国を知らず、あるいは誠心誠意国を愛すことを知らないので、国を愛すようお願いすると、反対に国を売るほど分裂します。

国に関わる正しい見解が十分にあれば、分裂して密林に立て籠もる人や、街やどこかにいて、そして抵抗する問題はありません。正しい見解で国を知れば、国を愛すことに関わる問題はなくなります。

徳を積むにも正しい見解がなければ、奇妙な布施、積善になります。今知っているのは、すると嬉しい、すると楽しい、心が楽しいという類の布施だけで、喜ぶために布施をするのであって、善い心になるためにするのではありません。嬉しいのは、心が善くないこともありますが、心が善ければ、確実に正しくなります。

ほとんどの人は、自己満足のために布施や積善をし、自分の心を善くするためにするのではないので、積んだ徳は、却って罪になります。あるいは罪を増やして、徳の目的である罪を洗いません。徳とは罪を洗い清めるものという意味です。今は罪を増やすために布施をするので、正しい見解でなく、誤った見解になってしまいます。

次に利益について見ると、利益になるべきものが、正しい見解がないために害になってしまいます。

私は、今どこにでもあるラジオやテレビは、目的と違う結果になってしまったように感じます。つまり教育でなく、すっかり「朝晩胡弓を弾く機会だけを窺い、風俗で騙す店ばかり出入りする」症状を生んでしまいます。ほとんどの人が楽しくうっとりする番組を聞くので、娯楽を増やすだけで、教育はありません。

もう一つ注目するべきは、薪なら余るほどある森に住んでいる人が、電気炊飯器を使うようになったことです。知らないなら、もうこうなっていると知ってください。私も見ました。薪がいっぱいある山の中で、電気炊飯器を使うようになりました。私の所はまだ電気はありません。薪なら家の周辺に余るほどあるので、囲いを出た住民に薪でご飯を炊かせるためです。これを、正しい見解がないので、目的に合わない役に立つ物を使うと言います。

ある日、ラジオから流れて来る応援歌、仕事をするよう激励する歌を耳にしました。しかし聞いてみると、歌の調子が愛の歌のようで、畑へ出るよう誘うよりは、むしろ部屋に入るよう誘っているみたいでした。これは作曲した人の勘違いか、あるいは私たちが愛の歌、または愛のメロディーに慣れてしまい、頭に血が上ってどんな歌を作っても、同じようになってしまうのでしょう。これも正しい見解がないために、感じるべきでない感覚を管理できないからです。

次は最後の例、つまり世界を二分させる問題について話します。今世界を分裂させる問題は、資本家と労働者の問題です。自然の望み、神様の望みは「長者と貧民は伴侶」です。良く聞いてください。大金持ちと貧乏人は伴侶であり、別れることはできません。神様はそのように作りました。

つまり貧しい人は長者を頼らなければ仕事がなく、長者は貧しい人に頼らなければ、生産する労働力がありません。労働者がいない資本家は労働力がなく、資本家がいない労働者は仕事がないので、両者は伴侶と同じです。

しかし正しい見解がなければ誤った見解が生まれ、互いに鬼や悪魔になります。資本家と労働者階級は敵同士になり、それから暴走して、互いに世界を支配する道具として使うようになります。資本家は世界を支配するために集団になり、労働者も世界を支配するために集団になるので、本当にある問題を越えてしまいます。誤った見解に支配されるので、お金を崇拝し、誤った見解ばかり考え、宗教や神様の教えを聞きません。こうして世界に危機が生じます。

これが、今私たちに正しい見解がないことです。どうぞみんなで熟慮して、正しい見解を引き戻してください。

正しい見解を戻すことは、現代社会に非常に必要です。完璧な教育で正しい見解を戻すことができます。私はこういう言葉を使います。

私は、教育が正しく、そして十分なら、教育は世界のすべての問題を解決する力があると考えます。今は行き詰まっています。彼らは教育を、教育という言葉の定義で、一種類だけの解決のためにしています。これは賛成できません。

正しい教育は、問題を全部解決できます。私たちは教育を全部揃ったものにしなければなりません。そうすれば問題はすべて解決します。揃っている教育は正しい見解を生じさせます。欠けた教育、つまりシッポが欠けたり、頭が欠けたり、あるいは尖塔が欠けた教育にしないでください。

この教育とは、本能で触を感じ何らかの受になるものすべてが教育であり、母親の胎内にいる時に胎内で何かに触れると、受である感覚があるのも教育(学習)だと、徹底して広く深く捉えてください。教育(学習)は母親の胎内にいる時から始まり、生まれて、そして生涯あります。いつでも触があり受があるからです。

これは、触があり受がある本能の威力での教育で、受があれは教育(学習)があります。受があれば、胎内にいる時から、生まれて死ぬまでが教育です。

次は親、あるいは親の代理人による教育は、いつでも、親や親の代理人の体による正しい手本がなければなりません。

学校の教育は、勉強を教える学校も、職業を教える学校も正しく教え、正しい見解の話があり、人間性で正しい人間になることを教えなければなりません。そうすれば学校と呼ぶにふさわしい学校です。

次は宗教、あるいはすべての種類の文化の正しい人間になるために、すべての観点で正しい生き方を教える教育です。

そしてあらゆる形態のマスコミの教育です。あらゆる形態。私はあらゆる形態という言葉を使います。今マスコミは、人の利益を求める道具になり、彼らはむしろ悪劣なものを提示して、誤った見解を創っています。どうぞすべてのマスコミを、正しい見解を伝えるものに改めてください。

次は娯楽施設での教育で、私たちには煩悩を増やすために行く、誤った見解の娯楽施設があります。本来はどの娯楽施設も、賢さと正しい知識と正しい見解と、正しい見解による慰安を与えなければなりません。

次は、大衆が尊敬する社会の教育で、どんな社会どんな協会、大衆に尊敬されるもの、名誉ある社会は善い手本でなければなりません。名誉ある人は善い手本でなければなりません。権威のある社会は善い手本でなければなりません。大衆に尊敬される社会は善い手本でなければなりません。このように教育すれば、簡単に正しい見解になります。

私は、椰子の林の中にラームカムヘン王の石碑を建てる制度を、復活させるべきだと言いたいと思います。どこでも良いので、村ごと集落ごとに、至る所の山中に、椰子林の中に石碑を建てて、機会が来たら、ラームカムヘン王が椰子林の中の石碑にしたように行動します。

誰でも行ってこの話を読むことができるので、椰子林、つまり森へ行くようになり、ピクニックに行ってタンマを聞く機会になります。そこでご飯を食べれば、タンマのピクニックで、そこで観光すれば、タンマ観光で、そこにタンマで心を和ませるものがあるので、タンマの娯楽で、誰もが正しい見解を生じさせるもので楽しみます。

ラームカムヘン王の椰子林の中の石碑を、博物館から出して甦らせてください。出して椰子林に、何の林でもいいですから林の中に設置し、そして同じように行動すれば、正しい見解が国を治めます。

これは、正しい見解が素晴らしい道徳として戻らなければ、世界は破滅するという説明です。

次に最近の、まだほやほやの例を挙げると、今年は障害者年と制定されました。障害が問題に、世界の問題になっています。障害は道徳がないことから生まれると、なぜ見ないのでしょうか。道徳があればこの世界に障害は生まれません。私たちは道徳を身につけることで、障害から身を護ることができます。

簡単に分かる例として、胎内の子どもに障害があるのは、両親が性の営みに関する道徳がないからです。道徳のない産婆が出産させれば、子は障害になり、子の世話をする人に道徳がなければ、不注意で子は障害になり、子供がやんちゃで親が気を使わなければ、子は障害になります。これが、子が障害になる話です。

大きくなって道徳がなく、怠けていて貧しければ、病気や何かの事故で障害になることもあります。愚かなことも道徳がないからで、道徳に欠ける不注意、道徳に欠けるぞんざいも、障害になります。健康や衛生を無視することも、道徳に反し道徳に欠けるので、障害になります。交通法規を守らないことなども障害を生じさせ、道徳に欠ける人が運転をすれば、法規を守っている道徳に欠ける人も障害になります。虚弱な老人が家族に見捨てられれば、更に障害が増えます。

これはすべて、障害は道徳に欠けることから生じる、ということが簡単に見える例です。子が胎内にいる時から道徳があれば、障害は目薬にするほど(本のわずかという意味)もありません。この世界の至る所に溢れている、目に留まる光景である障害はありません。

要するに、道徳があれば障害は生まれ難いです。なぜ障害の原因である道徳の欠如に関心を持たないのでしょうか。結果にだけ関心をもって援助しても、それは末端なので、障害の防止にはなりません。道徳を戻してください。そうすれば傷害を防ぐことができます。

道徳を戻しましょう。正しい見解が世界を治めれば、この種の問題はなくなりますと、まとめます。

今日の話は、道徳は非常に重要であると見せる、つまり「見解は自分なので、かならずサンマーに、つまり正しくしなければならない。見解が正しくなれば、障害などの問題はない」という正しい見解の説明です。

どうぞみなさん道理で見て、人間であることに正直で誠実で、本気で道徳の価値を見て道徳を戻してください。特に今日の問題は、正しい見解か誤った見解かにあり、誤った見解なら世界を消滅させ、正しい見解なら世界は危機を脱し、望ましい世界になります。

どうぞみなさん、見解と呼ばれるものに関心を持たれるよう望みます。見解はあなた自身であり、あなた自身は見解です。あなたの見解という言葉は、真実としてあまり正しくありません。見解はあなたで、あなたは見解という言葉を使います。

あなたの見解を正しく改めてください。つまり正しさがあり、あらゆる問題より上にいれば、人間に生まれ、仏教に出合ったことが無駄になりません。あるいは自分が信じているどんな宗教であろうと、問題は無くなります。

時間になりましたので、みなさん全員が、永遠に自分を正しい見解にすることができるよう願って、今日のお話を終わらせていただきます。


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