智恵とサティは伴わなければならないと知るタンマ

 

1981215

タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日も、タンマが戻ることを目指してお話します。「道徳のない世界はかならず破滅する、世界に道徳があれば、愛と慈しみが世界を護る」と信じて、毎回道徳が戻ることを願ってお話しています。

道徳が戻れば、経済も行政も国政も、今ある問題は消滅し、自然資源は使っても余り、あるいは長く使うことができます。以前にお話した、一貫性があること、ふさわしいこと、頭と尾があること、アゴと喉に気をつけること、古杭を抜いて新しい基礎を埋めること、転輪と蓮の華を見分けること、煩悩は自分、タンマも自分、人はまだ人間ではない、仏教徒なら問題は無くなる、という項目を実践することで、世界のすべての危機は自然に絶滅します。

タンマを戻ることは、非常に必要不可欠と主張することをお許しください。すべての問題は道徳で解決しなければなりません。このように千回叫ばせていただきます。賛同してくださる方は、どうぞ続いて叫んでください。

サティ(理性を呼び起こすこと)に欠ける智恵は非常に道徳がなく、そして世界を破壊し、破滅させます。今私たちは智恵だけでサティが伴わないので、世界で間違った行動をしています。私たちは智恵があり、あるいは智恵の面で有り余るほど進歩していますが、智恵を管理するサティがないので、世界中に危機が生じます。世界を消滅させることに智恵を使うので、今の世界はサティに欠けた世界です。

サティがないと、「すべての問題は道徳で解決しなければならず、道徳を身につけるには、サティと伴った智恵がなければならない」と気づきません。サティは智恵を、時と場所と場合にふさわしく使うよう助け、サティに欠ければ、その智恵の中に愚かさが浮上し、あるいは智恵が愚かさになります。

時間の節約のために、短い昔話をさせていただきます。

ある人が一匹の猿と暮らしていました。人は猿をとても可愛がり、猿も人を精いっぱい愛し、両者は見た目以上に愛し合っていました。

ある日人が気持ち良く眠っていると、耳の付け根にハエがとまり、それを見た猿は、「俺の友達を誘惑して邪魔をする下賎なヤツは、叩いて殺さなければならない」と考え、そして木の棒を両手で掴んで振り上げ、思いっきり振り下ろしました。ハエは逃げ、愛する友は、何度も痙攣して転げ回りました。これが無明の愛です。

もう一つ、もっと短い話です。

幼い子が硬貨を飲みこんで、喉に詰まらせると、その時母親は金属を溶かそうと考えて、酸液を流し込みました。結果はどうなったか、みなさん想像できると思います。

みなさんこの話から、「サティに欠ければ知識を間違って使う。知恵は愚かさになる」と、熟慮して見てください。喉に詰まった硬貨を溶かすために酸液を喉に流すなどは、サティのない知識で、場合を間違って使っています。

みなさんもサティに欠ければ、智恵は危険になり、自分にとっても、社会にとっても危険です。いつでも不注意な身勝手で使うので、責任がなく、時と場所と場合を誤ります。

サティに欠ければ、知識、あるいは智恵をすっかり忘れてしまって思い出せず、必要な状況に間に合いません。昔の人が言ったように、頭から溢れる知識では、危機を脱すことができません。昔の人は、賢くても聡明でないのは非常に怖いと言いました。賢いだけで機転がきかなければ、その賢さが危険になります。

サティがないのは、譬えればシッポのない鳥と同じで、飛ぶことができません。車や舟に尾がなかったら、ハンドルがなかったら、ちゃんと走ることはできません。どんなにスピードが出ても、意味がありません。

私たちの教育には欠陥があります。シッポがないか、頭がないかは言い方次第、つまり勉強と職業しか教えず、どうやって人間になるかという道徳を教えないので、シッポのような道徳がありません。智恵を管理するサティがない教育なので、智恵は毒になり、何を問題解決に使うべきかを知らず、問題を増やすもので問題解決をします。

現在の世界のように、のべつ幕なし経済で問題解決をすることに夢中になっていれば、問題を増やし、解決すればするほど問題は増えます。問題は道徳がないことから生じているので、問題の根源、つまり道徳がないことを解決しなければなりません。そうすれば経済や政治などの問題も、良い解決ができます。

続いて、道徳がなくて、経済を経済で解決することについて見ます。今娼婦の数は教師の数より多く、いろんな賭け事、博打や闘牛、闘水牛などの賭け事は、学校の数よりも多いと言います。考えて見てください。経済を経済で解決しようとすれば、こういうことになります。

「経済は、掻き集め搾取する人を金持ちにする道具であり、このような状況を作る原因だ。それで世界の、独占と搾取から生じるいろんな問題を解決できるだろうか」と、経済に関わる問題をよく見なければなりません。

お話した昔話や話の意味を復習してください。母親が硬貨を溶かそうと子供の喉に酸液を注いだ、その酸液とは、経済の問題を解決する経済なので、経済を増やしてしまい、経済を死ぬほど、破滅するほど危険にします。

私たちは性犯罪を解決するために、道徳を増やさないで性風俗店を増やします。あるいは性犯罪を解決するために、道徳があることを増やさないで、性風俗店を増やします。風俗店が増え、見せ物が増え、広告看板の絵も道徳を消滅させるので、国中の子供はそれらの広告の絵を見ただけで、すっかり低劣になります。

教育省と内務省は協力して、心を低劣にするこれらの広告看板を、全部排除するべきです。

あるいは物価高の問題を、公務員の給料を休みなく上げることで解決し、どんどん給料を上げることで解決しますが、どんなに解決しても止まりません。ややこしくなるばかりです。なぜなら根源は、給料で足りない人の道徳の欠如、あるいは根源である道徳の欠如による、給料で足りなくさせるいろんな行動だからです。

熟慮して見れば、欲情の道具あるいは縁を機械で生産し、産業にしていること、そして経済の道具の話なので、道徳を消滅させるものが、非常に増えていることが分かります。いつになったら道徳の道具を生産する機械ができるのでしょうか。

子供の喉に酸液を注ぎ込む結果はどうでしょうか。これは人の経済をお化けの経済で解決することです。それとも人の経済問題を、お化けの経済で解決できるでしょうか。短い昔話の意味を、もう一度考えて見てください。

私は、「この世界の経済問題は、ブッダの経済で解決しなければならない、そうすればきっと上手くいく」という見解があります。仏教の経済は、たくさん作って少し食べ、余りは世界を救うために使うという短い教えです。これが、たくさん作り、少し食べ、あるいは少し使い、余ったら煩悩を育てないで世界を助ける、ブッダの経済です。

ブッダの暮らしを見てください。ブッダはビルも自動車も蚊帳も持っていませんでした。傘も、靴も、今の人が持っているような爪切りも、持っていませんでした。

私は、きれいで丈夫で上等な爪切りを一つもらいました。鋏むだけで簡単に、力を入れなくても爪が切れます。それでブッダはどうしていたのだろう、この爪切りをブッダに献じようかと、非常にブッダのことが偲ばれました。ブッダは蚊帳も、傘も、靴も持たれなかったのに、爪切りを持たれるはずがないと、一人寂しくなりました。

ブッダの日課を見ると、朝目覚めると誰を救おうかと考え、そして一日中人助けをし、夕方帰って来ると比丘を指導し、夜更けには天人、つまり上流の人の問題を解決しました。その行動を見ると、非常にたくさんのことをして、非常に少ししかもらわず、毎日一鉢だけ、つまり手に持っている鉢一杯しかもらいません。値段にしたら幾らでしょうか。

世界の生き物を煩悩と苦から脱出させる手助けをする利益は、どれほど価値があるでしょうか。もらうのは非常に少しで、非常にたくさんのものを与えました。たくさん作って少し食べれば、たくさん残ります。たくさんの残りで煩悩を養わないで世界を養い、すべて生老病死の友である人間同朋の社会を養いました。

仏教はブッダ式の経済をする人によって維持できると、観察して見えます。どんなに貧しい人でも、毎日九人、十人の托鉢僧に布施します。体調が悪く、杖が震えている人でも、毎日九人、十人の托鉢僧に布施をするので、これらの貧しい仏教教団員から受け取る時は、私の心も震えます。

毎日弁当を届けてくれる家もあり、年に何度も宗教行事をする家もあり、一年中、献金の目録を受け取ります。公共施設の建設、永久的な物の建設、恒久施設の建設などの役所からの通達や、経典の制作、カティナ、森に布を捨て、子や孫を出家させ、孤児を出家させ、

出家した子や孫への献金、雨安居の沙弥への献金、休日ごとに仕事を休んで寺へ行き、労働力やお金や権力で公的な仕事を助け、動物に餌をやり、動物や鳥や亀、魚などを放し、東屋を建て、池や井戸を掘り、砂の塔を作り、豊作や大漁の時は特別に加算し、合算すると収入の半分を越えます。

貧しい仏教教団員の経済原理はこのようです。だから仏教は、貧しい仏教教団員によって支えられています。

どうぞみなさん、仏教教団員の経済の要点を、「たくさん生産して少し食べ、たくさんの残りで煩悩を養わず、世界を養う」としっかり把握してください。

次に、この種の経済は、道徳を改めることですべての問題を解決し、そしてついでに経済問題、政治問題、社会問題も解消し、コミュニストの問題も解消できると、熟慮して見ます。

私たちには、たくさん生産して少し食べ、すべての生き物は、生老病死の苦の友という理念で、余剰で社会を助ける教えがあります。このように暮らせば、中国のコミューンやイスラエルのキブツよりも意味があります。あれは主義の規則に強制された必要がありますが、私たちはその真実を見て、純粋な気持ちでします。

私たちにはこういう教えがあるので、コミュニストの何を恐れることもありません。それは、たくさん生産して少し食べ、残りで世界を助けるという、コミュニスト以上のコミュニストです。コミュニストが来れば、自滅するのは宗教ではなく、コミュニストの方です。コミュニストと、こういう経済の教えがある仏教教団員と対決させれば、コミュニストの方が自滅します。コミュニストが来ても宗教は消滅しません。

コミュニストが来ても、仏教教団員の経済の教えと対決すれば、消滅するのは、コミュニストの方だと主張させていただきます。どうぞみなさん、たくさん生産して、少し食べ、残りで社会を援けてください。

これは、喉につかえた硬貨を溶かそうと酸液を子供の喉に注いだ母親と同じことをしているので、私たちがまだ解決できない問題です。

今片付けなければならない当面の問題を見ても良いです。今の世界、あるいは今のタイで給料をもらっているすべての人は、給料に見合った働きをしているでしょうか。ただ時間を掛けるだけで、役所から与えられた仕事も終らせていないと、爺さん婆さんがぼやくのが聞こえます。彼らがどんな働き方をしているか、ここで言いたくないからです。

ブッダは一日一鉢、つまり毎日手に持って食べ物をもらう鉢に見合う働きをしたでしょうか。そして私たちタイの僧はみんな一日一鉢、一日一鉢の食べ物に見合う働きをしているでしょうか。それとも人が言うように、社会の寄生虫でしょうか。どのお寺も、資本を投じて建立する、あるいは維持する価値、利益があるでしょうか。

労働力、あるいは頭脳として働く役所のすべての部署が、給料に見合った仕事をしているでしょうか。仕事と生じる利益の割合を、飼い猫と比べて見てください。猫はネズミを獲るので餌に見合うでしょうか。

私たちにあるのは智恵だけで、サティがなく、それについて考えたこともありません。そして責任を取ろうとしません。私たちは自分に対してこうしています。自分の国に対してこうしています。その猿と同じ、つまり自分自身を破滅させる猿と同じではないでしょうか。

まとめれば、智恵に伴ったサティがないから安全にできない、あるいは有益に出来ないと言わなければなりません。どんな場合にも、智恵はサティと一緒でなければなりません。サティに欠ければ、智恵は何をやっても適度を越えてしまいます。

この「適度を越える」は、多分みなさんも理解し、そして頷いておられると思います。サティに欠ければ、有り余るほどの智恵は、いつでも適度を越えます。現代の世界に非常にたくさんある状態です。智恵は溢れれば溢れるほどサティに欠け、智恵は過ぎれば過ぎるほど溢れます。科学やらテクノロジーやら何やらの知識が溢れれば溢れるほど、それを管理するサティに欠けるので、時と場所と場合を誤って使い、世界を破壊してしまいます。智恵は溢れれば溢れるほどサティに欠け、どの状態にも関わりがあります。

だから私は、特にみなさんにこの問題を考えていただきたいと考えます。タンマが戻るとは、智恵とサティが伴うことです。

智恵は鋭さ、サマーディ(三昧)は重さのようで、サティは、時と場所にふさわしく切ることのようです。私たちに智恵、つまり鋭さしかなく、重さがなければ切れません。サティがなければ時と場所がふさわしくないので、切るべきでないか、あるいは切っても結果はありません。

聖向聖果である涅槃に到達するための実践では、更にサティは必要で、感情が触れた時煩悩が生じないよう、正しい行動をするよう智慧を管理するサティが、どの場合にも求められます。

道徳が戻らなければならない。道徳が戻らなければ世界は破滅」という項目を思い出してください。正しい行動で道徳が戻るとは、時と場合を誤らないふさわしい行動、一貫した品行をすることです。私たちは仏教徒なので智慧があり、明るく、眠りつまり煩悩から目覚めなければなりません。農の国は農で解決しなければなりません。そうすればふさわしくなります。

頭とシッポがなければならないとは、重要な人と普通の人、上の人と下の人が忠告し合えることで、上も下もないようにふざけ合いません。

アゴに気をつけ喉に気をつけるとは、汚職や国民を騙す不正の原因であるものに噛みつかない、飲み込まないことです。

古杭を抜いて基礎を埋めるとは、誤った見解、俺、俺のものという理解をすっかり抜き取れば、正しい見解になります。

転輪か蓮の華かを知るとは、間違いを正しいと迷い、愚かさによる苦に耐えなければならない羽目にならないことです。

「煩悩は自分」とは、俺、俺のもので、「タンマも自分」とは、拠り所になるものです。

人だけではまだ人間ではないとは、肉体的に生まれるのが人で、タンマの方で生まれるのが人間、あるいは完璧な人です。

仏教徒なら問題はなくなり、つまり知る人、目覚めた人、明るい人なので、問題を作らず、問題を解決します。

今「智恵はサティを伴わなければならない」になりました。その智恵とは、知識の蔵いっぱいの知識で、サティとはそれを運び出して、時と場合にふさわしく、失敗しないように使う人です。世界に失敗が生じないのは、人間に、智恵に伴うサティがあるからです。

だからみなさん、このような形の道徳面の問題解決に関心を持ってください。すべての問題は、道徳を身につけることで解決しなければなりません。私は千回叫ばせていただきます。そしてみなさんも、続いて叫んでくださるようお願いします。

サティに欠ける智恵で、自分を死に追い込まないでください。サティに欠ける智恵で、友達を、我が子を、そして最後には自分の国を殺さないでください。人は智恵を好むので賢いですが、サティに欠けるので間が抜けています。だからその智恵、後退する方向、つまり智恵を使う人自身にとって危険になる方向に使います。

どうぞみなさん、「サティはどんな場合にも必要」という仏教の大きな教えであり、自然の真実であるこの項目のタンマを思い出してください。みんなでサティを戻して智恵を管理し、教育を正しくし、子供たちの智恵の面ばかり訓練しないで、サティのある子供にし、智恵を正しく使う訓練をします。

子供は世界を築く人、世界を作る神様です。未来の世界は未来の人によって作られ、未来の人は現在の子供なので、知識と知性があれば、善い世界、住み良い、望ましい世界を作ります。高い心を持った生き物、人間は無駄になりません。

時間になりましたので、みなさんが、生じて来るすべての仕事に対して、時と場所にふさわしい十分な智慧があり、そして智恵を管理する敏捷なサティがあるよう、そして幸福で、いつでも仏教教団員としての人間性で発展進歩するよう願って、今日のお話を終わらせていただきます。

 


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