31. 仏教徒は問題が無いと知らなければならないタンマ





1981年1月18日

 タンマにご関心がある善男善女のみなさん、今回も前回同様、タンマが戻ることを目指してお話します。

 毎回タンマが戻るよう願ってお話しています。「寝言だ、それに気が遠くなる」と、誰に非難されても気にしません。本当は、待ちきれないほど時間が掛かることではないからです。

 世界が道徳を戻さなければならないことは、最高に必要なことです。道徳がなければ、世界の経済家は不正不実になり、世界中の経済が混乱し、政治家も不正不実になります。いつでも世界中の政治は悪劣になり、治世者はいろんな方法で国民を騙そうとし、生産者、販売者、買い付け人、仲買人もすべて不正不実になります。

 ロクデナシも増えて国中に溢れ、蚊よりもたくさん群れます。そして仕事はタンマの実践なのに、努力という項目の道徳がないので益々貧しくなり、人は身勝手で他人への愛が無くなり、団結を叫んでも話になりません。

 私たちタイ人も、本当は国と宗教と国王を知りません。口で言うだけです。恩という項目の道徳がないので智慧や知識がなく、タイの文化と独自性を失います。道徳はタイの文化であり、個性だからです。

 誰でも低劣な感覚を放置し、心を抑える人はいません。物質主義で余分を崇拝し、それが世界を消滅させ、人間を消滅させます。

 道徳が戻るだけで人間には道徳があり、世界にも道徳があるようになり、経済も政治も行政も、今あふれている問題はなくなります。自然資源を軽率に破壊しないので、使っても余り、あるいは長く使えます。愛と慈しみが世界に溢れ、この世界は弥勒菩薩の世界になり、すべての問題は自然に消滅します。

 だからみなさん、この発展について熟慮して、絶対に見過ごさないでください。すべての人間が協力して人間の世界、道徳の世界を作り、これ以上非人間の世界に放置しないでください。道徳が戻る道は行き止まりではありません。そして待ちきれないほど時間は掛かりません。

 どうぞ考えて見てください。そうすれば出口が見つかり、それなりの時間で改善方法が見つかります。待ちきれなくありません。今の時代の人が実施して、ずっと後の時代の人が結果を受け取り、百年も待たなければならないのではありません。そんな方法は探しません。

 権威のある機関がこの問題を取り上げて熟慮すれば、待つほどの時間もなく変化します。私たち自身の人間性のために、どうぞ特別に関心を持ってください。

 私は道徳を戻す方法について、一貫性とふさわしさと頭とシッポがなければならない、アゴと喉に気をつけ、古杭を抜いて基礎を埋め、転輪と蓮の花を知り、煩悩は自分、タンマも自分、人だけではまだ人間ではない、と順に話して来て、今回は「仏教徒はすべての問題がない」です。

 だから今日話さなければならないのは、仏教徒とは何か、問題はどうあるのか、そして、どうして仏教徒は問題が無いのか、です。そして新年とこどもの日について、適当に付け加えさせていただきます。この二つは、仏教徒に関係があるからです。新年は何日も経っていないのでまだ残り香があり、こどもの日はまだ一週間経っていなないので、仏教徒の新年の話としてお話する空気があります。

 次に仏教徒という言葉についてお話します。仏教徒という言葉は、ブッダという言葉から来ています。ブッダとは「目覚めた人、知る人、明るい人」という意味です。目覚めた人とは、無明の眠りから覚めた人、あるいは煩悩の眠りから覚めた人で、知る人とは、人間として知るべきことをすべて知っている人で、明るい人とは、智慧によって明るい人、そして仏教徒にふさわしい品行から生じる幸福で明るい人です。

 次に目覚めた人、眠りから覚めた人について話すと、ヒト語の眠りは、ぐーぐーいびきをかいて眠ることで、タンマ語の眠りは、愚かさの眠り、無明の眠りで、走ったり歩いたり、あるいは仕事をしていても眠っています。無明による眠りだからです。

 下品な言葉で言えば、すべての立ち居振る舞いが愚かで、何事も考えなしにします。特に触の時の煩悩で、目が形を見た時、耳が声を聞いた時、鼻が臭いを嗅いだ時、舌が味わった時、体が接触をした時に煩悩が生じ、それらの欺瞞によって愚かさが生じ、苦の流れで愚かになり、必ず苦になります。これを「人は無明で眠っている」と言います。

 眠りから覚めるとは「これは何か、何のためか、なぜ生まれたか、人間の終点はどこへ到着しなければならないか、人間性とはどんな意味か」を知ることで、そうすれば無明の眠りから覚めます。

 次は知る人という言葉で、知るべきことを知ります。知るべきこととは何でしょうか。一般的な基本は、生き伸びるため、死なないで済むために知ることです。そして健康で能力のある暮らしで、物質面も心の面も過剰にならないように、発展すべき方向へ進歩発展することを知ります。

 重大な教えで、ブッダは「苦を知り、苦の原因を知り、滅苦を知り、滅苦に至る道を知る」と明言されています。これで個人的にも、社会全体としても問題は消滅します。

 そして更に深く詳しく「すべての物には原因があり、自然の法則と原因によってなるようになるので、なぜ夢中になって愛したり、夢中になって憎んだり、夢中で恐れたり、夢中で何かすることがあるだろう」と知ります。

 「そのよう」の系統は誰にでもあります。宿命と呼ぶ人もいれば、前生の徳や業次第と言う人もいますが、本当はそれは「そのよう」です。だからその人は「何でも自分、自分の物と理解することはできない」と知っています。自然の法則で、そのようになるからです。自分と理解しない心で働くことを知れば、常に智慧と完璧なサティしかありません。知るべきことを知るとは、そういう意味です。

 次は明るい人で、智慧、あるいは述べたような知識で明るいことです。智慧とは、拠り所にするものに確信と信頼を生じさせる知識です。私たちは智慧で行動するので、拠り所であるものに確信と信頼が生じます。これを信仰心と言います。何かを信じ確信することは本能の基礎なので、幸福を感じます。

 動物は「安全に違いない。絶対に安心だ」と知ると幸福を感じます。私たちは、家やドアや、窓、安全だと信頼している鍵などを強く信頼するから眠れます。そうでなければ、ビクビクして眠れません。

 仏教徒は智慧によって生じる信仰があり、他の宗教徒にも、神様があれば自分の神様の知識、あるいは智慧から生じる信仰があります。拠り所にする物次第で、それに関する十分な知識と智慧がなければなりません。そうすれば幸福を感じます。

 次は問題という言葉ですが、この問題は個人のものと、世界のもの社会のものの二つがあります。

 自然の普通の個人的な問題にも、煩悩の威力による苦があります。貪・瞋・痴、あるいは自然の苦である生・老・病・死、物質的な物をまとめると四依である食の問題、衣服の問題、住まいや什器備品の問題、病気の治療、健康状態が良くない問題です。

 こういうのは長い問題なので、タンマに依存して、特に仏教徒なら誰でも実践している仏教の教えで排除しなければなりません。しかし今は後退しているように、今は見過ごして成り行き任せにしているように、あるいは列をなして道から逸れてしまう人もいるので、問題解決ができないように感じます。

 次に社会的な問題は、経済の問題、政治の問題、軍事の問題、行政の問題です。今満足できるようにならない社会の問題、公共の利益の問題は、道徳に欠けるからです。仏教徒は真実を知り、他人のことを考える道徳があるので、このような問題を生じさせるべきではありません。他人のことを考えないからこのような問題が生じるので、他人のことを考え、他人を愛せば不正ができないので、これらの問題はありません。

 今はあらゆる種類の悪がいっぱいで、きわめて問題です。酔う水を飲み、夜遊びをし、見せ物(ショウ)を観て、博打をし、悪人と交友し、仕事を怠けます。詳しく説明して見てください。こういう問題はどこにもあると分かります。

 道徳がないことの結果である悪がなければ、問題はなくなり、酔う物、あるいは中毒になる物を嗜む人は誰もいません。夜遊びをしてお金と時間と財産を失い、身を持ち崩す人は誰もいません。心を低劣にする見せ物を観る人も無く、お化けに騙されて人でなくさせられる博打をする人もなく、悪人と交際しません。仏教徒の基本と違うことを、考えたり行動したりしません。

 仕事はタンマの実践と捉えるので、仕事を怠けません。人間の義務はタンマの実践なので、人間の義務を実践すれば、それはタンマの実践なので満足し、幸福になり、人間の義務を行なうことで徳を積んだと感じ、社会の問題も無くなります。道徳があるからです。

 「問題が無くなる」と言うのは、先ほど述べた特徴の仏教徒だからです。経済が善いのは、タンマである善い経済家がいるからで、政治が善いのは、道徳のある善い政治家がいるからで、善い国民・善い政府は、共通の道徳があるからで、世界中の同朋が善いのはこの世界に道徳があるからです。これです。タンマが戻ればどうなるか、考えて見てください。

 次は今回の話について、新年とこどもの日(一月十六日)についてお話したいと思います。まだ過ぎたばかりだからです。

 新年は新しくなければなりません。仏教徒の新年は、仏教徒式の新しさでなければなりません。つまり何かが善くなること、増えることです。

 忘れないように例を挙げると、地下に球根のある植物は、寒い季節になると枯れて、地下で球根を蓄え、前より大きくなります。乾季になると芽を出しますが、根が前より大きいので、草も前より大きくなります。また草が枯れて根を蓄える季節になると、根は前より大きくなります。また芽が出る季節になると、草は毎年大きくなります。これが植物、あるいは生物の成長で、このように生きています。それなのになぜ私たちは、地下に球根を蓄える植物より劣るのでしょうか。

 私たちは今、自分という感覚でこのように生まれたら、より善い自分になるため、明日は今日より善く、来月は今月より善く、来年は今年より善くなるために、善い結果を残さなければならないという意味です。

 これが仏教徒の新年で、前より善いものを増やします。前よりも善くならなければ、仏教徒ではありません。仏教徒とは「知る人、目覚めた人、明るい人」なので、前よりも善くします。どうぞ新年をこのように、つまり前よりも善くしてください。

 次に子供の日ですが、仏教徒の子供でなければならないので、前の年より善い子にならなければなりません。子供は前の年よりも良い世界を作らなければなりません。

 子供は世界を作る人です。ただ「今日の子供は未来の大人」ではなく、こどもは未来の世界を作る人でなければなりません。そうすれば世界は必ず良くなります。世界はすべての人で構成され、世界のすべての人は子供から成長するので、子供の時善い子にすれば、将来、望ましい世界になります。教育が不完全でなければ。

 シッポがない、頭がない、先端がない教育は、教えるのは勉強と職業だけで、世界を作る人間のための道徳を教えません。道徳がなければ、勉強と職業の賢さを、他人より有利になるため、不正をするために使うので、不正な経済家、不正な政治家、不正な行政者が生まれます。

 もう一つ「子供と付き合って家を建てる」と、良く考えずに近目で見ないでください。昔のことわざで「あまり子供を使ってはいけない。子供と付き合って家を建てると台なしになる」とあります。それは大人次第です。大人が子供を善く育てれば、将来は良い世界になります。十分教育をし、勉強と職業を教えるだけでなく道徳の知識も与えれば、子供は大きくなって世界の善人になり、世界も善くなります。

 子供に世界を作らせる準備がないのは大人の方で、先生はスポーツも「スポーツ、スポーツは素晴らしい妙薬。煩悩の固まりを治し、人を人にする」という言葉を説明する知識もありません。先生は、どうやって人を人にするのか、説明したことがありません。私は子供に質問しましたが、既に人なのに、どうしてまだ人を人にするのか、知りませんでした。これに関しては、前回の法話で詳しく話しました。

 お父さんお母さん、もしかしたら「父ちゃん、もう人になった?」と聞かれるかもしれません。お父さんはスポーツをしないからです。「スポーツ、スポーツは素晴らしい妙薬。煩悩の固まりを治し、人を人にする」。

 煩悩の固まりを治すスポーツは道徳です。タンマのある心は、他人より有利になろうとしません。これを完璧な人、人間と言います。生まれただけの人ではありません。先生も「先生、もう人になった」と聞かれるかも知れません。先生は、人を人にするにはどうするか、説明したことがありません。

 仏教徒にとっての「こどもの日」を、ふざけるだけの行事にしないでください。子供が自分を知り、親を知り、先生を知り、望ましい世界を築かなければならない自然にある人間の義務を知るようにし向けなければなりません。仏教徒の子供は、未来の世界を望ましい世界にしなければなりません。

 愛し合い、助け合い、自分を律して他人に迷惑を掛けず、働くことに楽しさを感じることを知っているので弥勒菩薩の世界と呼べるなら、義務である仕事をした時満足し、人間であることが無駄ではないと、自分で自分を拝むことができます。タンマを知るとは、義務を知り、そして義務を行なうことです。

 すべての大人のみなさん、子供たちが将来、望ましい世界を築ける人になるよう、準備を整えてください。そうすれば道徳の問題は無くなります。いろんな問題は道徳の問題に集約されます。道徳がなければ経済の問題も生じ、政治の問題も生じ、行政の問題も生じ、世界中の問題も生じます。世界に道徳がないからです。

 さて新年は、もっと道徳が戻らなければなりません。こどもの日はいつもより悪ガキになるのでなく、子供はもっと道徳を増やさなければなりません。みなさんは、子供が普通の日よりももっと悪ガキになるように、子供が度を越して楽しむようにしています。こういうやり方は、正しくないに違いありません。道徳を増やさないで、益々悪ガキにするからです。すべてのタイ国民は、凶悪な問題が皆無になるまで、道徳を戻さなければなりません。

 まとめると新年は道徳を増やし、子供の日は子供の道徳を増やして、タイの国民の道徳をどんどん増やします。これを、新年と子供の日の道徳面の義務と言います。

 タンマを戻すための実践方法を復習させていただきます。述べたように、私たちには一貫性がなければなりません。タンマの教え、宗教の教えをしっかり掴み、自然の法則に則った正しさを増やします。

 ふさわしさがあるとは、自分にあるいろんな義務、いろんな関わり、すべてをそれにふさわしくします。

 頭と尾がなければならないは、互いに統率でき、序列に従って尊敬し合うことで、どんな立場でも無意味にからかい、誰も尊敬しない寝ぼけた民主主義ではありません。それには頭とシッポがありません。

 そしてアゴと喉に注意しなければなりません。つまり汚職をしてはいけません。アゴと喉に気をつけるとは汚職をしてはいけないことです。人と人も汚職をしないで、農民と農民も汚職をしません。得をすることばかり考えず、食べることばかり考えず、美味しいことばかり考えなければ、汚職をする必要はありません。これをアゴと喉に気をつけると言います。

 古杭を抜いて新しい基礎を埋める「古杭」とは、誤った見解、間違った行動は発展の妨げなので、抜いてしまい、そして新しい基礎を埋めるとは、プラタム(仏法)の基礎、道徳の基礎なので、盤石と言います。

 煩悩は自分、タンマも自分と知らなければなりません。自分というもの、「俺」「俺」と世界中に鳴り響いているのはすべて煩悩で、本当の自分は、タンマの自分、あるいは神様の自分です。煩悩の自分のことばかり考えないで、タンマの自分、神様の自分を考えてください。

 人だけでは心がまだ高くないのでまだ人間ではなく、煩悩の固まりをもっとたくさん治せば、人は人になります。この場合のスポーツとは、タンマの行動で、道徳があり人間性があれば、煩悩の固まりを治して人を人にします。初めの「人」は普通に生まれた動物で、動物でもなれます。後の人は人間性に溢れた人間で、人間になって仏教徒になり、知る人、目覚めた人、明るい人になります。

 仏教徒ならすべての問題は無くなります。問題は仏教徒でないこと、知る人、目覚めた人、明るい人でないことから生じます。仏教徒でないことは、まだ人間でないこと、人だけです。

 私たちは「人を人にする」人間であることについて考えなければなりません。人が人になれば、人間になれば、不正な経済家は世界から絶滅し、不正な政治家も世界から死滅し、不正ばかりする公務員も世界からいなくなり、国民は、互いに最高の生老病死の友になります。

 庶民に道徳があれば政府は人を守ることができますが、庶民に道徳がなければ、政府が十あっても、国を守ることはできません。十の政府が一緒になって治めても、道徳のない国を静かにきちんと治めることはできません。だから本当の問題は道徳がないことで、道徳が戻れば問題は消滅します。

 「道徳は戻すことができる。待ちくたびれるほど時間が掛かることでも、不可能なことでもない」と、どうぞ希望をもってください。どうか関心を持つことだけをお願いします。

 今私たちは利益だけに関心があり、口のこと、腹のこと、利益主義を崇拝するので、利益本位主義と言います。民主主義と言っても大部分は利益を崇拝しているので、利益崇拝を止めて、タンマあるいは道徳を崇拝すれば、本当の民主主義になり、すべての人間が安楽に暮らす利益になります。

 時間になりましたので、タンマが戻ることを願って、今日のお話を終わらせていただきます。仏教徒の新年は、何か増えるものがあれば嬉しく、興味深く、満足出来ます。子供の日は、子供は未来の世界を、望ましい物にする人です。そうすれば私たちはみんな、世界中安心して眠ることができます。

 今日のお話はこれで終わらせていただきます。



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