タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日もタンマを戻すことを願ってお話します。
タンマが戻って来る時代は終わったと忠告する人がいますが、そう聞くと、道徳を戻すのは臼を転がしながら山へ登るくらい困難だと思っても、現代は、非常にタンマを呼び戻さなければならない時代だと感じます。先ほどの忠告した人のように感じても、タンマを戻す必要があるので、避けて通ることができないので、挫折するべきではありません。
通常、非常に利益がある物は、非常に困難を伴います。あるいは非常に時間が掛かります。そういうことで挫折していたら何もできません。私たちは戦う一方で理解し合わなければならなくても、理解する努力をしなくてはなりません。私たちは刑事事件を無くし、他の問題を解決しなければならない一方で、道徳的な問題を解決する努力もしなければなりません。
道徳が戻らなければ、世界は破滅します。これは私が心している項目です。世界で同時に生きている人たちも、至る所に永続的な危機があると見ています。私たちタイも同じ問題、つまり内部の危機があります。特に妨害になる堕落と、国民に道徳がないので、解決できない経済問題など、いろんな問題です。
だからすべての問題の根源である、道徳の問題に目を向けなければなりません。道徳を引き戻すには、それに関わる自然の法則で正しい行動をすることです。
私は今まで一貫性、ふさわしさ、頭とシッポがあること、アゴと喉に気をつけること、古杭を抜いて新しい基礎を埋めること、転輪か蓮の花かを知ること、煩悩は自分、タンマも自分、という題目でお話してきて、今回は「生まれただけでは人、まだ人間ではない」です。
世界の人間は人間でなくなっているので、世界には人が作った問題が溢れています。本当の人間なら危機を作らないので、人を人間にすることは道徳面の問題解決、あるいはあらゆる問題解決の要旨です。
「どんな理由で、なぜ道徳が消えたと分かるのですか」と質問する人がいました。これは誰でも分かるので、推測できるので、ほとんど話す必要はありません。世界全体を見れば、世界は戦争や武器による攻撃や、冷たい戦争、智恵による、あるいは政策による攻撃がいっぱいあると分かります。
これは至る所にあります。しなければならない理由も必要もなく始めるバカバカしい戦争にしても、狂った世界か良い世界か、考えて見てください。
世界には煩悩を増やす、物質面の奴隷を増やす科学技術しかないので、物質から生じる心の面は煩悩の奴隷になり、莫大な自然資源を破壊します。
狭い地域、私たちのタイを見ても道徳が消えてしまったのが分かります。試しに誰かに質問すると、五戒も全部憶えていません。留学したことがある教育のある人でも、五戒には何があるかを知らないので、六つの破滅の門が何かなど知るはずもありません。だから私たちの国は悪がいっぱいです。
彼らがブッダのお守りを提げている首を見ると、以前はブッダの形でしたが、今はあまり見られません。今は彼らが神聖と考える人の像になりました。昔はブッダの像を首に提げ、今は人の像です。それは高くなったか低くなったか、考えて見てください。
次に毎日の新聞、各新聞の初めの四面を見ると、みなさん、試しに開いて見てください。調べて見ると犯罪や不道徳な写真、凶悪な犯罪の記事、不道徳な記事ばかり見えます。昔はこうではありませんでした。博物館で五、六十年前の日刊新聞を見ると、どんな記事があったでしょうか。博物館でサヤームチンノーワーラサップや、サヤームオブザーバーの初めの四面に何があるかを調べて見れば、善くなったか悪くなったか分かります。
新聞の購読者が期待するので、製作者がそれに応えると言い訳するなら、私たち読者が、道徳的にどうなったことを意味するでしょうか。善くなったでしょうか、悪くなったでしょうか。
次に、何が国中に溢れているかを見ます。高級官僚が「売春宿やマッサージ店などが開店すると性犯罪防止になるので、性の問題解決のためにもっと増えてほしい」と言っているのを聞きました。これは私の考えと反対です。
私は道徳を学び、道徳を実践するタンマクラブをもっと増やさなければいけないと考えます。そうすれば犯罪を防げます。犯罪を防止するために歓楽施設を作るのは、そう見えません。私にはそう見えません。
次にいろんな新聞を見ると、道徳が非常に堕落しているのが見えます。昔はなかったようなことが、コンピューターの時代になって生まれました。自分の娘を強姦して捕まり、警察官に「元を取った」と言いました。娘を育てるのにたくさん掛かったので、今元を取りました。これはどうか、道徳面の気持ちはどうか、考えて見てください。
父親が娘を連れて映画を見に行って、娘が眠くなったので先に帰したら、途中で娘は強姦されて殺されました。どうしてこんな惨いことに遭う機会を作ってしまったのか、親と娘の道徳はどうかを見てください。
先日の新聞には、二十歳の若者が曾祖母のような年齢の、七十九才の老婆を待ち伏せて強姦したとありました。このようなことは人に道徳があった時代、人がまだ人間だった時代にはあり得ませんでした。
今は真っ昼間に女性がひったくられても、助けを求めることはできません。助けてくれる善い住民はいません。彼らは自分の仕事ではないと考え、最高に善くても見るだけ。見て知らん振りをします。昔は助けてくれる善い住民を探すのは簡単でした。道徳はどうか、考えて見てください。
道徳が消え、道徳が欠如していると推測するには、これだけで十分だと思います。
次に道徳を戻す方法について話します。世界全体について話すなら、みんなして「世界が危機を脱すには道徳を戻し、宗教を戻す以外に方法はない」と、世界に知らせなければなりません。かつて世界を救った宗教が戻らなければなりません。
世界の権威ある機関に道徳を戻す世話をさせ、国際連合は利益に関して激しく討論する場所だけでなく、世界の道徳を保護する機関にします。
私たちタイは、みんなして本気で、本腰で、人を人間にします。冒頭で述べた題目のように、生まれただけでは人であって、まだ人間ではありません。人は問題を作り、人間は問題を作らないので、みんなで人を、仏教教団員式の正しく純潔な人間にします。そうすればすべての問題は消滅します。
初めの段階として、子供たちに人と人間はどう違うかを教えます。これから、人と人間の違いについてお話します。
子供たちは学校で「人間とは人という意味であり、人と人間は同じ」と間違って教えられるので、そこで止まってしまいます。私は「シッポを切られた教育」と呼びます。犬ならシッポのない犬で、人と人間は同じという所に止まるので、子供たちは人間に昇格できません。
今子供たちは「スポーツ、スポーツは妙薬。煩悩の塊を治して人を人にする」と歌っても、後者の人とは何か、先生も良く教えていません。煩悩の塊を治して、そして人を人にします。だから人は、どうやって煩悩を治さなければならないでしょうか。人である人、スポーツの結果はどうでしょうか。
仏教の比丘として具足戒を受ける時、非常に喧しく「人間ですか」と質問しなければなりません。「人ですか」と聞きません。パーリ語では人間という言葉を使います。明らかに人間と見て分かるのに、それでも人間ですかと質問しなければなりません。これは、人に生まれただけでなく、人間である人を意味します。
他にも男性ですかと聞きます。男性という言葉はただ男に生まれただけでなく、男らしい強さがなければ男性とは呼べません。だから「人間ですか」「男性ですか」と質問します。これは意味次第です。
二千年前、哲学の面、知性の面で最高の師と崇められていたソクラテスは、アテネの街の路上で、松明を焚いて夢中で何かを探し回っていました。市民が何を探し回っているのか尋ねると、ソクラテスは人を探していると答えました。考えて見てください。なぜ松明を焚いて、針でも探すように探し回らなければならないのでしょうか。それは、ソクラテスの言っている人とは、人間という意味の人だからです。
ソクラテスが松明を灯してアテネの街で人を探したら、何人くらい見つけられたでしょうか。みなさん、自分で考えていただければ、人と人間がどう違うか、自然に分かります。
次に少し詳しく、私たちが人のように生きないで、人間のように暮らせば、この大地はまだ広く、世界にはまだゆとりがあり、産児制限の必要もなく、人のように生きれば、つまり身勝手なら、世界は危険なほど狭くなると熟慮して見ます。
人のように生きれば世界は最高に狭いですが、不思議なことに荒廃している土地がたくさんあります。私は車で出掛けたことがあり、一時間ほど走っても繁みの他には何も見えませんでした。隣の席の人になぜこのように荒廃させておくのかと聞いたら、その人は何もできないと言いました。牛を飼えば食べるために盗まれ、パイナップルを作ればごっそり盗まれるので、このように荒地のままにしておかなければならないと。どれほど国の経済の損失でしょうか。
人間がいれば森も利益があります。今は人しかいないので生活できず、盗む機会を狙っています。道徳がないからです。道徳が戻れば、こういう問題はありません。
私たちが本当の人間になれば、全国で毎日千件ある犯罪はなくなり、汚職も無くなり、官吏の不正も無くなり、警察も裁判所も刑務所も必要なく、少しだけで十分です。興味深くありませんか。
一九八一年に、世界の機構が「世界身体障害者年」を制定したと言っています。なぜ世界に障害が生まれるのか考えて見ませんか。私は道徳がないこと、人間でないことから世界に障害者が生まれると見ています。生まれさせた人も、生まれて来た人も、周囲の社会も、すべてに道徳がないから障害者が生まれます。
生まれさせた人に道徳があり、生まれる本人にも道徳があり、周囲の社会にも道徳があれば、障害者は探して目薬にするのも難しいくらい少ないです。
「道徳の欠如は人間の欠如」と言いたいと思います。人間がいれば、必ず道徳があります。
女性は男性よりも人間が多いと言いたいです。女性の方がお寺へ行き、女性の方がブッダを拝み、女性の方が托鉢に布施をし、女性の方が罪を恐れ、地獄へ落ちることを恐れます。男性はあまり恐れません。その証拠として、刑務所の囚人は、男性二、三千人に対して、女性は二、三人しかいません。二、三千人に対して二、三人です。何万、何十万パーセントの差があるか、考えて見てください。
さて、大きな項目、人と人間を比較します。
人は快楽に幸福を求め、人間は正しい義務から生じる法悦に幸福を求め、人間の義務を正しく行ない、自分を拝むことができれば幸福です。人のように幸福を求めて、歓楽施設に行く必要はありません。
人は物質で発展し、人間は徳行で発展します。
人は自分のことだけを考えて働き、人間はタンマのことだけを考えて働きます。
人は煩悩に触発されて働き、人間は知性に触発されて働きます。人と人間はどう違うかという説明として、これで十分です。
次に人を人間にすることについてお話します。人を人間にすることができればどんな問題も無くなるという、断固とした理由があることを忘れないでください。
人を人間にする縁の初めは、シッポを切られていない教育です。シッポが切られていない教育は、人を人にすることができます。「スポーツは妙薬、煩悩の塊を治し、人を人にする」というのは、教育という言葉に含まれます。だから教育は問題を解決します。
今は世界に道徳があるようにする世界共通の機関がありません。あるのはみんなして、自分と自分の仲間の利益を追求することに関して賢くするものだけです。良い医師は死ぬ人を少なくするので、産児制限をしなければならないほど人が多くなります。しかし生まれてくる子が完璧で、道徳がある保証はしません。
まだ対処しなければならない問題が残されています。人が増えれば増えるほど、問題が多くなります。産児制限は不完全な国民を増やしたでしょうか。道徳があるでしょうか。それとも道徳の欠如を増加させたでしょうか。
正しくない教育、道徳のない国民に民主主義はありません。政党の利益しかないので、庶民の利益は重要ではありません。本当の民主主義は、庶民の利益が重要で、庶民が主権者ではありません。あり得ません。庶民の利益を重要視する方向で実施してください。それが民主主義です。教育が十分でないので大物になりたい国民ばかりで、庶民の利益を重要と見ません。
本当の教育とはどんな教育でしょうか。本当の教育とは、人を人間に生まれさせることです。だから教育は「人を人間にするための物」と言うことができます。
どうぞ良く見てください。私たちは何度も生まれ、少なくとも二回生まれます。一回目は両親によって体が誕生します。これは動物が動物になるように、人は人にしかなれません。
二回目は精神的な誕生で、ブッダを父、タンマを母、僧を兄として生まれれば人間です。つまり父であるブッダ、母であるタンマ、兄である僧の力で、人の悪を捨て、新たに人間になります。続いて預流、一来、不還、そして阿羅漢と、精神的な誕生があります。
どんな宗教も、すべては人を生まれ変わらせたいと望むものだけと、どうぞ良く見てください。それは最高の存在である神様、あるいは涅槃でも、そこへ行って一緒になるのにふさわしくするためです。人は生まれ変わらなければ、そこへ行くことはできません。どの宗教もみな、人を人間に生まれ変わらせたいと望んでいます。
私たちは誘い合って、人が人間になれる機会と道具を、精いっぱい探しましょう。臼を転がしながら山に登るように困難でも、大丈夫です。今はテクノロジーがたくさんあるので、臼を転がしながら山を登るのも簡単で、昔と違います。
慌てて良く調べもせず、古い人、つまり「西洋の尻を追う」と言われる新しい流行に迷う人を引っ張り出して新しい人にしないでください。古い人を引っ張り出して新しい人にし、物質に溺れないでください。風俗店や、杯で首に掛けたブッダお守りの頭上を横切る水商売の店を増やすより、タンマを学び、訓練し、実践するセンターを作ってください。
教典にある「十二カ月の国王行事」は楽しむだけでなく、十二か月の道徳を守る行動に改めるべきです。つい先日のローイクラトン(灯篭流し)などは、煩悩を増やすのでなく、道徳を増やす形にしなければなりません。
博物館に物として収蔵しているラームカムヘン王の石碑は、出しましょう。出して、スコータイ時代のように使います。その石碑を、スコータイ時代に使ったように、この時代に活用しましょう。物として形式的にしまっておかないでください。
どうぞみなさん、これはいろんな問題を解決できる方法かどうか、道徳を戻すこと、本当の教育、つまり人を人間にすることができるか、本当の教育は精神的な再生の機会を与えるか、熟慮して見てください。
体の誕生は人にしかなれず、動物と変わりません。動物は生まれたら動物になり、人は生まれて人になり、もう一度心や精神面が生まれれば人間になります。述べたような方法があります。
要するに人が人間になれば、世界を護る道徳があるので問題は無くなり、いろんな危機も無くなります。そして私たちは人間に生まれ、仏教に出合ったことが無駄になりません。
どうぞみなさん、これを真剣に熟慮してくださるよう、心からお願いします。見えるまで見てください。これは多少見え難いです。見えるのは時代遅れとか、難しすぎるとか、あるいは時間が掛かりすぎると見えます。「豆が炒れる前に胡麻が焦げる」と問題にするのは、妨害になります。それは別の話です。
今は、道徳を戻す努力をする以外に選択肢はありません。世界全体の人の利益のために、真実を見てください。世界の人が賛同すれば、この世界は違った物になります。人がまだ煩悩の餌である物、物質的発展に執着しているなら、この世界はこれからも煩悩の餌であり続け、苦とすべての危機がない、清潔な呼吸をする方法はありません。
どうぞみなさん、一人一人が自分で見て、自分を信じて、そして自分で確信してください。そうすれば勇敢になり、臼を転がしながら十の山、百の山に登ることができます。テクノロジーが非常に進歩しているからです。次にこの世界に人間がたくさん生まれるように奮闘努力してください。すべての人が自分を信じ、勇敢に努力してください。
私たちは一貫性、ふさわしさ、頭と尾がなければならない、アゴに注意し喉に注意し、古杭を抜いて新しい基礎を埋め、何が転輪で何が蓮の花かを知り、煩悩は自分、タンマは自分、生まれただけでは人、まだ人間ではないと、私が今まで話してきた内容を思い出してください。
どうぞ道徳の問題を解決するために、人間の世界を作ってください。人間とは高い心があるという意味です。あるいはマヌ神の血を引く高い心の人は、問題を作りません。煩悩より高い心があるので、当然すべての問題より上にいます。
みなさんが人間のことだけを考え、失われた人間性だけを考えて、関心を持っていただくよう望みます。今人間性は消滅し、残っているのは誰も問題を作る人だけです。みなさん、急いで人間になってください。
みなさんがどんどん人間であることを増やし、そしていつでも人間であること、そして仏教に出合ったことにふさわしく、穏やかに暮らすよう希望させていただきます。仏教に頼り、あるいは意味が同じ宗教に頼ることは道標になります。人の特徴である身勝手をなくし、すべての動物を生老病死の苦の友と見ます。それが人間の特徴です。いつでも、個人も所属集団も、人間性で繁栄しますよう!
今日のお話は、これで終わらせていただきます。
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