27. 古杭を抜いて基礎を埋めたいタンマ





1980年9月21日

 タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日の法話は「腐った古杭を抜いて、基礎を埋めたいタンマ」と題してお話します。今までの題目を復習していただければ、理解しやすいと思います。つまり一貫性と、ふさわしさと、頭と尾があることと、アゴと喉に気をつけることをお話し、今回は古い基礎を抜いて基礎を埋めることです。

 タンマが神様か最高の人物のように、みんなでタンマの望みに従った正しい行動をすることで、タンマが私たちの所に戻って来て、一緒にいることができます。歓迎して、しっかりご機嫌をとってお願いしなければ私たちの所にいてくれないので、タンマに居てもらいたければ、タンマが同居するにふさわしい 正しい状態になるように、自分自身を調整しなければなりません。

 更に話をはっきりさせるために、いつも初めにタンマの必要性について話させていただきます。世界にはタンマが必要です。人間にはタンマがなければなりません。そうすれば人間の世界になります。でなければ何の世界になるか、とても言葉では言えません。

 私たちにタンマがあるのは、人間が猫や動物全般に対して恥ずかしくないようにするためです。みなさん、観察して見てください。猫などの動物には、頭痛がなく、鎮痛剤を飲む必要もありません。年間何トンも飲んでいる人間のように、睡眠薬を飲む必要がありません。猫は人間のように神経症や精神病になりません。

 汚職の仕方を知らず、不正もしたことがありません。人間がしているような戦争もしたことがありません。今の人間が作っているような欲情の問題も、それほどありません。

 猫は頭痛にならなくても良いですが、人間は頭痛になり、睡眠薬を飲まなければなりません。これは猫に恥ずかしいです。十億もの財産のある富豪も自殺をしたというニュースがありました。頭が痛いからです。猫は罹ったことがありません。猫に恥じなければなりません。猫に恥じないため、頭痛にならないため、不眠にならないためには、タンマがあることです。

 動物は頭脳が低いのでこうした問題はありません。人間は頭脳が高いのに、どうしてこういう問題があるのでしょうか。動物に恥ずかしいです。しかしタンマが関われば、人にこのような問題はありません。その後は動物に恥ずかしい話はありません。人は頭痛がしなくなり、よく眠れ、神経症にも精神病にもなりません。不正もなく、汚職もせず、戦争もせず、愛欲に溺れません。

 「タンマは必要。無ければならない」と見てください。タンマがあれば問題は生じず、生じている問題も無くすことができます。

 道徳の話は精神の話で、私たちは関心がありません。関心があるのは物質のこと、政治のこと、体の問題、腹と口の問題に偏り過ぎています。本当は比例しなければなりません。人間の知性が物質面に進歩した分だけ、それを補うタンマがなければなりません。バランスがとれていれば動物に恥じる問題はありません。

 見てください。人間は信用できないので、何にでも制度が必要です。非常に細かい公務員規律などは、行動する人に道徳が無い証拠です。だから規律は、人間の進歩につれてどんどん細かくなります。

 誓約書を見ると、何かをするには、必ず細かい項目が明示してあります。全員に不正をする準備があり、非常に悪いと言っているようです。動物にはこういう問題はありません。どんなに細かい規律を作っても、まだ小さな不正があり、いろんなことを成功させることができません。

 どうぞみなさん、道徳で解決するのは、待ちくたびれるほど時間が掛かると見ないでください。みなさんは末端の解決ばかりして、根源の解決である道徳面の解決をしないから、豆が焼ける前に胡麻が焦げます。世界のすべての政府は、百も千もの小さな問題、末端の解決しかしていません。すべての問題の根源である道徳の問題を解決しようと目指す政府は、どこにもありません。

 今日のようにタンマが枯れそうなら何が起こるか、公正に考えて見てください。たくさんの問題が生じます。そしてそれらの問題は、政治や経済や戦争などで解決できるでしょうか。

 私たちは夢中になって物質面の進歩を生じさせる支援ばかりしていますが、精神面がなければ、半分しか人間ではありません。

 みんなで心の面、精神面を増やさなければなりません。ブッダの象徴であるお守りを配るように、たくさんタンマを配り、たくさんプラタム(教え)を配ります。大昔から今日まで、配られたお守りは十億くらいになるかもしれません。しかし首に下げて杯を持ち、ブッダの頭上を跨ぐことで、ブッダの意味を消滅させてしまいます。仏頭の意味がないので効果がありません。

 私たちは、お守りを配るようにタンマを配りません。ブッダとバランスがとれるように、タンマがなければなりません。そうすれば酒杯でブッダの頭上を横切りません。どうぞタンマの心で考えて見てください。

 作っても、首に提げてブッダの頭上を酒杯で跨ぎ、ブッダの意味を消失させれば無駄になります。苦労して入魂の儀式をした人が気の毒です。人々がこうしてすっかり駄目にしてしまうので、気の毒ではないでしょうか。私たちがまだバランス良く配っていないブッダとプラタムのことを考えて、憐れみで関心を寄せてくださったのに。

 教育について言えば、非常に広く急速な進歩があります。十分と言われる考察をして見ると、教育は急速に広く進歩しているのに、なぜ世界に、ありとあらゆる危機があふれているのでしょうか。個人の平安も求められず、社会の平和も求められません。いるのは群れている若い天人ばかりで、みんな非行で麻薬を好み、自分をヒッピー、ハッピーと言って群れています。みな教育のある子ばかりです。

 私たちの教育がどうだから人間がこうなのか、考えて見てください。どうぞみんなで、心をタンマで満たしてください。タンマがあれば「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える」とブッダが言われたように、本当のブッダがいます。あるいは「タンマがある人はブッダがいる。ブッダがいる人はタンマがある」と言い替えることもできます。分けることができない一つのものです。

 これがタンマがないこと、道徳がないことで、普通でない問題を作ります。タンマを戻すには、タンマが戻る理由のある正しい品行をしなければなりません。今日は古杭を抜いて基礎を埋めるという話をします。

 「古杭を抜いて基礎を埋める」という言葉の文字通りの意味は、古杭とは、障害や危険で、基礎とは拠り所、安全、安定です。物質的な意味の古杭は、ヒト語では邪魔になる杭ですが、タンマ語の古杭は誤った見解です。ヒト語とタンマ語の両方の「古杭」を知らなければなりません。

 用地に腐った杭がいっぱいあれば、しっかり安定した家を築くことはできません。古杭がなければ、基礎を深く埋め込むことができるので、良い基礎の家になります。

 別の言い方をすれば、古杭を抜くとは悪いタンマをすべて捨てることで、基礎を埋めるとは、タンマを集めて満たすことです。

 次に古杭、あるいは基礎という言葉を熟慮します。

 初めの古杭は利己主義で、拠り所である「俺、俺の物」があります。基礎は庶民や人間同朋、生老病死の友の利益を考える主義であり、ほとんどは拠り所である生老病死の友がいます。

 古杭は母の恩を知らない主義です。母の恩も知らず、母とは何かと質問しても正しく答えられません。小学生や中学生に、お金を預けなくても無制限に引き出せる銀行はどこかと聞くと、彼らは、正しく答えられません。母の恩を知らずに、もっと深い国や宗教や国王の恩を知ることなど、どうしてできるでしょうか。

 母の恩を知ることは、愛と誠実と感謝の基礎を生じさせ、それが拡大して、簡単に国や宗教や国王を愛すことができます。どうぞ幼稚園から正しい教育をし、民主主義の基礎である、道徳のある国民になってください。

 二番目の古杭は、バランスを考えずに右端左端に思い切り投げることで、基礎は中道、ちょうど良いこと、あるいは現代人の第三の出口であるバランスです。右端に偏り、左端に偏ることは、ブッダの時代以前から誤りと見なされています。

 カーマスカラリカーヌヨーガ、快楽の喜びに耽ることは一方へ偏ることであり、アッタキラマターヌヨーガ(苦行)、誤った見解に沈んで必要以上に自分を苦しめることは、もう一端への偏りで、マッヂマなら真ん中で、ちょうど良いです。

 労働者のために資本家がいて、資本家のために労働者がいれば、ちょうど良い中間にいるので危険はありませんが、両端に偏れば殺し合わなければなりません。

 次の三つめの古杭は規律がないこと、規律がなく、規律に対して頑ななことで、基礎とは規律で完璧なことです。見てください。私たちは今、咽が枯れるほど規律を叫んでいますが、あまり規律はありません。

 静かに話を聞くのも規律があるからで、法話を聞いて不満の声を上げるのは、規律がないからです。観察した限りでは、軍で説法をすると、静かで気持ちがいいです。非常に規律があって、最高に気持ち良く聞いています。他で説法をすると規律がないようにザワザワガヤガヤ喧しく、教師の集会も、軍隊のように静かに講義を聞きません。私はこのような経験しています。説法をしに行ったことがある人は、みなそう言います。つまり言うことが一致します。

 さて次は、基礎として憶えておくべき最高の物になりました。古杭とは、すべての種類の、すべての段階の誤った見解で、基礎とは、すべての種類のすべてのだ段階の正しい見解です。古杭を抜くとは誤った見解を抜き取ること、基礎を作るとは正しい見解を堅固な教えとして掌握することです。これが仏教の要点です。

 ブッダは「すべての動物は、正しい見解を持すことですべての苦を通過する」と言われています。ブッダは「正しい見解を持すことで」と言われています。

 持すという言葉は、良く持つ、あるいは良く掌握しておくという意味で、口だけではありません。一般の人のほとんどは、持戒と言っても口だけで、言い終わった時には止めます。こういうのを「持す」というのは間違いで、嘘です。仏教ではありません。持すとは、全部揃えて良く持っているという意味で、身に着いていなければなりません。私たちは誤った見解をすっかり抜き取って、正しい見解を身に着けなければなりません。

 最高レベルの誤った見解はアスミマーナ(自尊心)、俺、俺の物という感覚です。この感覚は幼い頃から積み上げられているので、誰もどうしようもありません。俺、俺の物という感覚、自尊心をなくすために、何もしてやれません。生まれた時から、俺、俺の物と考えるように躾けられて大人になったので、根が深く張り、抜けないくらい頑丈だからです。

 ブッダが大悟された時、ブッダは反対のことを教えました。つまり「良く見なさい。すべての物は原因と縁による一連の変化なので、俺にも、俺の物にもすることはできない」と教えました。

 ブッダは無我-それらは自分ではない-を教え、空-それらには自分の意味がないこと-を教えました。

 ブッダはタタター(真如)、あるいは縁起を、「そのようになる。そういう因縁があれば、そういう結果がある。これがあるからあれがあり、これがなければあれもない。ただそういう状態があるだけ」と教えました。だから、俺、俺の物にしようとしないでください。自分自身が苦になり、それが周辺の他人に波及し、身勝手な人の迷惑で苦の巻き添えになります。

 これが、心にしっかり埋め込まなければならない、あるべき基礎で、古い基礎を抜き取って、良い正しい基礎をしっかり埋め込みます。

 間違った見解は世界を破壊する物で、見るべき物を見るべきでない物に、苦を作り出す物を望ましい物に見せます。だからこの世界は陶酔させる物、溺れさせる物をますます作ります。

 このような世界に生まれて来る子供は、本当に可哀そうで憐れです。生まれるとすぐに陶酔に沈むように染められ、間違った見解、あるいは古杭の根は深く、掘り出し難く、抜き難くなります。しかし仕方がありません。みんなで協力して抜き取らなければなりません。それから正しく、良く、新しい基礎を埋め込みます。

 古杭とは誤った見解、間違った解釈、誤解、間違った考え、間違った信条、間違った理想で、すべて間違っています。これを古杭と言います。

 これと反対になるようにしなければなりません。正しい理解、正しい見方、正しい信条、正しい理想があり、そしてしっかり掴めば、幸福と発展だけに繋がる基礎になります。

 どうぞ、非常に凶悪な古杭と基礎を知ってください。すべての問題を集約したものである問題を解決できるかどうかは、古杭と基礎を正しく知り、そして正しく対処できるかに懸っています。

 次にもう少し、今私たちは基礎を抜いて古杭を埋めていると見てください。聞いて滑稽です。私たちは今、新しい基礎を抜いて、古杭を埋めています。利益のある拠り所になる基礎を抜いてしまい、そして古杭を埋めるので邪魔で危険です。これが物質面だけの進歩発展です。

 精神面の正しいことを止めて、タンマを廃し、宗教を廃し、ブッダを廃し、善い文化、善い風俗習慣を廃止して、悪劣な物を受け入れて信奉します。これを、今は基礎を抜いて古杭を埋めていると言います。

 カティナを見てください。新聞の報道を見てもいいです。何のためでしょうか。酒を飲みに行くため、踊りに行くため、車を転覆させて大勢死なせるためです。カティナ祭に行くのは、お酒を飲むため、博打をするためです。

 出家式もお酒を飲むためです。たくさん来る人のほとんどはお酒を飲んで、楽しく跳ね回りに来ます。出家式はお酒を飲む機会になりました。

 功徳のための募金活動も、悪の行事をしなければなりません。善や徳の協力を求めるにも、悪である行事を催さなければなりません。少なくとも料理や飲み物を振る舞い、いろんな欺瞞があります。徳を積むために罪を投資すればどうなるでしょうか。徳を積むために罪を投資するのは、結果はマイナスになり、プラスにはなりません。徳を積むために罪を投資します。

 ほら、彼らは基礎を抜き取って、古い腐った基礎を埋めています。彼らはその古杭を抜き取るべきです。つまりカティナは酒を飲むためでなく、律に従って、ブッダが狙った利益のためでなければなりません。

 出家式は酒を飲むためではなく、仏弟子の数を増やすためです。

 善を行なう資金を求めて募金をする、あるいは善の協力を求めるために、騙す物で騙さないでください。騙すことは罪であり悪なので、善と罪を資本にして善や徳を求められるかどうか、考えて見てください。仏教教団員のみなさん、良く見てください。私たちは今基礎を抜いて、古杭を埋めています。

 ちょっとお話したい面白いことは、その時代時代に行なわれている葬式についてです。ある時代には、彼らは「死人が生きている人を売る」と言いました。死んだ人が孫や子にたくさんのお金を使わせ、葬式のために貧乏になるので、死人が生きている人を売りました。

 今は反対に、生きている人が死人を売ります。家に死体があると、家を解放して麻雀や博打をさせ、酒を飲ませ、儲けまであり、生きている人が死人を売ります。南部のある県には請負人がいます。死んで遺体が家にあると、客ができるだけ長く何日もいるように、請け負ってすべてやってくれます。そして博打からたくさん手数料を取って、喪主にくれるので金持ちになります。生きている人が死人を売ると言います。

 しかし良く見ると、死人が生きている人を売るのも、生きている人が死人を売るのも、すべて腐った古杭と分かります。すべて誤った見解で、基礎にすることはできません。正反対と見てはいけません。一方が古杭で、もう一方が基礎になると見ないでください。あり得ません。全部古杭であり、間違った見解です。

 死人が生きている人を売るのも古杭、生きている人が死人を売るのも古杭、つまり間違った見解で、人類の敵です。よく注意しなければなりません。正反対と見て、どちらかを選ばないでください。そういうのは正しくありません。

 私たちはどんどん正しくなる見解がなければなりません。人間は霊が生まれさせ、霊が人を作り、霊が人を壊すと考える人たちがいます。どの時代の呪術の残り香か知りませんが、この人は霊から生まれた、霊が人を作り、霊が人を壊すという形で残っています。私は間違った見解と見ます。私たちは「霊ではなくプラタムが人を生まれさせる」という、正しい見解がなければなりません。

 プラタムがタンマの法則で生まれさせ、プラタムが生まれさせたと言います。霊が生まれさせたのとプラタムが生まれさせたのを比べて見れば、どちらが利益になるでしょうか。タンマによって、タンマの法則によって、因と縁によって生まれました。ブッダは、プラタムによって私たちを生まれさせた父であり、プラタムは母であり、すべての僧は、私たちより先に生まれたので、兄です。

 非常に堅固な基礎である「ブッダは父、プラタムは母、僧は兄」という、正しい見解をもってください。そしてブッダを父に、プラタムを母に、僧を兄に持つ人にふさわしくしてください。細かいことは自分で探しても構いません。自分で考えて見れば、プラタムが生まれさせ、ブッダが生まれさせた原因であり、僧は先に生まれたので兄であると知ります。

 私たちがこのような教えを持てば、心にプラタムがあります。外部に雑然とあるのでも、いろんな施設や場所にあるのでもなく、ブッダとプラタムと僧が、私たちの心の中にいます。

 私たちはブッダを父に、プラタムを母に、僧を兄に持っているので、正しく後を追って歩いて行きます。そうすれば何が起こるでしょうか。ブッダを父に、プラタムを母に、僧を兄に持つほどになれば、述べたような、人間が畜生に対して恥に感じる、どんな問題も残っていません。

 最後に「タンマがなければならない。そうすれば人間性がある」と結論させていただきます。タンマがあるには、タンマが神様であるように、一貫性、ふさわしさ、頭とシッポがあり、アゴと喉に注意し、古杭を抜いて基礎を埋めなければならないプラタムの道で、タンマの望みに叶った正しい品行をしなければなりません。

 時間になりましたので、これでお話を終わらせていただきます。どうかみなさん、安定した仏教教団員であるために、ブッダを父とし、プラタムを母とし、僧を兄として、腐った古杭を抜き取り、新しい基礎を埋めるよう努力してください。みんなでそうすれば、どこでも、いつでも、どんな種類の職務にも発展があります。




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