頭と尾を求めるタンマ

 

1980720

タンマにご関心がある善男善女のみなさん、今日の法話は、「頭と尾を求めるタンマ」と題してお話します。

 聞くと、非常にギクシャクした感じがします。「一貫していなければならないタンマ」、「ふさわしくなければならないタンマ」と題してお話した、前の話を思い出してください。今日は「頭と尾がなければならない」です。私たちはタンマの行動をしなければならず、そうすればタンマが戻ってくるという意味なので、「頭と尾を求めるタンマ」と言います。

 私たちは、頭と尾がある状態の品格のある行動をしなければなりません。そうすればタンマは私たちの身に着きます。もし頭がなく尾がなければどうか、みなさん考えて見てください。

 カニを見てください。カニには頭も尾もないので、横に歩かなければなりません。カニのように横歩きでは、走って穴に逃げ込むしかなく、空へ飛びあがることはできません。頭と尾がないからです。

 タンマを身につけるには、必ず頭と尾が必要です。どうぞ、タンマは一貫性と、ふさわしさと、頭と尾があることを求めると、憶えておいてください。そうすればタンマが身に着きます。

次に私は、タンマが戻らなければ世界は破滅するので、タンマが戻ることを目指して、毎回お話していると、主張させていただきます。私たちにはタンマがなければなりません。私たちはタンマがなければなりません。タンマは、絶対になくてはならないものです。

最も必要な場合を見てください。それは民主主義です。私たちは、国民にタンマがある分だけ民主主義にすることができます。国民にタンマ、あるいは道徳がある分だけ、民主主義にすることができます。そうでなければ、その民主主義には内部の腐敗があり、選挙から国会まで、道徳に欠けている分だけ、民主主義は不十分です。十分な民主主義は、国民のタンマ次第です。

繰り返させていただきます。私たちは、国民に道徳がある分だけ民主主義にすることができます。私たちは国民に道徳がある分しか、民主主義にすることができません。

みなさん、民主主義が欲しいなら、急いで道徳のある国民にしなければなりません。道徳が十分なら、民主主義も十分になります。そうでなければ半分になり、四半分になり、それでは足りないので、使いものになりません。

次に、「なぜ僧でありながら政治の話をするのだ」と抗議の手紙をくださった人がいるお話をしたいと思います。

そうではない、と言わせていただきます。そういう見方をしないでください。政治の話ではなく、タンマの話をしています。人間にはタンマがなくてはなりません。人間を支配する政治には、タンマがなければなりません。世界は今、政治に支配されているので、政治にタンマがなく、それで世界を支配すれば、世界はどうなるでしょうか。

だから私は、政治にタンマがあるようにするために、タンマについて話し、政治についても話します。政治にタンマがあれば、人間の拠り所になります。経済も現在のように不正な経済でなく、タンマがなければならず、国を治めるにもタンマがなければならず、社会にもタンマがなければなりません。

何かを生産するにも、タンマでしなければなりません。買うにも、売るにも、中買いをするにも、輸送もタンマがなければなりません。タンマがなければ破滅です。だからタンマについて話しているのであって、政治について話しているのではない、と主張させていいただきます。

次に、中には、腹や口が満たされてからタンマの話をしなければ、タンマの話をしても無駄だと反論する人がいます。その人は良く見ていません。食べ物がないのは、タンマがないことが原因と、良く見ていません。道徳あるいはタンマがあれば食べ物はあり、使う物もあり、食べ切れず、使い切れない余分もあります。タンマの最初の項目は、人間として正しい義務を行なうことなので、正しい義務をする人が飢えることはありません。

その人は、頭であるタンマがないから、口や腹を養うことを知りません。あるいは一気に金持ちになるロクでもない方法を探します。たとえば寂しい場所で待ち伏せして車を転覆させ、物を持ち去り、「残るはパンツ一枚」と言われるように、身につけている財産を奪います。これは、その人にタンマがなく、それで食べる物がないからこういうことをしたと言い訳します。「口や腹を満たせばタンマが身につく」と言うのを止め、「タンマがないから食べ物がない」と言い直します。

またある人は、「危機があってこのように大変なのは、世界では当たり前。世界には必ずあり、避けることはできない。我々はずっと危機と共に暮らして行くのだ。タンマの話をする必要はない。時間の無駄だ」と抗議します。

私は「違う。それは真実ではない」と答えさせていただきます。私たちはこれからもずっと堕落と共に暮らすというのは正しくありません。進歩発展する人間にふさわしく、防止、あるいは撲滅できるからです。私たちは人間でなければならず、これらの問題を解決することができなければなりません。でなければ、動物に対して恥です。

動物には危機はありません。自分で危機を作らないので、動物集団に危機があるとすれば、人間性のない人間、まだ人間になっていない人間が作ったものだけです。人間性のない人は、動物も困難の巻き添えにします。

私たちは人間なので危機を防止でき、然るべき解決ができます。危機と同居しながら世界で生きていくと捉えないでください。危機がなく穏やかに暮らしている動物に恥ずかしい人になります。タンマがなければならないことは、このように必要です。それに、問題解決にタンマを使って成功した人がいます。

アショーカ王の例を挙げさせていただきます。何でもかんでもアショーカ王を取り上げると、内心で嘲笑している方がいらっしゃるかもしれません。アショーカ王は伝説の人ではないと、世界中の人が認めています。すべての考古学者、歴史家が実在人物と認めています。タンマを使って成功した人なので、プラチャオシータンマーソーカラージャ(アショーカ道徳王)と呼ばれます。アショーカ道徳王が誕生したのは、タンマがあったからです。

王の政治は、「すべての領民は私の子」と宣言し、山の崖などにある石碑に刻まれています。王の理想は、すべての人が、現世では必ず幸福に暮らし、来世では必ず極楽へ行くことで、生きている人全員が幸福でなければならず、死んだら全員が極楽へ行かなければなりません。

今、こう言える政府が、世界のどこにあるでしょうか。言えば不満の声が上がります。なぜでしょうか。なぜなら道徳面の施策が十分に無いからです。

アショーカ王には、タンマアマッチョーと言うタンマ警官がいました。私たちには、鉄道警官と政治警官と観光警官と市警官と、いろいろな警官がいて、警察局長も憶えきれないほどあります。しかし考えて見てください。私たちには道徳警官はいません。市警官は、天秤棒を担いでいるオバサンたちとの戦いに、勝利を知りません。僧を捕えて還俗させることができた道徳警官など、言うまでもありません。

アショーカ王のタンマ警官は興味深く、仏教の教えに反して教えている僧を捕えて還俗させたことがあり、還俗勧告に応じない人は、死刑にしています。サラナート村パラナーシーの石碑には「サンガは分裂してはいけない。分裂した者には白衣を着させる」とあります。白衣を着るとは、在家という意味です。

道徳警官の任務は、いろんなことを王命に従ってすることで、道徳警官は寝室やトイレや台所に入って調査することができました。こういう調査ができたので、すべてが道徳的になりました。一般には、全員が木を植えたか、マンゴーの木、ジャックフルーツの木、ピクンの木を植えたか、どの家も王命に従って東屋や井戸を作ったかどうかを調べました。

これが道徳警官です。十分効果のある員数の道徳警官がいたので、アショーカ王は、アショーカ道徳王になりました。

しかし私は、誰もが幸福で、死んだら全員極楽に行かなければならないと言ったアショーカ王より、更に言うことができると思います。私は十分だと思いません。まだ足りません。誰でもかならず、活きていいるうちに、涅槃と共に暮らさなければなりません。死んだら極楽に行くと言うのは少なすぎ、誰でも生きているうちに、この世で、涅槃と同居しなければなりません。

パーリ経典のディッタダンミカッタニッバーナ、現法利益の涅槃について述べられています。サンプラージカッタニバーナ、その時だけの涅槃。これも同じ涅槃と言います。その時だけの涅槃でも構いませんが、時を連続させ、ほとんど一日中にしてください。

涅槃とは、涼しいという意味で、熱いものがない時はいつでも涼しく、煩悩がない時は涼しいです。煩悩のない時間を長くして、猫や犬に恥ずかしくないようにしてください。猫は、心に煩悩のない時間が人より多いので、人のように神経症になったことはありません。人のように心の病気になったことがなく、人のように、路上でやくざな行為をしたこともありません。これは心に煩悩がないから、つまり穏やかだからです。心が穏やかなら、その時は涅槃です。

要するにタンマは欠かすことができないものです。私たちに一貫性があり、ふさわしさがあり、頭と尾があれば、身につけることができます。こうすれば身に着きます。歌を一曲作って歌わせれば身に着くというものではありません。選挙の投票を促すために歌を一曲作って歌わせ、国を愛させるために歌を一曲作って歌わせ、何でも歌を作って歌わせます。それで上手くいくことはあり得ません。

一致団結を求め、協力させ、規律を持たせ、譲り合わせ、正義公正にさせ、国を愛させるのは、道徳のない人にはできません。タンマがなければなりません。呼びかける人は、タンマがなければならず、呼びかけられる人もタンマがなければなりません。これらを身につけるよう国民に呼びかける人は、タンマがなければならず、国民にもタンマがなければなりません。そうすれば呼びかけは効果があります。

次に私たちにタンマがあれば、頭と尾がある行動になります。頭と尾があれば、カニのように的外れの方向に逃げません。カニは頭と尾がないので、頭と尾がなければ、カニのように横へ逃げるしかありません。それでどこへ到達できるでしょうか。

頭と尾があれば、上と下があります。パーリ経典にはトゥッコー サマーンサムワーソー、「平等に暮らすことは苦」とあります。つまり、熟練者、初心者と呼ばれる上下が必要です。

頭と尾がなく、上と下がない、寝惚けた民主主義に注意してください。選ばれた議員は投票者のご機嫌を取らなければならないので、体も頭もありません。選出者におべっかを使うので、頭がなくなり、体もなくなり、頭である意味を失います。こういうのは他の側にとって正義ではありません。利益を頭にして、タンマを頭にしません。これはぞっとします。

世界のすべての理想は、序列があること、つまり頭と体と尾がなければなりません。頭があって、そして体があって尾があります。私は、タンマが頭で、経済や政治や行政などいろんな物が体で、そして道徳のある国民は尾という順に並べたいと思います。植物には根があり、主根があって毛根があります。主根がなければ倒れてしまいます。

自然を見、自然の法則を見ると、学校へ行かず、大学で勉強しない羊や山羊、水牛や牛などにも頭がいて、群れを導く長がいます。若い雄とは限りません。信頼したくなるタンマがあれば、少しも若くないメスでも、群れを導くことができます。頭は刀を差す必要はありませんが、頭としてのタンマが求められ、タンマがあれば群れはついて行きます。道徳が群れの長ならば、群れの仲間は快く尾になります。知力が頭で、兵力は尾です。

「指導者を信じれば国は危険を脱す」というのは気をつけてください。笑わないでください。指導者を信じなければなりません。そうすれば国は危険を脱します。「これが民主主義の時代かね」と、嘲笑しないでください。民主主義は頭も体も尾もないので、カニと同じです。

中には「頭があり上下がある体制は独裁だ」とまで言う愚かな人がいます。この独裁は、理想でも主義でもなく、何らかの理想を実現するために施行する手段にすぎないことを良く理解して、私たちが望む理想、あるいは主義のために、正しく使わなければなりません。

親が子を監督するにはどうするか。教師が生徒を監督するにはどうするか。司令官が自分の兵士を監督するにはどうするか。それには厳しさがなければなりません。バカみたいに子を監督する親は、効果がありません。竹や籐の鞭の意味を教えなければならないので、そうすれば子は善い子に、善い教え子に、何でも昔そうだったように善くなります。

 頭と尾があるのは、横へ行くカニにならないで、きちんとなるようにするためです。ここで、聞いて失礼に聞こえる言葉を使うお許しいただかなければなりません。私たちの宗教には頭があり体があり尾があります。頭は当然ブッダで、体はプラタム教えで、尾は僧サンガで、このように完璧に揃っているので、今日まで繁栄してきました。

 今私たちには、ブッダに代わるものとして説き、規定したタンマとヴィナヤがあり、すごい頭があります。ブッダは独裁で、つまりすべてにおいて律を越えていました。

 さて、タイの国民を見ると、タイ民族には頭があり、私たちには頭の上にいる人、国王がいます。頭の上とは、私たちを導く頭脳で、私たちには、王僕という言葉があります。私たちは王の僕、国王の僕ということで、完璧に頭があります。

 「指導者を信じれば国は危険を脱す」という言葉に不満の声を上げないでください。一人の指導者を探すのは、一ダースの指導者を探すより簡単です。一人の指導者は、一ダースの指導者より探しやすいと考えて見てください。その方が安全ではないでしょうか。

 頭がなければ、杯を掲げて首に下げた仏像の頭上を跨ぐ人たちを処分する人が誰もいないので、誰も処分できません。これらの人に対して鉢を伏せること(サンガに対して無礼を働いた俗人に対する処罰の一種)も、黙擯(罰の一種。僧の誰とも会話させない)も、誰もすることができません。頭がないからです。

 みなさん見てください。良く見てください。道徳を身につける必要があるのに身につけられないのは、頭がないからです。道徳の運河に直行しないで、カニのように間違った方向へ歩きます。目を閉じてカニの姿を思い浮かべてください。頭がないので、まっすぐ道徳の堀へ向かえず、違った方向へ歩きます。

 「タンマを頭にすれば自由が失われるので民主主義ではない」と言う愚か過ぎる人がいます。それはバカな人の民主主義、ロクデナシの人の民主主義です。だから国中ロクデナシがいっぱいで、どこへ避難したら良いか分かりません。新聞のニュースでは、幼児への強姦、養女への強姦、果ては実子への強姦まで報じられていますが、これは、心を抑える頭である道徳がない結果です。

 私たちは全員、頭のない人になってしまい、頭のない人は財産や快楽や名誉や権力を求めます。それで何を得たか、考えて見てください。

 さて世界全体を見ると、世界には頭として何があるでしょうか。頭として神様、あるいはタンマがあるでしょうか。頭が欠けていること、頭がないことを、認めることができるでしょうか。

個人には頭がなければなりません。グループにも、社会にも、国にも頭がなければならないのに、世界に頭がないのは憐れです。頭のない世界が、どうして堕落から抜け出すことができるでしょうか。

どうか急いで頭である道徳、あるいはタンマを呼び戻してください。自然は待てません。これ以上待てません。このまま放置すれば、殺戮時代になって、鹿や魚を殺すように殺し合うようになります。

頭とシッポがあるように、自然は何でも作りました。人間は尾てい骨の所に埋没しているので見えませんが、頭も、どんどん鎖骨の中に縮んでいます。自然は待てません。自然は、頭とシッポを正しく整えようとします。今は頭もシッポもなく、あるのは掻き集めたものを取り込む腹だけです。今世界中がこうなっています。述べたように、世界に頭がないからです。

どうぞ、頭とシッポがあることを考えてください。私たちにタンマが戻るために、最も重要です。タンマが私たちの頭として戻るのは、タンマの求めに応じて、私たちが正しい品行をする時です。タンマは一貫性や言行一致を求め、ふさわしさを求め、頭とシッポがあることを求めます。

それが、ブッダが「初歩の美、中間の美、先端の美」と言った、タンマによる美しさです。私たちはタンマによる美がなければなりません。あるいはタンマが頭でなければなりません。そうすれば美があります。

一貫性、ふさわしさについては、前にお話し、今日は頭とシッポがあることについて述べました。個人の、社会の、国の、そして世界にとっての頭であるタンマを身につけてください。

国民に道徳がある分だけ民主主義にすることができ、国民に道徳がある分だけ、民主主義になると、もう一度主張させていただきます。それ以上なら、よく言われているのを聞く「腐敗した民主主義」です。腐敗した民主主義があるとは、聞いてびっくりします。

 国民の道徳が減った分だけ、議員の選出を初めすべての民主主義は、完璧でなくなります。国民に、民主主義の基礎である道徳を持たせることに、特別な関心を持ってください。すべての教育は、道徳のある人にするためでなければなりません。

 どうぞ教育という言葉の解釈を改めてください。教育とは、道徳を国民の頭蓋骨に詰め込んで、国民の心にタンマがあるようにすることです。他の解釈の教育にしないで、国民の頭蓋骨に道徳を詰め込むだけで十分です。問題は残らず解決します。教育は、世界のすべての問題を解決できます。

 教育は何も問題を解決できないという人がいます。私は信じません。異議を唱え、ここで反論させていただきます。私たちは、タンマをもたらす教育にしなければなりません。道徳がある分だけ民主主義になり、それ以上のものは腐敗した民主主義だからです。

 世界が破滅する前に、タンマを戻してください。タンマが戻らなければ世界は破滅します。世界が一丸となって、タンマを戻すことに関心を持ってください。

 今日のまとめは、頭とシッポ、上と下がある人でなければなりません。みんな同じでは池間ません。あるいは頭を下に持って行くのは、やりすぎです。

 最後に、時間も無くなりましたので、すべての人間が正しい人間、つまり頭がありシッポがあり、道徳が具わり、世界に平和を築くにふさわしい完璧で正しい人間性のある人になるよう願って、今日の話を終わります。

 どうぞこの願いを、みなさんが熟慮して、もし賛同なら、みんなして実行し、いつでも自分と他人の幸福で発展する実践を振興させてください。

 これで今日のお話を終わらせていただきます。


ホームページへ                                                                                                    短文目次へ