「ふさわしさ」を求めるタンマ

 

                                       1980615

 タンマにご関心がある善男善女のみなさん。私はまだ、タンマが戻らなければ世界は破滅し、少なくとも住む国土が無いので、タンマが戻ることを目指してお話します。タンマが消えれば、消えた分だけロクデナシが生まれ、ロクデナシが溢れて寝室まで入り込むので、私たちは住む土地がなくなり、タンマがないことで世界は破滅するという意味です。

 昔、今より善い道徳があった時代は、四、五歳の子どもでも留守番できました。親が田んぼや森へ行く時、あるいは森に住んでいるなら街に来る時、留守番させても何でもありませんでした。今はできません。

昔は警官一人で、交番で一晩中番できましたが、今は何十人いても侵入され、火を点けられます。昔の人は誰でも、留置所は彼ら全員のものと見なしていました。今ではそうではありません。現代は警察官の家へ、警察将官の家へ、県知事の家へ泥棒に入ったと、新聞が報じています。全部昔はなかったことです。

 タンマが戻ってほしければ、私たちはタンマが好むものを投資しなければなりません。前回私は、「一貫性を求めるタンマ」という題目でお話しました。今日は「ふさわしさを求めるタンマ」と題してお話します。一貫性と「ふさわしさ」は関連があります。

たとえば代議士が大臣になるのは、政府を監督するつもりで代議士になり、そして大臣になれば、このように同時に二足の草鞋で、問題が起きた場合には、代議士の精神で判断した結果と、大臣の精神で判断した結果は違い、コウモリ、あるいは二股の支え木のようにあまり丈夫でなく、ふさわしくない状態を見せています。

 タンマに対して一貫性と「ふさわしさ」がなければなりません。そうすればタンマが戻ります。

 さて、これから「ふさわしさ」についてお話します。

 民主主義は道徳のある国民と伴侶でなければなりません。そうすればこのようにふさわしくなります。饒舌な民主主義は、「人民の人民による人民のための」と口で言うだけで、聞いて滑稽です。道徳がなければ、破滅の民主主義で、道徳のない国民の民主主義は、破滅をもたらします。

 国民全員に道徳がなければ、菩薩、あるいは百人の権化に護ってもらっても、静かな幸福はなく、ふさわしくありません。国民に道徳あれば、それ自身が護る人、つまりタンマが庇護者で、誰でも治められ、何もしなくても大丈夫です。国民に道徳がなければ、白馬に跨った神の化身である国王百人でも、護ることはできません。地方交付金も、道徳のない役人、あるいは国民によって破滅資金になります。

 道徳が無いとは何でしょうか。道徳が無いとは、自分の義務を正しく行なわないこと、人間の義務を正しく行なわないことで、たとえば怠惰。こういうのを道徳が無い、道徳の欠如と言います。正しい人間性がありません。

 今実施している地方交付金もふさわしくありません。機械を欲しがり、お金をほしがらない市民グループについて新聞が報道していました。その人たちは自分でするからです。このようにすれ違いです。彼らは、交付金をもらって人力でするより、機械を使う方が結果は良いと考えるからです。心が誠実な市民グループとすれ違います。

 ゴム園のある地方では、労働者は交付金で働こうとしないで、もっと高収入を求めて、もっと高い賃金を要求します。どこでも労働者が、交付金より高い賃金を自分で設定します。お寺へきて働く労働者も、非常に高い労賃を要求するので、ほとんど雇えないくらいです。安い賃金で請け負う人がいれば、仲間が、「なぜ安い賃金をもらうのだ。お陰で自分たちが困窮する」と言って脅し、危害を加えようとします。これです。道徳が無いことはどんなか、どんなに道徳が無いか、見てください。

 田舎の子の大学について話したいと思います。みなさんにとって奇妙な言葉かも知れません。田舎の子はみんな小学校四年しか勉強しません。彼らはどう教えられているのか、なぜ仕事を愛すことを知らないのか、仕事を嫌い、疲れるのを嫌います。しかしいつでも闘鶏を飼い、闘魚にをし、日常的に小さな盗みをします。

女の人を苛める類の女好きで、お寺で小鳥を撃ち、魚を釣りをし、お坊さんが禁じれば、お坊さんの頭を撃ちます。彼らの集会室や教室は、橋や橋の周辺や道端で、彼らは礼儀知らずで愚かな姿を自慢するだけで、この大学を卒業するのは、女の人を連れて逃げ、彼らなりに暮らすためです。

 こういう大学を、なぜ見ないのでしょうか。これは、大学のように地域の中心で、至る所にあります。女の人を連れて逃げて暮らす時点で、引き返すためにこの大学を卒業できる人はごくわずかです。

 次に一貫性が無いことを見ると、公務員の職務で、すべての職位のすべての部分に、なぜ非常に細かい決まりがあるのでしょうか。誰も信用していないようです。交付金の管理規定を読んでみても、そう感じます。誰一人信用できないような管理を、なぜするのでしょうか。道徳がどうなのか、考えて見てください。

 次にふさわしさについて見ると、非常に危険な不似合いは、何があるでしょうか。一つ一つ挙げてみます。

 初めは、仏教教団員の不似合いです。私たちは仏教教団員にふさわしくない装い、ファッションをしています。煩悩を扇情する装い、お金があるのを自慢する装い、煩悩を増やす装いです。歌も踊りも、仏教教団員にふさわしくありません。すべてのコマーシャル映像も仏教教団員にふさわしくありません。ある種の、各種の娯楽や習慣、そしてその他多くのものが、仏教教団員にふさわしくありません。

 二つ目は、たとえばコミュニストの弾圧は、簡単な論理でふさわしくないと感じます。つまりコミュニストには、少なくとも四段階ありますが、すべて同じ段階のようなやり方をしています。

 非常に強硬なコミュニストは、確信する主義の理念があります。

 中間のコミュニストは、何も理念がなく、大物になることを期待して、勝利すれば反乱になるか、あるいは植民地にします。

軟弱コミュニストは、騒いで楽しむために雇われた人で、コミュニストに志願する何らかの必要性があります。

最後のカスのコミュニストは、大勢詰め込まれたと言われる闘士たちで、そのうち仕事がなくなります。

この、少なくとも四つのレベルには天と地ほどの違いがありますが、私たちには、いつも同じ撃退法しかなく、使うのは銃だけで、口を使いません。銃ばかり使って、口を使いません。あるいは使い方を知りません。

そして銃と一緒に使う言葉は、脅迫し、呪うだけで、「帰って来なさい。戻って来なさい。親戚の八割から九割はあなたの帰還を望んでいる。みんなあなたの考えには賛成できません。そういうことをするのは、正しくありません。まだ自由の権利を正しく使っていません。その自由の権利を親戚の愛、友達の愛に替え、元の家族の所に戻る方がいい。私たちは良い家族になれる」と、誤解によって分裂した家族や兄弟の心を惹く話し方をしません。

次に三つ目は、教育がふさわしくなく、完璧でない教育、動物ならシッポがなく、仏塔なら先端がない教育です。私のお寺へ来て、あれこれ質問する学生がいるので分かります。その学生は、仏教について何も知らないことを露呈する質問をします。どう教えているのか、学生は仏教をまったく知りません。

「仏教は国の問題を解決することができますか。世界に平和を創れますか。仏教とコミュニズムはどう違いますか」と質問します。仏教がどんなものか、あらゆる問題を解決でき、世界の問題を解決するには、タンマ以外の方法を使う必要はないと教えるためには、大々的に説明しなければなりません。

これは欠陥のある教育で、ふさわしくありません。学生は「仏教とは何か。人間はタンマで危機を脱すのか。あるいは何で脱すのか」を知りません。

四つ目は、仏教教団員にふさわしくない、しっくりしない儀式についてで、たとえば始耕式です。仏教教団員にふさわしい始耕式は、感謝することです。毘沙門天(稲の神様)に感謝するのならまだマシで、仏教の教えになります。つまり感謝であり、国の背骨である稲作に栄誉を与えます。

しかしその儀式の中で、水牛が草を食べるか、プラヤーが布を取るかどうかを賭けるのは仏教ではなく、仏教教団にふさわしくないので、その部分は廃止した方が良いです。止めないなら、新しい占いにして、水牛が何を食べたら、プラヤーがどの大きさの布を取ったら、農民はみんな油断してはいけない、自分の義務を厳格に行なわなければならない、という占いにします。

あるいは他の意味で、水牛が何を食べたら、農民はこの項目のタンマを使い、他の物を食べたら、この項目のタンマを使う、とします。たとえば今年は忍耐しなければならない、今年は勤勉努力、勇敢にしなければならない、今年はもっと誠実に正直にしなければならない、今年はもっと互いに慈しまなければならないと、このようにする方がいいです。それなら仏教教団員にふさわしいです。

五つ目は、ある種の習慣は仏教を消滅させるので、仏教教団員にふさわしくありません。たとえば大きなお守りを幾つも首に提げて、そして杯を口に運んで酒を飲む度に、仏像のお守りの頭上を跨ぎます。飲み屋やレストランで、目上の人の栄誉を祝う酒でも、杯を持って仏頭の上を跨ぐのは、お守りの意味は無くなり、残るのは頭だけです。正しくするには前に提げないで、アゴの下に提げないで、後ろに提げた方がいいんじゃないでしょうか。仏頭の上を跨ぎませんから。

十字架を首に掛けてお酒を飲む人は、仏像を首に掛けてお酒を飲む人ほどは見かけません。首にいっぱいお守りを提げて、何間も離れた所から酒の臭いをさせながら、私に、「頭を吹いてくれ」と言います。私が「できない。仕方を知らない」と言うと、目を飛び出させて、「ヘっ!」と叫び、噛みつきそうでした。この有様です。お守りを掛けている人たちはどんなか、正しく考えて見てください。

私は、ブッダの僕であるプッタタートの名において、この仕事に抗議させていただきます。仏像の象徴にふさわしくありません。そして仏像に入魂を行なう人間として抗議させていただきます。何百回、何千回入魂しても、それを提げて酒杯で頭上を跨ぐなら、何のために入魂するか、何の利益もありません。

見ていただきたい六つ目は、良すぎる法律、良すぎる刑務局の仕事で、あまり道徳がない人に実施するには良すぎる法律です。解放された職業訓練のある刑務所、あるいは行動管理をする前に、道徳的に弛んでいる人たちにふさわしいかふさわしくないか、熟慮して見てください。実施規則は、何も良く調べないでするように阿保すぎます。

たとえばつい先日、山奥で小さな子供と住んでいるある未亡人の家に強盗が入って、容疑者が捕まり、その未亡人に、これが強盗だと指を指させようとしました。できるかどうか、考えて見てください。女一人で山中に幼い子どもと住んでいて、この人が強盗だと指差して示したら、その後暮らしていけません。これが何も考えない規則で、実行できません。

良すぎる規則は、時間の無駄、労力の無駄です。たとえば自白を取る時に、新聞紙面いっぱいの供述書を作らなければなりません。なぜ時間を無駄にするのでしょうか。なぜ警察官は労力を無駄にするのでしょうか。これに関わる物質を無駄にするのでしょうか。これは良すぎはしないか、誰を真似ているのか、考えて見てください。

国民はまだ戒厳令にふさわしいのに、反対に砂糖水を加えた民主主義を使います。道徳のある人たちに使うべき法律を、野蛮な人に使います。ブッダでさえ、手荒な人たちには手荒な方便と呼ばれるものを使い、そしてブッダのやり方で、これらの人たちを殺しさえしました。

どうぞ、良すぎる法律、良すぎる規則、良すぎる刑務局の仕事について、それは何の役に立つか、考えて見てください。

さて次の七つ目は、国民と政府などの間がふさわしくなければならない必要を見ると、ふさわしくなければ話が通じなくなり、統治できなくなります。夫婦でもふさわしくなければ暮らせません。理解できないので団結できません。団結を求めてもただ疲れるだけで、団結できません。道徳のない国民の民主主義は、自分自身の首を絞める民主主義です。非常にふさわしくないからです。

次の八項目は、どうしたらタンマにふさわしくなるかです。タンマは蓋でしょうか、それとも身でしょうか。答はどちらにもなれ、蓋にも身にもなります。どちらがどう実践するか、場合次第です。

互いにふさわしいタンマ、それが非常に必要です。治める人と治められる人は、どちらも自分の立場のタンマがなければなりません。自分の利益、自分の党派の利益しか求めない政治家、あるいは経済家は、彼自身の人間性に、まったくふさわしくないと見なします。財産や権力に溺れるのは自分自身にふさわしくないので、すればするほど、自分を苦しめます。

さて次の九つ目は、ふさわしさの対を見ます。心を道徳面で律すことができる人は、慙愧がある人にふさわしく、慙愧がある人は持戒のある人にふさわしく、持戒のある人はサマーディ(心の落ち着き)のある人にふさわしく、サマーディのある人は智慧のある人にふさわしく、智慧のある人は当然、問題、あるいはすべての苦から脱した純潔にふさわしいです。

道徳があることは、良い組合員、よい経済家、良い政治家にふさわしく、あらゆるレベルの担当者はふさわしい道徳がなければなりません。タンマは世界にふさわしくなければなりません。でなければ、世界は世界でなく、破滅する世界、つまり世界の破滅です。世界をタンマから切り離すことは、人間の最も新しい狂気です。

この独裁は、道徳に欠ける人たちにふさわしく、善い独裁は、父と子のようにします。もしアショーカ王の話が伝説でなければ、これはふさわしさの良い見本です。親子のような独裁。ラームカムヘン王もこの中に入るべきです。タンマは独裁を非常に良く、ふさわしく管理します。

最後に、タンマが戻るよう、タンマが世界に戻るよう、タンマが人間社会に戻るよう、タンマが経済家に戻るよう、タンマが政治家に戻るよう、タンマが行政者に戻るよう、タンマが議員に戻るよう、タンマが政府に戻るよう、タンマが国民に戻るよう、どの立場にもふさわしさがあるよう期待し、お願いし、望みます。

タンマと世界はふさわしくなければなりません。そうすれば世界は危機を乗り切れます。人々の利益のためにする経済家、国民の利益のためにする政治家、庶民の利益のためにする治世者、国民の利益のためにする政府、あるいは議会になり、人間は危機を脱せます。

このようにタンマが戻れば、最高にふさわしくなり、簡単にそうなります。不可能ではありません。

タンマを政治から切り離せば、世界はこの世で見える地獄です。タンマと政治を切り離せば、世界は生きているうちに見える地獄です。

仏教教団員のみなさん、周りのすべての分野、すべての方向の人に対して、自分自身が仏教教団員であることにふさわしくしていただきたいと思います。

タイは国全体、あるいはほとんどすべてがブッダの国、仏教徒の国なので、タイはブッダの国と言わなければなりません。しかしまだ幾つか、ふさわしくないことが残っているので、これはブッダの国タイにふさわしくありません。このような矛盾が生じれば、穏やかな幸福はありません。

どうぞみなさん、治める人も治められる人も、「タンマは、それを求める時だけある」と判断してください。一貫性を求めるタンマは、私たちは一貫性がなければならず、タンマはふさわしさを求めるので、私たちはふさわしくなければなりません。一貫性と、ふさわしさがあれば、すべては正しい方向になり、道徳は簡単に戻ります。そして安心して眠れるようになり、今その兆しが見えているような、ロクデナシが寝室へ入りこむことはありません。

どうぞこのふさわしさが、、いつでも、どこでも、どんな時でも、どの瞬間でも、すべての仏教教団員にあってください。そうすれば象徴として首に掛け、杯を持って酒を飲み、お話したように仏頭の意味を消滅させる一方でなく、ブッダ、プラタム、僧が、私たちの本当の拠り所になります。

どうぞ仏教教団員のみなさん、仏教教団員の意味を自覚し、自分自身を仏法僧にふさわしい仏教教団員にすることを知ってください。そうすればどこででも、誰にも祝福してもらわなくても、幸福で発展します。

ちょうど時間になりました。つまり時間がなくなりました。述べたように期待して、法話を終わらせていたただきます。すべてそうなるようにしてください。


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