23.一貫性を求めるタンマ





1980年5月18日

 タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日は「一貫性を求めるタンマ」と題してお話します。

 毎回私は、タンマが戻ることを願って話しているとご理解ください。タンマが戻らなければ世界は破滅します。タンマが戻れば、世界は穏やかな幸福になります。ごく普通にハッキリ言えば、タンマが完全に戻らなければ私たちの住む場所はありません。

 なぜでしょうか。それはタンマが失われた分だけ、世界にロクデナシが増えるので、ロクデナシに侵略され、住む土地が無くなります。つまり寝室まで侵略されたら、どこへ行って暮らせばいいでしょうか。ロクデナシが広がって経済を支配すれば、ロクでもない経済家になり、政治家を支配すれば、ロクでもない政治家になります。そうなったらどうでしょうか。私たちが静かに暮らせる場所はどこにもないと考えて見てください。

 今でもロクデナシはどこにもいると、観察して見てください。直接のロクデナシは目で見えますが、間接的なロクデナシは、考えなければ見えません。こういうのも沢山あります。

 たとえば車が引っくり返しになって、血を流して人が倒れていると、瀕死の重傷を負っている人から物を盗む人がいます。こういうのは道徳がしっかりあった時代には見られませんでした。先祖の時代には人々が助けに来て、水を飲ませたり、薬を飲ませたり、自分の子や孫のように手当をし、今にも死にそうな人から盗む人はいませんでした。その上何もかも盗んで、残るのはパンツ一枚だけ。こういうのはしょっちゅうあります。

 「寝る時も家の門を閉める必要はない。幼子が母の胸で踊る」とパーリ(ブッダの言葉である経)にあるのは、タンマが十分あった時代だけです。

 今外出する時に、家の門を閉めなくても良いというのはどこにもありません。しかし幸運にも信頼できる人から、まだ少しあると聞いたことがあります。マレーシアのサイブリー州に残存しているタイ人は、まだどこへ行くにも家の門を閉めなくても良いと言うほど、あるいはただ閉めるだけで隣の人に頼んで行くというほど善い道徳があるそうです。

 これは、そこには昔の完璧な道徳が残っているということです。母国であるタイには、どこにもありません。私も知らないので、ないと見なします。

 昔から、時代によって道徳は増えたり減ったりすると言われているように、時代による道徳の増減を比較して見ます。

 初めのガルダー(成劫)時代は百パーセント道徳があり、煩悩の餌である物質主義、肉体主義はなかったので、道徳は百パーセント善かったです。

 次のトライダー(住劫)時代には、タンマ主義は四分の三に減って、物質主義、肉体主義が四分の一になり、

 次のタワーパラ(壊劫)時代は、タンマ主義と、物質肉体主義が半々になり、

 カリー(空劫)時代になると、タンマ主義は四分の一になり、物質主義が四分の三になりました。

 割合で言えば、初めの時代には百パーセントタンマがあり、物質主義はなく、次の時代は七十五パーセントタンマがあり、二十五パーセントが物質主義で、次の時代は、タンマ主義が五十パーセント、物質主義が五十パーセントで、今のカリー時代は、タンマ主義は二十五パーセントだけで、七十五パーセントは物質主義です。これはどういうことか、考えて見てください。

 注意しなければならないのは、これからタンマ主義がゼロになり、物質主義が百パーセントになることです。道徳が今のようにどんどん低下していけば、必ずそうなります。

 次に拠り所にすることができるタンマを見ていきます。タンマはパーリ(ブッダの言葉である経)にあるように、自然の物であり、自然の法則であり、自然の法則に則った厳格な義務なので、終始一貫しています。それは、

 タタター         真実のままになる。なるようになること

 アヴィタタター      真実のままと違わないこと

 アンヤタター       なるようにしかならないこと

 タンマティタター     自然の法則により当然存在すること

 タンマニヤムター     当たり前の動かぬ法則

 ブッダは「私が生まれても生まれなくても、これはこのように存在する」と言われています。特に仏教の核心である因果の法則、縁起の法則と呼ぶものは徹頭徹尾変化しません。それ自体が、そのタンマ自体が最高に不変です。自然の物であり、自然の法則であり、自然の法則での義務なので、そのタンマ自体が不変で、人とタンマの関係も不変です。つまり人は、自分の義務を自然の法則に則って正しく実践しなければなりません。

 今人は、タンマに対して浮気をし、物質を愛しています。それで終始一貫変わることのないタンマに頼ることができるかどうか考えて見てください。

 私たちはどれくらい一貫しているか、例を挙げて、比較して見るべき見本で比較して見たいと思います。

 私たちタイは「国を愛す人の」と言われる国の休日、宗教の休日、国王の休日の代休があります。私たちは「国を愛し、宗教を愛し、国王を愛している」と表明し、それで国の日、宗教の日、国王の日に仕事を休みます。しかし偶々その日が日曜日と重なると、代休として月曜日を休みにします。不利になりたがりません。

 日曜日が宗教の日、たとえばヴィサーカ祭の日に当たれば、次の月曜日に休みます。損をするのを認めません。

 国王に関わる日が日曜日に当たると、損をしたくないと言うように月曜日に代償として休みます。このような緊張があって、終始一貫して変わらずに国と宗教と国王を愛すと言えるでしょうか。

 三百六十五日の一日も譲ることができないので、多い年は、国の休日の代休、宗教の休日の代休、国王の休日の代休が、年に三日もあります。これは、国と宗教と国王を愛すことの一貫性を見ました。

 次に政府を監督するという原則で国会議員に立候補した人を、庶民は「政府を監督させる」と考えて代議士に選びます。すると代議士が大臣になって政府の一員になってしまいます。つまり、政府を監督するはずだった人が監督される人になるという意味です。こういうのに一貫性があるでしょうか。人は「八重咲きジャスミンに一重の花が咲いた」と言います。

 ある地域ある時代には国会議員であり、政府の一員でもあると考えて見てください。つまり一人の大臣は、海の物とも山の物ともつかないものがあるので、一貫性があるとは言えません。そして政府が国会議員を大臣に起用しなければ、代議士を非常に侮辱したと見なします。こういう一貫性を見てください。

 あるいは公務員という言葉には一貫性がありません。つまり国民の主人なのか、あるいは国民に仕えるのか分かりません。ある時はすごく国民の主人であり、またある時は、国民に仕えると言います。

 次に仏教団員を見ると物質に溺れて、タンマではなく物質を崇拝する仏教教団員が多すぎます。自分を快楽の喜びの中で維持し、有り余る物に囲まれ、快楽の感覚を増大させます。彼らは、こういう話は出家より上の人の話で、時には長老や大長老のレベルだと囁きます。人々はそう言います。

 もう一度見ると、比丘たちが比丘の義務以外のことをするのが増えていて、そのお寺は娯楽を催し、あらゆる悪が揃っています。これは、どこが一貫しているでしょうか。

 細かい点を見れば、お酒を飲んでいる医師が禁酒を勧め、煙草を吸っている教師が生徒に煙草を止めなさいと言います。政府もいろんな悪を推進して、国を潤す税金として必要と言い、比丘は悪を追放して政府の期待に応えることができません。すれ違った道を歩いているからです。

 親を見ると、ほとんどは子がお金持ちに、大金持ちになって欲しいと望み、貧乏でも善人であって欲しいと望みません。とにかく子をお金持ちにしたい。善か悪かは基準にしません。仏教教団員の親でもこうです。どこに一貫性があるでしょうか。

 もっと小さなこと、たとえば道路に木蔭を作る街路樹も、時には良いと言って植え、時には良くないと言って切り、また別の時には良いと言って植えます。街路樹一つにも一貫性がありません。

 一貫していないとどうなるでしょうか。非常に大変なことになります。たとえば季節に応じて雨が降りません。自然が安定しなかったらどうなるでしょうか。非常に困ったことになります。政府はそれらの人々を救うために、たくさんの補助金を使わなければなりません。天気や雨が安定しないからです。

 どうかみなさん、一貫性がなければ苦をもたらす問題が生じると、熟慮して見てください。

 私たちはプラタム(仏法)に頼りたいと望んでいます。しかしプラタムは一貫しているので、プラタムが戻ってきて護ってもらうには、物質を崇拝しないで、一貫してタンマを好む人にならなければなりません。経済の問題もタンマでし、政治の問題もタンマでし、行政にもタンマがあり、戦争にもタンマがあるようにします。

 人民が主権者という項目、人民の人民による人民のための民主主義は、タンマがなければ、その民主主義は世界を消滅させます。タンマがあれば、その民主主義は人類の利益になり、タンマのない民主主義には何の利益もありません。

 タンマを戻すために、一貫性のない教育を全部廃止しなければなりません。どうするか確実な方法が分かっていない教育、政治に奉仕する教育、経済に奉仕する教育、タンマでない物は何でも、あるいは完璧でない教育が作った危機、これらは悪い物です。教育は国民にタンマを身につける方向を目指させなければなりません。

 国民にタンマがあることは教育の目的であり、心臓部です。国民の中に礼儀正しく誠実な人がいるだけで、すべての問題は解決すると繰り返させていただきます。

 これからは、今非常に増え、世界中に広まっている肉体文化を止めなければなりません。それには何もありません。酔っぱらった猿のような踊りだけで、人間にとって何の利益もありません。こういう形で世界中に広まっている文化は、肉体文化です。

 食事の後、歓楽施設やソープランドで行く代わりに、菩薩堂で寝転がって、タンマの歌を歌い、経を唱えてブッダを拝むように変わってほしいです。そうしたらどうなるでしょうか。タンマを消滅させる文化を、私たちの国や街や家に入れないでください。

 終始一貫して信仰する教え、あるいは自然の法則に厳格なタンマの教えがなければなりません。私たちには神様である、あるいはタンマの神様である自然の法則があります。

 自然の法則は本当の神様です。仏教教団にも神様がいます。自然の法則が神様です。ブッダが悟った真実は、すべて自然の法則なので、私たちは自然の法則を神様のように受け入れて信仰し、信じて厳しく実践し、発展するために自然の法則に則った正しい義務を行なわなければなりません。

 自分は自然の法則を知らないと言い、だからタンマを実践しなくても良いと言うのは正しくありません。法律と同じで「私は法律を知らない」と言って法律に反し、罪を逃れられる人はいません。そういうことはあり得ません。自然の法則は、それよりももっと厳格です。

 私たちはタンマによる正しい品行をし、煩悩を弱くし、煩悩を抑えつけ、暴れ回らないようにしてくれるタンマの恩を知らなければなりません。私たちはタンマで息をしなければなりません。タンマがある自分に満足し、タンマの力で生活し、二十四時間のうち、二十三時間は煩悩がなく、煩悩があるのは一時間だけ。こういうのは生きられます。神経症になりません。これ以上なら神経症になります。

 この項目です、私たちが動物に恥じなければならないのは。動物は人のように心配しないので神経症になりません。動物には明日はありません。つまり明日は何を食べよう、妻子は何を食べるだろう、と心配する必要はありません。動物には明後日、来週、来月、来年、来生もありません。私たちは心配事がいっぱいあり、神経症の人が病院に溢れ、新たに受け入れられないほどです。

 動物に汚職はありません。仕方を知らないのでできません。動物には戦争もありません。仕方を知りません。動物は人間のように政略で騙すことはありません。動物は他人よりも得をしようと思いません。仕方を知らないからです。

 動物には罪がないので、動物なりに静かに暮らせます。特に神経症になりません。狂犬病は神経症ではなく、他の病気なので一緒にしないでください。非常に微妙に苦しめて眠らせない神経症。それは人間だけが罹ります。

 なぜ動物に恥じないのでしょうか。恥と感じれば慙愧があり、罪を恥じ、罪を恐れ、そして悪を恥じ、そして純潔な経済家、純潔な政治家、純潔な施政者、純潔な社交家になります。タンマがないことを恥じるので、タンマの力で何でも純潔になります。どうぞみなさん考えて見てください。

 一貫しているものであるタンマに頼りたいと望むなら、一貫して人間でなければなりません。仏教教団員であることも一貫していなければならず、タイ人であることも一貫していなければなりません。私たちを助けられるのは一貫性だけです。

 私たちの先祖は、タンマに対して一貫していました。特にタンマの力で危機を脱してきました。寝る時も門を閉める必要もなく、牛や水牛をどこに放しておいても大丈夫で、現代のように鍵のある小屋に入れる必要はありませんでした。現代は(高床式の)家の床下に寝ると銃で撃たれ、部屋の中で寝ていても侵入してくる人がいます。こうです。これが一貫したタンマがないことの結果です。

 どうぞみなさん、「タンマは一貫性があるもの」と思ってください。八重のジャスミンを植えたら一重の花が咲いたと言うようなのは、タンマの利益を得るにふさわしくありません。その後も一貫性がないことで苦しまなければなりません。

 タイとタンマは伴侶です。タンマとタイは伴侶です。タイ人であることはタンマがあることで成り立ち、タンマがなくなればタイ人である意味は残りません。すっかり煩悩の奴隷になるので、煩悩の威力で何らかの間違いを犯さなければならないので、タイ人であることは消滅します。内面のタイ人であることが消滅し、外面のタイ人であることも続いて消滅します。

 みなさん、一貫してタイ人であり、一貫してタイ仏教教団員でいてください。国の日、宗教の日、国王の日などがたまたま日曜日と重なっても、代休がなくても良ければ一貫性があり、口と心がより一致します。これが一貫してタンマがあることです。

 タイはタンマと伴侶でなければなりません。タンマはタイと伴侶でなければなりません。そうすればタイ人であることを維持できます。

 どうぞタイ人仏教教団員のみなさん、一貫性があることでタンマを戻し、タンマを引き戻し、そして仏教教団員のやり方で、ますます職務を進歩発展させ、幸福を発展させてください。




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