神様としてのタンマ

 

                                         1980120

 タンマにご関心のある善男善女のみなさん。今日の法話は、「神様としてのタンマ」と題してお話します。今日の話の考えは、今の世界には神様、あるいは神様の役割をする物が欠けているという観察から生まれました。

世界の人は、正しい本来の意味の神様から離れ、列になって反対の方向へ向かっているので、彼らには何らかの神様の敵であるものがあります。もし神様を信じている人がいれば、かつての子どもの詩にあったように、神様を信じる人は、カメやカニや魚のように愚かだと評価されます。これは彼らが、まだ神様を信じている人は、カメやカニや魚のように愚かと見なしている証拠でです。これらの人は神様を信じないので、最後には国が破滅します。

 今私たちの世界もそういう状態になっています。神様を信じる人を愚かと見るので、世界に神様が存在せず、世界は人間の破滅の淵に向かっています。つまり人道がありません。神様がいないので、つまり神様に従って行動しないので、永続的な危機が増えるばかりです。

神様がいるという考えがないので、西洋には「神様は死滅した(無神論)」という新しい主義が生まれました。信じる人がいないので神様は死んでしまい、宗教は必要ありません。この主義が私たちタイにも入ってきて、タンマは必要ないと言います。この主義は今どんどん増えています。この主義の蔓延が極度に達せば、世界には本当に神様はいなくなります。

 これは憂慮すべきことです。私はこのことを考えて、今日の話題を「神様であるタンマ」としました。私たちは拠り所であり、例外なくどの宗教にもいる類の神様をもつことができます。初めの項目で「神様とは何か」と問うことで、これから詳しく、熟慮しなければならない問題です。

 このような問題提起をすれば、いろんな宗教を信じる社会で、際限のない論争になります。ある宗教にはある形の、あるタイプの神様があり、自分たちのような神様がない人を見ると、その人たちには神様がないと非難します。

研究者や哲学者、あるいは智慧のある人、何とでも呼び方次第ですが、彼らはお節介で、自ら智者と称して、あの宗教には神様がある、この宗教には神様がないと決めつけます。しかしそれはすべてその人の感覚だけで、真実と一致しません。彼らは、本当の神様とは何かを知らないからです。言葉で捉える人もいれば、伝承されている主義で捉える人もいるので大差があり、神様と言えないのまであります。

 言葉について言えば、この言葉は外国語の訳語として使うタイ語で、外国語がタイへ入ってきた時、何と呼んだらよいか分からないので、タイ語を使った訳語が、神、あるいは神様になりました。その時そこでは、神、あるいは神様が最高の言葉、最高のものを意味したからです。

しかしタイ語の神様という言葉は、ある時期ある期間だけの意味ということを忘れないでください。たとえば古い法律では、当時神様という言葉は、比丘という意味だけで、その日出家したばかりでも神様と呼びました。たとえば「神様が還俗すれば遺産を受け取る」「神様が徴兵で戦闘に駆り出されれば、戻ってくればすべての権利がある」というように、法律では比丘を神様と呼びました。

 だからこのように出家したばかりの僧を神様と捉えると、現在の意味の解釈は混乱します。神あるいは神様とは最高のもの、最高の人を意味するので、話し言葉、あるいは伝承している意味を標準にすることはできません。本当の意味、本当の要旨でなければなりません。

 神様と呼ばれるものの義務、あるいはそれの最高の価値、あるいはそれの最高の能力を「神様とは何か」と言い、そしてすべての宗教の人が神様と呼ぶものを、一つにまとめることもできます。

 神様は、初めに原初の根源である状態、あるいは意味がなければなりません。原初の原因とは、すべてのものが生じた、すべてのものが流れ出した根源です。これを原初の原因と言い、すべてのものになった原初であるものを、神様と呼びます。

 次に二番目の意味が生まれ、後になって神様はすべてを創ったと言うようになりました。つまり、命がある物もないものも、あらゆるものを創ることができます。

 それに続く義務は三番目の意味で、そしてすべての物、神様が造ったすべての世界を支配することができます。

四番目の意味は、世界、あるいは神様が造ったものを、時々減らし、破壊し、壊滅させる義務があります。

だから私たちは神様の義務を、ヒンドゥー教が三姿(ブラフマ神、ビシュヌ神、シヴァ神)と呼ぶような、すべての物を造る人、すべてを支配する人、すべてを破壊する人とすることができます。

 どうぞ初めに、神様とは原初の原因(根源)であり、すべての物の出所なので、創造主と呼ばれ、そしてすべての物を支配し、時に応じて新しく生じさせるために、新たに創るために、すべてのものを破壊することができるという要旨を、熟慮してください。

次にもう一度特質を見てみると、神様は何よりも偉大で Omnipotent であり、何よりも上で、そして何でも知っている Omniscient であり、神様は至る所に存在する Omnipresence であると分かります。何よりも偉大で、何でも知っていて、どこにでもあるものを考えて見てください。本当に見えれば真実が見えます。

神様を人物と信じる宗教の人たちは、すべての物を生じさせるものを神様と呼びます。God 等と呼ぶものは、すべてのものの原因、あるいはすべてを造り、すべてを支配し、すべてを破壊し、そして何よりも偉大で、何でも知り、そしてどこにでも存在します。もしそうなら犬の糞にもいる、とからかう人までいます。それは本当です。それも神様の威力の下にあるので、あるいは神様は何でも支配できるので、その中にもいます。

次になぜタンマは神様なのでしょうか。もう一度タンマの四つの意味を振り返ってみてください。タムあるいはタンマとは、自然、そして自然の法則、自然の法則に則った義務、義務の実践から得られる結果を意味します。

二番目の自然の法則という意味のタンマは、神様と同じ意味があります。たとえばすべての物の進化の法則、あるいは仏教の縁起の法則などは、すべての物を生むものとしてあります。自然の法則は、すべてものを静止させず、すべてのものを変化させるので、自然の法則、特に進化の法則で何かが生じます。

これが仏教の原初の原因、つまり自然の法則であるタンマと呼ぶものです。そしてこの法則は、命がある物もない物も、すべての物を生じさせるので、すべての物の創造主であり、この法則ですべての物を、私たちに見えるような秩序で支配していて、これらの物も、時が来れば破壊されるので、何よりも偉大で、すべてを知っていると見なします。すべての教え、学問、知識と呼ぶもので、自然の法則以上の物はないからです。

だから自然の法則はすべての知識と同じで、神様ならすべてを知る人であり、人間が話すすべての言葉、すべての物の辞書で、至る所にあります。つまり私たちは、自然の法則から逃れることはできません。

この状態のタンマは、どの宗教も同じ意味の神様で、科学者も進んで認める神様です。

科学者は人物である神様を認めません。人のような、人と感じるもの、おまけに長い髭を蓄え、杖を持って、そして世界を創って世界を支配する義務のある、すべてがこんな感じの神様を、彼らは認めません。

しかしさっき言ったよう神様なら、つまり自然の法則であるタンマであり、すべての物が生じる所であり、すべてを創り、すべてを支配し、時に応じてすべてを破壊する、何よりも偉大で、すべてを知っていて、どこにでもある神様なら、こういうのは科学者も進んで認めます。

つまり人間である必要はなく、人物である必要もなく、人のような心や魂である必要はありませんが、言いようのない何かです。人間の言葉で「神様とは何か」と言い表すことはできません。言えるのは、「何とも違う、神様である神様」とだけです。

このような性質の神様、あるいはこういう性質を狙って外皮を狙わない神様なら、どの宗教にもあり、そしてどの宗教も同じです。どの宗教にも同じ神様がいます。つまり原初の原因があり、創造者がいて、支配者がいて、破壊者がいて、何よりも偉大で、すべてを知り、どこにでもいます。

仏教には、述べたように「タンマ」と一語だけで呼ぶものがあります。自然の法則であるタンマは、すべての根源であり、神の意味のすべてを満たします。これは、この状態の神様はどの宗教にもあると見えるようにします。

しかし現代人の中には智慧のありすぎる人がいて、仏教には神様はいないとします。彼らには肉眼しかなく、人物である神様しか見えないので、見えなければ「いない」と言います。彼らには智慧がなく、法眼・慧眼がないので、このような義務このような能力のある、本当に存在する本当の神様が見えません。

そしてこれらの人は、仏教には神様はないと、いい加減に決めつけています。もっとすごくなると、神様がなければ宗教ではないと言うので大変なことになり、話が通じません。

その神様には、形である体はなく、そして名である体、つまり心もありません。つまり形でもなく、心や精神である名でもなく、神様と呼ぶ以外には、どの点をとっても、何と呼ぶこともできないものです。

この言葉は、何物とも違う神様だけの、この一語だけの例外としなければなりません。

次に、神様はどこにいるのかと言えば、神様が創り支配しているすべての物にいると言わなければなりません。自然の法則が神様なので、自然の法則が作り、支配している物何にでも神様はいます。こう言うのをからかう人は、犬の糞にもいるとからかいます。それくらい例外はありません。何も例外はないということです。そして神様は、生きている物にも、生きていないものにも、すべての物にいます。

だから、神様が自然の法則で作った土・水・風・火のある、自然であるすべての人の中にも、神様がいます。どこでも自然の物には、自然の法則があるからです。私たちの体も自然なので、自然の法則があり、神様である自然の法則が私たちの体を支配し、私たちのいろんな物を支配して、神様の法則で変化させます。

だから神様はどこにでもいると言います。神様を知らない人、神様を信じない人の中にも神様はいます。これが神様、つまりタンマと短い言葉で呼ぶものです。

次の、「どうすれば神様がいるか」という問題は、「タンマを持ちなさい」と答えます。体と言葉と心を、自然の法則で正しくします。体が神様の住まいに、神殿になるまで、自分の体を正しくします。

神様はどこにでもいます。本当です。必死で求めなくても神様は私たちと一緒にいます。どこにでもいます。しかし自分の体と言葉と心をきちんとすれば、私たちの体は利益がある、非常に利益のある神様の住まいになるので、自分の体を神様が住む神殿にします。つまり常住するタンマがあり、プラタムがあれば、疑うまでもなくブッダ、プラタム、僧が来ます。あるいは何でも揃います。

私たちは神様を信じ、懇願をしなければなりません。「信じる」は、説明はいりません。誰でも知っています。信じれば、それに従って実践する原因になります。

次に「懇願」という言葉は二つの言葉があります。普通の人のように、物を乞うようにお願いするのも「懇願」と言います。これはヒト語の懇願で、彼らは神様にねだるためにしています。次にタンマ語の懇願は、その人の願いに従ってすることで、私たちは神様が望んでいること、その願いでします。それが正しい、本当の本物の、神様への懇願です。

しかしいずれにしても、儀式的な懇願も、タンマ語の懇願である実践に引っ張っていくので、この懇願も使い物になると見なします。自分の心を、神様の、偉大な人の望で行動するよう導く懇願です。

仏教にも懇願はあります。つまり神様の法則、つまりタンマに則って行動するよう努めることです、これがプラタムに合掌礼拝する懇願で、十分善い結果があります。

要するにタンマがあれば神様がいるので、どんどんタンマを身につけて、特に毎年、正月の度に増やしてください。今はまだ新年なので、新たにするもの、更に神様に近づものを持ってください。

次に、非常に手っ取り早く簡単な方法、しかし十分完璧な方法を提案したいと思います。それは、「みなさん、去年より自分を知り、去年より自分を信じ、去年より自分を律し、去年より自分に満足し、去年より自分を尊敬できるようになって下さい」です。全部で五つあります。

初めは、去年より自分を知ります。つまり自分とは何か、なぜ生まれてきたかを、去年よりも知ります。

二番目は、去年より自分を信じます。自分も人、彼らも人なので、彼らにできることは自分にも必ずできるはずです。しかし現代人は、利益のある善いことをしません。私たちは有利になることをし、苛めて奪い取ることをします。彼も人、自分も人なら、神の願いにそった正しいことを競ってし、去年よりタンマを信じ、去年より神様を信じます。自分も一人の人なら、そうできるすべての人と同じようにすることができます。

三番目は去年より自分を律します。自分を律すのは全然楽しくない、美味しくない、面白くないと反抗しないでください。自分を律したくない。煩悩の言いなりになりたい。こういうのは非常に神様から離れています。私たちは去年より自分を律さなくてはなりません。自分はできる、そしてするべきだと信じることに従ってしてください。

四番目は、自分に満足します。このように自分を律すことができれば、自分自身に喜ばしいものが増えて、更に自分を好きになります。それが幸福です。本当の幸福は、自分は義務を正しく行なったと知る満足から生じます。

愛欲の幸福、世俗の幸福は、熱く焼いて煮える幸福です。本当の幸福は穏やかで、必ず満足するタンマの喜びで、正しいことをしたと感じる満足感が、幸福の本体です。お金は掛かりません。涅槃なら、一銭も使わないで涼しくなり、止めることができ、静まり、そして最高に幸福で、最高に満足できます。

最後の五番目は、去年より自分を尊敬し、去年より自分に満足し、そして去年より自分を尊敬します。自分に喜ばしいものが多いので、見るとすぐに楽しくなるだけなので、去年より自分を尊敬する気持ちが増えます。今自分を尊敬できる人、自分を拝める人、自分を熟慮して自分自身を嫌悪せず、自分を恥じず、自分を尊敬できる人がいるでしょうか。

どうかみなさん全員が、堂々と自分を拝めるか、過ちや汚れや憂鬱が見えないので、自分を拝めるか、チェックして見てください。去年より自分を尊敬します。

もう一度繰り返させていただきます。去年より自分を知り、自分とは何か、なぜ生まれて来たのかを知り、そして去年より自分を信じます。自分も人。彼も人。自分も、誰でも善を行なえるので、タンマを信じ、神様を信じ、神様が規定したようになるよう自分を律します。それは本当は、人間集団に平和を築く、正しい適当な自然の法則です。私たちは自分に満足し、最後には自分を尊敬し、拝むことができます。

この五項目は仏教の教えですが、人々は一般道徳、つまり自分を知り self knowledge、自分を知ったら自分を信じ self confidence、それから自分を律し self control、それから自分に満足し self contentment、それから自分を尊敬する self respect 、仏教の教えと一致する道徳の教え、遍的なタンマとしています。

信じることは信仰心で、自分を知るとは、正しい見解で、自分を信じることは正しい教え全項目への信頼で、そして自分は実践できると信じます。自分を律すとは、体と言葉と心を律し、根を律し、管理しなければならないすべてを管理します。自分に満足するとは、タンマの喜びで、他の物から生じる喜びはどうしようもないので、必ずタンマから生じるタンマの喜びでなければなりません。

そして自分を尊敬します。つまり自分に善がある、正しさがある、最高のものがあると感じ、自分の中にブッダとタンマと僧がいると感じるので、自分を尊敬でき、自分の拠り所である自分がいます。

世界の道徳は仏教の教えと一致します。昔の西洋人はこの五項目を重視し、タイ人に自慢しました。タイ人はこの五項目があったので、受け入れて尊重しました。しかし今は、目薬にするほどもありません。

世界中から自分を知ることが消滅して、自分を信じなくなり、自分を尊敬しなくなり、自分に満足しなくなり、自分を尊重しなくなり、神様がいなくなりました。だから重大項目として自分を律してください。そうすれば何もかもそれに続きます。

煩悩を管理し、低級な気持ちを管理すれば、神様であるタンマがあり、タンマである神様がいます。どの宗教にもこのような状態の神様がいるので、戻るべき時に、あるいは間に合うように戻って来て、世界を護らなければなりません。

どうぞ、この命は神様によって作られた、タンマによって作られた、タンマの威力、あるいはタンマの方法、つまり自然の法則、特に進化の法則、あるいは因果律で作られたと捉えてください。私たちは、タンマに作られたことにふさわしいタンマがなければなりません。清浄つまり純潔があり、智慧つまり博学であり、慈つまり他人を愛し、そして自分の義務を行なうことに忍耐努力があり、新年は去年より増やしてください。

このように願い、そして祝福、あるいは何とでも言いようですが、次の詩を贈らせていただきます。

プラタムで

プラタムによって 

プラタムで作られた命は

純潔、智慧、慈しみ、

そして忍耐の道へ導く 

新年は去年より更にたくさん

みなさん

これで今日のお話を終わらせていただきます。


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