自我と無我の両方を学ばなければならないタンマ

 

                                     19791021

  タンマにご関心がある善男善女のみなさん。今日の法話は、「自我と無我の両方を学ばなければならないタンマ」と題してお話します。どうかみなさん、私が、タンマは自我のものも、無我のものも、どちらも勉強しなければならないと述べていると観察して見てください。

 問題は、仏教教団員でも多くの方が、「一体どっちなんだ。自我があると言うのか、ないと言うのか」と、怪訝に感じているところにあります。

 根拠として現れているブッダの言葉にも二種類あるので、これは複雑で秘されたこと、あるいは混乱することです。たとえば「自分は自分の拠り所」と言い、同じ経典のすぐ近くに、「自分自身はないのだから、自分の子、自分の財産はない」とあります。ブッダの言葉の中に二種類あります。

 現在私たちは、仏教は無我を説いていると教えられています。実際、世界中の外国人学習者は無我ついて語り、仏教は無我、つまり自分がないことを教える宗教というのは、誰もが認めるところで、他の宗教と違う点はここです。

 つまり大きな教えとして、仏教は自分がないと、あるいは無我があると教えていると、それが仏教の教えだと、誰もが認めています。

 このように問題があります。私たちは事実を見なければなりません。事実は、自分があることと、自分がないことの二種類の教えがあります。なぜでしょうか。

 ブッダに関して、あるいはブッダの時代の出来事として、ブッダは、常に自分はあるという教義を信じる人々の中で大悟しました。特にウパニシャッドは、生と死を回遊する自分があり、だんだん純潔になって、その後回遊しない永遠の自我、大我になると教えていました。すべての、あるいはほとんどすべての人々がこのような教えを受けていて、非常に固い基礎でした。

 次にもう一つ、人間の本能的感覚では、自分があると感じ、そして心の中に深く埋め込まれているので、二つが合わさって、つまり教えられた力と本能の力によって、すべての生き物は自分があると感じます。

 ブッダはそのような人々のただ中で、自分がないという真実を悟ったので、これは多分誰も理解できないだろうから、教えるのを止めようと考えるほど心が挫けました。しかしその時、何とか理解できる人もいるから教えるべきだ、という考えが生じて、教える決心をしました。つまり、自分を信じている大衆に、自分はないという話を教えなければならなかったということです。それでどうしたでしょうか。

 ブッダは、自分があると捉える人たちの利益になる自分にするよう、教えなければなりませんでした。これを、必要なタンマと言うこともできます。ブッダは自分がないと知っていましたが、自分がある人たちに、自分があるように教えなければならなかったので、だから自分がある形の教えを説きました。

 要するに、自分を善に、善に、善にするよう教え、最高の善まで行って、善に飽きたら自分を捨てれば、滅苦ができる、あるいは善を越えられます。

 だから自我がある形で教えるのは、後で無我に移行する基礎の教えということが分かります。というのは、初めに自分を知らなければならないからです。それから自分を善にし、どんなに善になっても、まだ輪廻を泳ぎ回るので、自分を引き抜かなければならず、無我にする知識があれば、輪廻の回遊は止まります。

 その部分です。ブッダの本当の教えの部分、つまり仏教の本体は。しかし、強く自分に執着している人に、先ず自分の話を教えなければなりません。というのは善く生きるため、良い回遊をするため、飽きるまで、良い生死の回遊をするためです。

 だから自我の教えは、無我を教える導入の部分で、何も矛盾はないとまとめることができます。それにそうする必要があります。つまり自分を善にし、自分に嫌気が差したら、自分を持つことを止める方向、つまり自我からの解脱、あるいは苦からの解脱を教えます。

 私たちタイにも同じ問題があります。つまり、仏教より先にバラモン教の教えが入って来たので、バラモン教の先生は、インドで教えられているように、自分、霊魂、魂があり、輪廻を繰り返していると、「自我」を教えました。

 動物も人もどんな生き物も、本能的に自分があると感じ、これがもう一つの力として加わり、二つの力になり、つまり教えも自分があると教え、本能も自分があると教えるので、タイの国民は自分に強く執着し、教典にあるように、無我の教えを受け入れるのは困難でした。教典には、「アショーカ大王は、宗教を教える長老をインドシナ半島へ送り込む前に、敵であるいろんな鬼や悪魔や化け物を退治しなければならなかった。それから仏教を正しく教えることができた」とあります。

 これはつまり、自我に強く執着している人たちと理解し合ってから、それから無我を教えなければならなかったということです。この事実を見てください。教えた人の気持ちになってみてください。あるいは、強く自我に執着している生き物に無我を教えるには、自分がないと教えるには、どんな必要があったか、ブッダの心を推察して見てください。それは臼を転がしながら山に登るようなものです。

 次に、現代の弟子がどうするかですが、どちらも学びます。つまり元からある財産である自我と、ブッダからいただいた新しい財産である無我の話です。

 仏教の「正しい見解」と呼ばれるものを見ても、二種類あります。

 初歩の正しい見解を、「世俗の正見」と呼んでもいいです。自分があり、生き物がいて、人がいて、親がいて、この世があり、あの世があり、布施があります。こういうのは、自我のある正しい見解です。

 次にもっと高度な自分のない正しい見解は、そう教えず、そう言いません。「これは苦、これが苦の原因、これが滅苦、これが滅苦の方法」とだけ話します。つまり四聖諦です。

 更に高い教えは、両極がなく、縁起と呼ぶ中間だけで、有るとか無いとか言いません。縁起の流れがあるだけ、と言うだけで、人も生き物もいません。そして何もありません。そして、死んで生まれるとも、死んだら生まれないとも言いません。どちらも誤った見方です。しかし「原因と縁しだい」、と中間を言います。あるいは縁起には人も自分もありません。あるのは縁起だけ、縁起の法則による変化だけです。

 私たちは人がいると仮定し、ある部分が生まれたと仮定し、ある部分が死んだと仮定します。本当の中身は、原因と縁で、自然の法則で変化するものだけです。

 自分がある正しい見解は、良い輪廻を回遊させ、自分のない正しい見解は、あらゆる回遊を停止させます。

 次に理解しなければならないのは、「自分」は善悪の基盤なので、自分があるから善があり、悪があることです。だから悪の威力、善の威力で回遊し、まだ厭きなければ、その後も回遊する原因と縁を作ります。回遊の害が見えれば、回遊を止めたくなります。

 だからオーワーダパティモッガ(三教誡)は三つの段階に分けられ、悪を捨てる部分。善で満たす部分。そして心を純潔にする部分で、善悪を越えます。それ以後は善悪の問題はありません。

 「自分、あるいは善悪への執着を止めるために無我を教える」と言われるのは、この部分です。

 初めの部分は自分があり、善悪があるように教え、最高の善に到達させるよう教えなければなりません。そうすれば自分を善より上に引き上げることができ、心を自分より、あるいは自分の善悪より上に引き上げることができます。簡単に言えば「悪い自分を捨ててしまいなさい。そうすれば善い自分がある」です。

 次に自分を越えたら、あるいは自分がなくなったら何が残るかと言えば、自分があるという愚かさがまったくない、純潔な体と心、自分はないという、正しい明らかな見解です。しかし何も無くなってしまうのではありません。自然の法則になる体と心は普通にありますが、煩悩の基盤である自分という迷いがないので、純潔です。

 何が本当か、。二つとも本当です。つまり自分という感覚は本当にありますが、愚かさで、本当にあるものは自分ではありません。だから仏教は、「サッペー タンマー アナッター」、すべてのものは自分ではないと教えています。

 それはありますが自分ではありません。行である体と心は本当にありますが、自然の法則での縁起の一連であり、自分ではなく、自分と捉えるべきではありません。善や悪、徳や罪は本当にありますが、自分でも、自分のものでもなく、原因と縁で変化していくもので、これらに執着していれば、まだ回遊し続けなければならず、苦があり、それを捨ててしまえば心が純潔になって解脱し、涅槃へ向かいます。これが真実です。

 自分とは何かと言えば、「自分とは、誰にでもある、欺瞞である最初の仮定」と見なければなりません。子供の時からあります。つまり母親の胎内にいる時は、自分という感覚はなく、生まれて、美味しい物、美しいものに触れた時に、美しさ美味しさに執着し、その味を欲しがり、それで願望になります。

 必ず生じる感覚である願望が生じ、そして自然に生じただけだと、良く観察して見てください。どこにも自分は必要ありません。感じることができる心は、自然の働きで感じ、好むものを欲しがります。この願望が、もう一段上の感覚、つまり「私が欲しがっている」という気持ちを生じさせます。

 自分、あるいは私という感覚は、願望の後から生まれます。生まれたばかりの子どもは、美味しい、不味い、気に入った、気に入らない、という感覚以上のものはありませんが、欲しがることはでき、自然に欲しがります。

 願望があると、願望は「俺が欲しがっている」という感覚を生じさせ、これで自分が生まれます。美味しさや美しさが分かるようになった子供には、願望が生まれ、自分が生まれ、いっぱい生まれて青年になります。これを、生まれた時から受け入れている最初の仮定と言います。

 一方の無我は、「それは縁起の法則でそうなる。何も、どこも自分ではない」という、下に隠れている真実です。

 自分とは、命のある物の心に張り付いている古い財産で、ブッダの新しい財産、つまり自分がない真実を受け入れるのは、このように、非常に大変です。

 要するに自分とはただの感覚にすぎません。「ただの感覚でしかありません」。どうぞ願望から、願望する人である自分が生まれ、そして無明、つまり愚かさで感じると観察してください。

 仏教をこうして学んでください。どこかの本で勉強しないでください。それで知ることはできません。

 直接心の感覚で学べば、必ず知ることができます。願望があり、俺が欲しがっている、という感覚があり、そして自分のことばかり考えれば、身勝手の威力で悪事ができます。悪い自分は自分のことばかり考えるので、他の人にとって危険です。

 善人も執着があれば重荷で、苦があります。善に執着するので、善を背負い込むので、人には必ず苦があります。自分に執着するので、善の問題で自殺する人はたくさんいます。これは非常に捨てるのが大変です。

 これは、妻が浮気をしたことが分かり、自分に誠実でないことが分かっても、未練を断ち切れないで離婚できない人のように、非常に粘っこく、離婚した後も未練で妻のことを考えます。執着はこのように強いと言います。

 悪と感じても、執着するべきでなくても、それでも捨てられません。たとえばゾーダーバン(預流果を得た人)は、五蘊は無常、苦、無我という見方がありますが少しなので、執着を捨てることができません。五蘊は無常、苦、無我という見方があるのに、見解として見ても、執着がまだ捨てられません。非常に強い執着があるからです。

 私たちは誰もみなそうだと、良く観察して見てください。夫は妻を切り捨てられず、妻は夫を切り捨てられません。浮気をしたと分かっても捨てられないのは、自分、自分のものと執着するからで、非常に熾烈です。

 次に、仏教では、仏教の核心である教えで、「自分と呼ぶべきものは何もない。外部は土、水、火、風、内部は考えることができ、そして自分があると考えるほど愚かに考える自然だけ」と教えていると見ます。愚かであることを止めてしまえば、自分はありません。あるのは、自然になっていく自然だけで、自分の問題はありません。死んで生まれる問題はありません。なぜなら人がなく、あるのは、自然の原因と縁で経過するものだけだからです。

 土と水と火と風と空気と魂の六つの元素が集まって、私たちが「生き物、人物」と呼ぶものになり、そして自然に経過し、無明で生活し、無明に支配されるので、自分があります。

 仏教はこれを教え、考えを止め、執着を止め、自分がある愚かさを止め、自然の法則で経過する自然だけで生きるよう望んでいます。純潔な心を持ち、明、つまり真実のままの知識で管理すれば、どんな煩悩も生じることはできないので、私たちはあらゆる面で幸福に暮らすことができます。

 次は教育です。この世界には、自分はないという教えはありません。自分があると教えるばかりで、自分を強く捉えるよう煽って教えます。だから世界中に身勝手な人がいっぱいで、苦しめ合うことから生じる苦を排除できません。世界中、自分のことしか考えない人ばかりだからです。世界はブッダの真実、自分がないことを、正しく学んでしまうべきです。

 「自分」というのは愚かな心の感覚です。愚かな心は自分があると考え、賢い心は「すべてのものは自分ではない。自分は浮遊するマヤカシであり、科学ではない」と自然のままに見ます。しかし無我のものは、無我の知識は科学です。つまり、それは自然に変化し、自然の法則で変化する自然であり、自分ではないという自然の真実です。

 だから無我は科学です。あるいは純粋な自然を理解する科学があるので、純潔な命に到達し、死ぬことなく生き続け、自分を苦しめることがない、誰も苦しめることがない智慧がいっぱいになります。考えてみてください。世俗の生き物に「自分がない」正しい感覚があれば、それは最高の智慧があることなので、自然に身勝手はなくなり、苦しめ合いもなく、自然に他人を愛すようになります。

 この「自然に」というのは、良く聞いてください。それは何も努力しなくても、ただ「自分はない」と感じるだけで、身勝手でなくなり、他人を苦しめることはあり得ません。苦しめたり攻撃をするのは、自分のことだけを考えるからで、身勝手がなくなると、自然に他人への愛が生じます。

 無我が心を照らす明かりになれば、身勝手は無くなり、智慧で何でもするので、行なうべき義務を知ります。タンマ、つまり真実だけを考えるので、「どの心身の固まりも、すべて苦しい問題を抱えている。私たちは助け合って滅苦をする」と見るので、援け合います。そうすれば自然に、他人への愛が生じて、世界の不吉も消滅します。

 世界の不吉とは身勝手です。この不吉が消滅して人は愛し合い、たちまち弥勒菩薩の世界になります。

 弥勒菩薩の宗教は、慈しみの宗教です。究極に、そして素晴らしく他人を愛すので、「シーアーリア」と言います。「メータイヤ」とは慈しみで、最高のタンマがあること、つまり自分がないこと、あるいは身勝手でないことで、自然に生じる愛です。

 要するに、自我、自分とは、生まれてからずっと私たちにある愚かな財産で、自分の財産としていつでも心にありますが、偽物であり、本物ではありません。

 一方の無我は、ブッダが悟った自然の真実であり、愚かで偽物の自分の裏側にあります。

 愚かさや偽物が生まれるのは、誰でも、財産として背負ったり提げたり体に括りつけたりしている無明があるからです。しかし裏側には、「それは自分ではなく、無我である」という真実があります。これはブッダが発見し、自分があることによる身勝手から生じる苦を滅すために、私たちにくださった新しい財産です。

 無我とは、「すべてのものは自然に存在し、そして自分ではない」という自然の真実であり、すべてのものを支配しています。

 自分ではないという真実がすべての物を支配していますが、私たちは愚かなので見えず、何でも自分にし、自分のものにするので、罪や誤りを犯さなければならず、罪や罪の報いを苦で受け取って、自分の中、あるいは自分に関わる物の中を泳ぎ回らなければなりません。

 これを知ってこの考えを捨ててしまえば、「解脱」と呼ばれる自由になり、自分の問題、善悪の問題に襲われることはありません。「世俗を越える」と言われ、善悪より上になり、ローグッタラ(脱世間。世界から脱すこと)であり、聖果である涅槃に到達します。

 自我は本当にあり、私たちに今ある愚かな財産で、無我は、ブッダが受け取らせようとしているのに、まだ受け取れない新しい財産です。それに私たちはあまり認めず、自分に強く貼りついているので、別れられません。

 どうか、自分ではないという知識を十分にもって、自分があるという愚かさや迷いと決別してください。以上の理由で、仏教あるいはプラタムは、学ばなければならないものであり、二種類を学ばなければならないと説明しました。

 つまり、自分があるタイプ、無明の結果でしかない自分があるという真実を知り、そして自然の真実である無我を知れば、自分に関わる、全身全霊に関わる、あらゆる種類の幸不幸に関わる問題は全部消滅します。

 だからみなさん、「タンマは自分があるタイプも、自分がないタイプも、どちらも学ばなければならない」と、こうお願いします。時間になりましたので、みなさんが、自分があるタイプも、自分がないタイプも、どちらに関しても明確な知識を持たれることを願って、今日の法話を終わらせていただきます。


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