ヒト語とタンマ語で学ばなければならないタンマ

 

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 タンマにご関心がある善男善女のみなさん。今日の法話は、「ヒト語とタンマ語で学ばなければならないタンマ」と題してお話します。

 今、タンマは戻って来なければならないものです。世界が破滅に近い状態なのは、タンマがないからなので、世界を救うために、タンマが戻らなければなりません。タンマを呼び戻すには、タンマを良く知らなければならず、そのために私たちは、タンマを正しく完璧に学ばなければなりません。つまりヒト語とタンマ語の両方から、正しくタンマを知ることです。

 「ヒト語」「タンマ語」という言葉を、聞いたことがある人、理解している人もいるかもしれませんが、聞いたことがない人がいるかもしれませんので、ヒト語、タンマ語を定義をさせていただきます。

 まだタンマを知らない人が目で見たとおりに、つまり肉眼で見えるように話すタンマを、ヒト語のタンマと言い、物や人物や現象を意味します。一方タンマ語のタンマは、智慧の目、あるいはタンマの目で見えるように話すタンマで、深遠な意味のタンマを意味します。

サンディッティコ、その人が自分で見ることができ、アガーリコ、そのタンマは時に関係なく、時間に限定されず、いつでもした時にその結果があり、パッチャッタン、ヴェーディタッボの状態があり、つまり知る人だけのものであり、代わりに知ること、あるいは言うことはできず、自分にあるタンマでなければならず、自分のタンマを知るしかありません。

 ヒト語は人物を主体に話し、タンマ語は出来事を主体に話すと言われたことがありました。ヒト語は物理学的に話し、タンマ語はメタ物理学的に話すので正反対、あるいはまったく別の観点です。私たちはヒト語とタンマ語の両面から、タンマを知らなければなりません。そうすればタンマを呼び戻すことができます。

 一つずつ例を挙げながら説明する方が理解し易く、時間の節約になると思います。

 ここで取り上げる最初のタンマあるいは言葉はブッダです。ヒト語で言えば、ブッダは歴史上の人物で、二千年以上前に涅槃に入り、荼毘に伏されました。つまり、ヒト語では、現在は存在しません。

 しかしタンマ語で言えば、ブッダは今も、いつでも私たちと一緒にいます。「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える」とブッダが言っているように、いつでも心にお招きしておくことができます。ここで言うタンマは、縁起と呼ぶ細かい項目で苦を捉え、滅苦を目指します。だから、「タンマが見える人は縁起が見える、縁起が見える人はタンマが見える、タンマが見える人は私が見える、私が見える人はタンマが見える」と言っています。

 ヒト語だけでブッダを知るのは、これからお話するように、非常に恥ずかしい話があります。

 キリスト教の宣教師がタイに入って来たばかりの時代に、ブッダは今どこにいるのかと、タイの仏教教団員に質問しました。その仏教教団員は無邪気に、「ブッダは涅槃に入った」と答えました。すると宣教師たちは、みなさんは死んでしまった人と、生きている人と、どちらを拠り所にしたいですかと聞きました。

「私たちの神様は永遠に存在し、いつでも私たちと一緒にいます。みなさんは死んでしまった人と生きている人と、どちらに頼りたいですか」。その仏教教団員は唖然として、そして、このように非常に恥ずかしい、自分の欠点に気づきました。

 どうぞみなさん、ヒト語とタンマ語の両方でブッダを知ってください。私たちはいつでも共にいるブッダを求めます。これがブッダに関する、ヒト語とタンマ語の説明です。

 二つ目の言葉は、プラタム(教え)です。ヒト語のプラタムは物質で、経典や説教の声を意味します。子どもたちは、「プラタムとはブッダの教え」と教育されます。これは外側の話で、ヒト語です。タンマ語なら、知識と、その人の発達のすべての段階の、人間の行動の正しさを意味します。

書棚の中、あるいは説教者の声の中にあるタンマではなく、心に招き入れることができるタンマです。「タンマが見える人は私が見える、私が見える人はタンマが見える」というブッダの言葉のように、サンディッティコなど、心で感じることができる状態で、心に安置することができます。

 学問的に広く言えば、タンマには四つの意味があります。つまり自然と、自然の法則と、自然の法則に則った義務と、自然の法則に則った義務の実践の結果の、四つの意味です。これはタンマ語の意味のタンマで、非常に繊細なので、智慧の目、タンマの目、法眼で見なければなりません。

 三つ目の言葉は僧です。ヒト語の僧は、出家して修行者になった人を意味し、あるいはその人の集団を言い、タンマ語の僧は、段階的な四つの聖向聖果に到達する品行を行なう人の、心の美徳を意味します。誰でも自分の心に招いて入れておくことができる、心の美徳で、このように抽象的な状態です。

 四つ目の言葉は宗教で、ヒト語で言えば、一般人に良く知られている、子供でも知っている、宗教は神聖なもの、神聖な像、本堂、僧院、塔、黄金に輝く僧衣などです。これを人々は宗教と言います。宗教が栄えるとか衰退すると見るのは、ここを見ます。

 しかしタンマ語では、人間にとって本当の拠り所になるもので、本当の拠り所になる行動体系が宗教です。別の言い方では「梵行」、つまり初めも、中間も、終わりも美しい素晴らしい行動です。

 宗教は本堂や僧院やお寺にあるのはでなく、タンマ語の宗教は、人の心の中にあり、誰にも消滅させられないので、しっかり護ることができます。外部の宗教、つまり本堂や僧院が破壊され焼失しても、内部の本当の宗教は、まだ人の心にあります。

 だから私は本当の宗教は、誰にも消滅させられないと見ます。コミュニストが来てお寺を全部焼失させると怖がっていますが、無くなるのは宗教の外皮だけで、本当の宗教は人の心の中にあるので、コミュニストは何もできません。どうぞ本当の宗教を知って、この形の不死身でいてください。

 五つ目の言葉は神様です。ヒト語の神様は、人物の姿をしていて、人と同じように愛や怒りの感情があり、何でも人のようだと言います。こういうのを科学者は認めません。呑み込めません。今、神様は死んでしまった、誰も信仰する人がいないので神様は死んでしまったと言う人がいるのは、滑稽です。これはヒト語の神様です。

 タンマ語の神様は、自然の進化の法則を意味します。自然の進化の法則こそが、死を知らず、神様の徳である義務を行なう能力があると、しっかり憶えておいてください。科学者も最高の物と認めます。最高というのは、本当にすべての物を造り、すべてのものを支配し、すべての物を破壊できるからです。最高に公正で、すべての物より前からあり、私たちが知って、その心に従って行動しなければならない神様とは、自然の進化の法則での正しさです。

 人は誰でも本能的に自分の神様があります。神様がいない、という例外は誰もいません。人は自分を助けてくれる最高のものが必要と感じるので、必ず神様がいます。本当の神様を知らなければ、その人が、自分を助けてくれると考えるものが神様です。だから中には、お金を神様にする人もいます。お金の神様が、どんなことでもその人を助けてくれます。

世俗の言葉で言うお金は、何でも助けられる万能のものであることは事実ですが、その人は、タンマ語でのお金は「万能毒」と知りません。つまりあらゆる面、あらゆる観点での猛毒であり、世界を平安でなくします。お金を神様と捉える人は、必ずこういう問題に遭遇します。どうぞ本当の神様、本当でない神様を、ヒト語、タンマ語の両面で正しく知ってください。

六つ目の言葉は、本堂、僧院、仏塔、菩提樹などの神聖なものです。本堂、僧院とは、みなさんが見ている本堂や僧院で、仏塔とは、みなさんが見ている、あちこちに造られている尖った先端で、菩提樹とは、どこのお寺にもある、ヒト語で神聖な木です。

タンマ語で言えば、本堂、僧院は、自分の体です。私たちは自分の体を、ブッダ、プラタム、僧、あるいは神様でも構いませんが、それらの住まいとしてふさわしく整えなければなりません。神様を信じるなら、この体を、神様の住まいとして十分良くし、仏法僧があるなら、自分の実践法で、体を、仏法僧を安置する場所にふさわしくしなければなりません。ヒト語の本堂、僧院は物質であり、タンマ語では、仏法僧を安置するための、純潔で正しく、適切に行動する体です。

林立している仏塔は、ヒト語ではレンガやコンクリートです。タンマ語の本当の仏塔は、人物や教えや、あるいは記憶しておくべき最高の美徳に関わる確実な記憶なので、仏塔は、最高に素晴らしい物を記憶している心です。これをタンマ語で仏塔と言います。

菩提樹について言えば、ヒト語ではお寺に植えてある菩提樹で、時々水を注がなければなりません。しかしタンマ語の菩提樹は、菩提智の構造、戒、サマーディ、智慧から聖向、聖果、涅槃までが菩提樹です。菩提樹は心の中の木なので、普通の水撒きのように、水を撒く必要はありませんが、犠牲や忍耐努力などの、特別の水を撒かなければなりません。

七番目は、悪趣、適趣という言葉で、ヒト語の悪趣は、地獄、畜生、餓鬼、阿修羅で、言い伝えられているような、あるいは本堂の壁画のような状態、形をしています。地獄は死後に苦があり、畜生は野原にいて、餓鬼はどこにいるのか知りませんが、痩せて、腹は山のようで、口は針の穴くらいしかないと信じられています。阿修羅は化け物の一種で、これがヒト語によるものです。

タンマ語で言えば、地獄は心中で燃えている火のような焦燥で、畜生はあるべきでない愚かさで、餓鬼は煩悩による渇望で、阿修羅は理由のない恐怖です。タンマ語ではそう言われています。

次に敵趣は、天国、極楽、あるいは善人です。ヒト語の極楽は人間社会、あるいは死後の天国にあり、タンマ語では心の中にあります。自分で自分を尊敬でき、自分を拝めることが天国です。目的として欲情があれば欲界の極楽で、禅定の中の静けさなら形がある梵天界で、形がなければ無形梵天界です、地獄極楽は心の中にあります。

ブッダは「根(内処入。感覚器官)の地獄、根の極楽を、私は見た」と言っています。目・耳・鼻・舌・体・心にあるという意味で、形・声・臭・味・触・考えが触れた時、誤って振る舞えばそこが地獄になり、正しく振る舞えば極楽になります。

 二つの言語による悪趣と適趣を、このように知ってください。

 次に八つ目の言葉は、生です。本当のタイプの、いろんな物に生まれることは、タンマ語のサンディッティコ(自分自身で感じらられる)である生で、イライラした心がある時は、地獄の生き物が生まれ、人間が生まれるのは、普通の人間らしい心がある時で、天人になるのは、欲情が完璧の時で、阿羅漢が生まれるのは、煩悩が消滅した時で、サンマーサンブッダに生まれるのは、自分自身で悟った時です。

死を待たなくても、体は死ななくても、新しく生まれることができます。これがタンマ語の生です。母親の腹から生まれることは、誰でも分かるので、説明する必要はありません。

 九つ目の言葉は涅槃です。ヒト語の涅槃は、子どもが学校で教わるように、ブッダ、あるいは阿羅漢の死のことで、死を意味します。子どもたちはこう理解しています。ヒト語で教育を受けた人は、涅槃とは、自分自身に出会って、言われているような素晴らしい国へ行くことを涅槃と言います。そして何百世か、何千世か分かりませんが、死んだ後に到達することも、ヒト語で涅槃と言います。

 タンマ語の涅槃には、自分があってはいけません。煩悩が消滅して自分自身がないことに、生きているうちに到達できる、自分自身の、あるいは煩悩の消滅を涅槃と言います。生きているうちに最高に穏やかになり、死を待つ必要はありません。苦があれば、苦がある所で滅苦をし、輪廻があれば、輪廻がある所に涅槃があります。苦の固まりが消滅すること、輪廻が終わることを、タンマ語で涅槃と言います。

 十番目の言葉は、幸福です。ヒト語の幸福は煩悩の奴隷にあり、煩悩の餌を手に入れて、煩悩を養うことです。タンマ語では、煩悩を絶滅させることで生じ、それ以後は、餌を探して養う必要がなく、煩悩より上にいる人で、煩悩の主人です。このように正反対です。どうぞ幸福を、ヒト語とタンマ語の両面から知ってください。幸福の問題を非常に良く解決することができます。

 十一番目は徳です。ヒト語では心を膨らませるもので、気分を良くするので、非常に溺れ、そして酔います。タンマ語の徳は、反対に罪を洗い流すものであり、輪廻を越える乗り物です。ヒト語の徳は、人を輪廻に沈ませ、タンマ語の徳は輪廻を越えさせます。

 十二番目は布施です。ヒト語の布施は、非常に大きな儲けを期待する商業投資で、タンマ語の布施は、純粋な慈しみの行動を意味し、何の見返りも求めません。このように違います。

 十三番目は中毒物質です。人はヘロインのように、物質的な中毒を思い浮かべますが、タンマ語で中毒と言うのは煩悩の味で、煩悩の味に執着している人は、どんな物質的中毒よりも怖い害があります。徳と呼ばれるものでも、酔って執着するほどになると、何よりも強い中毒になり、国の経済に大きな損害を与えます。どうぞみなさん、今恐れているものより、もっと怖い中毒物質を知ってください。 

 タンマ語では、歌を歌うのは泣くこと、踊りを踊るのは狂った人、笑うのは子どもの症状です。こう知っておいてください。

 十四番目は四つの身分です。クシャトリア、バラモン、ヴェーシャ、シュードラの四つの身分は、ヒト語では違う捉え方をします。あまりに違いすぎて付き合いができないほどで、職業が違います。人々は、クシャトリアの財産は武器で、布施したものを受け取るのがバラモンの財産、食べるために働くのがヴェーシャの財産、天秤棒と鎌がシュードラの財産と決めています。しかしブッダは、私はローグッタラタム(世界から脱すタンマ、出世間法)を四つの身分の財産と規定する、と言っています。

 タンマ語では、自然の法則では、四つの身分は何も違わないと言うことです。どれも善いことをすれば善く、悪いことをすれば悪いので、ローグッタラタムを財産として受け取る機会があります。だから違いはありません。違いがあるのは、自分の感覚で規定しているヒト語だけで、真実である自然の法則で規定するタンマ語では、違いはありません。

 今日のお話の最後の言葉は、最高の施設である国と宗教と国王です。ヒト語で言えば、感じるとおりに、子どもたちに教えるように、国、宗教的物質、人物である国王を意味します。こういうのは物質や人物として知っているだけです。こういうのはヒト語の施設です。

 タンマ語なら国は、国があることの最高の価値、あるいは国がなければならない必要性を意味し、宗教は宗教の価値、あるいは宗教がなければならない必要性を意味し、国王は国王の価値、あるいは国王がいなければならない必要性を意味します。

 国は体に譬えられ、宗教は心に譬えられ、国王は体と心を連結させ、心と体を生かせる、あるいは価値あるものにする神経系統に譬えられます。だから国と宗教と国王は揃っていなければなりません。一つ欠ければ残るものはありません。

 ヒト語で言えば、人物であり、国土であり、本堂や僧院やお寺を意味します。しかしタンマ語で言えば最高の意味と、心になければならない、心に刻み込まれている最高の必要性を意味します。国も心に刻み込まれ、宗教も心に埋め込まれ、国王も心に刻み込まれています。物質の状態で外部にある、あるいは形である人物ではありません。

 今子供たちに正しく三つの施設を教えていません。子供たちに憶えさせ言わせているのは、物質の話で。宣誓も物質を基準にしています。だから子供たちは、教育が完全でないので、内面に、本当の国、宗教、国王がありません。教育が完全なら子どもたちは、本当の施設である国と宗教と国王が心に刻み込まれます。

 子供たちが国と宗教と国王をタンマ語で知らなければ、これらのものは正しく存在しません。だから彼らは、得るべき利益が得られるように、身を処すことができません。だから密林へ逃避する若者たちは、国と宗教と国王を否定し、そして長期的に問題を起こします。彼らはタンマ語の国、宗教、国王というものを知らず、ヒト語でしか知らないから、と考えて見てください。

 時間も無くなりましたので、ヒト語は肉眼で見えるように言い、物質または人物を意味し、タンマ語は、慧眼あるいは法眼で見えるように言い、実相を見る状態の深遠な抽象であり、深遠なタンマを知る人同士だけで話すことができる、とまとめさせていただきます。ヒト語はタンマを知らない人の言葉で、タンマ語はタンマを知る人が話す言葉で、このように違います。

 私たちは二通りのタンマを知らなければなりません。そうすれば、世界がタンマを非常に必要としているうちに、タンマを呼び戻すよう対処できます。時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。


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