15.ヒト語とタンマ語で学ばなければならないタンマ





1979年9月16日

 タンマにご関心がある善男善女のみなさん。今日の法話は「ヒト語とタンマ語で学ばなければならないタンマ」と題してお話します。

 今、タンマは戻って来なければならない物です。世界が破滅に近い状態なのは、タンマがないからなので、世界を救うためにタンマが戻らなければなりません。タンマを呼び戻すには、タンマを良く知らなければなりません。そのために私たちは、タンマを正しく完璧に学ばなければなりません。つまりヒト語とタンマ語の両方から正しくタンマを知ります。

 「ヒト語」「タンマ語」という言葉を聞いたことがある人、理解している人もいるかもしれませんが、聞いたことがない人もいるかもしれませんので、ヒト語、タンマ語を定義をさせていただきます。

 まだタンマを知らない人が目で見たとおりに、つまり肉眼で見えるように話すタンマをヒト語のタンマと言い、物や人物や現象を意味します。一方タンマ語のタンマは智慧の目、あるいはタンマの目で見えるように話タンマで、深遠な意味のタンマを意味します。

 サンディッティコ、その人が自分で見ることができ、アガーリコ、そのタンマは時に関係なく、時間に限定されず、いつでもした時にその結果があり、パッチャッタン、ヴェーディタッボの状態があり、つまり知る人だけのものであり、代わりに知ること、あるいは言うことはできず、自分にあるタンマでなければならず、自分のタンマを知るしかありません。

 ヒト語は人物を主体に話し、タンマ語は出来事を主体に話すと言われたことがありました。ヒト語は物理学的に話し、タンマ語はメタ物理学的に話すので正反対、あるいはまったく別の角度です。私たちはヒト語とタンマ語の両面から、タンマを知らなければなりません。そうすればタンマを呼び戻すことができます。

 一つずつ例を挙げながら説明する方が理解し易く、時間の節約になると思います。

 ここで取り上げる最初のタンマ、あるいは言葉はブッダです。ヒト語で言えばブッダは歴史上の人物で、二千年以上前に涅槃に入り、荼毘に伏されました。ヒト語では、現在は存在しません。
 しかしタンマ語で言えば、ブッダは今も、いつでも私たちと一緒にいます。「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える」とブッダが言われているように、いつでも心にお招きしておくことができます。ここで言うタンマは、縁起と呼ぶ細かい項目で苦を捉え、滅苦を目指します。だから「タンマが見える人は縁起が見える、縁起が見える人はタンマが見える、タンマが見える人は私が見える、私が見える人はタンマが見える」と言われています。

 ヒト語だけでブッダを知るのは、これからお話するように非常に恥ずかしい話があります。

 キリスト教の宣教師がタイに入って来たばかりの時代に、ブッダは今どこにいるのですかと、タイの仏教教団員に質問しました。その仏教教団員は無邪気に「ブッダは涅槃に入られました」と答えました。すると宣教師たちは、みなさんは死んでしまった人と、生きている人と、どちらを拠り所にしたいですかと聞きました。

 「私たちの神様は永遠に存在し、いつでも私たちと一緒にいます。みなさんは死んでしまった人と生きている人と、どちらに頼りたいですか」。その仏教教団員は唖然として、そして、このように非常に恥ずかしい自分の欠点に気づきました。

 どうぞみなさん、ヒト語とタンマ語の両方でブッダを知ってください。私たちはいつでも共にいるブッダを求めます。これがブッダに関わるヒト語とタンマ語の説明です。

 二つ目の言葉はプラタム(教え)です。ヒト語のプラタムは物質で、教典や説教の声を意味します。子どもたちは「プラタムとはブッダの教え」と教育されます。これは外側の話で、ヒト語です。タンマ語なら知識と、その人の発達のすべての段階の人間の行動の正しさを意味します。

 書棚の中、あるいは説教者の声の中にあるタンマではなく、心に招き入れることができるタンマです。「タンマが見える人は私が見える、私が見える人はタンマが見える」というブッダの言葉のように、サンディッティコなど心で感じることができる状態で、心に安置することができます。

 学問的に広く言えば、タンマには四つの意味があります。自然と、自然の法則と、自然の法則に則った義務と、自然の法則に則った義務の実践の結果の四つの意味です。これはタンマ語の意味のタンマです。非常に繊細なので智慧の目、タンマの目、法眼で見なければなりません。

 三つ目の言葉は僧です。ヒト語の僧は出家して修道者になった人、あるいはその人の集団を意味し、タンマ語の僧は、段階的な四つの聖向聖果に到る梵行を行なう人の心の徳行を意味します。誰でも自分の心に招いて入れておくことができる心の徳行です。このように抽象的な状態です。

 四つ目の言葉は宗教で、ヒト語で言えば、一般人に良く知られている、子供でも知っている宗教の神聖な物、神聖な像、菩薩堂、僧院、塔、黄金に輝く僧衣などです。人々はこれを宗教と言います。宗教が栄えるとか衰退すると見るのは、ここを見ます。

 しかしタンマ語では人間にとって本当の拠り所になる物で、本当の拠り所になる行動体系が宗教です。別の言い方では「梵行」である、初めも中間も終わりも美しい素晴らしい行動です。

 宗教は菩薩堂や僧院やお寺にあるのでなく、タンマ語の宗教は人の心の中にあり、誰にも消滅させられないので、しっかり護ることができます。外部の宗教である菩薩堂や僧院が破壊されて焼失しても、内部の本当の宗教はまだ人の心にあります。

 だから私は、本当の宗教は誰にも消滅させられないと見ます。コミュニストが来てお寺を全部焼失させると怖がっていますが、無くなるのは宗教の外皮だけで、本当の宗教は人の心の中にあるので、コミュニストは何もできません。どうぞ本当の宗教を知って、この形の不死身でいてください。

 五つ目の言葉は神様です。ヒト語の神様は人物の姿をしていて、人と同じように愛や怒りの感情があり、何でも人のようだと言います。こういうのを科学者は認めません。呑み込めません。今「神様は死んでしまった。誰も信仰する人がいないので、神様は死んでしまった」と言う人がいるのは滑稽です。これはヒト語の神様です。

 タンマ語の神様は自然の進化の法則を意味します。自然の進化の法則こそが、死を知らず、神様の徳である義務を行なう能力があると、しっかり憶えておいてください。科学者も最高の物と認めます。最高というのは本当にすべての物を造り、すべての物を支配し、すべての物を破壊できるからです。最高に公正で、すべての物より前からあり、私たちが知って、その心に従って行動しなければならない神様とは、自然の進化の法則での正しさです。

 人は誰でも本能的に自分の神様があります。神様がいない、という例外は誰もいません。人は自分を助けてくれる最高の物が必要と考えるので、必ず神様がいます。本当の神様を知らなければ、その人が「自分を助けてくれる」と考える物が神様です。だからお金を神様にする人もいて、お金の神様はどんなことでもその人を助けてくれます。

 世界の言葉で言うお金は、何でも助けられる万能の物であることは事実ですが、その人は、タンマ語のお金は「万能毒」と知りません。すべての面、すべての角度で猛毒であり、世界を平安でなくします。お金を神様と捉える人は、こういう問題に遭遇しなければなりません。どうぞ本当の神様、本当でない神様を、ヒト語、タンマ語の両面で正しく知ってください。

 六つ目の言葉は、菩薩堂、精舎、仏塔、菩提樹などの神聖な物です。菩薩堂、精舎は、みなさんが見ている菩薩堂や精舎で、仏塔とは、みなさんが見ている、あちこちに造られている尖った先端で、菩提樹はどこのお寺にもあるヒト語で神聖な木です。

 タンマ語で言えば、菩薩堂、精舎は自分の体です。私たちは自分の体を、ブッダ、プラタム、僧、あるいは神様でも構いませんが、それらの住まいとしてふさわしく整えなければなりません。神様を信じるなら、この体を神様の住まいとして十分良くし、仏法僧があるなら、自分の実践法で、体を仏法僧を安置する場所にふさわしくしなければなりません。ヒト語の菩薩堂、精舎は物質であり、タンマ語では、仏法僧を安置するための、純潔で正しく適切に行動する体です。

 林立している仏塔は、ヒト語ではレンガやコンクリートです。タンマ語の本当の仏塔は、人物や教えや、あるいは記憶しておくべき最高の徳行に関わる確実な記憶なので、仏塔は最高に素晴らしい物を記憶している心です。これをタンマ語で仏塔と言います。

 菩提樹について言えば、ヒト語ではお寺に植えてある菩提樹で、時々水を注がなければなりません。しかしタンマ語の菩提樹は、菩提智の構造、戒、サマーディ、智慧から聖向、聖果、涅槃までが菩提樹です。菩提樹は心の中の木なので、普通の水撒きのように水を撒く必要はありませんが、犠牲や忍耐努力などの特別の水を撒かなければなりません。

 七番目は、悪趣・善趣という言葉です。ヒト語の悪趣は、地獄・畜生・餓鬼・阿修羅で、言い伝えられているような、あるいは菩薩堂の壁画のような状態、形をしています。地獄は死後に苦があり、畜生は野原にいて、餓鬼はどこにいるのか知りませんが、痩せて腹は山のようで、口は針の穴くらいしかないと信じられています。阿修羅は化け物の一種で、これがヒト語による物です。

 タンマ語で言えば、地獄は心中で燃えている火のような焦燥で、畜生はあるべきでない愚かさで、餓鬼は煩悩による渇きで、阿修羅は理由のない恐怖です。タンマ語ではそう言われています。

 次に善趣は天国、あるいは善人です。ヒト語の天国は人間社会、あるいは死後の天国にあり、タンマ語では心の中にあり、自分で自分を尊敬でき、自分を拝めることが天国です。目的として欲情があれば欲界の天国で、禅定の中の静けさなら形がある梵天界で、形がなければ無形梵天界です、地獄天国は心の中にあります。

 ブッダは「根(内処入。感覚器官)の地獄、根の天国を私は見ました」と言われています。目・耳・鼻・舌・体・心にあるという意味で、形・声・臭・味・触・考えが触れた時、誤って振る舞えばそこが地獄になり、正しく振る舞えば天国になります。

 二つの言語による悪趣と善趣を、このように知ってください。

 次に八つ目の言葉は生です。本当の形のいろんな物に生まれることは、タンマ語のサンディッティコ(自分自身で感じられる)である生で、焦燥した心がある時は、地獄の動物が生まれ、人間が生まれるのは普通に人間らしい心がある時で、天人になるのは、欲情が完璧な時で、阿羅漢が生まれるのは煩悩が消滅した時で、サンマーサンブッダに生まれるのは、自分自身で悟った時です。

 死を待たなくても、体は死ななくても新しく生まれることができます。これがタンマ語の生です。母親の胎から生まれることは、誰でも分かるので、説明する必要はありません。

 九つ目の言葉は涅槃です。ヒト語の涅槃は子どもが学校で教わるように、ブッダ、あるいは阿羅漢の死のことで、死を意味します。子どもたちはこう理解しています。ヒト語で教育を受けた人は、涅槃とは、自分自身があり、言われているような素晴らしい国へ行くことを涅槃と言います。そして何百生か、何千生か知りませんが、死んだ後に到達することも、ヒト語で涅槃と言います。

 タンマ語の涅槃には、自分があってはいけません。生きているうちに到達できる煩悩が消滅して自分自身がないこと、自分自身の消滅、あるいは煩悩の消滅を涅槃と言います。生きているうちに最高に穏やかになり、死を待つ必要はありません。苦があれば苦がある所で滅苦をし、輪廻があれば輪廻がある所に涅槃があります。苦の固まりが消滅すること、輪廻が終わることを、タンマ語で涅槃と言います。

 十番目の言葉は幸福です。ヒト語の幸福は煩悩の奴隷にあり、煩悩の餌を手に入れて煩悩を養うことです。タンマ語では煩悩を絶滅させることで生じ、それ以後は、餌を探して養う必要がなく、煩悩より上にいる人で、煩悩の主人です。このように正反対です。どうぞ幸福を、ヒト語とタンマ語の両面から知ってください。幸福の問題を非常に良く解決することができます。

 十一番目は功徳です。ヒト語では心を膨らませる物で、気分を良くするので非常に溺れ、そして酔います。タンマ語の功徳は罪を洗い流す物であり、輪廻を越える乗り物です。ヒト語の功徳は人を輪廻に沈ませ、タンマ語の功徳は輪廻を越えさせます。

 十二番目は布施です。ヒト語の布施は非常に大きな儲けを期待する商業投資で、タンマ語の布施は、純粋な慈しみの行動を意味し、何の見返りも求めません。このように違います。

 十三番目は中毒物質です。人はヘロインのような物質的な中毒を思い浮かべますが、タンマ語で中毒と言うのは煩悩の味で、煩悩の味に執着している人は、どんな物質的中毒よりも怖い害があります。徳と呼ぶ物でも酔って執着するほどになると、何よりも強い中毒になり、国の経済に大きな損害を与えます。どうぞみなさん、今恐れている物よりもっと怖い中毒物質を知ってください。

 タンマ語では、歌を歌うのは泣くこと、踊りを踊るのは狂った人、笑うのは子どもの症状です。こう知っておいてください。

 十四番目は四つの身分です。カッティヤ、バラモン、ヴェーシャ、スードラの四つの身分は、ヒト語では違う捉え方をします。あまりに違いすぎて付き合いができないほどで、職業が違います。人々はカッティヤの財産は武器で、布施した物を貰うのがバラモンの財産、食べるために働くのがヴェーシャの財産、天秤棒と鎌がスードラの財産と決めています。

 しかしブッダは「私はローグッタラタム(世界から脱すタンマ、出世間法)を四つの身分の財産と規定する」と言われています。

 タンマ語では、自然の法則では四つの身分は何も違わないと言うことです。どれも善いことをすれば善く、悪いことをすれば悪いので、ローグッタラタムを財産として受け取る機会があります。だから違いはありません。違いがあるのは、自分の感覚で規定しているヒト語だけで、真実である自然の法則で規定するタンマ語では、違いはありません。

 今日の話の最後の言葉は、最高の施設である国と宗教と国王です。ヒト語で言えば、感じるとおりに、子どもたちに教えるように、国、宗教的物質、人物である国王を意味します。こういうのは物質や人物として知っているだけです。こういうのはヒト語の施設です。

 タンマ語なら国は、国があることの最高の価値、あるいは国がなければならない必要性を意味し、宗教は宗教の価値、あるいは宗教がなければならない必要性を意味し、国王は国王の価値、あるいは国王がいなければならない必要性を意味します。

 国は体に譬えられ、宗教は心に譬えられ、国王は体と心を連結させ、心と体を生かせる、あるいは価値ある物にする神経系統に譬えられます。だから国と宗教と国王は揃っていなければなりません。一つ、欠ければ残る物はありません。

 ヒト語で言えば人物であり、国土であり、菩薩堂や精舎やお寺を意味します。しかしタンマ語で言えば最高の意味と、心になければならない、心に刻み込まれている最高の必要性を意味します。国も心に刻み込まれ、宗教も心に埋め込まれ、国王も心に刻み込まれています。物質の状態で外部にある、あるいは形である人物ではありません。

 今、子供たちに正しく三つの施設を教えていません。子供たちに憶えさせ言わせているのは、物質の話で、宣誓も物質を基準にしています。だから子供たちは、教育が完全でないので、内面に本当の国、宗教、国王がありません。教育が完全なら子どもたちは、本当の施設である国と宗教と国王が心に刻み込まれます。

 子供たちが国と宗教と国王をタンマ語で知らなければ、これらの物は正しく存りません。だから彼らは、得るべき利益が得られるように、身を処すことができません。だから密林へ逃亡する若者たちは、国と宗教と国王を否定し、そして長期的に問題を起こします。彼らはタンマ語の国、宗教、国王と呼ぶ物を知らず、ヒト語でしか知らないから、と考えて見てください。

 時間も無くなりましたので、ヒト語は肉眼で見えるように言い、物質、または人物を意味します。タンマ語は、慧眼、あるいは法眼で見えるように言い、実相を見る状態の深遠な抽象で、深遠なタンマを知る人同士だけで話すことができるとまとめさせていただきます。ヒト語はタンマを知らない人の言葉で、タンマ語はタンマを知る人が話す言葉で、このように違います。

 私たちは二通りのタンマを知らなければなりません。そうすれば世界がタンマを非常に必要としているうちに、タンマを呼び戻すよう対処できます。時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。



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