タンマにご関心がある善男善女のみなさん。今日の法話は「呼び戻す方法があるタンマ」と題してお話します。前回は、今日のような世界に「急いで呼び戻さなければならない物であるタンマ」と題して詳しくお話しました。
今回は呼び戻す方法についてお話します。いなくなった家畜を戻すのではありませんが、意味は似ています。犬や猫がいなくなったら、探して連れ戻せば、再び、飼っている結果があります。タンマにも、無くなった物を呼び戻す何らかの方法があります。この呼び戻す行動を「正しい見解の威力で呼び戻す」と、短い題目にまとめたいと思います。
ブッダが「サンマーディティ サマーターナー サッパム トゥッカン ウパッチャクム」、正しい見解があることで、すべての苦を超えることができると言われているように、仏教教団員は「正しい見解」と呼ぶものを、最高に重要なものと見なします。基礎として正しい見解があれば、すべての苦を乗り越えることができます。つまりどんな問題も征服できるという意味です。
ブッダは正しい見解を「曙」と言われています。つまりだんだん明るくなり、非常に明るくなっていく初めの光です。曙がなければ明るさである、どんどん正しくなっていく知識や理解の初めはありません。
もう一つ、正しい見解は正しい考えを生じさせる点が重要です。正しい見解には正しい見方があり、正しい考え、正しい望みを生じさせ、そしてふさわしい結果が得られます。今の世界は二つとも、つまり正しい見解と正しい考えのどちらもありません。
正しい見解という言葉は、完璧な意味を掴んでください。正しい見解は、正しい見方、正しい理解、正しい知識、正しい信条という意味です。タンマを呼び戻すには、正しい見解を使わなければなりません。そしてこの正しい見解は、これから分類するように幾つにも分けることができます。
タンマを呼び戻す正しい見解の初めの項目は、「登った所から下りなさい」という短い言葉です。この言葉は、私たちの祖父母がブッダの言葉と一致させて言った言葉です。「木に登って、登った所から下りなければ天辺から飛び降りて死ぬしかないので、登った所から下りなさい」は、ごく当たり前です。
ブッダは苦の発生を縁起の角度で述べ、そして苦の消滅を、逆戻りする形で述べています。私たちの祖父母は、登った所から下りなさいと、ブッダと同じように言いました。
今、私たちはそうしません。正真正銘道徳の問題を、道徳の問題で解決しないで、経済や政治や、軍事の問題として解決します。問題の原因、糸口、問題点が正しくないので解決できません。だから道徳の問題を解決する道具として、道徳を使わなければなりません。
「文化が物質主義になったから道徳がない」という項目を熟慮して見なければなりません。私たちには人間を清潔で明るく静かにする純潔な文化がありません。誘い合って物質主義に転向し、物質を標準にして物質的な結果を目指すので、すべてが混乱し、物質主義の害を受け取ってもどう解決したら良いか知りません。
私たちの価値観は気づかないうちに変わってしまい、今いろんな物を、物質主義に根がある煩悩で食べています。何を食べるにも食べ物のようでなく、餌のように食べます。餌のように食べるのは美味しさのために食べることで、食べ物のように食べるのは、体の正しい営養のために食べることです。
餌のように食べれば、食糧不足と呼ぶ状況が生じます。これからは世界の物を餌のように食べないでください。そうすれば食べ物は十分足ります。
登った所から下りるという形で問題の原因を理解すれば、その問題を解決できます。これが、見て、そして実行しなければならない一つの観点の正しい見解です。
次に二番目の正しい見解は、世界の教育は完全ではないと見なければなりません。教えているのは勉強と職業だけで、人間になる学問、あるいは正しい人になる学問であるタンマや道徳を教えません。だから私たちが知っているのは勉強と職業だけです。
どうやって人になるか、なぜ生まれてきたか、何を得るべきかを知りません。これを「教育には、必要な物であるタンマ、あるいは道徳と呼ぶ物が欠けている」と言います。
教育省、あるいは教育を担当する職員にできないなら、昔のように、お寺に道徳の薫陶する役割を分担させ、欠けている部分を補えば完璧になります。子供たちが、少なくとも罪を恐れ、徳に勇敢になるようにしなければなりません。
私はこれだけで十分と言いたいと思います。口が達者で知識が多くても真心がない人にするための冗長なカリキュラム計画のように、たくさんは要りません。罪を恐れさせるには、今しようと考えているように、勉強させ、記憶させ、ノートを取らせることではできません。
子供の時に、お化けやヤモリやヤスデを怖がり、大人になっても消えない類の恐怖は、なぜそうなるのでしょうか。それは大人たちが知らないうちに、何らかの行動をして伝えているので、子供たちがお化けやヤモリやヤスデなどを怖がるようになります。
今私たちは、同じ形で罪を恐れさせ、深く性質に刻み込んで性分になるよう、そしてこの項目を解決できるようにします。つまり若者に道徳的な正しさをしっかり植え付けます。徳と罪に関して昔の子供と現代の子供を比較して見ると、昔の子供は罪を恐れ、罪と聞くとハッとしました。
現代の子供は、誰かが「罪だ」と忠告すると、舌を出します。徳という言葉は、昔は知る必要のないものだったことは事実ですが、誰もが望みました。小さな子供まで徳を欲しがり、徳を積みたがりました。現代の子供には、徳は何の意味もありません。彼らにとって徳とは得ることで、自分の望み通りに何かを得れば善と言います。
親や先生に対する気持ちにも雲泥の差があります。昔は親や先生を、自分の頭上にいる特別の人のように敬いました。現代の子供にそういう気持ちはありません。小さな頃からしつけられているので、そういう気持ちは生じません。
私は、文字は知らなくてもいいから、道徳を持ってほしいと思います。文字を知らなくても道徳がある人と、文字を知っていても道徳がない人とどちらが安全か、どちらが望ましいか、みなさん比べて見てください。
昔は勉強をしなかったので文字を知りませんでしたが、社会は穏やかで、道徳的に暮らすことができました。「人間は道徳によって危機を脱すことができる。勉強をすること、あるいは職業を知ることで危機を脱すのではない」を教えにしなければなりません。
これを「正しく理解し、正しく使わなければならない正しい見解」と言います。そしてそうなるようにします。「罪を恐れ、勇んで徳を」を教えにする高い心になるようにします。コミュニストが来て宗教が消滅することばかり恐れないでください。コミュニストが来る前に宗教が消滅することを恐れてください。
ブッダは「タンマ、あるいは宗教が消滅するのは、四種類(比丘、比丘尼、清信士、清信女)の仏教教団員が原因」と言われています。外部の人たちが宗教を消滅させることはできません。だからみなさん、自分自身の危機感の欠如によって宗教を消滅させないように注意してください。
私たちはコミュニストを受けて立つために、正しく堅固な宗教がなければなりません。堅固な宗教があればコミュニストに立ち向かえるタンマがあるので、コミュニストを受けて立つことができます。宗教の使い方を知らなければ、反対に宗教を衰退させ、何にも抵抗できません。
どうぞもう一度熟慮して見てください。以前に、世界にコミュニストが生まれるのは、その地域、その時代の宗教が衰退したからとお話しました。宗教のない地域は人が利己的で、吸い取り紙の資本家が生まれて搾取するので、その世界にコミュニズムが生まれます。吸い取り紙の資本家制度がなければ、コミュニストが生まれる余地はありません。
宗教がなくなれば、吸い取り紙の資本家になれるほど利己主義が生まれるので、吸い取り紙の資本家がコミュニストを創り出しました。宗教がないから、あるいは宗教が無くなったからです。しっかりした宗教があれば世界に吸い取り紙の資本家は生まれません。だから、当然コミュニストが生まれる機会もありません。
どうぞ熟考してください。これは、探して見つけなければならない正しい見解です。つまり何が原因かという正しい理解です。みなさんは恐れるべきでない物を恐れ、恐れなければならない物を恐れません。
次に三つ目は、現在の世界は文化を滅亡させる文明であり、肉体の文明によって精神の善は滅亡したと見ます。現代は肉体の文明を崇拝するので、心の文明は消滅しました。私たちは肉体の文明に陶酔しています。祖父母の時代は道徳を繁栄させる文明で、現在は道徳を消滅させる肉体の文明で、先祖をまったく見習いません。
私たちは今みなさんが恐れている麻薬より、もっと怖い麻薬を知りません。それは、すべての種類のマスコミが広めているどんな麻薬より、若者を愛欲の奴隷にします。今恐れている麻薬より、もっと悪の道に踏み込ませ、もっと中毒にさせる、もっと凶悪な麻薬を知ってください。
若者がこのように肉体の文明の悪の道に引き込まれるのは、彼らの人間性にとって損失です。親や先生や国や宗教や国王のことを、一呼吸ごとに、あるいは昼も夜も考える代わりに、彼らが昼も夜も休まず考えているのは歓楽施設のこと、もしくは宝くじの発売日です。
今彼らが大事な仕事をする時、いつも頭上に持ち上げているのは酒杯です。三宝、あるいはブッダではなく、酒杯です。どう変わって、どこへ向かうのか考えて見てください。これらは全部、正しい見解で解決し、正しく教え、誤りをすべて排除しなければならない物の例です。
次は四つ目で、私は、みなさんに別の方向へ目を向けるようお誘いしたいと思います。若者の方を向いて、青少年を正しく改善し、「善い子供は国の未来」と言うような、私たちが望む善い子にします。
昔の子供は今の子度もより頭は良くなく、お化けを怖がるほど愚かでしたが、非常に罪を恐れました。今の子供は舌を出して、罪をごまかすことができます。彼らの方が賢く勉強はできますが、現代の子は罪という言葉より、不運という言葉を怖がります。彼らは罪を知りません。知っているのは不運である、思ったように手に入らないことです。
私たちは急いで、子どもたちが罪を恐れ、勇敢に徳を積むよう教育しなければなりません。それだけで十分です。どんなに勉強や職業を教えても、子供は罪を恐れません。計画しているような大々的なカリキュラムでタンマを教えても、子供たちが罪を恐れるかどうか分かりません。私たちは倫理よりむしろ道徳で教えます。
ここでいう倫理とは、道徳に関する哲学の形の学問で、道徳とは直接行動する実践体系です。倫理はモラリティの哲学で、道徳はモラリティそのものです。今教えているのは、無意味なことをダラダラ教える倫理なので、道徳になりません。考えて見てください。口で言える人ばかりで実行しません。道徳がないので鉄格子の中に出家者がいます。ビシュヌカルマ神くらい腕の良い人が、鉄格子の中に入ります。
つい先日、人が作ったと考えられないような籐細工の法座がお寺に届けられました。村人が「人間が作ったの? ビシュヌカルマ神が作ったの?」と聞くので、「ビシュヌカルマ神が作ったんだよ」と答えました。今ビシュヌカルマ神はどこにいるんですかと聞かれたので、鉄格子の中に、クルンテープ(バンコク)の軽犯罪刑務所にいると答えました。
それを作った囚人は、これほどの職業の知識があると意味です。籐芸でも、螺鈿でも金箔細工でも彫刻でも、塀の中でできます。これほどの職業のある人でも、道徳がなければ鉄格子の刑務所に入らなければならないからです。
夢中になって勉強と職業だけを教えていれば、間もなくビシュヌカルマも鉄格子の中の仲間に加わり、シッポのように長い学位のある人も、道徳を捨てればいつでも鉄格子の中で暮らす機会があります。
裁判官が賄賂を受け取らないのは道徳があるからで、賄賂は法で禁じられていると、法律の知識があるからではありません。知識はあっても賄賂を受け取る裁判官はいます。裁判官が賄賂を受け取らないのは道徳があるからです。道徳がなければ賄賂を受け取ります。
どうぞみなさん、人間を最高の意味の人間にする学問について考えてください。私は子どもの頃聞いた言葉で、今日まで心に沁みついている言葉を憶えています。それは「アッタヤータマ ヴィチャー」です。どんな教科書もすっかり忘れてしまった言葉です。
アッタマヤター ヴィチャーとは、勉強や職業以外の学問のことで、言葉どおりに捉えれば、素晴らしい自分を創る学問という意味で、道徳のことです。現代は無くなってしまいました。この言葉を聞いたことがありません。
どうぞ、普通より素晴らしい自分にする学問があるという所にもう一度立ち戻って、道徳面、礼儀作法面に価値を置いてください。祖父母の時代は、リスのように体を震わせてクスクス笑う娘たちは不吉と見なされ、妻にしたがる人は誰もいませんでした。現代は、震えるような、波打つような笑い方は可愛いです。こういう人たちは、扇情的な踊りを踊るのを好みます。心がどう違うか、考えて見てください。
どうか子どもたちに「罪と徳」という言葉を正しく教えてやってください。「ブッダ」と「地獄」と「天国」と「涅槃」を知るよう、教えてやってください。つまり「人々が言うようにブッダは涅槃に入ってはないない。私たちと一緒にいる」と、タンマの言葉で言うブッダを教えてください。
地獄とは焦燥する心で、天国とは心が快適便利なことで、涅槃は何も妨害する物がない心です。こういう地獄を知っていれば、死んだ後どんな種類の地獄に落ちることはありません。こういう天国があれば、死んだ後どんな天国でも、行くべき天国に行けます。
涅槃はここで始めなければなりません。あと何生も、何百、何千、何万生もしてから涅槃に到達するのではありません。この状態の地獄、天国、涅槃を知れば、罪を恐れ、徳に勇敢になります。
子どもたちは「人に生まれたのだから、人らしくしなければならない」と、自分自身を尊重する実践を、厳格にしなければなりません。彼らは、他の人にできることは自分にも必ずできると自分を信じ、するべきことをするよう自分を律さなければなりません。そうすれば、危機であるどんな問題もなく、世界を美しくすることに関して、正しい人間性があると言われます。
どうぞ正しい見解を正しく調整し、若者に関わることを正しく改めてください。そうすれば失くした物が戻ってくるように、逃げた家畜が戻ってくるように、いなくなった赤ん坊が戻ってくるように、いなくなった親戚全員が戻ってくるように、あらゆる失った望ましい物が戻ってくるように、道徳が戻ってきます。
このすべては、政府など権力のある機関は、道徳が戻ってくるよう対策をしてください。待ちきれないほど時間が掛かると考えないでください。待ちきれないと遣る気がなくなります。後退と見ないでください。舟が河口まで出たら嵐が来そうなので、安全を考えて運河に戻るのと同じでください。こういう後退は間違いでなく、少しも恥ではありません。これは正しさに戻ることであり、道徳が戻って来ることです。
タンマには、今簡単に述べたような状態で呼び戻す方法があります。時間になりましたので、今日のお話を終わらせていただきます。
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