11.教育制度から消えたタンマ





1979年5月20日

 タンマにご関心がある善男善女のみなさん。今日の法話は「教育制度から消えたタンマ」と題してお話します。毎回いろんな角度のタンマをお話してきて、今日は一つの角度のタンマ、世界の教育制度から消えたタンマです。率直に言って、現代の世界の教育はタンマを取り入れていません。何か問題が起こるのはそのせいです。これから見ていきます。

 初めにタンマとは簡単に言ったら何でしょうか。昔の人は「食べることと寝ること、危険を避けること、愛欲の営みをすることは人間も動物も同じ。タンマだけが人間と動物を区別させる。タンマがなければ、人間と動物は同じ」と捉えました。昔は、タンマは人間と動物を区別するものでした。

 これが「タンマは人間と動物を区別させる物」と見なければならない初めの項目です。人間にはタンマがなければなりません。そうすれば人間は動物と違います。

 タンマがあると言うのは、どうすればそうなるのでしょうか。タンマを知り、タンマを実践し、タンマの実践の結果を受け取ることでそうなります。タンマという言葉の四つの意味を、私は時々繰り返しています。タンマとは自然、タンマとは自然の法則、タンマは自然の法則で正しい行動、タンマとはその義務の実践から結果を受け取ること、全部で四つの意味があります。

 私たちはこれらのタンマを知り、これらのタンマの規則で実践し、そして実践した結果を受け取らなければなりません。そうすればタンマがあると言えます。タンマがあると言うには、実践しなければなりません。それが重要で、「知識だけあれば十分」ではありません。

 タンマの系統が、この世界のそれぞれの宗教を成立させています。要するに人間の発達の、どの段階にもふさわしいタンマの正しい実践です。幼少時、少年時代、青年期、老年期も、自分の発達の段階に合ったタンマの実践がなければなりません。

 次に教育を見ると、現代の世界の教育は、タンマに欠けています。私は、今までの世界の教育制度にはタンマが含まれていたので、何も欠けずに揃っていたと主張します。私たちの教育には三つの系統、あるいは三つの部分があります。勉強を知り、知恵をつけるための教育。これが一つ、職業に就くための教育であるいろんな技術。これが一つ。最後は正しい人間になるためのタンマの教育で、これも一つです。

 まとめると勉強をして、仕事を知って、そして正しい人間になるためにタンマを知れば、三つの系統すべて学べば、人間という意味を満たした人間になります。つまり害のない動物で、害のない紳士、害のない聖人です。そうなるにはタンマがなければなりません。タンマの教育を受けなければなりません。

 勉強を教えるだけ、あるいは職業を教えるだけの教育は、この種の人間にすることはできません。紳士、あるいは善人、あるいは聖人になれません。勉強と職業を知っているだけなので、タンマの部分を知り、正しい人間性がなければなりません。

 次に少し観察して見ると、ずっと昔は、教育は僧の手の中にあったと分かります。僧によって教育が行われていたので、教育制体系にタンマ、あるいは宗教がありました。どの宗教の僧も教育を受け持っていたので、その国が信仰している宗教による、その宗教のタンマが教育制度の中にありました。

 その後、在家が教育を奪ったので、僧はする必要がなくなりました。在家がするようになって時が経つと、それらの在家たちは「タンマ、あるいは宗教は、政治などに必要ない」と考えました。経済を重要視したからです。

 物質的に非常に発展した時代になると、人間の幸福を増大させ、喜ばせるために、人間は幸福と娯楽と物質の味の泥沼に落ちたので、心がどんどんタンマや宗教を嫌う方向に傾きました。そして少しずつタンマ、あるいは宗教の部分の教育を排除したので、残ったのは知識と職業だけの教育になり、三つの部分の一つが消滅してしまいました。

 三つ目の部分であるタンマに欠ける教育を、私は「シッポを切られた犬の教育」と命名させていただきます。正直言って、シッポを切られた犬の教育には、シッポがありません。犬のシッポを切って走らせて見ると、ヨロヨロ走って正常ではありません。これは罪です。シッポがなければこうなります。

 次に世界の教育がどうしてシッポを切られた犬の教育になるのでしょうか。それには「シッポを切られた犬」の話をさせていただきます。五、六十代の年配の方は、昔の学校で勉強したことがあるので、イソップの「シッポを切られた犬(狐)」の話を読んだことがあると思います。

 聞いたことがない人のために、話させていただかなければなりません。一匹の犬が罠にかかってシッポを切られてしまいました。そこで一計を立て、犬仲間に「シッポがない方が便利だ」と言い触らし、シッポを切り落とすよう勧めました。たくさんの犬が賛同してシッポを切り落とし、ある日、一匹の犬が反論して「騙している」と言うまで、シッポのない犬は増え続けました。これがシッポのない犬(狐)の話です。

 今、どうして教育がシッポのない犬なのでしょうか。それは権力のある大きな国が教育をして、物質主義で発展した時代になると、物質主義が威力を持ちました。私は物質主義という言葉を使います。現代は物質的発展が人の心を惹きつけて、すっかり物質面に陶酔させたという意味です。

 これは犬のシッポに噛みついて切り落としてしまう罠と同じです。教育を行っている国も物質の威力に負けて、タンマ、あるいは宗教を教育制度から追い出してしまいました。これを「罠」と言います。つまり物質主義が犬のシッポを噛み切って、シッポのない犬にしました。

 シッポのない犬の教育をしている国は、他の国をシッポのない犬の教育に誘い、他の国もつられて物質の威力に陶酔し、教育制度からタンマ、あるいは宗教を追放し、どんどんシッポのない犬の教育になりました。小さな国々は踏ん張りきれずにそれに従い、世界中すべての国が、シッポのない犬の教育制度と言うほどになりました。つまりその後二度と、タンマや宗教に教育を任せません。

 教育にタンマ、あるいは宗教の系統がなければどうなるでしょうか。知っているのは賢くする知識だけ、そして新しい物を創れば創るほど儲けを生み出す、全力投球の職業だけなので、どんどん物質の味に溺れ、世界に危機が生じます。つまり卒業しても紳士になりません。教育を終わって、凧のシッポのように長い学位があっても、紳士ではありません。

 信頼できる人、害のない人はいません。道徳がなく、道徳が衰退してしまい、道徳のない世界になりました。だから私たちは危機に遭遇し、至る所に犯罪が溢れています。国内にも犯罪があり、国際間でも犯罪、つまり戦争があり、そして戦争の副産物である害で、至る所に混乱が生じます。

 これがシッポを切られた犬の教育制度、勉強と職業だけで、正しい人間にするタンマがない教育から生じる悪です。

 ここで今私たちには、みんなで犬のシッポを繋ぎ、教育にタンマや宗教があるようにする問題があります。犬のシッポを繋ぐと言ってもいいし、新たに育てると言ってもいいです。新たにシッポを育てると言った方が安全のようです。シッポを繋ぐと、もし猿のシッポを犬に付けたら、たぶんもっとひどいことになります。

 一生懸命犬のシッポを育て、少しずつシッポが伸びるように育てれば、シッポのある犬になり、三つ目のタンマと宗教がある教育になります。私たちには賢くする勉強の教育があり、あらゆる技術を学ぶ職業教育があり、そして正しい人間になるためのタンマ、あるいは宗教の教育があります。

 人間という言葉の意味と一致する「正しい人間性がある」という言葉を憶えてください。

 次に正しく完璧な教育制度に取り入れるタンマ、あるいは宗教を見て行きます。すべての宗教の教えの核心は「他人を愛す」という一語しかないという真実に気付くまで、詳しく観察して見てください。この一語が宗教と呼ばわれる物、あるいは宗教と呼ぶことができる宗教の教えの核心です。

 人間が愛し合わないこと、殺し合うこと、盗むこと、他人が愛している物を侵すこと、嘘を言って騙すこと、酔う物を飲んで他人を煩わせ迷惑を掛けることによって、人間社会に問題が生じるからです。これは他人を愛さないからです。だからタンマの教え、あるいは宗教の教えは「他人を愛す」ことで解決します。

 見れば簡単に分かります。他人への愛があれば他人を殺せません。だから動物による殺人や体への凶悪な事件はありません。他人を愛せば盗み、誰かの財産に対しての悪はありません。他人を愛せば、他人が愛している物に対する悪はありません。つまり不邪淫戒を犯しません。

 他人を愛せば、どこかの誰かに嘘をつけるでしょうか。嘘はつけません。愛し合えば愛す物に注意深くなり、酔う物を飲んで常自覚を失い、他人に迷惑を掛けません。他人を愛すだけですべての問題を解決できるので、どの宗教も他人を愛すよう教えれば、人間の問題を解決できるとしています。特にキリスト教は一番良く教えていると思います。

 他人を愛すことに関しては、すべての宗教の中でキリスト教が一番良く教えていると思います。「神様が私たちを愛してくれるので、私たちも神様を愛さなければならない。神様を愛したら、神様の命令に従わなければならない。神様は他人を愛すように教えているので、神様が私たちを愛すように、私たちは他人を愛さなければならない」と、幼い子供たちに教えます。これで他人を愛すには完璧です。

 他人を愛せば殺すことはできません。盗みもできません。他人が大切にしている物を犯すこともできません。嘘もつけません。間違って他人に迷惑をかける酔っ払いになることはできません。

 これが他人への愛であり、すべての宗教の核心です。人がよく「刀を持つ」と言うイスラム教でも、彼らは愛する人のために刀を持つと私は見ます。それでどうでしょう。他人を愛せば問題は消滅するので、刀を使う必要はありません。まだ非常に身勝手で他人を思いやることを知らないうちは、当然刀を使わなければなりません。刀を持つというのが本当なら、こういう真実がなければなりません。

 私たち仏教は、すべての動物は生老病死の苦の友という教えがあります。考えて見てください。他人を愛さない訳にはいきません。心も同じ、問題も同じ、同じ苦に耐えています。だから私たちは愛し合わなければなりません。仏教の菩薩の理想は、他人の安全のために甘んじて死ぬことができます。これは他人への愛を意味します。

 大乗では、最後の一人を待って、まだ苦のある人が一人でも残っていれば、涅槃に興味をもたないと、これほどです。

 「他人を愛せば道徳の問題はなくなる。他人を愛した途端に弥勒菩薩の宗教が生まれる」と、もっとたくさん熟慮します。弥勒菩薩。弥勒とは友情で繋がっているという意味で、友情や慈しみとは他人を愛すことです。弥勒とは他人への愛で繋がっている、弥勒菩薩は他人への愛でめいっぱい繋がっているという意味です。

 こういうのも真実です。世界の人が愛し合えば、殺し合いも盗みも、他人が愛している物を侵すことも、嘘を言って騙すこともないので、すぐに弥勒菩薩の宗教になり、百パーセント安全になり、社会の問題は消滅します。

 他人を愛す市場のおばさんは、警察がいつも追っ払わなければならない籠を、道端に広げて通行の邪魔をしません。他人を愛せば、商品を担いで行って歩道に広げ、歩行者の妨害をしません。

 これは本当には道徳の問題、宗教の問題です。しかし人々はすべて経済の問題と見て、道徳面の対策をせず、経済的な対策で歩行を妨害する人を無くそうとします。私は上手くいかないような気がします。道徳面を解決するのが先です。

 だから他人を愛すことで弥勒菩薩の宗教を作ることができれば、問題はありません。他人を愛せば、資本家は労働者を愛し、労働者は資本家を愛し、コミュニストも自然にいなくなります。これです。人々に他人への愛を生じさせることで、コミュニストを絶滅させます。

 世界は他人への愛が欠けています。だから人間が愛し合わない反作用で、世界にコミュニストが生まれます。人間が愛し合えば、コミュニストはこの世界に居場所がないので死滅します。これが最高の利益です。

 だからみんなで力を合わせて、この世界を人間の目標、すべての宗教の核心であるたった一語「他人を愛す」を世界の実践原則として、安楽に暮らすことに到らせます。それは、これらの悪を残らず排除することができます。

 昔の言葉で教育と言えば「戒育、心育、智育」を意味していたと主張させていただきます。つまり、体(行動)と言葉の正しさを生じさせることを戒育と言い、心の正しさを生じさせることを心育と言い、見解、あるいは知性の正しさを生じさせることを智育と言います。教育がこうなれば、世界には何も問題がありません。

 今私たちは技術だけ、勉強と職業しか教えません。それを彼らは技術と言います。昔は学習、あるいは勉強と言ったら戒・サマーディ・智慧であり、体と言葉と心と考えを正しくすることでした。だから昔の教育は現代の教育制度と違って、シッポのない犬の教育制度ではありません。

 今の子供たちはタンマの教育、仏教の薫陶を受けないので、罪を恐れることを知らず、徳を愛すことも知りません。彼らは何でも煩悩でするので、この世界は、今たくさん見られる、今まで見たこともない凶悪な犯罪と言われる、前代未聞の犯罪が溢れています。真っ昼間の大きな道路の路線バスの中で。真っ昼間に。こういうのはありませんでした。シッポを切られた犬の教育が、これらの望ましくない物を生みました。

 だから伏してお願いいたします。みなさんの全員が、これらの問題を道徳の問題と見てください。経済の問題でも、政治の問題でも、軍の問題でもありません。市場のおばさんが歩道に商品を並べないことも、世界の平和は道徳の問題を解決することに掛かっています。

 どうぞ力を合わせて教育制度にタンマを、仏教を取り入れるよう改善してください。そうすれタンマが世界に戻り、他人への愛が生じ、社会の問題は消滅します。個人の面でも素晴らしい結果があります。他人を愛せば利己的でなくなり、本当に利己的でなくなれば、人は阿羅漢になります。

 だから「他人を愛す」を課題にすることで、阿羅漢になることもあり得ます。継続して他人を愛すことを課題にすれば、身勝手がどんどん減って行って、最後には消滅して、貪りや怒りや迷いは以後生じることができません。身勝手がないからです。

 これを、他人を愛すという一語で世界の問題はすべて解決できると言います。個人的には阿羅漢になり、社会的は平安になります。あるのは愛ばかりで、世界を混迷させている主義である復讐はありません。

 どうぞ人間と動物を区別させるタンマを見てください。タンマは穏やかに生活させます。教育がタンマを切り捨てれば、教育はシッポを切られた犬になります。

 どうぞみなさん、伏してお願い申し上げます。みんなで教育制度をタンマ、あるいは仏教がある物に戻して、シッポを切られた犬でなくしてください。

 これが「教育制度から消えたタンマ」です。だから世界の教育が本来の意味になるよう、つまりタンマと仏教の目的に従って、全部揃えてください。

 時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。




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