教育から消えたタンマ

 

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 タンマにご関心がある善男善女のみなさん。今日の法話は、「教育制度から消えたタンマ」と題してお話します。毎回、いろんな観点のタンマを、お話してきて、今日はある観点のタンマ、つまり世界の教育制度から消えたタンマです。率直に言って現代の世界の教育は、タンマを取り入れていません。何か問題が起こるのは、そのせいです。これから見ていきます。

 初めに、タンマとは簡単に言ったら何でしょうか。昔から、昔の人は、「食べることと寝ること、危険を避けること、愛欲の営みをすることは、人間も動物も同じ。タンマだけが人間と動物を区別させる。タンマがなければ、人間と動物は同じ」と捉えて、タンマは人間と動物を区別するものでした。

これが、「タンマは人間と動物を区別させるもの」と見なければならない初めの項目です。人間にはタンマがなければなりません。そうすれば人間は動物と違います。

 タンマがある、タンマがあると言うのは、どうすればそうなるのでしょうか。タンマを知り、タンマを実践し、タンマの実践の結果を受け取ることでそうなります。タンマという言葉の四つの意味を、私はしょっちゅう繰り返しています。タンマとは自然、タンマとは自然の法則、タンマは自然の法則で正しい行動、タンマとはその義務の実践から結果を受け取ること、全部で四つの意味があります。

私たちはこれらのタンマを知り、これらのタンマの規則で実践し、そして実践した結果を受け取らなければなりません。そうすればタンマがあると言えます。タンマがあると言うには、実践しなければなりません。それが重要で、知識だけあれば十分ではありません。

 タンマの体系が、この世界のそれぞれの宗教を成立させています。要するに人間の発達の、どの段階にもふさわしいタンマの正しい実践です。幼少時、少年時代、青年期、老年期も、自分の発達のレベルに合ったタンマの実践がなければなりません。

次に教育を見ると、現代の世界の教育は、タンマに欠けています。私は、今までの世界の教育制度には、タンマが含まれていたので、何も欠けずに揃っていたと主張します。私たちの教育には三つの系統、あるいは三つの部分があります。勉強を知り知恵をつけるための教育、これが一つで、職業に就くための教育、つまりいろんな技術、これが一つ。最後は、正しい人間になるためのタンマの教育で、これも一つ、三番目です。

まとめると、勉強をして、仕事を知って、そして正しい人間になるためにタンマを知れば、三つの系統すべて学べば、人間という意味を満たした人間になります。つまり害のない生き物で、害のない紳士、害のない聖人です。そうなるにはタンマがなければなりません。タンマの教育を受けなければなりません。

 勉強を教えるだけ、あるいは職業を教えるだけの教育では、この種の人間にすることはできません。紳士、あるいは善人、あるいは聖人になれません。勉強と職業を知っているだけなので、タンマの部分を知り、正しい人間性がなければなりません。

 次に少し観察して見ると、ずっと昔は、お坊さんたちが教育をしていたことが分かります。お坊さんによって教育が行われていたので、教育制度にタンマ、あるいは宗教がありました。どの宗教のお坊さんも教育を受け持っていたので、その国が信仰している宗教による、その宗教のタンマが、教育制度の中にありました。

 その後、在家が教育を奪ったので、お坊さんはする必要がなくなり、在家がするようになって時が経つと、それらの在家たちは、タンマあるいは宗教は、政治に必要ないと考えました。経済を重要視したからです。

 物質的に非常に発展した時代になると、人間の幸福を増大させ喜ばすために、人間は幸福と娯楽と、物質的な味の泥沼に落ちたので、心はどんどんタンマや宗教を嫌う方向に傾きました。そして少しずつタンマ、あるいは宗教の部分の教育を排除し、残ったのは勉強と、職業だけの教育になり、三つの部分の一つが、消滅してしまいました。

 三つ目の部分であるタンマに欠ける教育を、私は「シッポを切られた犬の教育」と命名させていただきます。正直言ってシッポを切られた犬の教育には、シッポがありません。犬のシッポを切って走らせて見ると、ヨロヨロ走って、正常ではありません。これは罪です。シッポがなければこうなります。

 次に世界の教育が、どうしてシッポを切られた犬の教育になるのでしょうか。それには、少し「シッポを切られた犬」の話をさせていただきます。五、六十代の年配の方は、昔の学校で勉強したことがあるので、イソップの「シッポを切られた犬(狐)」の話を読んだことがあると思います。

 聞いたことがない人のために、お話させていただかなければなりません。一匹の犬が罠にかかってシッポを切られてしまいました。そこで一計を立て、犬仲間に、シッポがない方が便利だと言い触らし、シッポを切り落とすよう勧めました。たくさんの犬が賛同してシッポを切り落とし、ある日一匹の犬が反論して、「騙している」と言うまで、シッポのない犬は増え続けました。これがシッポのない犬(狐)の話です。

今どうして、教育がシッポのない犬なのでしょうか。それは権力のある大きな国が教育をして、物質主義で発展した時代になると、物質主義が威力を持ちました。私は物質主義という言葉を使います。現代は、物質的な発展が人の心を惹きつけて、すっかり物質面に陶酔させたという意味です。

これは犬のシッポに噛みついて切り落としてしまう罠と同じです。教育を行っている国も物質の威力に負けて、タンマあるいは宗教を、教育制度から追い出してしまいました。これを「罠」と言います。つまり物質主義が犬のシッポを噛み切って、シッポのない犬にしました。

シッポのない犬の教育をしている国は、他の国も、シッポのない犬の教育に誘い、他の国もつられて物質の威力に陶酔し、教育制度からタンマ、あるいは宗教を追放し、どんどんシッポのない犬の教育になります。小さな国々は踏ん張りきれずにそれに従い、世界中すべての国が、シッポのない犬の教育制度と言うほどになりました。つまりその後二度と、タンマや宗教に教育を委ねません。

 教育にタンマ、あるいは宗教の系統がなければ、どうなるでしょうか。知っているのは賢くする知識だけ、そして新しいものを創れば創るほど儲けを生み出す、全力投球の職業だけなので、どんどん物質の味に溺れ、世界に危機が生じます。つまり卒業しても紳士になりません。教育を終わって、凧のシッポのように長い学位があっても、紳士ではありません。

信頼できる人、害のない人はいません。道徳がなく、道徳が衰退してしまい、道徳のない世界になりました。だから私たちは危機に遭遇し、至る所に犯罪が溢れています。国内にも犯罪があり、国際間でも犯罪、つまり戦争があり、そして戦争の副産物である害で、至る所に混乱が生じます。

 これが、シッポを切られた犬の教育制度、勉強と職業だけで、正しい人間にするタンマがない教育から生じる悪です。

 ここで今私たちには、みんなで犬のシッポを繋ぎ、教育にタンマや宗教があるようにする問題があります。犬のシッポを繋ぐと言ってもいいし、新たに育てると言ってもいいです。新たにシッポを育てると言った方が安全のようです。シッポを繋ぐと、もし猿のシッポを犬に付けたら、たぶんもっとひどいことになります。

 一生懸命犬のシッポを育てれば、少しずつシッポが伸びるように育てれば、シッポのある犬になります。つまり三つ目の教育、タンマと宗教がある教育になり、私たちには賢くする勉強の教育があり、あらゆる技術を学ぶ職業教育があり、そして正しい人間になるためのタンマ、あるいは宗教の教育があります。

 人間という言葉の意味と一致する「正しい人間性がある」という言葉を憶えてください。

 次に、正しく完璧な教育制度に取り入れるタンマ、あるいは宗教を見て行きます。どうぞ、すべての宗教の教えの核心は、「他人を愛す」という一語しかないという真実に出合うまで、詳しく観察して見てください。この一語が、宗教と呼ばわれるものの、あるいは宗教と呼ぶことができる宗教の教えの核心です。

なぜなら人間が愛し合わないこと、人間が殺し合うこと、人間が盗み合うこと、人間が他人が愛すものを侵すこと、人間が嘘を言って騙すこと、人間が酔うものを飲んで他人を煩わせ、迷惑を掛けることによって、人間社会に問題が生じるからです。これは他人を愛さないからです。だからタンマの教え、あるいは宗教の教えは、「他人を愛す」ことで解決します。

 見れば簡単に分かります。他人への愛があれば、どこで他人を殺せるでしょう。だから生き物による殺人や体への凶悪な事件はありません。他人を愛せば、盗み、誰かの財産に対しての悪はありません。他人を愛せば、他人が愛しているものに対する悪はありません。つまり不邪淫戒を犯しません。他人を愛せば、どこかの誰かに嘘をつけるでしょうか。嘘はつけません。愛し合えば注意深くなり、酔うものを飲んで常自覚を失い、他人に迷惑を掛けません。

 他人を愛すだけですべての問題を解決することができるので、どの宗教も、他人を愛すよう教えれば、人間の問題を解決できるとしています。

 特にキリスト教は、一番良く教えていると思います。他人を愛すことに関しては、すべての宗教の中でキリスト教が一番良く教えていると思います。「神様が私たちを愛してくれるので、私たちも神様を愛さなければならない。神様を愛したら、神様の命令に従わなければならない。神様は他人を愛すように教えているので、私たちは、神様が私たちを愛すように他人を愛さなければならない」と、幼い子供たちに教えます。これで、他人を愛すには完璧です。

 他人を愛せば殺すことはできません。盗みもできません。大切にしている物を犯すこともできません。嘘もつけません。間違って他人に迷惑をかける酔っ払いになることはできません。

 これが他人への愛です。つまりすべての宗教の核心です。人がよく「刀を持つ」と言うイスラム教でも、彼らは愛する人のために刀を持つと、私は見ます。それでどうでしょう。他人を愛せば、問題は消滅するので、刀を使う必要はありません。まだ非常に身勝手で、他人を思いやることを知らないうちは、当然刀を使わなければなりません。刀を持つというのが本当なら、こういう真実がなければなりません。

 私たち仏教は、あらゆる生き物は生老病死の苦の友という教えがあります。考えて見てください。他人を愛さない訳にはいきません。心も同じ、問題も同じ、同じ苦に耐えています。だから私たちは愛し合わなければなりません。仏教の菩薩の理想は、他人の安全のために甘んじて死ぬことができます。これはつまり、他人への愛を意味します。

 大乗では、最後の一人を待って、まだ苦のある人が一人でも残っていれば、涅槃に興味をもたないと、これほどです。

 「他人を愛せば、道徳の問題はなくなる。他人を愛せば、途端に弥勒菩薩の宗教が生まれる」と、もっとたくさん熟慮します。弥勒菩薩。弥勒とは友情で繋がっているという意味で、友情や慈しみとは、他人を愛すことです。弥勒とは他人への愛で繋がっている、弥勒菩薩とは、他人への愛で思い切り繋がっているという意味です。

こういうのも真実です。世界の人が愛し合えば、殺し合いも盗みも、他人の愛するものを侵すことも、嘘を言って騙すこともないので、すぐに弥勒菩薩の宗教になります。つまり百パーセント安全になり、社会の問題は消滅します。

 他人を愛す市場のおばさんは、警察がいつも追っ払わなければならない籠を、道端に広げて通行の邪魔をしません。他人を愛せば、商品を担いで行って歩道に広げ、歩行者の妨害をしません。これは本当には道徳の問題、宗教の問題です。しかし人々は、すべて経済の問題と見て、道徳面の対策をせず、経済的な対策で、歩行を妨害する人を無くそうとします。私は上手くいかないような気がします。道徳面を解決するのが先です。

 だから他人を愛すことで弥勒菩薩の宗教を作ることができれば、問題はありません。他人を愛せば、資本家は労働者を愛し、労働者は資本家を愛し、コミュニストも自然にいなくなります。これです。人々に他人への愛を生じさせることで、コミュニストを絶滅させます。

 世界は他人への愛が欠けています。だから人間が愛し合わない反作用で、世界にコミュニストが生まれます。人間が愛し合えば、この世界に居場所がないので、コミュニストは死滅します。これが最高の利益です。

だからみんなで力を合わせて、この世界を人間の目標、つまりすべての宗教の核心であるたった一語、「他人を愛す」を世界の実践原則として、安楽に暮らすこ途に到達させます。それは、これらの悪を残らず排除することができます。

 昔の言葉で教育と言えば、「戒育、心育、智育」を意味していたと主張させていただきます。つまり、行動と言葉の正しさを生じさせることを戒育と言い、心の正しさを生じさせることを心育と言い、見解、あるいは知性の正しさを生じさせることを智育と言います。教育がこうなれば、世界には何も問題がありません。

 今私たちは技術、つまり勉強と職業しか教えません。それを彼らは技術と言います。昔は学習、あるいは勉強と言ったら戒・サマーディ・智慧であり、体と言葉と心と考えを正しくすることでした。だから昔の教育は現代の教育制度と違って、シッポのない犬の教育制度ではありません。

 今の子供たちはタンマの教育、仏教の薫陶を受けないので、罪を恐れることを知らず、徳を愛すことも知りません。彼らは何でも煩悩でするので、この世界は、今たくさん見られる、今まで見たこともない凶悪な犯罪と言われる、前代未聞の犯罪で溢れています。真っ昼間の大きな道路の路線バスの中で。真っ昼間に。こういうのはありませんでした。シッポを切られた犬の教育が、これらの望ましくないものを生みました。

 だから伏してお願いいたします。みなさんの全員が、これらの問題を道徳の問題と見てください。経済の問題でも、政治の問題でも、軍の問題でもありません。市場のおばさんが歩道に商品を並べないことも、世界の平和は道徳の問題を解決することに掛かっています。

 どうぞ力を合わせて、教育にタンマを、仏教を取り入れるよう改善してください。そうすれタンマが世界に戻り、他人への愛が生じ、社会の問題は消滅します。個人の面でも素晴らしい結果があります。つまり他人を愛せば利己的でなくなり、本当に利己的でなくなれば、人は阿羅漢になります。

 だから、他人を愛すことを課題にすることで、阿羅漢になることもあり得ます。継続して他人を愛すことを課題にすれば、身勝手がどんどん減って行って、最後には消滅して、貪りや怒りや迷いは、以後生じることができません。身勝手がないからです。

 これを、他人を愛すという一語で、世界の問題をすべて解決できると言います。個人的には阿羅漢になり、社会的には平安になり、あるのは愛ばかりで、世界を混迷させている主義の復讐はありません。

 どうぞ、人間と動物を区別させるタンマを見てください。タンマは安楽に生活させます。教育がタンマを切り捨てれば、教育はシッポを切られた犬になります。

 どうぞみなさん、伏してお願い申し上げます。みんなで教育制度を、タンマ、あるいは仏教があるものに戻して、シッポを切られた犬でなくしてください。

 これが、「教育から消えたタンマ」です。だから世界の教育が本来の意味になるよう、つまりタンマと仏教の目的に従って、全部揃えてください。

 時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。


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