宗教の本物であるタンマ

 

                                    1979年4月22日

 タンマにご関のある善男善女のみなさん。今日の法話は、「宗教の本物であるタンマ」と題してお話します。多分の多くの方が、何が宗教の本物なのか、なぜ宗教に本物がなくてはならないのかと、怪訝に感じたことと思います。それが、十分に理解し合わなければならない、そして今日理解できる問題です。

 宗教の本物はどこにあるでしょうか。宗教の本物は、宗教的物質でも、宗教的儀式でも、宗教的人物でもなく、あるいは、よく学ばれている宗教の教えでもないと、正しく理解しなければなりません。それらは道具であり、所在であり、仕事を進める人であり、あるいは、宗教と呼ばれるものの本物が生じるまでしなければならない仕事などです。

 宗教的物質は、宗教の神聖なもの、仏教の象徴から宗教に関わる場所まで、これらはまだ宗教の本物ではありません。それは外部であり、宗教が宿っている場所にすぎません。首に掛けるお守りのような霊験のあるものも、宗教の本物ではありませんが、宗教の本物を理解する道具にすることはできるかもしれません。

 宗教的儀式、宗教の仕事は、これは儀式の話、宗教に関わる仕事の話で、宗教の本物はどこにあるのかは、引き続き見てみなければなりません。

 宗教的人物は、宗教に関係のある人で、実践する僧と、宗教に関連のある仕事をする職員がいて、お寺や集会堂を守る人もこの言葉の中に含まれます。宗教の本物ではありません。

 学問体系である宗教的タンマは実践している実践の様式であり、これは、学問の話、宗教の本物に到達するための実践の話です。

 次に宗教の本物はどこにあるのでしょうか。何を宗教の本物、あるいは核心、宗教と呼ぶものの中心にしたら良いのでしょうか。これは、宗教の本物、あるいは本質を理解するために、深く踏み込んで見る必要があります。

 仏教の振る舞いである生活の変化の、その発達のどの段階にもある「正しさ」の定義をお話して、多くの人の知るところとしたいと思います。私が、仏教の行動から生じる生活の変化に生じる正しさ、発達のどの段階でも関連している正しさについて明言していることを見てください。

 次に、何が正しさかという問題になります。ここで言う正しさとは、論評する論理に任せている哲学、あるいは論理学の正しさではなく、仏教の教えの、あるいは直接仏教の正しさとし、今は、仏教的な善い行動に明らかに現れる正しさにします。

 もう一度、タンマという言葉に関した理解を復習させていただかなければなりません。なぜなら正しさとは、四つの意味のタンマだからです。タンマは自然で、タンマは自然の法則で、タンマは自然の法則での義務で、タンマは自然の法則に従って正しく義務を行うことの結果です。

 今明らかなのは、自然の法則に従った義務を正しく実践すれば、四番目の意味のタンマが生じることです。つまり義務に従った行動の結果で、ここでは、義務を行なうことから生じる正しさを意味します。その正しさは、かつては愚かで悪で、いろんな悲嘆がある生活から、正しさがあるので正反対に変化した生活の、変化の中にあります。

 仏教の教えでの「正しさ」とは、自分と他人に問題を生じさせない状態を意味し、自分と他人に苦を生じさせない正しさです。このような利益が証明されれば、「仏教の教えの正しさ」は、どんな哲学も論理も使う必要はないと言います。その人に苦が生じなければ、そして関係ある人に苦を生じさせなければ、「正しさ」と呼びます。

 中道の教えの正しさは、仏教の重要な教えですが、多すぎず、過剰でなく、快楽の幸福に傾かず、苦行に傾かない、つまりびしょ濡れにならず、黒焦げにならないことです。これが中道の意味です。

 あるいは縁起の法則での正しさで、苦を生じさせる縁起の流れを防止できることを意味します。だからその人に苦が生じることはあり得ず、他人に苦を生じさせる原因もありません。私はこれを「正しさ」と呼びます。

この種の正しさは、智慧のある人、あるいは分別のある人、つまり本当の知識のある人が認めるものです。ロクでもない人は、彼らの正しさがあるので除いて、ここで言う正しさは、識者の、分別のある人の、智慧のある人の正しさです。これが仏教の教えである正しさの定義です。

 凡人、知らない人から、聖人、知る素晴らしい人に変わる実践者の生き方に正しさがあります。その変化には、必ず正しさがあり、正しさがなければ、まだ間違いから変化していません。あるいは、何も利益のない方向の変化です。その変化に、必ず正しさがなければなりません。そうすればその変化には利益があります。

率直に言えば、その人が変化し、その心が変化する変化には、自然の法則に従った正しい義務の遂行の結果であるタンマの正しさがあります。正しさを求めるなら、正しく変化した心に求めなければなりません。

 この正しさは、発達のどの段階にもあります。生まれたばかりの子どもから、少年、若者、そして主婦や家長、老人、最後に棺に入って腐るまで、という意味で、どの部分にも正しさがあります。生き物の発達のどの段階も正しいと言います。どうぞ関心をもって、今述べたように知ってください。そうすれば仏教と言われるものの本物が見つかります。

 仏教の本物は、人間の外部にはありません。ブッダは、「世界も、世界を生じさせる原因も、世界の消滅も、世界を消滅させる道も、背丈二メートルばかりの生きている人間の中にある、と私は規定した」と言っています。生きている生き物でなければなりません。変化できるのはタンマの実践をするからで、その変化の中に、必ず正しさがあります。

 正しさを発見すれば、宗教的物質でない、宗教的儀式でない、宗教的人物でない、そして学問、あるいは今実践している実践規範にすぎない宗教のタンマでもない、仏教の本物を発見します。実践がまだ実践の結果が出なければ、教祖が言っているように、宗教の本物、あるいは神髄を意味する核心に到達していません。これからそれを見て行きます。

 次に、いつ私たちは仏教の本物を持てるか、あるいは、どのように結果を予測できるかを観察する方法があるか、観察項目を立ててください。心の問題は、物質のように測るのではなく、違う方法で結果を測定します。

内面の感覚で測定するので、本人が推測するなら、推測する方法はあります。結果を推測するのは、仏教の本物を手にした時に観察するためです。関心があって勉強したい人のために、ごく短く、簡単に定義したいと思います。

 初めの方法は、心が自由であることです。最初の観察結果は自由である心で、その次は他人への愛が生じることです。

 自由な心とは、ここでは煩悩に支配されない自由で、煩悩は何もできないので、苦はありません。煩悩から生じる苦はなく、普通にある苦も、自然に生じる苦も、この心を苦しめることはできず、日常生活にも、心を妨害する蓋はありません。これを自由と言います。

心が穏やかさや幸福を妨害するものに支配されない自由で、心がどんな縁、どんな物質の奴隷にもならないので、何物にも溺れません。特に過剰、今人間が奴隷になっている過剰な話、食べすぎ、おしゃれのしすぎ、過剰な装い、何でもすべて過剰ですが、ここでは、「過剰」と言われるものからの独立です。

 もう一つ、「他人への愛」というものについて、「他人を愛すのは、どうしてこれほど大変なのだ。だからこそ宗教の核心にし、心が自由になった後にあるとしなければならない」と、怪訝に思われる方がいるかもしれません。

 他人への愛は難しいか、あるいはどれくらい簡単か、みなさん全員に熟慮していただきたいと思います。私は、「他人への愛」は、今世界からどんどん見られなくなっていると言いたいです。ここで言う他人を愛すとは、赤の他人を愛すことで、共通の利益と愛着のある、子や妻や、夫や友達を愛すことではありません。こういうのは他人ではなく、自分の一部ですから、他人と言わないでください。

 他人を愛すと言ったら、赤の他人を愛すという意味です。子でも夫でもなく、食べ歩き飲み歩く友人でもなく、掻き集める友人でもなく、利益を求める仲間として付き合っている友人ではなく、赤の他人である近所の人を愛すことを意味します。今述べた人たちは、自分自身に含まれ、自分に利益をもたらす自分の一部分なので、他人を愛すとは、赤の他人という意味でなければなりません。今他人を愛している人がいるか、よく考えてみてください。

 それには自由な心が必要で、身勝手を越えた人だけが他人を愛すことができます。でなければ、他人を愛すことは困難です。この世界の他人への愛は、今は目薬にすることもできません。目の保養、あるいは観賞する話はおろか、目薬にもできません。

 みなさん、まだ他人を愛せない自分の気持ちについて考えてみてください。他人が自分より美しくなるのを恐れて、その人を愛せません。他人が自分より綺麗な服を着るのを恐れて、他人を愛せません。他人が自分と同じくらい宝石を持てば、その人を愛せません。

自分より綺麗な、高級な車や家を持てば、その人を愛せません。他人は仕事の、日常生活の、生活レベルのライバルであり、奪い合いの相手であり、嫉妬の対象です。これは子供でも理解できる、簡単で卑近な例です。そして大人も十分感じることができます。なぜなら子供だったことがあるからです。

 他人を愛したければ、自分の心を開いて他人への愛を探します。子供や妻や夫への愛は除外します。これは他人ではありません。赤の他人なら、他人への愛になります。煩悩が消滅した阿羅漢と、阿羅漢の統領、つまりサンマーサンブッダだけが本当に他人を愛すことができます。まだ身勝手の根源である煩悩があれば、煩悩がその人の心を支配するので、抜け出して他人を愛すことはさせません。身勝手を絶滅させることしか、他人を愛せる道はありません。

まだ「アハンカーラ(我慢)、ママンカーラ(我所有)、マーナヌサヤ(傲慢)」があれば、他人を愛すことはできないという、仏教の教えで良く観察して見てください。それは「自分、自分の物」と解釈する癖です。凡人は誰でも、俺、俺の物という解釈が癖になり、習性になっているので、これが他人を愛せないようにしています。

アハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤを絶滅させれば、他人を愛すことができます。だから、自然の法則で最高に正しくタンマを実践する人の、生き方の変化の中に正しさがあると述べた、仏教の本物を理解した後の自由な心のある人以外は、阿羅漢だけ、つまり自由な心です。自由な心なら他人を愛すことができます。

 すべての宗教は他人への愛を教えています。他人への愛を教えない宗教は、宗教ではありません。分かっている限りでは、キリスト教が一番重視しているように見えます。仏教は菩薩の理想で強調しています。あるいは「生きとし生きるものは生老病死の苦の友」という教えを捉えさせます。これは他人を愛さなければなりません。

他人を愛さないで、口だけで「生きとし生きるものは生老病死の苦の友」と言うのは、口では「生きとし生きる物は生老病死の苦の友」と言って他人を愛さない、嘘つきな仏教教団員です。

他人を愛すことは、すべての宗教の核心であることを、どうか特別な関心を持って見てください。

他人への愛があれば、殺せません。他人への愛があれば、他人の物を盗めません。他人を愛せば、他人が愛し大切にしている物を侵せません。他人を愛せば、嘘を言って騙せません。他人を愛せば、他人に迷惑をかける酔っぱらいになれません。

他人を愛せば食べ過ぎることはなく、残った分は他人を支援するために使い、この世界を安楽に暮らせるようにします。これが他人を愛すことの利益です。「他人を愛す」という一つの戒を持つだけで、すべての戒が完璧になります。どの宗教も他人を愛すよう強調しているので、「他人を愛す」という戒があれば、すべての宗教の戒があり、仏教、キリスト教、イスラム教、一度にすべての宗教を信奉し、すべての宗教の善い信徒です。

心が自由になって他人を愛すのは、仏教の本物があることの結果です。自分には宗教の本物であるタンマがあるかどうか、つまり、宗教の実践をしている時の心の変化に、仏教の教えでの正しさがあるかどうか、見えるまで見てください。

他を見ても駄目です。タンマを正しく実践している時の心の中を探さなければなりません。そうすれは変化の中に、愚かでロクでもない凡人から、善人になり、聖人になり、仏教の最高のレベル、つまり阿羅漢になるまでの変化の中に、正しさがあります。

宗教的物質、宗教的儀式、宗教的人物の話は、宗教の本物ではありません。木材の重要部分は心材ですが、それらは神髄ではなく、容れ物です。ブッダは、「仏教の神髄は解脱であり、その他は、皮の乾燥したデコボコ、あるいは一番外側の皮、それから内皮、そして辺材、それから木の心髄に達す周辺のものにすぎない」と言っています。

宗教的物質、宗教的儀式、宗教的人物、何であろうと、それは乾燥した外皮のデコボコであり、外皮であり、内皮でしかありません。それから辺材になり、心髄、つまり解脱に達します。つまり、「他人を愛せる人」という形で現れた、自由な心の正しさで、心髄(神髄)は解脱です。これは、パーリ経典のブッダバーシタ(ブッダが言われたという意味)で述べています。

心が「俺、俺のもの」があることから解脱し、自由になった時、その時が仏教の神髄であり、仏教の本物であり、人間の変化の流れの中にある正しさを強固にする、仏教の本物であるタンマです。正しく実践する人は生き方が変わり、そして発達の段階に応じて変化します。そうすれば長い話になり、究極まで変化しますが、その変化には、結果が出るまでの実践の正しさがなければなりません。

どうぞ仏教の本物があり、一人一人の心の中に、仏教の心髄、核心が現れますよう。そうすれば人間に生まれて仏教に出合ったことが無駄になりません。

時間になりましたので、今日のお話はこれで終わらせていただきます。 


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