空であること、空の心

 

 

 タンマに関心のある信仰深いみなさん、本日の講義は、ここで二回お話ししたことがある内容と関連があります。前にお聞きになったことがある方のために、もう一度ここで復習させていただきます。前回の講義も、同じタンマの考えをお話しました。

 第1項 仕事はタンマの実践

 第2項 空っぽの心で働く

 第3項 空の心で働く時に用いるべきタンマ集

 しかし結局、一回目の講義は、最初のテーマしかお話できませんでした。つまり「仕事はタンマの実践」です。二回目の講義で、残っている二つについて終わらせてしまおうと思いましたが、終わりませんでした。二回目の講義でお話できたのは、「空っぽの心で働く」だけでした。

 しかし「仏教をどう捉えるか」というテーマの中の、空っぽの心で働く、あるいは暮らすという話の内容は、仏教を近回りして捉え、存分に役立てる方法です。3項目はまだ残っています。つまり「空の心で働く時用いるべきタンマ集」です。ですから記憶と理解をもう一度おさらいしてみます。

 「仕事はタンマの実践」というのは、もっとも重要な原則です。任務を正しく遂行することはタンマの実践と捉えてください。そして、タンマの実践のための仕事、仕事のための仕事です。自分のためでも自分のもののためでもありません。

 このように理解できれば、仕事は、仕事によって利益が得られると同時に、働くこと自体がタンマの実践になります。職業上で、あるいは生活、生活全体が向上すると同時に、タンマの面でも発展します。これが初回の講義の要旨です。

 二回目の「空っぽの心で働く」というのは、タンマは、仕事で苦労することなく、十分成功させるためにある、という意味です。ですから仕事を苦しまずにする実践規則があります。混乱した心で働くので、世間一般の人は、通常仕事は苦であり楽しいとは感じません。心が混乱しているので、仕事で十分良い結果が出ません。

 だからコツと呼ぶ、あるいは何と呼んでもいいのですが、仕事で苦しまないで十分な結果を得られる方便があります。そしてそれがタンマ、あるいは仏法、あるいはブッダの御心と呼ばれるものの目的です。

 ブッダがこの世で大悟したのは、この世の生き物を救うためです。どこを救うのかと言えば、苦がないように、最小限の苦になるように、そしてまったく苦が無くなるように救うことです。ですから仏教教団員は、仏教教団員でない人と違って、当然ですが学習と実践があります。仕事でさえ、タンマの訓練をうけたことがない普通の人の心とは違う、特別の心で働きます。これを「空っぽの心で働く」という題にしました。

 空っぽの心に関した問題はたくさんあります。話が詳細でなく分かり難いのかもしれませんし、聞く人の側が理解できないのかもしれません。お互いにいろいろ理解し合えないので、見解が一致しません。ですから今回の講義で、「空っぽの心」という言葉の意味について良く考えなければなりません。でなければ三番目の話ができません。ですから初めに「空っぽの心」という言葉の理解について復習させていただきたいと思います。

 初めに、「空っぽ」または「空っぽの心」という言葉は、知性のある人の話だと思ってください。ブッダはこの話を自分で悟って教えました。すべてを悟って、それなりに資質のある生き物、つまり何とか理解できる人に教えました。ですから私たちは次のように考えることができます。

 

 宗教と呼ばれるもの、世界の宗教には、少なくとも二つのタイプ、つまり正反対の二種類があります。宗教の一つの種類は信仰に依存するもので、つまり信じること、他人から聞いて、他人に従って信じ、そして他人を拠り所とします。こういう宗教は世界にたくさんあります。もう一つのタイプの宗教は、智慧に依存するもので、自分を信じ、自分自身で見て、自分を拠り所とします。仏教は後者の部類です。ですから仏教の空の話は、信じる話ではなく、智慧の話です。

 宗教の二つのタイプについて語るとき、つまり信仰による宗教と智慧による宗教についてですが、空について良く理解するために、この機会に、自分を信じ、自分の考えを信じ、自分のものにして自分に頼ることについてお話したいと思います。そして前回二度の法話でククリット先生と理解が一致しない項目に関連します。つまりククリット先生が、仏教にもドグマを作るべきだという項目です。

 ドグマの問題は、私はククリット先生とすべて正反対の見解をもっています。ですから言及しませんでした。公的に考えを表明しませんでした。正反対に誤解していると思うからです。他の問題は理解が一致することもあり、多少違うこともありますが、それとは違います。

 ドグマの問題は、智慧による宗教である仏教には、ドグマと呼ばれるもの、あるいはドグマティック システムはあってはならないということを、みなさんに理解していただきたいのです。

 この言葉に関しては、次の例をお話すれば分かり易いと思います。二十年以上前、タイへ来て仏教に改宗した西洋人にインタビューした記事を本で読んだことがあります。その西洋人に、どうして元の宗教から仏教に改宗したのかという質問に対して、その西洋人は、ドグマに飽き飽きしたので元の宗教を捨てて仏教にしたと答えています。

 ドグマと言われるものは、宗教の権力を維持する本部が、批判を許さず信じさせるため、宗教の権力、あるいは決定権によって信じさせ、容認させるために規定した考えです。settle opinion と言って、固定した結論という意味で、独占的に設定されます。タンマに関した言葉であるドグマ、あるいはドグマティックという言葉を思い浮かべてください。

 横暴で他人の口を塞ぐ口調、つまり一方的に意見を言う権力はありますが、他の人が同じように発言することはできません。それがドグマです。宗教的なドグマで言えば、教会の権力で一方的に規定し、批判を許しません。だからドグマのある教義は、神でも何でも他人を信じて、他人に依存し、自分の考えがなく、信じる原則として用意され教えられたように考える、信仰を根幹とする宗教にしかありません。

 仏教は智慧による宗教、自分自身の知性による宗教なので、カーラーマ経などの教えは、智慧の宗教としてドグマを禁止するものです。ブッダでさえ私を信じてはいけない、と言っています。何と言っているか、どんな理由があるかを理解して、真実が見えてから信じれば、それがその人を信じることにもなると。

 たとえばさーリープッタのような弟子も、ブッダの面前でそのように言っています。ブッダ自身も正しい行動であると非常に喜んでいます。信仰による宗教と智慧による宗教はこのように違います。ですから空の心の話は、真実仏教の要旨です。ドグマの形にすることはできません。みなさん、それが見え、理解でき、自分自身に応用できるまで考えなければなりません。

 私たちは、信仰ではなく、智慧を使うことで仏教教団員になる心構えがなければなりません。仏教にもサッター(信仰)という言葉はありますが、信じることとは違います。意味が違います。一つの意味の信じることとは、ドグマのある宗教で他人が規定し言い伝えてきたことを信じることです。

 仏教では智慧の後で信じなければなりません。自分の智慧で周到に熟慮し、理解してから信じます。まだ理解できないうちは信じる必要はありません。とりあえず払っておきます。少しずつ理解が進み、理解したと言えるようになった時信じます。だからサッターという言葉は、すぐに信じること、あるいは他人を信じることと違います。

 ある仏教教団員、清信士、清信女たちのグループは、ブッダを信じ、教えを信じ、僧を信じ、カルマを信じ、何でも智慧なしにとりあえず信じますが、そういう項目は決して仏教の教えではありません。

その人たちは分かっていないのです。でも信じることが好きで、関わることが好きだから信じます。しかしそのように信じることには、何の利益もありません。その種の人々の精神を閉じ込める籠になってしまい、麻痺させてしまうだけかもしれません。智慧で対処することができないからです。ですから仏教の信じることは、信仰による宗教の教義を信じることとは違うのです。

 原則的に智慧に頼る宗教である仏教教団員の信仰には、智慧を使わなければなりません。私も、誰も信じないでください。ブッダでさえ信じないでください。私はあえてこう言います。というのも、ブッダ自身が、「あなたはいつでも実践項目について、そして自分を頼る原則について考えること、思うこと、熟慮すること、理解することに関して自由でいなさい」と言っているからです。

 「自分を頼る」という言葉も同じです。まだ非常に誤解されています。ほとんどの人が「自分は自分自身の拠り所」という言葉を聞き慣れていることと思います。それはブッダの言葉です。しかし人々はまだ理解していないので、「ブッダに頼り、タンマに頼り、僧に頼る」と唱えています。

 というのは、まだ本当にブッダ、タンマ、僧に到達していないからです。「仏法僧に到達する」とは、自分自身がブッダとタンマと僧と同じ心を持てるようになる、という意味です。ブッダ、タンマ、僧である心があれば、その心は自分自身の拠り所です。これを「自分を頼る」と言います。

 ブッダは私たちに自分自身を頼る道を示しました。ブッダが示した道は、他の人とは比較にならないほど素晴らしい道です。そしてブッダは、自分自身に頼ると言って、ブッダに頼ることを否定しています。これでブッダの最高の素晴らしさが分かります。

 ブッダは私たちに恩義など何も求めず、ブッダ自身についても熟検討する自由を認めています。そして真実が見えた分だけ自分を信じ、自分で実践した分だけ結果を得、そして自分自身の拠り所になります。

 

 空っぽの心は信じる必要がないので、信仰を捨ててしまって良いということです。みなさん、決して信じ込まないでください。自由でいてください。しかし知性で、あなたにできる限りの善い判断をするよう、お願いします。空っぽの心で働くこと、空の心について良く知っていれば、空の心で働くことが出来る、というタンマについてお話しする前に、この言葉についての理解のおさらいをします。

 空の心についての誤解、あるいはこの言葉についての誤解は、様々な面や角度があるので、必用と思うだけ集めてみます。

 初めに「空の心」「空っぽの心」という言葉の意味です。ここでいうカラとは、煩悩がないこと、自分、あるいは俺という感覚がないという意味です。もし激怒すれば俺です。だらだらしていれば私です。「空」というのは、心がないという意味ではありません。心が何も感じないという意味でもありません。心ですから必ず知覚や感覚はあります。心の自然がそうだからです。

 そこで心が空っぽと感じているか、何やらいろんな物がぎっしり詰まって、てんてこ舞いを感じているか、という問題があります。もし心が空と感じていれば、心がカラだと感じていれば、空の心、空っぽの心と呼びます。

 心がギュウギュウ詰めだったら、混乱の心と呼びます。空っぽとは、煩悩がないから空っぽ、私、私のという執着がないから空っぽという意味です。考えて見てください。心に私という感覚がない時は、私はありません。あるのは心だけです。本当かどうか、自身で考えて見てください。

 心に「自分」という Concept である感覚がない時は、マヤカシである「自分」というものがないので、残っている心を、空っぽの心と呼びます。つまり自分がない心です。自分がある時は、自分という感覚が加わった心と呼びます。つまり自分があります。ですから心はカラではなく、混乱です。この項目は、「カラというのは、マヤカシでしかない「自分、自分の」という感覚を生む原因である煩悩がないこと」と、とりあえず簡単に憶えてください。

 「自分、自分の」という感覚がない時、たとえばみなさんがここに座って、どんな方面のことを考えても、どのような智慧が生じでも、自分という感覚が生じなければ、みなさんの心には今自分がない、空っぽの心、と言います。何か刺激するものがあって、自分、自分の、得、損、愛や怒りや嫌悪、恐れ、そういうようなものである煩悩、欲望、取の方向の感覚が生じれば、その時心は自分という取があると言います。こういうのを自分があるので、空でない心と言います。

 心がカラならば、自然に自分という感覚がない空の状態でも、私は「空の心」と呼びます。心に自分という感覚がなければ、「自分」と呼ぶものはありません。あるのは心だけです。その時心が何を感じていても構いません。自分を無くしてください、とお願いするだけです。

 

 つぎの問題は、なぜ「空っぽの心」「空の心」という言葉を使うかです。聞いて奇異な感じがします。しかし本当には奇異ではありません。経典の中、あるいはブッダの教えの中に原則、根拠があります。ブッダは三蔵で、空に関して非常にたくさん教えを説いています。自分で調べて見てください。

 心が空を感じている時、あるいは心を縛っていない、「自分、自分の」と強く捉えない何かが心にあるとき、その時、心は自分を捉えていないと言います。そのような心を呼ぶのに、空っぽ、あるいは空の心と呼ぶ以上に便利な言葉はありません。簡単に空の心と呼ぶ以上に、聞いて便利な良い言葉はありません。他の言葉を使う良い理由がありません。

 「自分」がない、「自分のもの」がない時の心を呼ぶのに、どの言葉がふさわしいか、みなさん考えてみてください。自分という感覚がない心、自分のという感覚がない心。この種の心を呼ぶのに、空の心という言葉より良い言葉は何でしょう。みなさん自身で考える自由とテーマを差し上げます。自分、自分のという感覚がない時の心を呼ぶのに、空の心という言葉以上にふさわしい言葉があるでしょうか。

 だから私は、みなさんが理解する時、簡単に早く理解するために、時間を節約するために、この言葉を使います。しかし新しい言葉なので、みなさんがびっくりし過ぎて、それでまだ理解できないのかもしれません。これはまた別の話です。しかし私が一所懸命熟慮した限りでは、こう呼ぶことは、言葉としても意味としても正しく、文字としても意味としても合っていると思います。ですから「空の心」と呼びます。

 次は、空あるいは空の心出典についてです。これはほとんど問題ありません。私は何度も何度もお話してきました。しかし興味がない人もいるので、もう一度お話しなければなりません。

 ある在家の弟子たちがブッダに拝謁し、「私たちにとって恒久的に役に立つお話を聞かせてください。私たち在家は所帯を構え、妻子に囲まれ、香水香粉を塗りたくっています。いつまでも私たちのためになる役立つ話を聞かせてください」とお願いしました。

 ブッダは究極のテーマ、「空(スンニャター)」の話をしました。

『私が話した言葉であるすべての経は、どれも深遠で味わい深い意味があり、ローグッタラであり空である。』

 これがパーリのままです。

 それらの在家の人たちに「世俗を超えた話、あるいは世俗より上の話であるブッダが規定した言葉に興味を持ちなさい。それは深遠な話で、内容があり深い味わいがあり、空の話だけである」という意味のことを言いました。

 更に、「今後、後の機会に語られる言葉は、非常に響きの美しい言葉で耳に心地良いが、それらは空の話ではない。しかし人々はどんどんその種の言葉を好むようになる。そしてそれらの話は、私が言った言葉ではない」と説明しています。

 ブッダは、「もしブッダの言葉なら必ず空について述べている」と言っています。他の人が言った言葉は、その人の好みに応じて、美しい、楽しい、あるいは哲学として考える趣きがあるように語り、空について語りません。

 これがいつまでもみんなの役に立つものです。つまり空の話は、恒久的に在家の人のためなり役に立つ話です。これについては今後問題にするべきではありません。質問も直接在家のものであり、ブッダの答えも直接在家に答えたものだからです。だから空の話は在家の問題ではなく、高度な修行者の問題と理解するべきではありません。それは誤解です。

 空の話は内容、要旨、意味が広いので、あらゆる段階の人、あらゆる種類の人、在家の人でも使うことができます。なぜでしょうか。答えは簡単です。他の話では苦を絶滅できないからです。空の話以外は滅苦の話ではなく、そしてブッダが言った話でもありません。

 俗世から出させる話ではなく、俗世に溺れさせる話です。在家は十分俗世に溺れているので、在家が何か良いものを求める時は、自分を俗世から引き抜くものでなければならないからです。

 だからブッダは、在家の人にも空の話をしました。所帯をもち、妻子に囲まれ、香紛を撫でまわしている在家に語るにふさわしいからです。これを、直接の空の話があると言います。

 

 つぎは一般の原則、どの項目でも良いのですが、すべてのものは実体が無い、自分の、あるいは誰かというものがないということを述べたもの、例えばすべてのタンマは無我である、という文章、あるいはすべてのタンマは、自分、自分の、と捉えるべきではないという文章も、何であれすべてのものは、自分、自分のものと捉えるべきではない、ということを表しています。

なぜならそれらは空だからです。空も、実体がある、誰かのものだ、あるいは空のものだと捉えるべきではありません。つまり空と呼ぶものは、本当の自然、あるいはすべてのものの真実のありようということです。

すべてのものを真実のままに正しく知ることができるまで、関心を持ち続けなければなりません。そうすればすべてのものに対して正しく振舞うことができます。もしすべてのものへの理解が間違っていれば、すべてのものに正しい対処ができません。これが人間に関わる、人間の幸不幸に関わるすべてのものの要旨です。

 つまり、すべてのものは実体が無い、空であるという状態です。執着するべきもの、あるいは自分、あるいは自分の、と確信しているものすべてには、自分、あるいは自分のという意味がありません。

 いま一般の人は、いつでも何かを、あるいは何かの一部分を自分にし、自分のものにしようと虎視眈々と狙っています。だからすべてのものを、ありのままに理解できないので、しょっちゅう苦があります。すべてのものを理解するには、先ずここのところを勉強しなければなりません。

 つまりすべてのものは自分ではなく、自分のものでもないので、何かを自分、自分のと理解してはいけない、という点です。しかし、それらの関わりのないものに適切に関わり、行動し、対処すれば勝つことができます。勝つというのは、それらと関わることによる苦がないという意味です。

 これを、空に関する知識、あるいは智慧によってすべてのものに勝つと言います。これが空の話です。これが引用する根拠となるものです。直接ブッダの言葉です。在家にふさわしいと言っています。自分でこれを知りたい方は、増支部、つまり三蔵の経蔵、増支部、マハーワーラワックという部分で見ることができます。

 

 みなさんが誤解していて理解できない問題のつぎの項目は、私たちの国タイは、仏教が盛んだと言われていますが、タイ仏教教団員の多くが、ブッダの言葉、あるいは仏法の真実と違うものを理解をしていることがあるということです。

 例えば心は基本的に煩悩がある、と理解していることです。心は基本的に煩悩、自分、自分の、という感覚が、常に、一呼吸ごとにあると理解しています。基本的に煩悩があると言います。それを少しずつ削って、引っ掻いて、突っ突いて、剥がして、それで時々ちょっとだけ煩悩がなくなる。こうした理解は正しいでしょうか、間違っているでしょうか。みなさん考えてみてください。

 私は、心は基本的に空っぽで煩悩がないと言います。煩悩は時々、そして今生じたばかりです。時々ある小さな問題です。

 人間の心は基本的に空っぽか、それとも煩悩がぎっしり詰まっているか、自分の心を観察して熟慮してみてください。ブッダの言葉を基準にすれば簡単です。しかしすぐ信じさせる教えだ、無理に信じさせると非難されます。あるいはそういったドグマにする必要はありません。しかしブッダの言葉には、「比丘たちよ。心は輝いている。心が憂鬱になるのは、煩悩が訪問客として来るからである」とあります。

 心の自然の状態は輝いているという「輝き」の意味は、明るく澄んでいて、周りに後光が射していて、煩悩も憂鬱もないことです。しかし煩悩が客として訪れて来るとき、訪問者としてくる時、そのときだけ憂鬱になります。これは真実でしょうか。ブッダの言った通りでしょうか。みなさん自分自身の心を観察してみて、そして自分で判断してください。

 これはいろんな問題を理解できるかできないかという、基本的な問題だと思います。なぜなら、心は基本的に煩悩があり混乱しているとするなら、心は基本的にカラであると捉えることと、話が違ってくるからです。心が基本的に空なら、それほどすることはありません。客を家に上げないようにするか、あるいは客が来ても心を曇らせられないように迎えるよう、注意深くするだけです。

 しかし基本的に心に煩悩があると捉えるなら、あるいは心は基本的に煩悩だとするなら、削ったり、抑えたり、掃いたり、洗ったり、大騒ぎをしなければならず、それで多少綺麗になります。ある日、このような苦労をして綺麗にすれば、大変な負担だ、大変な仕事だと非常に苦情がでます。どこでも挫けてしまっているように、非常に大変です。

 ただ教えが違うだけです。教えはこのように重要です。ですからこのように教えを理解して、すっかりこの問題を片付けてしまいましょう。

 考えてみてください。もし心が混乱、つまり愛や怒りや嫌悪、恐れなど、いろんな煩悩でいつも憂鬱だったら、基本的に混乱していたら、私たちは今日まで生きて来られなかったでしょう。ここに来て座ることはなかったでしょう。きっと神経の病気になって、精神病になって死んでしまったに違いありません。

 ですから空に感謝しましょう。基本的にいつもあることに、非常に感謝しましょう。そして十分な時間存在させてください。それは休息であり、神経の病気にならないで、精神病になって死ないよう、心を維持することでもあります。だから私たちを危険から回避させてくれ、ここへ来て話を聞くことができるようにしてくれる空に感謝します。みなさん考えてみてください。

 

 次に知らなければならない基本的なことは、心の自然がこのように輝いているということはどういう意味かということです。輝きとは、明るく澄みきって体から光が射すことです。これは、まだ煩悩の訪問を受けず、煩悩に支配されていない心は輝いている、その心は、心、精神という意味で、一つの部分として完璧だという意味です。

 つまり知る、それ自体が知る、知ることができる性質があります。しかしそれの真の性質が失われた時は、知ることができません。たとえば無明に支配され煩悩に支配されれば、それは消えてしまい、性質は間違って知る、あるいは知らないことになります。

 もし心が自由で輝いていれば、知る部分があり、次第に進歩してすべてを知り尽くす段階まで発展します。だから他人の言うことを信じなくても、自分の心が空の時は、「明るく澄んで妨害する煩悩がない。それは完璧な常自覚のある心であり、智慧で満ちた完璧な心であり、心の正常な状態として完璧である」と、自分自身で見ることができます。

 心が、心の状態として正常なら、知性も完璧であり、常自覚も完璧です。心が空っぽですっきりしている時どんな智慧があるか、どんな常自覚があるか、心が混乱してくると、どう常自覚が失われ、どう智慧が失われるか比べて見てください。だから空の心と混乱している心は、同じにはなり得ません。いつでも正反対です。

 心という名にふさわしい本当の心は、空でなければなりません。つまり輝いている心です。しかし訪問客、つまり煩悩に支配されてしまうと、心の性質が失われてしまうので、心と呼ぶべきではありません。それはただイライラそわそわと変化させられたものでしかありません。

 心と呼ぶなら、混乱した心と呼ばなければなりません。元の状態と違い、風に波立てられた水のように波立っていて、静まった水ではありません。空の心は元々の正常な状態、つまり空で、静かで、苦がなく、十分なサティと智慧があります。このような教えをしっかり捉えている人たちは、簡単に、「心は空、空は心」と言います。

 空はブッダ、ブッダは空。これらは全部同じです。心が空を感じていれば、当然ブッダの特徴がある、つまりそこで何にでもなれる、という意味です。だから心が本物の時、つまり空の時は、空とブッダは同じです。だから空は心、心は空です。

 心が、心の自然である空の時、心には正しい意味のタンマがあります。だから、「空すなわちタンマ、タンマすなわち空」と言います。

 空は心、心は空。全部同じです。しかし私は、よく考えないで信じるよう、あるいはこれらの教えを信じるようにとは、お勧めはしません。それに大乗の、つまり大乗仏教の規定、あるいは原則でもあるからです。すぐにそれを受け入れる必要はありません。

 しかし人間とどう関係があるか、テーラワーダ仏教とどう関係があるかを考えてみてください。まとめれば三派になります。つまり私たちと、テーラワーダと、大乗仏教です。私たちはどんな原則を捉えれば、苦がない利益になるでしょうか。

 特にここでは、心が空の時は常自覚が完璧であり、智慧も完璧であり、そして心の正常な状態であり、反対に心が混乱している時は、常自覚がなくなり、智慧がなくなり、心の正常な状態ではない、という重要な要旨を熟慮していただきたいと思います。

  空の心とは煩悩に支配されていない心であり、本来の正常な状態、つまり知性です。 一方混乱している心は、煩悩に支配されている心であり、本来の正常な状態が失われて、まったく知性に欠け、常自覚がありません。

 みなさんが比較してみて、空の心がどのようかを今お話したような形で知れば、みなさんはきっと、空の心は恐くも愚かでもないと分かります。空の心を、幽霊や虎を怖がるように怖がる人もいます。彼らには理解できないので、恐ろしいものに見えます。彼らに自我があるので、あるいは非常に自我に偏った考えがあるので、空という言葉を聞くとビックリします。

 これは、「バラモンたちに、体を捨ててしまいなさいと言うと、死の時がきたように恐れる」とブッダが言っている、バラモンと同じです。バラモンたちは体を、つまり自我を強く持っているからです。自分は純潔で最高に幸福だと自惚れているので、体を捨ててしまいなさいと聞くと、殺されるように感じます。

 時には、空の心、あるいは空という言葉を聞くと、殺されるように感じる人もいます。自分や自分のものが何もないからです。しかし理解できて、空の心とはどういうことかが明らかに分かれば、その人は恐れなくなります。そして、空の心と呼ぶものは必用だ、いつでも空の状態を維持しなければならないと分かります。

 心を混乱させなければ、いろんなことをしても苦しまないでいられます。まったく苦しまずに生活することができます。そして、それから発展していく非常に強力な知性になります。だから空を怖がりません。そして空を嫌な話だと見ません。なぜなら空は最高の真実の話だからです。

 次に、人に(反論の載っている雑誌や新聞などを)見せてもらった、教えてもらった反論について考えてみましょう。例えば心が空っぽということはあり得ない、心はいつでも何らかの感情(心が捉えている物、意識しているものという意味)がなければならないので、感情がないということはあり得ないから、と言います。このような反論は、深遠なタンマを見すぎて目が霞んでしまった人の反論です。

 私は、空の心には何も感情(心が捉えているもの)がないとは言っていません。空の心にも感情はあります。少なくとも何もない状態が感情です。例えば阿羅漢も感情である空の状態があります。あるいは私たちは通常、いつでも感情があるとき、その感情を自分、あるいは自分のものと捉えていなければ、同様に感情である空がある、と言うことができます。しかしその感情を何らかの執着でもって自分、自分のものと捉えれば、混乱の類の感情があると言います。

 私たちは通常、何かの感情に執着しなければ、たとえその感情を意識していても、取がない感情と呼びます。その心にも自分のものはありません。心には感情として、取でないものがあるので、大丈夫です。形・声・香・味・触の何が感情でも、それを自分としなければ、取のないものが感情としてあると言います。

 略して、空が感情としてある、と言います。これはつまり、「空の心は感情(意識しているもの)がないとは言っていない。心が意識しているものが必用なのは当たり前だ。心が空なら、空があるか、あるいは取のない感情を意識している」と、新たに理解し直すということです。

 中には、「空の心、あるいは空の理論、あるいは空の心の実践は、一般庶民や商人が実践することではない」と反論する人がいます。こういう人には、空の心の理論あるいは実践は、一般庶民や商人にとっては、尚更必用だと言わせていただきます。なぜなら庶民や商人は苦しいんです。出家よりも苦しいんです。森や密林の中で暮らす人よりも苦が多いんです。非常に苦しい人が、早く苦をなくすものを手に入れるべきです。

 だからこそブッダは、拝謁した在家の人たちに、『いつまでもみんなの役に立つ実践項目として、空を使いなさい』と言って、空について話しました。庶民の苦が多ければ、ほとんどの労働者の苦が多ければ、彼らはその苦を取り除く方法を勉強しなければなりません。これが空っぽの心、空の心という言葉の本当の目標です。つまり、今現在苦しんでいる人の苦を取り除くために使うことを目的としています。

 

 次は、空あるいは空の心は阿羅漢の問題であり、煩悩のある俗人の問題とすることはできない、という反論です。阿羅漢は執着のない人だが、俗人には必ず取があるので空にはなれないと言います。これはいまお話したのと同じ誤解です。つまり、自分、自分のという考えや取と呼ぶものは、常時生じているものではないと、正しく理解し直さなければなりません。

 みなさん良く考えてみてください。俺、俺の、と理解すること、そういう感覚、つまり煩悩は、始終生じているものではありません。取でてんてこ舞いしている時間より、むしろ執着のない時間の方が長いのです。もし休みなく取で混乱していれば、神経の病気になったり精神病になったりして、死んでしまうだけです。

 取のない自然の空は、阿羅漢の空と同じではありません。阿羅漢の空は、完璧なサティがあるので永久に変わらない空です。本等の修行者なら、きっと、阿羅漢とは完璧なサティのある人以上ではないということを認めるかもしれません。

 これは三蔵にある原則です。完璧なサティとは途切れないサティのことです。途切れないとは、煩悩や苦が生じる機会がまったくないという意味です。そのように完璧なサティは完璧な空であり、互いに完璧に関連し合っています。

 俗人も基本的には空ですが、時々取が割り込んでくるので、つねに空になるように取を排除する義務があります。だから空の実践項目の教えがあります。空、あるいは空っぽの心という言葉は、タンマの他の項目、例えば忍耐、心を制止すること、あるいはそのようなことを指していません。文字通り、常自覚がある時の、煩悩、欲望、取がない空っぽの心という意味です。煩悩、欲望、取が生じるままにしておきません。これは直接理解しなければならないことです。

 空っぽの心で働く、あるいは空っぽの心で働いて何らかの利益を得るということについては、心が混乱していると何をするか、どのようかを考えてみなければなりません。心が空っぽの時は何をするか。どう違うか。混乱した心で話すときはどうなのか。

 混乱した心には「俺」があります。「俺の」があります。隠れていることもあり、表面に出ていることもありますが、だから人間ではない言葉を話します。空っぽの心には「俺、俺の」がないので、きれいな言葉を話します。人間の言葉です。これは私たちにとって必用不可欠です。話をする時には空っぽの心がなければなりません。

 

 次に、希望について語るとき、人は、人生は希望で生きていると考えています。そのとおりです。しかしその希望は、混乱した心の希望ではなく、空っぽの心の希望であるべきです。空っぽの心は、今まで長々とお話してきたように、知性と常自覚でできています。

 だから空っぽの心の希望は、知性の、知識の、智慧の希望です。空っぽの心は、知性で希望します。混乱した心は煩悩や欲望で希望します。ほとんどの人は煩悩や欲望の希望だけで、知性による希望を知りませんが、それもあるのです。

 だから無明(無知)で望むのではなく、明(知識)で望む、と新たに理解してしまいましょう。知識で望むことは、当然無知で望むこととは違います。知識と無知は、いつでも正反対です。望むなら知識で、智慧で、明で、知性で望んでください。

 これはほとんどタイ中と言って良いくらい蔓延している誤解です。つまり、期待、あるいは望みと言えばすべて欲望煩悩だと理解、あるいは捉えています。それで望みがあれば何でも、煩悩や欲望で貪欲だと言います。これは大きな間違いです。

 これには、知識で望んでいるか、無知で望んでいるかという事実があります。もし無知の力で望んでいるなら、その望みを欲望と呼びます。そしてそれは、欲望は苦の原因だとブッダが聖諦で言っているように、苦を生じさせる原因です。

 しかしそこで言う欲望、つまり望みは、無知、つまり無明に根差していることを忘れないでください。縁起を唱えてみてください。無明から始まって、行、識、名形(名色)、六処、触、受、欲、取、三界、生、苦。この欲望は無明が根源です。しかし無明を根源としないで智慧や明を根源とする希望、あるいは願い、煩悩、欲望、苦を滅亡させたい願い、望み、このような要望を欲望と呼ぶべきではありません。もし欲望と呼ぶ人があれば、世俗の言葉をまねてそう言うだけで、真実ではありません。

 欲望が明から生じることはなく、かならず無明から生じます。ですから貪り、あるいは期待、あるいはそれらのものを良く判断すれば、正しく理解できます。欲望や煩悩でないよう正しく望み、期待します。空の心の望み、空の心の期待、空の心の願いです。

 仕事をすること、食事をすること、食べ物を探すこと、何をするにしても、もし空の心で望む、あるいはするなら、煩悩でも欲望でも貪りでもありません。なぜなら知識(明)から来ているからです。無知(無明)から来ているなら、苦の原因になる欲望や貪欲です。ですから空の心、希望するため、望むため、物事を発展させるために空の心のある人でいてください。これが空の功徳です。

 

 これから、恐ろしい「餓鬼」という言葉について考える功徳をお話したいと思います。餓鬼とは、望みや期待が非常に多く、煩悩や欲望で欲しがる所に意味があります。そして少しずつしか欲望が叶いません。その割合を譬えれば、お腹が山くらいの大きさとしたら、口は針の穴くらいです。だからどんなに食べても満足しません。

 現代人はこうではないですか。今の人は、腹は山のようなのに、針の穴くらいの口しかないのではないですか。もしそうなら、現代人はどんどん餓鬼になって行き、神経症がますます増え、精神病が増え、自殺が増えるかもしれません。

 それは空っぽの心で働かないから、空の心で暮らさないから、ますます腹が山のようになり、口が針の穴のようになります。もし空の心を知って空の心で働けば、山くらいの腹、針の穴くらいの口という現象は消えます。こんなに役に立ちます。

 例えば地獄などの悪趣(進歩繁栄のない生まれ)と呼ばれる恐ろしいものも、地獄というのは罰を受ける、あるいは欲望によって苦しむという意味で、畜生とは愚かという意味で、餓鬼とは渇望、飢餓、そして満足しないという意味で、阿修羅とは恐怖という意味ですが、

 たとえば恐怖、渇望、飢え、愚かさ、罰を受けることなど、こういう人間の敵は、空の心で防ぐことができ、完全に解決できます。つまり空の心は防御と解決の二つの効力があります。いま言ったような意味の悪趣を生じさせません。

 空の心で働き、空の心で生活すれば苦はありません。罰もありません。愚かさも、足るを知らない飢餓感も、恐怖も、何もありません。これを、空の心で暮らすことで悪趣と離れると言います。国のため、社会のための仕事であろうと、「仕事のための仕事」という項目を考えなければなりません。

 空の心で働くことは、仕事のために仕事をすることです。経済的に発展する国は、国民は自分を忘れるくらい強い意思で働かなければなりません。自分を忘れなければ自己中心的なので、騙し合ってばかりで、ガサツで、丁寧でない仕事ばかりです。

 しかし彼らは、仕事をする知性のある心で希望し、求めます。そしてその仕事をするとき、自分をすっかり忘れて、仕事があるだけです。目の前にあるのは仕事と知性、つまり空の心です。そして空の心は、原子力やエレクトロニクスや地球からの脱出などの、非常に難しいことを発明する不可思議な仕事をします。

 こういう発明をする人は、自分を忘れ、食べることも忘れ、いろんなことを忘れなければなりません。あるのは知性で仕事に没頭することだけです。自分を忘れ、自分の物を忘れ、何もかも忘れています。その時空の心なので、そのような仕事ができます。

 それ以外では、時には身勝手が生じても構いません。しかしその時、仕事をしている時は、空っぽの心、つまり自分のない心で働かなければなりません。だからこそ世間一般の人が発見できないような新しいことを発見できます。

 仙人や修行者など、山や密林に住んで哲学的原理を探求する人たち、あるいはタンマを探求し考える人も同じです。自分を忘れるまで探求し、食べることを忘れ、昼夜を忘れ、何週間か、何ヶ月かも忘れるほど探求します。非常に強い意思で、仕事への集中力で、仕事のためだけにするからです。俺ではありません。俺のでもありません。

 国造りに空の心を使う人は、いろんな事を発見することができます。みなさんが「タイ民族は発展しなければならない」と言って非常に望んでいる発展も、物質的な発展、あるいはその人だけの発展で、切り抜けることはできないということを忘れないでください。精神が発展、心の発展でなければなりません。そうすれば本当に成功します。

 先ず純潔な人になるために、「自分、自分の」ではなく、「自分、自分の」がない人でいられるように、空の心とはどんなことかを学ばなければなりません。その人は理想的な仕事のため、あるいは世界の普遍的な道徳の、あるいは仏教の sunmum bonum (最高善)のために働きます。

 仕事のために働き、「自分、自分の」を割り込ませないで、常自覚だけで働けば仕事は成功します。その仕事の結果はどこへも逃げません。望めば得られ、望まなくても得られます。しかし執着しないので、働いている時も、成功した後も苦はありません。

 これが心の発展です。自分、自分の、の発展ではありません。無理に人や物質を発展させれば、いま言ったようになりません。それは「目をつむって蜂を食う」というようなことになります。これは南部のことわざです。蜂に刺されますから、非常に耐え難いことです。あるいは、「牛の角を押しつけて草を食わせる」というくらい強制しなければなりません。

 人が忠実にしたいと思わなければ、どんなに強制しても忠実にはなりません。物質だけ発展しても心が発展してないからです。それに人の表面しか発展しません。すべては空の心に依存んしなければなりません。空の知識、空の教えに依存すれば効果があります。

 もう一つ、「空、あるいは空の心はそれ自体が美しい音楽」、という金言についてお話したいと思います。空っぽの心の時は、生きることは美しい音楽のようです。いつでも心が空っぽの時は、生きることは音楽です。非常に称賛するべきものです。心が混乱すれば、生きることは音楽でなくなります。つまりあるのは憂鬱と苛立ちだけ。静かで清潔で明るく穏やかではなく、音楽のような美しさはありません。

 煩悩に支配されてない純潔な心は、それ自体が音楽です。つまり清々しくし、それ自体に美しい響きがあります。魂の音楽と呼ぶことも、何と呼ぶこともできます。みなさんが聞いたことのあるような、弾いたり、叩いたり、吹いたりする音楽ではありませんが、意味は同じです。つまり言い表せないほど美しいです。ですから本当の音楽とは、心が空っぽの時に得られ、聞くことができ、触れられる美しい響き、美しさ、穏やかさ、何かそのようなものです。  

 いま普及している音楽を思い浮かべると、音楽、あるいは歌、あるいは曲には二種類あると見なければなりません。心が混乱するように煽るものもあり、心を穏やかになだめ、静め、空っぽにさせる歌や音楽もあります。自然の要求と一致する本当の音楽は、心を空っぽにさせる音楽です。空っぽで静かで穏やかにします。

 現代人は静かにする音楽は好きではありません。心を亡霊や妖怪のように興奮させる、亡霊や妖怪の音楽を好みます。これを、心の混乱を促進させると言います。どこでもこのような音楽が好まれるということは、社会の基本として混乱した心が好まれているということです。空は好まれません。空の心で暮らすことは好まれません。だから理解し合えないのです。いくら話しても理解し合えません。

 昔のお爺さんお婆さんの音楽を考えてみてください。みんな心を空にする、心を落ち着かせ、矯正し感化するようなものばかりでした。しかし子孫は変態で、心を混乱させるような音楽ばかり作ります。こういう問題に関わる物事の判断ができないで、混乱へ向かって突っ走る欧米を好み、それを手本にするからです。

 芝居も、昔は男優だけで演じていたと聞いたことがあります。イギリスのシェークスピアの時代のように、男優だけで演じる芝居です。そういうのが好ましいです。集中させて知識と知性を生じさせます。心を混乱させないで、心を空に促します。後の時代の人の煩悩が、女役は女優が、男役は男優が演じるようにし、どんどん煽情的な演技になっています。

 だから芝居は心を混乱させるものになりました。ノーラーも男優だけで演じていました。ある時代の娯楽の芝居は女優だけで演じていましたが、こういうのも好ましくて、空の方向へ促しました。今時はそうしません。今私たちは煩悩、欲望で何もかも変えてしまいました。これを、混乱した心の方向に歪んで傾いたと言います。だから心も確実に混乱します。

 最後に、みなさんが欲しがるものについて熟慮してみます。神通力、あるいは働く力です。空っぽの心の力が一つで、混乱した心の力がもう一つです。心の力はみんな同じと考えないでください。純潔な心の力と混乱した心の力です。空っぽの心の力は、タンマの力、タンマによる力、ブッダによる力です。

もう一度言います。空っぽの心の力は、タンマの力、タンマによる力、ブッダによる力です。混乱した心の力は、亡霊や妖怪によるので、同じはずがありません。純潔な心の力は、完璧な知性があり、賢く敏捷で、楽しく良い仕事ができます。混乱した心の力は正反対です。

 

 次に威力と呼ぶものを神通力と呼ぶなら、神通力とは、更に溜めてより強くしたものです。それを神通力と言います。混乱した心ではなく、空っぽの心が見せるものです。混乱した心が見せるものは、亡霊や妖怪がカッとなってやってしまうような種類のもので、神通力ではありません。有益な神通力は、必ず空の心が見せる威力です。

 阿羅漢が誰にも真似できない神通力を発揮するのも、空の心によるもので、素晴らしく高度な神通力です。次はいろんなお噺で聞いたことがある、鬼や悪魔などの俗人ですが、彼らも空の心で神通力を見せるのであって、混乱した心ではありません。鬼や悪魔でも、神通力を発揮しなければならない時には、必ず心を空にして集中するので、神通力を発揮することができます。

 ラーマキエン(インドのラーマヤナと同じ)などの本の文章を信じるなら、例えばクムパカンなどの鬼が重傷を負って起き上がれないとき、呪文を唱えて体を撫でるとたちまち治ってしまい、立ち上がって戦うことができます。みなさんは、これは俺、俺の、と混乱した心でしていると考えるかもしれません。

 しかしそう考えてはいけません。重傷で死ぬだろう、もう闘えないと知れば、俺、俺の、の問題です。しかし知性で考えればたいしたことではありません。心の神通力を発揮するには、空の心が必用です。自分を忘れて呪文を唱え、心を集中させて空にする儀式をすれば、神通力を発揮して体を撫で、骨折やら何やら、何でも治すことができます。

 ですから私は、神通力も空の心でなければ出せないと主張させていただきます。阿羅漢の威力、ブッダの神通力は言うまでもなく、鬼や悪魔の神通力も、空の心でなければ発揮できません。つまり危機を脱する智慧のある人間にふさわしい、タンマのある本当の神通力を期待するには、空の心でする外はないということです。これは、仏教の要旨として新たに理解していただきたい、いろんな角度から見た空の話です。

 

 究極の空は涅槃ということを忘れないでください。みなさんは最高の空は涅槃、と聞いています。まだ最高の空について話していません。今は、仕事をする時に使う空、苦しまずに世界で生きるために使う空について話しています。ですからこれらの教えを銘記すれば、正しく理解できます。ですからいつも言っているように、次のように言わせていただきます。

  お百姓のみなさん、空っぽの心で働いてください。

  労働者のみなさんも一人残らず、空っぽの心で働いてください。

  子供や孫を叩くときでも、空っぽの心でしてください。

  法廷で争うときでも、空っぽの心ですれば、何でも優勢になります。

  誰かを一言叱りつけなければならないような時でも、必用なら正しい知性で、空の心で叱ってください。煩悩によって混乱した心でしてはいけません。

 いま確認することは、空の心の話は、混乱した人、怒りっぽい人へのブッダからの贈り物だということです。こういうことに興味をもってください。こうした誤解が基本的に非常に多いから、だから理解できないのです。しかし私は、いつか必ず理解できると信じています。

 残っている時間は、空の心で働くとき役立ついくつかのタンマについてお話します。初めに私たちが突き当たる問題は、タイの仏教教団員のほとんどの人が、ロークッタラタム(世俗を超越するタンマ。脱世間法)のような高度な教えは、一般庶民のこと、世俗のこととは厳格に区別するべきだと理解していることです。人々はそう捉え、そう信じています。

 つまり高度な実践項目あるいはローグッタラタムを、一般庶民のタンマと別にします。一般人の問題ではありません。世俗の人の問題ではありません。それは間違いです。どう間違っているか、これから証明して見せします。本当にはいつでも同じで、違うのは分量とレベルだけです。

 涅槃のため、世俗を超えるための教えはどれでも、世俗にいる人も使わなければなりません。なぜなら、言われているように、苦も煩悩も問題も、同じだからです。

 三宝、つまり仏法僧の三宝は、森に住む比丘のもの、あるいは世俗から脱出するために修行する人のものと区別していません。みんな同じ三宝です。どうぞ正しく、真っ直ぐに、真実にと願うだけです。庶民のための三宝も、森に住む比丘のための三宝も、初等の聖人のための三宝もみな同じです。なぜ区別しなければならないのでしょう。

 

 良くご存知の如意足(悟りを極めるための実践法。歓喜・精進・専心・熟慮)は成就するためのタンマです。この四如意足を一般の人も使わなければならないということは、みなさんもご存知です。そして職務を行うときに、仕事を成功させるために使うことができる、ということも認められています。

 この四如意足は、涅槃のために実践するのと同じです。涅槃のための如意足とはどういう意味で、何があるでしょう。それを一般の人が使うことも、一般人の仕事に使うこともできます。欲・進・念・慧の四つは、分量が多いか少ないかという違いがあります。あるいはレベルの違いがありますが、中身は同じです。試しに、最高のレベルである如意足とはどんなかを読んでみてください。

「比丘たちよ。その比丘は、当然備わっているタンマで如意足に励み、歓喜で関わるサマーディを主題とし、精進で関わるのを主題とし、心で関わるのを主題とし、智慧で関わるのを主題とし」、このように項目を分け、「このような状況で、私たちの歓喜が干乾びることはなく、止まることはなく、内部に留まることはなく、外に拡散することはない。

 私たちは常に過去と未来の想がある人である。だから今までそうならこれからもそのように、これからがそうなら、これまでもそのように、下がそうなら上もそのように、上がそうなら下もそのように、昼がそうなら夜もそのように、夜がそうなら昼もそのように対処できる。当然輝く素晴らしい心になるよう、開放され絡みつくものが何もない心になるよう訓練し、このように上達するよう励みなさい」とブッダは言っています。

 

 さて、聖果に到達するための最高に高度な如意足についての講義が始まりました。しかしみなさん、どの文章も、どの言葉も、意味は在家の人が使うのとまったく同じだということを、熟慮してみてください。

 彼らはくじけることがなく、じっと止まる事がなく、内部に止まることがなく、外部に拡散することがなく、以前がそうなら今もそのように、つまりいつでも変わらずという意味ですが、そうなるまで歓喜、精進あるいは心などをサマーディの主題として、安定した如意足を満たさなければなりません。その人は以前は弱くて、それから勇敢になって、また後で弱くなるというようなことはありません。

 以前にそうだったら今もそのように、上がそうなら下もそのように、昼がそうだったら夜もそのようにというのは、如意足がある人にとっては昼も夜も同じだという意味です。

 輝いている心、開放された心というのは、塞ぐ煩悩がない、絡み付くものがないことです。開放されて絡み付くものが何もない心と言われるほど高い言葉でも、みなさんが田んぼや畑仕事をする時に使うことができます。こういう心で働かなければなりません。

 だからみなさん、たとえば如意足のような涅槃に行く高度なタンマでも、一般に使えることが分かる、ということを熟慮してください。

 

 次は八正道などのタンマです。八項目の正しさは、まだ勉強を始めたばかりの人でも、これは一般人でも実践できると分かります。この中道は、涅槃に到達する実践項目としてブッダが説いたものでもです。これは、八正道など直接涅槃に到達するために実践する項目を、初歩の、最もレベルの低い一般庶民も使えるということです。

 最高に高度な話、空の話を、ブッダはその在家の人たちに、在家にふさわしいとして話しています。ですから、僧のためのタンマ、庶民のタンマ、涅槃に行く人のタンマ、世俗で仕事をしたい人のタンマと区別する考えを止めてしまいましょう。そのような考えは止めてしまいます。バカバカしい考えです。違うのは表面だけで、中身は同じです。ですから私は、涅槃に到達するための実践として欠かすことができないタンマを、働く在家のもの、空の心で働かなければならない在家の教えにするために取り挙げました。

 空の心で働く助けになるタンマを、「空の心で働きたい時には、空の心で働く実践項目として七覚支を使いなさい」という題でお話します。中にはビックリする人がいます。なぜなら七覚支は、悟るための、阿羅漢になるためのものだからです。なぜ一般庶民の仕事の話として話すのか、聞いてください。

 しかし、先ほど例に挙げたいろんなタンマ集は、涅槃に到るレベルのタンマであり、それでも庶民のものとすることができるということを忘れないでください。この七覚支も同じです。このタンマの意味を広く正しく、そして十分に理解していただくようお願いするだけです。そうすれば、四如意足は、涅槃に行く人も家で仕事をする人も、十分使える例を挙げて説明したように、どうしたらそれを庶民の仕事にふさわしく調整できるかが分かります。

 

 次は七覚支です。七覚支と呼ばれるものは、悟りの項目という意味です。つまりどんな種類のどんな場合も、聖向聖果であるものを成功させる道具です。みなさん、ブッダがこのタンマを説いたのは、どの場合のどんなことでも、いろんな物事を聖向聖果として成功させるために説いたと捉えてください。どの場合のどんなことでも、というのは、世俗の面でもタンマの面でも、初級でも上級でも、レベルに合わせて正しく使う、と言われるように、要旨を解釈して物事に合わせて使います。

 これから七覚支と呼ぶものを順に見ていきます。初めは「サティ」、七覚支のサティです。実質はサティです。サティ(自覚)とは、自分に関わるすべてのもの、あるいは知覚できるすべてのものを、周到に隈なく知覚することです。これがサティと呼ぶものの本当の意味です。何がどうなのかを最高に注意深く、隈なく知覚します。それはどんな状態か、それは何か、何に起因しているのか、何のためか、どんな方法か、自分に関わるすべて、あるいは自分で知覚できるすべてをこのように知覚します。これがしなければならない初めの項目です。

 2項目は「七覚支の択法」といって、これはタンマを選び、何かを選択すること。私たちが選ぶ、私たちが選択することを意味します。自分の問題にふさわしいもの、自分の能力に合っているもの、自分の性格に合っているもの、病状にふさわしい、自分の苦にふさわしいものを選ぶことを学びます。そして、どうしたら最後まで使えるか、あるいは実践できるか、あるいは行動できるか、もう一度判断します。これを七覚支の択法と言います。

 3項目の「七覚支の精進」は、強靭な意志と勇気と忍耐努力で、選んだタンマの行動が常自覚の下にあるようにし、2項めで述べた択法で心が混乱することがないようにします。

 4項目は、「七覚支の喜」と言って、行動に楽しさと満足がなければならず、それがいつでも努力する原動力になります。仕事のための仕事をすれば喜びと満足があります。いつでもこの喜悦が努力する気持を養う力としてあります。絶対に、野望や渇望で煮え立つような「俺、俺の」力を育てる力にし手はいけません。いつでもその行動から生じるタンマの満足、タンマの喜びで潤してしてください。そうすれば精進努力は、涵養水である喜悦で、常に安定しています。

 5項目は「七覚支の軽安」と呼ばれるものです。過去のすべてのものを、タンマの言葉でタンマサマンキー、あるいは整っていると言われるような状態になるように調整することですら何項目ものタンマがあるので、それらがバラバラではなく、一つに融け合うように調整しなければならないからです。それを、自分が実践しているタンマを調整すると言います。今している仕事やどんな職業でも、良く融合していれば、内面の衝撃や外面の衝撃がなく、後退することもありません。

 6項目の「七覚支のサマーディ」は、その仕事、あるいはその行動にありったけの心の力を注がねばならないということです。非常に強力で満ち満ちした集中力で、三つの特徴があります。つまりパリスットー、ボリスッタと呼ばれる、純潔で疑いや躊躇いや嫌悪がないこと。そしてサマヒトーとは非常に安定していてぐらぐら揺らがず、本当の力、つまり空の心の力によって安定していることです。そしてカママニヨーとは柔軟で円滑で、すべてが働くことにふさわしいことです。これを最高にアクティブと言います。以上が七覚支のサマーディという意味です。

 最後の7項目は「七覚支の捨」と言って、無頓着と訳すのも本当です。しかし特別の意味もあります。それは一つに融け合わせ十分集中力を注いだものを、そのものの成り行きに任せることです。つまり良い状態にしたものを、そのものの法則にまかせることです。その人の様子は無頓着と似ています。

それは、すべてにおいて調子の良い車を準備すれば、後はただ運転するだけ、ハンドルを握っているだけで、車は終点まで走り続けるようなものです。終点に到着するまで「静かに待てる」ということが最も重要な点です。現代人は何かを待つことができません。心がイライラして、いつでも煮えたぎってしまいます。いろんな場面で方便を使いません。これは大きな妨害です。

 この悟って阿羅漢になるための7項目のタンマを、どうしたら農家の人や労働者が空の心で働く時に使えるか、どうしたら子供たちが勉強して大きくなるときに使えるか、どうしたら少年少女が身を立てる時に使えるかということを考えてみてください。

 その人に七覚支の第1項があり、つまりあらゆる側面、あらゆる点で注意周到で、七覚支の第2項があり、自分の性格にあったものを知性で選び、言行一致の人であり、力を集めて注ぎ、本当に努力して、その努力する力を維持するだけの賢さがあり、喜びや満足を常にタンマの涵養水とし、努力は力を増す一方で、そしてそれを調整する時になったら、関係あるもの全部を賢さで調整します。全部のタンマを融け合わせます。

それは、その人がしているいろんなことが適合していることですから、最後まですべての心の力を集中して注ぎます。そしてその人は、完璧な結果がでるまで静かに耐えて待つことができます。これが七覚支の原則です。

 これはまだ生きている人、誰にとっても必用な原則だと言わせてください。どんな種類のどんなタイプの人でも、どんなレベルの人でも、まだ所帯を構えている在家でも、この原則を使って働けば空の心で働くと言います。その仕事に介入してくる煩悩はありません。畑仕事も、田んぼの仕事も、商売も、あるいは子供が勉強を始め、自立するにも、この七項目の原則を示して教えるように努めましょう。

 聖向に到達するためのタンマやヴィパッサナー、何らかの念処の実践をする人は、この七項目を使わなければなりません。ブッダでさえ気に入っていて、病気になった時比丘を呼んで、この七項目の名前を言わせました。すると途端に、千切って捨てたように病気が治ったという話を、みなさん経で読んだことがあり、きっと何度も何度も聞いたことがあると思います。

 それで、重病人に七覚支の七項目を全部聞かせる風俗儀式になりました。それは初めから終わりまでこのように非常に素晴らしいのです。ですから詳細に学ぶよう努めてください。本来はよくきいたことがあり、お寺でもどこでも、修行者学校でも学ぶタンマ集です。しかしまだ要旨、あるいは本当の意味は掴めていないと信じています。だから有効利用、応用することができないのです。

 私がこのように強調するのは、この七項目を使うのが空の心で働くために最も良い、最も早い、もっとも簡単な唯一の方法だからです。この七項目のタンマ集は、空、あるいは空の心による行為だからです。つまり空の心がある時は、冒頭で「心が空の時、知性等によって、智慧等で完璧である」と述べたように、簡単にこの七項目のタンマを成立しています。

 そして空の心自体にある自然のサマーディを体系化し、他人を信じなくても、盲目的な信仰に頼らなくても、いつでも仏教の智慧で明瞭に見ることができ、完璧な形で学習を修了することができます。そして七覚支と呼ばれる七項目の原則を使えば、空の心で働く人、空の心で生活する人と言われます。

 

 最後に時間がないので、一つだけ復習させていただきます。ローグッタラの教えは世俗での仕事にも同じように使える、ということを忘れないでください。なぜなら世俗にいる人は世俗を越えたい人です。つまり苦の固まりの中に溺れています。世俗を越えたいと願うとき、ローグッタラを目指します。

 ですからローグッタラの原則は滅苦のため、苦をすべて滅亡する、どんなケースの苦も滅す教えです。最も高度なものから、最も初歩のものまですべてを包み込む意味があります。庶民のタンマお寺のタンマ、涅槃に行くためのタンマ世俗に沈んでいる人のためのタンマと、二つに分類しないでください。

 人々を世俗に沈んでいさせるためにブッダが説いたタンマなどありません。あるのは人を世俗より上に引き上げるタンマだけです。働くのも、自分を世俗より上に引き上げる賢さのためにしてください。そして働き方を間違えて苦が生じてしまったら、正しく働くようにする道具であるタンマを使ってください。働くことが苦にならないようにしてください。

 ですから自然から与えられた本来の心について学び、良く管理し、良い状態を維持し、発展させなければなりません。そうすればみなさんにとって非常に役立ちます。これ以上に役立つものはありません。それに空の心は如意宝珠のようなものです。つまり何にでも使えます。どんな問題でもすべて解決できます。ですから私は、いつものように「空の心で働く」と言わせていただくのです。

 もうすぐ新年なので、いつも繰り返している言葉を詩にして、空の心の年末のカードを贈らせていただきたいと思います。

 どんな仕事も空っぽの心で働け

 仕事の報酬は何でも空にやり

 空の飯を僧が食うように食い

 そうすればハナから死んでいる

 これについては、前回もお話しましたが、もう一度言います。どんな種類のどんな仕事も空の心で働いてください。そして仕事の報酬が幾らでも、どんなでも、自分のもの、俺のものと理解してはいけません。自然の空にやってください。そうすれば、それは私たちに噛みつきません。そして仕事の報酬を食べることや、仕事の報酬を使うことを、空のものを食べると言います。空の心があれば、空のものを食べることができます。僧が空のものを食べるのと同じように、何も妨害するものはありません。

 本当の比丘は「生き物ではない。動物ではない。人間ではない。自分というものは無であり、原因と縁によって絶えず変化している」というパッチャヴェーカで、食べる人も、食べるものも、常に自分ではない、自分のものではないということを心に銘じています。こういうのを、空の飯を食うと言います。空の心で苦しむことなく食べることができます。

 死は、心が空になり始めた当初から片付いています。しかし迷って愚かにも心を混乱させれば、また自我が生じます。混乱した心が治まり、煩悩が静まり、執着がなくなれば心はまたもとの空になります。再び自我がなくなるので、死にません。死はありません。これは、本当に正しい真実としては、死はずっと前から、元々からあったものではないということを教えています。

 しかし自分の愚かさや迷いでそれらに執着するので、しばしば死が現れます。つまり時々生老病死が生じるので、死の恐怖が問題になります。しかしもし、今話したように空の心で暮らし、空の心で働き、空のご飯を食べれば、死と呼ばれるものは、初めから存在しません。その後妨害されることもありません。死ななければならない自分はなく、何かを自分と捉える考えもありません。

 これが「空の心で働けるようになるタンマ」というお話の終わりの言葉です。三段階三部をお話する計画のすべてが、今日で終わったことになります。今日の講義を役立てようと思っているみなさんが、私の言ったことを一言もそのまま信じることなく、熟慮判断するよう願っています。

 きっと仏教の教えにあるように、自分を信じることができます。綿密に的確に熟慮するよう、ただお願いするだけです。それが「自分で分かり、自分で見え、自分で実践し、自分を頼れる」と言われるものになります。それが本当の仏教の教えです。

 時間になりましたので、今日のお話しはこれで終わりにさせていただきます。 

                                                     (1965年1月19日)


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