空の話 

  

 今日は初めに掲げておいた滅苦の重要性を表すブッダの言葉にそって、お話をさせていただきます。

 今日は苦を絶滅させた人である阿羅漢を偲ぶ日なので、心で阿羅漢のことを考え、阿羅漢の徳を崇め、自分の心を、苦のない空にします。そして要旨として苦の絶滅について述べているブッダの言葉は、当然、このような日に心を阿羅漢にしようとする人にとって利益があります。

 だからこれからお話するテーマとして、ブッダの言葉である「空」、つまり何もないことを選びました。内容をしっかり把握するために、みなさんしっかり聞いてください。少なくとも、仏教の非常に難しい話と見なされている空について理解してください。あるいは仏教の、同じように最高に高いな阿羅漢について理解してください。

通常理解は、私の説明の仕方と、みなさんがどれだけ真剣に聞くかということに掛かっています。だから普通のことに関する話しでも、これは阿羅漢には関係がないと軽視しないでください。

 午前中は、火には火を消す水が必要なように、俗人には阿羅漢の話が必要だということをお話しました。火に焼かれていない人は、使い道がないので水を欲しがりませんが、火に焼かれれば非常に水を欲しがります。人間も同じです。俗人なら俗人ほど苦が多いので、俗人ほど、阿羅漢が滅苦に使うタンマを求めるようになります。だからできるだけ自分の能力にふさわしい、そして自分らしい苦のある人でいてください。

 今日、空つまり空っぽのことについてお話しするのは、みなさんが簡単に理解できるかも知れないからです。空というものを理解するのは、何も難しいことではありません。空はどうして重要なのか、どうして誰もが好むのか、ということを考えてみてください。

誰でも空いている時間は好きです。忙しく働く時間は、誰も好みません。仕事のない時間は誰でも好きです。もっと簡単に言えば、妨害するもの、混乱させるものがない空っぽの時間は誰でも好きです。誰もが空いている時間を好み、混乱している時間を好まないと言うことができます。

 誰もがこのように空いていることを好むのに、お寺へ説教を聞きに行こうと誘われると「暇がない」、「説教を聞く暇がない」、「タンマを聞く暇がない」、「お寺へ行く暇がない」と答えます。そして自分自身を騙すようになります。空いていることは好きだが暇はない。お寺へ説教を聞きに行く暇はありません。

 しかし森へ草摘みや魚や蟹を獲りに行こうと誘えば、誰でも空いています。空を探すために、つまり涅槃を勉強するためにお寺へ来るよう誘うと、ぜんぜん空いていません。時間がないと断ります。このように自分を騙すので、愚かさ、迷いに沈み、空いている時間がなく、覚める時間がありません。

 考えてみてください。空の話は、私たちが学ばなければならない一番大切な話です。言い方を変えれば、「究極の空は涅槃である」というブッダの言葉があるように、空の話は涅槃の話です。涅槃は最高に何もないこと、という意味です。最高に何もなければ、それが涅槃という意味です。

 空でなければ、輪廻であり、あるいは地獄です。時々空っぽになったり、時々空でなくなったりならまだマシです。人間として何とか見られます。ですから空について興味をもち、最高の空、究極の空、つまり涅槃にも興味をもってください。

  もう一つ、いまお話した空は、仏教の正真証明の要旨だということを知らなければなりません。ブッダが在家の人に話しています。重要な要旨がそのまま題目で、『私の言った言葉であるすべての経のどの部分も、非常に深遠な意味があり、世俗を超えた空だけで成立している。だれも時に永遠に到達しなさい』。

 つまり、空について話した本当のタンマこそ、誰もが必ず、永遠に到達しなければならないもの、という意味です。

 「時に」というのは良い時機にという意味で、「永遠に」というのは、空の中にいられる間だけという意味です。しかし最も重要な部分は、「私が言った言葉」というのは、後世の弟子が言った言葉ではないことです。これは絶対に知っておかなければなりません。仏教の教えには二種類あります。一つは本当のブッダの言葉。つまりブッダ自身が言った言葉で、本物です。もう一つは後世の弟子が言った言葉です。

 この二つの違いは、ブッダが言った言葉は、空だけに関している、つまり直接空について言っているものだけなので、深遠で、味わい深く、世俗を超えています。後世の人たちは空について語らず、聞いた人の心を捕らえる美しい言葉で綴って創作し、聞く人にへつらってああするよう、こうするよう誘います。つまりてんてこ舞いの美辞麗句です。空に誘うものではありません。

 どう違うか考えてみてください。ブッダは空に誘っていますが、後世の弟子たちは、混乱することへ誘っています。死ぬまでてんてこ舞いして、棺桶に入るまで大騒ぎをしても混乱が終わることはありません。しかしブッダの言葉は、空だけです。その違いについて良く考えてみてください。

 ですから私たちは、何もないことについてしか語らなかった、ブッダの言葉の代表に興味を持たなければなりません。なぜでしょうか。答えは、究極の空は涅槃だからです。ブッダは涅槃について教えたので、空について教えたのです。てんてこ舞いについては教えません。

 「ああしなさい、こうしなさい、そうすればこういう結果がある」というのは尽きることのない混乱です。しかし空の話は静止しています。何もないからです。ですから空を選ぶか、それともてんてこ舞いを選ぶかということに自信を持たねばなりません。自分で考えてみてください。

てんてこ舞いがどんどん酷くなったら、どうなるでしょう。少なくとも憂鬱になります。もっと酷くなれば神経の病気になります。もっと酷くなれば精神病院へ行かなければなりません。心の中が混乱して終りがなければ、精神病院へ行くことは避けられないと、誰でも考えます。これが何もないこととぎっしり詰まっていることの違いです。

 空を選ぶかギュウギュウ詰めを選ぶか、良く考えてください。ブッダの言葉にも二通りあります。『サンカーラ(作られたものという意味。心身を指すこともある)は非常に苦である』というのは、ぎっしり詰まっているからです。どうしてそうなのかは、パーリ語の知識のある人は良く分かります。

 サンカーラという言葉は作るという意味です。サンは同時に、カーラは作る、サンカーラは同時に作るという意味で、終わりません。何でも作ります。サンカーラとは作るもの、あるいは作られたものという意味です。そしてまた他のものを作り出すのですから、空になるはずがありません。てんてこ舞いするばかりです。

だから作られたものという意味のサンカーラは、てんてこ舞いするものという意味です。何かを終りなく続ければ、何かを休まず手を加えていれば、それはてんてこ舞いであり、空ではないということが簡単に分かります。サンカーラは非常に苦であるというのは、休まず混乱していること、つまり休まず作ることは非常に苦であるという意味です。

 正反対の言葉は、「涅槃は最高の幸福である」です。つまり滅尽、あるいは非常に穏やかなこと。あるいはいま述べたような究極の空は最高の幸福です。あっちは最高に苦で、こっちは最高の幸福です。最高の幸福であるものを涅槃と言います。涅槃と呼ばれるものは、「究極の空は涅槃」と言われるように、最高に何もありません。だから簡単に、てんてこ舞いは非常に苦であり、空は非常に幸福だと言うことができます。

 明らかに見えること、あるいは日常生活で明かに見えることは、いつでもいっぱい詰まっている時は非常に憂鬱で、空っぽの時は、一時的ではあれ穏やかで落ち着いているということです。混乱していれば苦であり、空っぽなら苦はありません。

 なのになぜみなさんは、空を好まないのでしょう。お寺へ来るよう誘うのは、空の勉強をして、涅槃の話で空になるためなのに、なぜ「暇がない」と答えるのでしょう。しかし貝や蟹を獲りに行こうと誘うと、どうして暇がたくさんあるんでしょう。

それは、てんてこ舞いすることに誘うと行く時間があり、本当の空、本当に素晴らしいものに誘うと、来る時間がないと言うことです。ほとんどの人は、ブッダの言葉であるタンマを学ぶことは、魚や蟹を獲ることほど、家で仕事をすることほど必要でないと考えています。だから聞きに来るのを、教えを聞くのを断ります。特に空の話はそうです。

 良く考えてください。大混乱と何も無いことと、どちらがどんな利益があるでしょう。ブッダの言葉を基準にすれば、当然、空こそが仏教の核心ということが分かります。仏教の最も高度な話であり、涅槃と呼ぶ最高の幸福の話です。

 ですからこれは、ブッダの話、ブッダが直接言った話、ブッダが直接誘っている話です。後の時代のあの人この人、あの方この方の教えとは違います。だから空について十分お話します。

 初めに、ブッダはこの空の話を誰に話したかということを考えてみましょう。森に住む僧たちだけに話したのでしょうか。そうではありません。パーリ三蔵の中で、みなさんのような在家の人がブッダに拝謁して、「恒久的な幸福になるタンマを説いてください」と言った時に話しています。彼らは、「私たち在家の弟子は、妻子や花や香や香料に囲まれていますが、恒久的な利益になるタンマを説いてください」と、はっきりと言っています。 

 在家でありながらこのように望むので、ブッダは、これがブッダの言葉であり、深遠なものであり、世俗を超えているものとブッダ自身が捉えている、空の話をしました。このことから空の話、つまり何も無いこと、あるいは涅槃の話は、在家向けの話でもあるということが明らかです。森や密林や洞窟や山に行く(瞑想をするという意味)僧たちだけの話ではなく、家で妻子や夫に囲まれている在家の人も、空に関する知識が必用だとブッダは言っています。

 もし理解できなければ、初めに言った言葉、「最高に涼しさを求める人は、最高に暑い人である」という譬えを、もう一度考えてみてください。一番苦がある人は誰でしょう。一般庶民じゃないでしょうか。森や山にいる僧たちは、どこにいる人よりも苦が少ないです。家に居る人たちが一番苦しいのです。だから家に居る人たちが一番平安を求めます。そうすれば正しく筋が通ります。

 だから真剣に本物のタンマ、あるいは本物の宗教を探すことを、もう一度考えてください。それは本物であり、直であり、教祖のもの、つまり空の話です。混乱することに迷わされないでください。他人の目をごまかすのが得意な人は、いろんなことを考えて、書いて教え、自分の利益のために自分と同じ混乱に誘います。

 空の話は神経の病気になるほど、あるいは個室に収監する病院へ行かなければならないほど、混乱している人のためものです。だから神聖な道具に頼ること、つまり空を、たとえ家にいても神経を病んだり精神病院へ行かなければならないほど、混乱したり苦しまないようにする防具にします。心を空にすることを知っていれば、当然純潔で明るく穏やかなことは、疑うまでもありません。あるのは善と美と発展だけです。

 あるいは聖人と言うなら、ここでは聖人にしてください。美しくなったり金持ちになったり出世したりするようなのには、ならないでください。そういうのが酷くなると精神病院へ行かなければならなくなりす。偉くなること、金持ちになることが病院へ連れて行きます。神経の病気になって休まず薬を飲まなければなりません。

 空、純潔、明るさ、そして穏やかさの話なら、誰もそうなりません。穏やかに落ち着かせます。その種の病院へ行く必用も、薬を飲む必用もありません。ローグッタラ(世俗を超越する。脱世間)という最高の薬を飲めるからです。つまりタンマのことです。ですから怖がるべきものではありません。勇んで採り入れるべきものです。「空っぽで何もない」と考えないでください。何もないような空っぽではありません。すべてを与える空っぽです。

 混乱する話はすべてを失ってしまいます。ブッダの空は、人間が得るべき最高のものがすべて得られます。これが興味を持たなければならないもので、関心を持つべき、熟慮しなければならない面です。私たちは幸福を求めながら混乱や苦を好み、反対に空を嫌うほど愚かです。これは滑稽です。明らかに自分を騙す行為です。それでどうして穏やかさに巡り会えるでしょうか。

 本当に心の静かさを求めるなら、必ず混乱を避けて、空の方を向かなければなりません。しかし何が確実に混乱するものなのか、何が本当の空なのかを、良く考えてみる智慧が必要です。間違って「混乱するもの」を「空」と見てはいけません。あるいはブッダよりも混乱を崇拝しないようにしてください。

 てんてこ舞いをしていて、空を教えるブッダのタンマを聞きにくる時間がないのを、そういうのを混乱と言います。それでブッダを理解する時間がありません。ブッダの教えを実践する時間がないので、死ぬまで大混乱します。それで人間が得るべき最高のものの、何が得られるでしょうか。あるいはブッダの教えの何が得られるでしょう。

 自分は仏教教団員で仏法僧に帰依していると言いながら、口だけです。ただ「私は信仰している。私は得た。私は到達した」と言う以外にも見合った利益があるのに、仏法僧から何も貰わないのですから。

もしまだそうしているなら、まだ今まで通り混乱しているということです。時には更に混乱するかもしれません。みなさんは口では仏法僧を信仰していると言いますが、混乱した心でわざわざその言葉を口にするより、黙っている方が良いのではないですか、と言わなければなりません。みなさんがこれを、人を阿羅漢にする空というものの美徳はどんなものかということを、特に良く考えてくださるよう期待します。

 ブッダの言葉を根拠にすれば、『モッカラーチャよ、いつでも世界を空と見るサティのある人でいなさい。『自分』という考えを抜き取ることができたとき、閻魔大王を超えた人になる。あなたが世界をそう見るようになれば、閻魔大王にはあなたが見えなくなる』という言葉があります。解説すれば、いつでもすべての世界を空と見ることができ、自分は、自分のという執着を抜き取れる人は、死を越えるということです。

 ここで言う死とは、すっかり終ること、苦労つまり生老病死にちなむ混乱が終わること、という意味です。つまり必ず死ぬことです。体が死んで柩に入ることも死と言います。あるいは精神が衰弱して低下し、苦しみばかりが重なり、暇や穏やかな時がなければ、死んだ人よりもっと苦しい結果であり、それも死と言います。地獄の生き物と同じ苦に耐えなければならず、つまり苦だけで、常に混乱しています。死んだ人以上です。

 だから智慧のある人が、死を超越するさまざまな方法をいろいろ考えました。その人がブッダに会って死を超越する方法について尋ねると、ブッダは空を与えました。つまりブッダは空の話だけを教えたという意味です。何もかも空の話ですが、いろんな呼び方をしています。

 つまり涅槃と呼んでいるのもあれば、滅苦と呼んでいるのもあり、すべてのものの上にいるというのもありますが、これらはすべて空です。空ならば苦もなく輪廻もなく、生も老も病も死もないからです。だからブッダは「世界を空と見なさい」と言って、その人に空を渡しました。

 世界という言葉は短い言葉ですが、一語で例外なくすべてのものを意味します。この世も、どの世も、梵天の世も、天人の世も、悪魔の世も、地獄の世も、すべてひっくるめて世界と呼びます。この世、あるいはどの世にある形・声・香・味・触であろうと、これらも世界と呼びます。

 なぜなら世界にいる人は、形・声・香・味・触を味わうことに意味があるからです。もしこの世に形・声・香・・味・触がなければ、この世に生まれたがる生き物はいません。しかしこの世には形・声・香・味・触という意味があるので、すべての生き物が執着します。

つまりこの世あの世に生まれたい欲望です。特に欲望の餌がたくさんある世にです。人が一生懸命善行をして極楽の宮殿に生まれたがるのは、上等で高級な形・声・臭・味・触が欲しいからです。それもこの世のものと同じ、単なる形・声・臭・味・触でしかなく、ただ上等なだけだと知らないのです。

 これらの形・声・臭・味・触は、空にするでしょうか、混乱させるでしょうか。どうぞ考えてみてください。この世の、あるいは自分の家の形・声・臭・味・触は空にするでしょうか、混乱させるでしょうか。どこの形・声・臭・味・触が混乱させないで空にするでしょうか。

必死で田畑の仕事をしたり、いろんな事をしたり、あれこれ求めたりあれこれ維持したりするのは、すべて形・声・臭・味・触のためです。極楽を望むのも、上等で高級な形・声・臭・味・触のためです。つまり形・声・臭・味・触以外には何もないということです。

 それは空か混乱か考えてみてください。天国の形・声・臭・味・触を見ると、宮殿があってお付きの者がいて、あれやこれや色々で、それで空でしょうか、混乱でしょうか。良く考えてみてください。これが「世界のありとあらゆるものは空である、という真実のままに見なさい」というブッダの言葉を理解することです。

 世界を混乱と見てはいけません。自分が誤解して混乱と考えるから混乱するのです。しかし真実ありのままに見る知性があれば、それを空にすることができます。空と見えるよう熟慮すること、つまり熟慮することを知らず、そう見るように考えなければ、永久にてんてこ舞いだということです。空と見えるように熟慮しなさいというのは、つまりそれは一時的なもの、私たちを騙すものと見るよう熟慮することです。 

  マヤカシもの、あるいは騙すものは人を幸福にするでしょうか、苦しめるでしょうか。本当にあるのでしょうか。マヤカシでしかないものは欺瞞するもので、本当にはないので混乱を意味します。混乱には本当の実体はありませんが、本当にある、実体があると思い込みます。

 逃げ水や蜃気楼を見た人が、あれがあったこれがあったと言うように、欲望や煩悩で呆けている人は、これらの混乱が本当に存在すると考えるので、空と見ることができません。いつか完璧なサティが身につき、世界を空と見られるようになるまでは。

 これは、自我という考え、つまり自分があるという誤解を取り除くことができ、マヤカシもの、欺瞞するものと見られれば、自分、自分のもの、という勘違いを抜き取ることができるという意味です。しかし今、みなさんは自分という執着を取り去ることができるでしょうか。

 みなさんの家の中は、「俺」と「俺のもの」で溢れているということを考えてみてください。あれは俺のもの、これも俺のもの、お金も俺のもの、金塊も俺のもの、どこへ行っても俺と、俺のものという言葉しか聞こえてきません。その声こそが自我の考え、まだ勘違いがあって、すべてのものを「自分、自分のもの」と執着しているということを表しています。

 それでは空にはなりません。まだ「これが自分。これは自分のもの」と捉えていれば、対処しなければならず、作らなければならず、片付けなければならず、維持しなければなりません。何より苦しまねばなりません。体で対処したり片付けたり維持することはあまり重要ではありませんが、心が混乱するかどうかという点が重要です。

 体が混乱することを、ブッダは混乱とは呼びません。しかし心も一緒に混乱すれば混乱と呼びます。だからその心に対処しなければなりません。肉体的なことは重要ではありません。本当の苦、あるいは本当の混乱は心にあります。

 作り上げたもの、あるいは作り上げること、あるいはサンカーラと呼ばれるものは心にあります。つまり欲望や煩悩で考える心にあるのです。それが作り上げたもの、あるいはサンカーラです。考えれば作るので、これも同様に作ることです。

心は作っているので、いつも考えています。いつも何かを心配し憂慮して、いつも何かを渇望しているのは、いつも気掛りがあるということです。常に作っていて空はありません。混乱ばかりです。これが自我への執着の結果です。つまり何かを自分、あるいは自分のものと勘違いするので、このように混乱しなければなりません。

 自分があれば、苦に支配されます。死と呼ぶものに支配されます。しかし自分を消滅させ払い落としてしまって空にすれば、苦や死は誰も支配できません。自分がないのですから。ブッダは、『自分という執着を抜き取った者は、死を超越した人である』と言っています。

 このように世界を空と見えると、死にはその人が見えません。つまり死がその人を捕らえることはできません。空だからです。つまりその人も世界も空なので、死や閻魔大王も捕まえることができないくらい空、何もないということです。真実の点から言えば、その後は苦に支配される自分が残っていません。つまりこのように自分をなくしてしまうことが、すべての苦と死に勝利する道だということです。

 自分を空にするには、石臼に入れて粉々にして、それから燃やして煙にしてしまわなければ空にならない、という意味ではありません。知性で、何かを自分、自分のものと捉えないようにすることです。体はただの体。心もただの心。観念はただの観念。自分である部分、あるいは自分のものは何もありません。こうなれば自分に執着しないので「空がある」、あるいは「五蘊に空を見ることができる」と言うことができます。自分を捉えないので、純潔な五蘊です。

 煩悩と欲望と自分への執着がいっぱいの五蘊は、空でない五蘊で、苦に捕まえられる自分、苦に覆われる自分、死に踏み潰される自分があります。空にすることを知らないから、いい気味なんです。生まれてから死ぬまで、苦と困難しかありません。みなさんは、空、本当に何もないことは涅槃であるという、ブッダの言葉で見ることができます。

 涅槃は本当の空です。死からも苦からも逃れられるのは、空になることだけだからです。それが涅槃という意味です。ですからブッダはどこででも、空、何もないことを涅槃という意味に、あるいは涅槃の代わりに話しています。空は人を空っぽにして、純潔な五蘊だけにする道具です。その後は自我という考えがないので、苦や死の住処ではなくなります。

 別の機会には、「自分がなくなれば、あるいは空が見えれば、あるいは空に満足すれば、心は処を喜ぶ」と言っています。この場合の処とは、涅槃という意味です。つまり私たちは先ず、空を穏やかな幸福と考えなければいけないということです。そうすれば涅槃を喜びます。

 この真実が見えなければ、涅槃に満足できません。涅槃に満足すると言っても、それは口だけです。つまり、何だか良く知らないものについて話すことです。他人が「良い。崇高だ。素晴らしい。最高だ」と言うのを聞いて、真似をして欲しがります。涅槃がどんなものかも知らないのに、人まねをして涅槃を望む人です。しかしブッダは、『空の良さが見えた時、その人は本当に涅槃を喜ぶ』と、つまり正しい意味で好む、と言っています。

 空と混乱はどう違うか、初めからもう一度比較して見てください。もしまだ迷って混乱しているなら、役に立たない涅槃の話はしないでください。心は涅槃のことを好きじゃないんですから。しかし空を好むようになれば、涅槃に満足します。

 正しく空を理解し、正しい意味で空に満足すれば、心も涅槃に満足し、疑うべくもなく涅槃の方向へ流れて行きます。空の良い点を好むようになれば、「その人は智慧によって現世で解脱する」とブッダは予言しています。つまり現世で智慧によって解脱(パンヤー ヴィムッティ)した阿羅漢です。

 少なくとも無所有処、つまり「何も欲しくない。なりたくない」という生き方に到達します。無所有処と言うのは、なりたいもの、欲しいものは何一つないという感覚、という意味です。このような感覚で生きるようになれば、苦が支配することはできないと見なします。ブッダも、ブッダ自身も空でいました。そのようなブッダの空による存在の仕方を、スンニャターヴィハーラ(空精舎)と言います。

 ブッダは阿羅漢に話しています。「私も、ほとんどの時間はスンニャターウィハーラにいる」と阿羅漢に向かって言っています。スンニャターヴィハーラは、建築された建物ではありませんがヴィハーラ(精舎、お寺)と呼びます。暮らし振りという意味です。スンニャターとは空という意味です。何もないと感じる暮らし方です。

何もないことがスンニャターヴィハーラです。ブッダも、ブッダでさえも、本来のスンニャターヴィハーラにいます。つまり何もない心で、何かを自分、あるいは自分のものと捉えないので、大混乱になることはありません。

 ブッダはあちこちへ出掛けて行き、休みなくあの人この人に教えなければならないので、非常に疲れますが、まったく混乱はありません。心に欲望や煩悩がないので、心の混乱はありません。それに体もてんてこ舞いしません。心が混乱しないからです。体が普通に動き回るだけで、「混乱」の意味がありません。ですからブッダが静かに座っていても、どこかへ向かって歩いていても、すべてスンニャターヴィハーラにいると言います。

 しかしここで意図しているのは、何もしなくてもよい暇な時間があったら静かに座って、心の中をより空っぽにすることです。つまり煩悩や欲望や、何もかもなくします。つまり大悟して得た空です。このような空で満たすと、穏やかな幸福になり、体が透き通ってくるかもしれません。

 空が心を安楽にし、体を透きとおらせるというのは、サーリープッタに話した経で知ることができます。サーリープッタの皮膚が透きとおって艶が出てきたので、それについて質問した時、ブッダは「それは空だ。空で暮らすことが皮膚を透きとおらせるのだ」と観察を勧めました。このような状態の空を、ブッダはマハープリサヴィハーラと呼びました。

 マハープリサヴィハーラとは偉人の精舎のことで、偉人の精舎とは、空あるいは何もないことです。何もないことまたは空は、偉人の精舎です。この精舎に住むことができれば、何も苦がないので皮膚が透きとおって艶が出てきます。あるのはいつでも穏やかに静まっていること、清潔、明るさ、静かさだけです。

 心も体も透きとおってくるので、皮膚が澄んで艶が出ます。恒常的に空の中にいるので、スンニャターヴィハーラあるいはマハープリサヴィハーラです。

 しかし実践に関して言うならば、また別の呼び方、「パラマヌッタラ スンニャター」があります。これはニミッタのない集中した心という意味、つまり三種類の煩悩から抜け出ている澄んだ心、究極の空という意味です。それ以上のものがない空。つまり空以外に何も捉えている物(ニミッタ)がないサマーディで、すべての煩悩から解脱させる空があります。

 こういう状態を、どの時代のどの人たちも、いつでも一番崇高と見なします。この宗教でもどの宗教でも、いつでも必ず「空」を最高のものとします。そしてこの時代もどの時代も、ブッダの時代も現代も、あるいは未来の時代も、あらゆるものより特別に崇高なものです。

 ですから『すべての智者は、涅槃は最高のものだと言う』、あるいは『ボロマタム、つまりすべてのタンマより崇高なタンマ』というブッダの言葉にあるように、空を最も崇高なものと見なしします。

 涅槃とは空のこと。お話してきたように究極の空のことです。だから空と呼ぶものが最も崇高なものです。人を穏やかな幸福にし、皮膚を透明に艶やかにする、ブッダでさえ空の中にいるという、心に銘じるべきタンマということになります。ですから誰もが興味をもって学び、理解し、常に生じさせて心の基本としなければなりません。空を目指すだけで十分です。

 いろんなことを話す必用はありません。いろんなことを考える必用もありません。いろんなことをする必要もありません。考えるのも、話すのも、するのも空だけ、空でいるだけです。重要なことであり、最高のことであり、すべてがこの中に集約されているからです。そして空でない時は混乱なので苦があるという、私たちに本当に関わりのある問題です。空になれば、そのとき幸福になります。

 ですからはっきり言えることは、幸福でないのは空でないからです。空になれば幸福になります。どうぞこの原則を手掛かりにして、それから本当の空に到達するまで、次々に手掛かりを探していってください。少なくとも、空なら幸福であり、幸福なら空があるからと信じなくてはいけません。

 次はなぜ空でないのかという問題です。タンマで言えば、空でないのは混乱しているからという答えになります。つまり常に混乱を作り出しています。休もうとしません。常に作り出しています。どこで何を作っているのでしょうか。

 それは煩悩や欲望で考え、執着することです。これは私、これは私の、と考えれば煩悩や欲望があります。こうしたい、ああしたいという渇望があります。渇望で何かをするのはこのように考えるからで、だから空でないのです

 考えたり作り出したりする欲望煩悩を持たないでください。そうすればすべては空です。体は何をしていても、考えて作り出さないので、心はすっかり空です。考えというのは煩悩や欲望で作ることであり、知性で作ることではないということを、良く理解し、良く憶えておいてください。

 知性が来れば作り出しません。考える身心である必要はありません。空にすることを心得ているので、空の方へ変化します。しかし知性がなければ煩悩と欲望が来るので、作ります。つまり混乱になります。ですから、空でないのは考えるからなので、煩悩や欲望で考えることを完全に、あるいは可能なかぎり追い出さなければなりません。

 次に、なぜ考えるのか、ということを考えてみます。それは対のものに騙されているからです。この対のものは、誰でもどちらかに溺れています。この対を熟慮してみれば、すぐに何だかが分かります。一番多くの人が迷う対は、善と悪、徳と罪、幸と不幸です。

 みなさんはこれらの対を誤解しているか、あるいは溺れています。この対はたくさんあります。金持ちと貧乏。これも対です。得と損。これも対です。勝者と敗者も対です。得ること、失うことも対です。何でもかんでも対になっています。男性と女性も対です。好きと嫌いも対です。満足と不満足も対です。香しいものと臭いもの、響きの良い音と耳障りな音、美しいものと醜いもの、これらはすべて対になっています。非常に多くて列挙できません。

 しかしそれは耽溺の基盤であり、考えの基盤です。欲望と煩悩の考えなので、煩悩で渇望します。考えも煩悩で考えます。たとえば醜さを嫌って美しさを愛し、考えは美しくなるような考えになります。

 貧困という言葉を嫌い、金持ちになるような考えになります。当然このように関わります。このように対になっているので、煩悩や欲望で欲しがります。一方しかなく、対になっていなければ考えはありません。考えは自然に止まります。

 しかし、善があれば悪があるように、反対のものが比較させます。悪がなければ善には何も意味はありません。善と比べる悪があるので、善は価値あるものになります。幸福と苦も同じです。比較する苦があるから、幸福は良いもの、高値のものになります。

 苦も、比較する幸福がなければ恐ろしいものではありません。それらは正反対の対であり、どちらか一方を選択させるものなので、結果として一方を愛させます。それが迷いであり、激しい煩悩、欲望です。

 いつか賢くなって、どちらも求めなくなれば、その時は空になります。つまり善も愛さず、悪も嫌いません。恬淡としていればそれは空です。幸福も求めず苦も厭わないで平然としていられれば、寂滅であり、空、あるいは涅槃です。

 しかし、本当は幸福でない種類の幸福に溺れれば、すべての世俗的な幸福という意味ですが、人間界の幸福も、天国の幸福も、梵天界の幸福も、すべては騙すもの、苦と対のものであり、涅槃ではありません。

 涅槃である人は、幸福や苦に無関係だから空です。しかし人間はそれも幸福と仮定で呼ぶのが好きです。阿片中毒のように、前々から幸福の中毒になっているからです。何でもかんでも幸福にしてしまい、涅槃は究極の幸福だとするのは、低劣な幸福を捨てて涅槃のレベルの幸福に関心を持たせるようにするためです。この問題に興味を持ったら、空を見つけなければなりません。涅槃とは空の呼び名だからです。

 ですから、涅槃のレベルの幸福とは、何かを得たり何かになったりする、みなさんが考えているようなものだと理解しないでください。本当の涅槃レベルの幸福は、本当にまったくの空です。それには対がありません。つまり苦もなく、幸もなく、善もなく、悪もなく、徳もなく、罪もありません。

善悪や徳や罪があれば、輪廻を繰り返して、善人になったり悪人になったりしなければならないので、涅槃になりません。善悪を抜け出し、徳と罪を超え、幸福や苦を渇望することをすっかり超越した時、その時空になり涅槃になります。ですから涅槃には対のものがありません。

 涅槃に到達した人は、対のものに迷わされる心はありません。対のものより上にいる空です。みなさん、空と呼ばれるものに対があるかどうか、知性で考えてみてください。対のものは決して空ではありません。つまり一つのもの、ある部分として存在するものです。つまり何らかのものになるので、人はそれを良いとしたり、悪いとしたり、これは短い、これは長い、これは高いこれは低い、これは黒いこれは白いとします。これらは空ではありません。それらは「部分」です。

 しかしすっかり空になってしまえば、何と対になるでしょう。何をもって何の対とすることはできません。それが空です。ですから対ものは混乱にあると見ることができます。空にはありません。空になれば反対のものはありません。対のものは混乱の中にしかありません。考えたくないと思うなら、対であるものについて熟知しなければなりません。

 良く知らなければ、知らない分だけ考えます。考えている時は空ではありません。空でない時は必ず苦です。ですからこれらの対のものはすべて、騙して混乱させるものと見なければなりません。空になりたいと望むなら、それらの上にいなければなりません。対と見ないで、すべてを空と見れば望みどおりになります。

 すべての対を一つにまとめることができるかもしれません。一対というのは益と害です。一方は益であり、もう一方は害。この一組で十分です。好まない方は害と捉え、好ましい方を益と捉えるからです。しかしいろんなものには、実際、何であれあらゆるものに、常に益と害の両方があります。

 自分が最高に愛しているものを良く見てください。害であるものも同じだけあります。しかし益の面だけを選んで見て、害の面を見ないから愛すのです。それは益と害の両方で成り立っているということを考えないで、良く調べもせずそれ、あるいはその人を愛します。

 例えばこの建物は益があるでしょうか、害があるでしょうか。智慧のある人なら、益と害の両方があるということが明らかに見えます。益はこれを利用することができます。害は維持などが面倒なことです。掃除をしたり磨いたり、洗ったり、拭いたり、いろんなことを防いだり管理しなければなりません。これが害の部分です。しかしこれ(建物)があるので座ったり寝たりできます。このように益と害の両方があります。

 人は迷って、益の部分を愛し、害の部分を嫌うので、上下する苦を味わいます。愛すことも愛すことで疲れ、嫌うことも嫌うことで疲れます。愛も嫌悪も混乱で、静まることではありません。

 この建物より価値のあるもの、たとえば何百万バーツというお金、百万というお金は益でしょうか害でしょうか。良く考えてみてください。みなさんが正しい方法で、誰にも被害を与えずに百万バーツを手に入れたら、非常に喜んで益とするでしょう。

 しかしそれを手に入れる苦労の害について考えてみてください。百万だけ疲れるはずです。百万手に入れたら、百万疲れます。百万の労力を使わなければ、百万のお金は手に入りません。ですから害も百万、益も百万です。しかし私たちは愚かにも益の面しか見ないので、この百万のお金は素晴らしいと満足します。

 次に百万のお金を、不正で、つまり誰かを騙して手に入れても、益と害は同じだけあります。百万分の悪で百万のお金を手に入れます。更に愚かなことは、百万の金を手に入れた百万の悪と知らず、この金は素晴らしいと満足します。

 もし親の遺産を百万バーツもらったら、素晴らしく良いことだと思いますか。こう質問するのは、良く考えれば、害は同じ百万あるという意味です。つまり百万分愚かなので働くことを知りません。親の遺産を百万貰わなければならないのは、百万だけ愚かです。

 いい気味です。これが百万の遺産をもらう害です。益は好きなように使えることで、害つまり百万の愚かさと対になっています。だから益だけのものは何もない、すべては同じだけの害で成り立っていることが分かります。

 次にみなさんが嫌っているものについて考えてみましょう。大便などの汚いものは、臭くて厭わしくて煩わしく、害だけだと考える人がいるかもしれません。しかしなぜ、益の部分を見ないのでしょう。その役目にふさわしい利益があります。

肥料にも使えます。土壌を良くするので、世界のすべてのものを正常に循環させることができます。少なくとも、排便をすれば、その人は死にません。排便をしなければ死んでしまいます。私たちが一番嫌っている物でも、益と害は同じだけあるということです。

 次にそんなに汚くないもの、たとえばここにある小さなゴミは、みなさん害ばかりで益はないと考えるでしょうか。これもそうではありません。ゴミでも当然何らかの益があります。お寺に落ちている一葉の枯れ葉にも、同じだけの益と害があります。害だけ、あるいは益だけと一面しか見ないのは愚かな人です。

 つまり益と害がないものは何もないということです。そしていろんなものは、ふさわしい使い方をすれば、とたんに益の面が現れます。それは、そのもの自体に益と害があるからです。ですから益のある良いものを、そのもののもっている正しい方法で用いれば益があります。そしてそのものの意味と反対に使えば、とたんに害が現れます。

 例えば大便を正しく使ってご覧なさい。一方的に益だけになります。しかし使い方を間違ったり、間違った関わり方をすれば、一方的に害だけになります。害になったり益になったりするのは、どちらの面を捉えるかという捉え方次第、人間の愚かさ次第です。

 本来は、どのようにも捉えるべきではありません。害あるいは益と捉えるべきではありません。心を空にすれば、害や益、好きや嫌いが生じるように捉える必用はありません。それが空、あるいは静かささです。

 だからみなさん、世界を空と見られるようになるために、ブッダの知識を使わなければなりません。益だ害だと、どちらか一方を見てはいけません。本来の心、本来の知性は、このように空に見せてくれます。

あるいは、もし害が見えたら益も見ます。益が見えたら必ず害も見ます。ちょうど良く相殺すれば空になります。みなさんが箱の中に大事にしまっている良い物も、同じだけの益と害で成立しているとよく見てください。そうすれば愛すことや大事にすること、心配がなくなり、心は空になります。

 しかし一面的に益だけを見ていれば、愛や満足が非常に強くなります。眠れないほど、神経の病気になるほど、最後には精神病院へ入院しなければならないほどになります。それが箱の中に大事に仕舞ってある、益と害、両面ある物です。

 つまり、熟慮して見ることを知っていれば、益からも害からも逃れることができ、出合うのは空のものばかりだということです。あるいは益が見えたら必ず害を見なければならないということです。相殺して空のものになるからです。これもそれらのものを空と見る方便です。

 水晶や指輪、ダイヤや宝石、何でも、あるいは人物や動物、非常に愛し満足している体も、必ず害と益と同じように見なければなりません。そうすれば淡泊になれ、あるいは空になります。そして苦は生じません。

 ですから空と見るよう教えています。益や害のあるものと見ないでください。空ではありません。混乱です。そして苦になります。

究極の空に見えるようになれば、その時即座に涅槃になります。心が空になっている時、その時心は涅槃になっています。厳格な空なら本物の涅槃です。一時的な空なら一時的な涅槃です。それでも良いことです。苦や混乱より良いです。もし厳格な空を生じさせることができなければ、できるだけ空を生じさせるよう努めます。

   次に「空は苦ではないので涅槃と呼ぶ」という項目について熟慮してみます。私たちが信仰しているもの、たとえばブッダ、タンマ、僧は空であり、仏法の本質は空であり、僧の本質は空であるというのは、本物のブッダ、本物のタンマ、本物の僧という意味です。

 ほとんどの団体のように、偽のブッダ、偽の法、偽の僧ではありません。あれは本当の仏、法、僧ではないのにそれを信仰するので、偽物に出合えば混乱します。空ではありません。もし本物のブッダ、タンマ、僧に出合えば、必ず空です。どこへも行きません。他のものにはなりません。行くのも、なるのも空だけです。なぜブッダの要旨は空と言うのかは、煩悩と欲望がすべて絶滅し、捉える自分がないからです。

 その教えが本物の教えなら、空であるという意味です。空は実践から生じる結果であり、正しい実践によって到達するもので、空であるものはその人に現れます。

 本当の僧は空の心があります。すべてのものを、自分、あるいは自分のものと捉えないからです。僧とは黄衣でも、黄衣を着た体でもなく、その中の最高の徳を言います。つまりそれも空ということです。ですから本物のブッダ、タンマ、僧は空なのです。

 みなさんに自分という執着が生じたら、他の自分でなく、空を自分と捉えてください。空を自分と仮定します。体や心やいろんな考えを自分と捉えないでください。空である自分を捉えてください。そうすれば苦でない自分です。しかしこれは仮の話しです。

 本当には空は自分にはなり得ません。つまりブッダ、タンマ、僧、あるいは自分、あるいは本当の心、本当のタンマというようなものは、すべて空です。空でなければ偽物です。偽物は、人を困らせ、苦しめ、逃げられません。

 次に空はどこにあって、どこへ行けば見つかるのか、ということを考えてみましょう。これは非常に滑稽な話です。みなさん、空はどこのあるのか、良く聞き、良く考え、熟慮してください。空に触るかどうか、試しに右手を挙げてみてください。空に触れるかどうか。手で鼻や額を触って、空にふれるでしょうか。

 みなさん、空はどこにあるのか考えてみてください。熟慮する知性があれば、空はどこにでもあり、自分と呼ぶものの中にもあるということが分かります。すべてのものの中にあります。どうあるのか分からないほど、つまり初めから、元々、私たちの中にあります。そして本当にあります。しかし見つかりません。

 ある馬鹿な人の話のようです。他人が額(ひたい)の話しをしているのを聞いたのですが、その人は額を見たことがありません。額はあるので、どこへも勉強に行ったり探しに行く必要はないということを知りません。賢ければ手で撫でてみれば、自分の額があるのが分かります。賢くなければ見えません。自分の額が見える人がいるかどうか、考えてみてください。

 しかし鏡に映せばすぐに自分の額が見えます。鏡とはタンマのことです。ブッダがラフラ(ブッダの長男)に、『タンマは真実を知るために映して見る鏡である』と言っています。人々は鏡に映して自分の顔を見ることができます。

 今私たちはブッダの鏡を使わなくなってしまいました。自分自身や友達を益々あざむく化粧をするために、夢中になって鏡に向かいます。ということは、ブッダの鏡はほとんど使わないのに等しいです。タンマの鏡に映して見れば、自分の額に空を発見します。自分の中に空を見つけるという意味です。

 自分の中に苦と無常と無我を見つけ、スンニャターつまり空、自分の中の何にも執着するべきではないということを見つけます。私たちのどこからどこまで空なのですから、自分の中に見つけられるのに、それが空と見えません。

 みなさん、「私」という言葉を良く考えてみてください。ここで言う私とは、いったい何でしょう。冒頭で、空という言葉は正しい理解もあれば間違った理解もあるとお話ししたように、私という言葉も同じです。正しい理解もあれば間違った理解もあります。誤解なら、体や心を自分と思います。

正しい理解なら、空を自分とします。空を自分とするというのは、空のものだからです。「私」と呼ぶなら、「私」と仮定した「私」です。だから本当の「私」はいません。あるのは空だけですが、仮に自分と呼んでいます。このように自分を空にしてしまえば、いろんなものは自然に空になります。何もかも空になります。

 『世界を空と見て、自分を空と見なさい。そうすれば世界のすべてが空になる』というブッダの教えで実践したいと望むなら、『必ず自分という見方を抜き去りなさい』とブッダが言っているようにすれば、自分も空になり、世界のすべてが空になって、残る苦はありません。

空になったら空から落ちるように落ちてしまうと考えるのは、物質としての自分を考えるから落ちるのです。しかし本当の自分を空と見れば、落ちるものはありません。同じ空のものです。すべてのタンマは同じように空なのですから、存在するものも、落ちるものもありません。それが本当の空です。

   掴まるもの、繋ぎ止めるものがないと言うのは、まだ愚かで恐がる人が言うことです。しかしタンマに到達した人、空に到達した人は、何かに掴まる必用も繋ぎ留める必用もありません。今何に掴まりますか。なんなら、今私たちは空に掴まらなければなりません。

 すぐに混乱ばかりになるので、空に繋ぎ止めなくてはなりません。空を捕まえて繋ぎ止めるように努め、自分を無くせば、苦も消滅し心が空になり、体も空になり、何もかも空になるので苦が消滅します。

 本当にあるのは空だけだということがはっきり見えます。あるいは本当にあるのは涅槃だけだと言うこともできます。それ以外のものはイカサマとして存在し、騙して対のものに見せ、愛させたり嫌わせたりして混乱させるばかりで、サンカーラであり、作られたものであり、最高に苦です。

 しかしこの真実が見えるようになれば、この世と言わずどの世と言わず、自分自身も含めて、そしてすべての生き物も、ありとあらゆるものが空に見えます。だからすべてが空になり、あるのは涅槃だけで苦はありません。知識として明確に残っているのは、空あるいは涅槃だけです。体と心は知識として、そして知識と感覚の居場所として残っています。だから苦はありません。

 そのように感じる体と心は、純潔な五蘊と仮定した阿羅漢の体と心です。煩悩と欲望で満ちた、空でないみなさんの五蘊とは違います。聖人の蘊は空が増えて行き、煩悩欲望は減っていきます。阿羅漢の蘊はすべて空です。残っている煩悩欲望はありません。だから苦の終焉であり、残っている苦もありません。

 智慧だけでできている心と体は、いつでもサティがあると言われるように、当然つねに空が見えます。だからいつでも苦はありません。空だけです。それ以上のものはありません。苦がないだけで十分です。何らかの混乱になる幸福を、わざわざ求めることはありません。対のものは、幸福であれ苦であれ、混乱です。空だけが幸不幸、善悪、徳や罪の上にあるもので、阿羅漢だけにあるものです。

 今みなさんはここに集まって、阿羅漢を偲ぶ儀式を行ない、ブッダを初めすべての阿羅漢の方々を「崇拝する。拠り所だ。帰依する」と表明しています。だからみなさんは阿羅漢の心を知り、空以外には何もない阿羅漢のすべてを知らなければなりません。そうすればみなさんも、心をそちらへ傾けていって、最後には苦から解脱することができます。マーカプナナミーに集まった甲斐があります。

 今していることを儀式と言います。儀式だけでは十分ではないので、みなさんは本当にしましょう。だからこの真実を学んで、みなさんが尊敬し拝み、足跡を追う手本としている阿羅漢と同じ結果が得られるまで実践します。

 みなさんがマーカブーチャーを儀式だけに終わらせず、本当に役立てていただきたいと願っています。つまり必ず空に到達して、幸・不幸、善・悪、徳・罪、混乱、何もかも超越して、それらの上にいてください。残るのは、空、あるいは穏やかさだけです。人間に生まれたことにふさわしく、仏教に出合います。仏教教団員であり、ブッダの弟子である人に与えられたのは、今述べてきたように空だけです。

 そうすれば、ブッダが本当に与えたものを貰った人と言えます。人間に生まれた機会を無駄にせず、仏教のすべてに出合ったと言われます。『私は空についてしか教えない。すべての苦や世界の上にいるなら、世界は空に見え、すべてのものは空に見える』と強調したブッダの言葉を心に銘じてください。

 空である人、空に到達した人、空の心を持った人を尊敬し拝むことは、誰にとっても善いこと、人間がかならず得なければならない最高のものを得る良い機会とします。

 そして友達が「空は恐ろしいものではなく、非常に求めるべきものだ」と正しく理解できるように、教えてやることも知ります。みなさん誰でも、空という意味である仏法僧を信仰する力によって、自分の心をより空にすることを知ってください。そうすれば最後には、言わなければならないこと、述べなければならないこと、しなければならないことはありません。なぜなら見るべきもの、得るべきものすべてを得るからです。

 今日のお話は、空とは阿羅漢の要旨と結論します。今日は阿羅漢の日ですから、みなさん是非空に到達してください。たとえ少しでも、是非到達してください。完璧な空でなくても、自分のサティの力に見合った空にしてください。

 今空について話したり聞いたりしている時のように、それなりに空の心がなければなりません。みなさんの心は空か空でないか、どう違うかを、家にいる時とここで話しを聞いている時を比べて見てください。これが理解できれば、間違いなく空の理解がどんどん深まります。空について十分な知識をもって帰宅し、そして自分が更に空でいられるように、管理できるようにしてください。

                                                                  (1960年2月12日)


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