心を空にするには

 空の話をお聞きになりたいなら、要旨、つまり空の要点をお話しなければなりません。時間があまりないので、要旨だけにします。理解できれば十分です。

 順に理解しなければならないことは、私たちが世界と呼ぶものは、普通の状態では空なので、空だと知らなければならないということです。世界は空と知れば、心も空になります。つまり空っぽの心になります。執着がなく、苦もありません。だから混乱した心は、混乱ばかり作り出すので、苦であり混乱した心です。話しの要点はそれだけです。

 本当の自然の真実では、世界は空です。心を空と見れば、心は空になるだけです。つまり何にも執着しません。だから苦はありません。あるのはありののままに知る知性だけです。しかし世界に騙されて、俗人の心は空でないと見るので、愛すものと嫌うものがあり、心は愚かになり、迂闊になり、作り変えられて異常に、つまり空でなくなります。混乱した心になるので、苦です。話しの要旨はこれだけです。

 ですから、憶えるために繰り返させていただきます。世界は空です。心が混乱しているか空かは、どんな状態の世界を見るか、によるのです。世界を間違って見ると、心も混乱します。世界を正しく見ると、心は本来のままの空ですから、何でも苦を感じないですることができます。これだけで十分です。五分話せば終わりです。

しかし実践は、もしできなければ、死ぬまでずっと実践しなければならないかもしれません。あるいは十分賢くなければ。つまり心が適度な空にならなければ、いつでも混乱しています。これが初めの部分の簡単な要旨であり、話全体のテーマでもあります。

つぎに空の世界というのはどんなものか、詳しく説明します。普通世界は空というのは、どういう意味でしょうか。これは重要なことです。

つまりブッダに「どうしたら死の威力を超えられますか」と尋ねた人がいました。パーリ語では、「閻魔大王に私が見えなくするには、どうしたら良いですか」という言葉で、「どうしたら閻魔大王に掴まらないですか」という意味です。タイ語で言えば、「どうすれば死の威力を超えることができるか」です。

 ブッダは、「モッカラーチャよ、あなたはサティをもって、いつでも世界を空と見なさい。あなたがそのように世界を空と見れば、閻魔大王にはあなたが見えない」と言いました。こういう主旨です。誰でも世界を空と見ている時には、閻魔大王はその人を捕まえることができません。つまり苦は、死に関わる問題はありません。自然に存在する死も、死、あるいは苦と感じません。死を捉えないと言います。

 世界を空と見る、というところが重要です。これは意地悪で無理に「空と見る」と言っているのではありません。それについては問題ありません。死は空になります。人がいなければ苦はありません。体が自然に滅びて死んでも、死と感じたり、苦と感じたりしません。死を捉えないと言います。

 重要なところは、世界を空と見なさい、という点です。この項目は、無理に空と見るように、つまり空である真実を見るように言っているのではありません。ほとんどの人は見方を知らないので見えません。だから作って、わざわざ言葉や教えを作って唱えたり憶えたりします。

 考えるにも、アーチャンやら誰やらが決めたやり方で考えます。それでは見えません。それはわざと見たり、わざと考えることなので、利益がありません。だから本当のこと、正しいことでなければなりません。世界を空と見れば、苦の問題はありません。

 世界をどう見たら空に見えるでしょうか。初めに、世界と呼ぶものは何かということをお話ししなければならないかも知れません。世界とはすべての自然、と言うことができれば良いです。すべての、つまり例外なくすべての自然が世界であり、パーリ語の「ダンマ」という言葉の意味と一致します。パーリ語のダンマという言葉は、何ひとつ例外のないすべての自然という意味です。

 勉強に役立てるために、この言葉に関する記憶を復習させていただきます。「タンマ」という言葉も「自然」という言葉も、すべての自然という意味で使うなら、本当の自然について、自然の法則について、自然の法則に従ってしなければならない人間の義務について、そして義務の結果について考えなければなりません。このように四段階になって隠されています。

 本当の自然、天候、形も名も、ありとあらゆるものです。形とは固体である物質です。目・耳・鼻・舌・体で知覚できるものを物質と言います。パーリ語では声も形、芳香も形、つまり物質の部類です。形・声・香・味・皮膚の接触はみんな形です。簡単に見えるもの、大地・樹木・空・山・太陽・月などが、物質、形です。これが一つの部類です。

 もう一つは名、つまり心、考えや感覚を意味します。世界とは形と名であり、それ以上何もなりません。その上その二つが関わり合わなければ何もありません。

 心と体、形と名が関わり合えば、あれこれ知る働きをしますから、世界が現れます。心は感じるものだからです。心が勝手に感じるだけなら世界は必用ありません。心が働くオフィス、職場のような体があるので、心は知り、考え、思うことができ、世界が現れます。心が感じるからです。

 心が感じなければ世界は無いのと同じです。だから世界と呼ぶもの、つまり形と名は例外がありません。人間の体の外部の物質も、人間の体も、人間の心も、すべてこの言葉に含まれ、世界あるいは自然であるタンマと呼びます。タム、タンマ、自然であるタンマは一つのレベルであり、世界と呼ぶものの一部として知らなければならないものです。

 自然には自然の法則があります。これには実体がなく、法則と呼ぶ一つの真実です。たとえば世界は無常であり、苦であり、無我であるというようなものです。これを自然の法則と言います。世界、あるいはいろんなものは、原因と縁によって経過するので、誰も変えることはできません。誰も支配できません。これを自然の法則と言います。つまり原因と縁によって経過することが、最も重要な意味です。

 もう一つの恐ろしい法則は、止まらないことです。キリもなく変化していて止まりません。絶えず作り出しているのがあまり見えないので、良く見なければなりません。休まず絶えず作り出しているということが見えるように、勤勉に学ばなければなりません。

たとえばみなさんがご飯を食べると、ご飯は血肉を作る原因になります。これは結果です。この結果である血肉は、やがて生活や行動をする原因になり、このように続いてまた何らかの結果が出ます。そしてそれがまた原因になります。このように止まることを知りません。この絶えず作り出すことを、自然の法則と呼びます。

 三つだけ例を挙げてお話しましょう。「無常・苦・無我」の法則を自然の法則と呼びます。お互いに原因になり縁になり、そして原因と縁によって経過することを、自然の法則と呼びます。それは止まることを知りません。際限なく作り出します。これも自然の法則と呼びます。こられは世界という言葉に含まれます。

 一番初めに自然。二番目が自然の法則。つぎは三番目の、人間は自然の法則に合った行動をしなければならないという義務です。自然にある義務というものがどれほど怖いものか、どんなに重要か考えてみてください。

 食べる物を求めなければならないことから始まって、体の管理もしなければなりません。病気の薬も必要です。やれ生殖もしなければならないし、やれ危険を回避しなければならないし、一生懸命いろんな苦を滅す努力をして、苦を絶滅させなければなりません。これが避けることができない自然に従った義務です。

 だから誰でも毎日大変な義務があります。世界にあるので、世界の一部と捉えます。体を管理する義務、生きる義務、その他の義務も含めたさまざまな義務の遂行。この三番目も世界の中にあるので、世界という言葉の一部分です。

 最後は受け取る結果です。受け取るお金や金塊、物や名誉や名声など、何であれ世俗的なものです。気に入ることもあるし気に入らないこともあります。もしタンマの方で最高の義務を実践すれば、聖向、聖果、涅槃が得られます。これが自然に得られる結果と言います。大きな原則として見れば、このように四段階になっています。

 もう一度復習すると、自然そのもの、自然の法則、自然に従ってしなければならない人間の義務、そして人間が自然に従った行為から得る結果、全部を簡単に言えば、世界という一語に含まれます。 

 このように広く世界を見れば、良く理解できます。つぎに、世界全体を空という角度から見ていきます。自然そのものでも、自然の法則でも、義務やその生じる結果でも、空と見てください。

 パーリ語経典のブッダの言葉に、「空とは自分がないこと、そして自分のものがないこと」と明言されています。自分がないこととは、アッター(自我)がないこと。自分の、がないこととは、アッターニヤ(自分のもの)がないこと。パーリ語の二語です。

 アッターとは自分という意味で、アッタニヤーとは自分のものという意味です。世界はすべて自分がなく、自分のものがない。自分である部分は全くないからです。まだ自分の考えについて、俗人の感覚について言わないでください。今はとりあえず本当の自然についての話しにしましょう。

 自分がないということを見てください。どの部分も自分ではあり得ません。たとえば際限なく作り出す自然の法則によって、流れ続けているからです。止まることはありません。絶えず流転している物のようです。たとえば心の中の考えはいつでも変転していて、それが行動に働き掛けるので、いつでも行動があり、行動も変転しています。

 つぎは命や心がないもの、例えば石ころ、土塊なども流れています。つまり初めから変化し続けていて、安定しません。それらは存在し、変化し、再び無くなり、現れなくなります。こういうのを常に流転していると言います。

ですからすべての形は、絶えず流れています。すべての名も絶えず流れています。要するに形も名も絶えず流れています。自分(あるいはそのもの)と規定できるくらい恒久に確実で変わらない部分はどこにもありません。絶えず流れています。

だから自分がないと言います。それらに自分がなければ、誰も自分のものとして占領(占有)できる部分、あるいは時間はありません。だから自分の、もないのです。自分もなく、自分の、もありません。すべてこのようです。

 私が言ったとおりに憶えるのではなく、良く理解し明らかになるように、自然には自分、自分のものがなく、自然の法則にも自分、自分のものがなく、自然に従った人間の義務にも自分、自分のものはなく、生じる結果にも自分、自分のものはないとはっきり理解できるようになるまで、自分自身で見なければなりません。

 つぎに、いまここに座っているみなさんの体を見ていきましょう。誰でも体と心があって考えることができるので、だから自分と考えます。だから考えられます。私はしたいようにすることができるというのは、それこそが作り出していることだと、その人が気づかないからです。

 休まず絶えず作り出し、たえず原因と縁によって変化します。だから体が生じ、考えが生じ、絶えず流れていき、行動し、行動の結果になります。それは本当には、決して誰かの「自分」ではありません。絶えず作られているだけです。

 体が心を作り、心は眼・耳・鼻・舌などを通して入ってくる形・声・香・味などによって作られます。絶えず作っています。絶えず働き掛けています。生きている人間にも自分はなく、あるのは自然のものの、自然の法則に従った、それらの原因と縁に従った流れだけです。

 だから人には自分がないということが分かります。そして家やお金など、人間が自分のものと考えるものも、持ち主と同じ様相、つまり絶えず流れています。ですから自分はありません。世界中を一つにまとめて、世界は空。ブッダは世界をこのように見ることを望んでいます。

『いつでも世界を空と見なさい。そうすれば閻魔大王にはあなたが見えない』と言います。閻魔大王にはあなたが見えないというのは、死を超えたことです。すべてのものを超越したので阿羅漢です。

 この世界は空であるというのは、何がないから空なのか。自分、自分のものがないことである、という最初の意味をしっかりと捉えましょう。そして世界という言葉の意味を良く理解します。世界とは丸い土の塊だと理解しないでください。今述べたような四段階で理解しなければなりません。つまり自然そのもの、自然の法則、自然にあった義務、義務によって作られた結果。これを一まとめにしたものが世界です。

 世界には自分、自分のものがないので、本当には空であると結論することができます。世界の一部分である一人一人の人間には、その中にはいろんなものを作り出すことができる体があり心がありますが、どんな状態でしょう。それは、愚かにしたり賢くしたりする自然の力によってそうなりました。ほとんどは愚かな方です。

 なぜなら何かが眼・耳・鼻・舌、あるいは皮膚の接触を通じて心に入ってくると、これは気に入った、これは気に入らないというように、つまりこれは好ましい、満足、これは好ましくない、不満足というものを作り出すからです。これなんです。心を作り変えて一方を愛させ、もう一方を嫌わせます。

 だから愚かなのです。惑溺です。真実でも本物でもないのに、自分を作り上げます。これなんです。嫌いな自分。好きな自分。動物。物。物質。人間。愛するもの。愛さないもの。これを、明らかに感情が生じ、欲望が生じ、執着が生じたと言います。

 自分という感覚は不確かなものですが、感じるので、本当にあると言います。なぜなら私、俺、こうだ、ああだと現実に感じるからです。そして惑溺する心で、十分、最高に自分の物になります。その迷った愚かな心は、生まれた時から愚かに溺れるように作られたからだ、ということを観察して銘じなければなりません。

 もしずっと胎児のままで、苦楽も善悪も、寒さ暑さなども感じなければ、自分、あるいは自分のものを作ることはありません。しかし生まれてきた子供は成長して感覚が発達するので、これは好ましい、これは好ましくない、これは美味しい、などと感じるように作られます。もし感覚に合えば好んで愛し、感覚に合わなければ嫌って愛しません。二つの区別が生じて、いろんなものを良い、悪いと判別する感覚が生じます。

 だから良い物を愛し、悪いものを嫌います。本当の感覚はこうです。何かを良いとして好めば、それを良いと言って好み、そして作ります。外部の環境によってこれは良い、あるいはこれは悪いと理解させられます。それは仮定、あるいは同じように迷っている人たちの理解にしたがっているだけです。なぜなら真実は空だからです。良いも悪いもありません。空なのです。

 しかし迷うと、自分の気に入った方を良いと言って好み、自分の期待に添わない方を悪いとします。良いものと悪いもの、徳と罪、幸福と苦の、二つの理解が生まれます。そして自分、自分のという感覚もどんどん厚くなります。そして解決しなければならない問題がどんどん増えていきます。これが苦です。

良い方の問題も、どうしたら手に入れられるかという苦になります。悪い方の問題も、排除することができなければ苦になるので、辛いです。しかしもともとの感覚、つまり空があれば、あるいは良いも悪いもなければ、何も問題はありません。

 ここでちょっと別の話を挿入させてください。みなさんキリスト教、あるいはユダヤ教を軽蔑しないでください。彼らは三千年以上前から、創世記という教典の中で、初めに神が地球を作り、それから地球上に人間、つまりアダムとイブを作ったと言っています。この作られた人間にはまったく苦がありませんでした。神は人間を快適な楽園に住まわせ、ある木の実を食べてはいけないと禁じました。

 二人はその楽園で幸福に暮らしていましたが、ある日蛇の姿で現れた悪魔にそそのかされて、禁じられた木の実を食べてしまいました。するとアダムとイブが木の茂みに身を隠すという問題が生じました。その木の実を食べると、「身をまとう、まとわない」という感覚が生じたからです。

 その木の実を食べる前は、身をまとうとか纏わないという感覚はありませんでした。その果物を食べると、知恵である感覚が生じ、身をまとうこと、まとっていないことの区別を知り、良いことと悪いこと、女であることと男であることを知りました。だから恥ずかしくなって木の茂みに身を隠したのです。

 神がいつものように二人に会いに来ると、その日はどこに行ったのか姿が見えないので、叫んで呼びました。二人は茂みから返事をしましたが出てきません。そこで神はどうして出てこないのかと尋ねました。彼らが、何も身にまとっていないので、裸なので恥ずかしいと答えると、神はすぐに、二人が禁じていた木の実を食べたと分かりました。

そこで、いままでは(区別を)知らなかったのに、どうして今は知っているのかと聞きました。二人は追い詰められて仕方なく、知恵の木の実を食べたことを白状しました。神は、この二人が永遠に苦しむように呪いました。この初めの夫婦が子供を産むと、子孫全員が永遠に苦があります。

 これなんです。良く考えれば理解できます。男だ、女だ、衣服をまとっている、いない、良い、悪いなどと知る前は、こういうことを知る前は何も問題はないのです。人間は快適でした。つまり空でした。これが良い、これは悪い、女だ、男だ、着ている、着ていないなどと知ると、とたんに問題になります。すべて苦です。キリスト教の人でもこのような意味は理解できないかもしれません。聖書を持ってきて私たちに信じるように言いますが、私たちは信じません。

 つぎに私たちは仏教教団員として、タンマあるいは自然を広く深く見ます。そう見れば、彼らが言っていることは正しい、ただ人間を基準に話しているだけで、非常に正しいと分かります。意味を読まなければなりません。意味を読まなければ、バカバカしすぎる話しで、信じられないお伽噺です。

 しかし正しく意味を読み取って、事象を基準に見れば、私たちのと同じです。善・悪・徳・罪・幸・不幸・男・女などと捉える前は苦はありません。しかし捉えたとたんに、瞬時に苦があります。だから一日のうちに善・悪・徳・罪・幸・不幸・男・女などと捉えた回数だけ苦があります。だれも助けることはできません。良い悪い、好き嫌いなどと区別することは愚かなことだということが分かります。

 どちらも無視することができれば、だまして愛させる物にも平然としていられます。だまして嫌わせるものにも平然としていられます。これが元からある空です。二つに区別するものは何もありません。それが、いつでも空という真実を知ることです。それは苦でなく、混乱でもありません。

 つぎは、これも不思議なことですが、触れるもの、囲むものが多くなればなるほど、愚かになり、区別して捉えることが多くなることです。非常に良い、非常に悪い、あるいはとても幸福、とても苦しい、何でも「とても」「非常に」になって循環します。

 いろんなことがあるので、大混乱になって、そして非常に苦になります。一日に何百もの問題があることもあります。混乱です。こういう心は愚かになってしまった、元々あった空ではなくなってしまったと言います。

 形が目に入ると、バランスを欠いた、正常さを欠いた刺激になるので、必ず一方へ傾いて、好きか嫌いになります。耳から入っても同じです。美しい響きか耳障りかのどちらかで耳に刺激があると、心が愚かなのでバランスを欠き、どちらかへ偏ります。

 波のようです。風を受けた水面のように波立ちます。好きか嫌いの方へ傾きます。二種類しかありません。対は二種類しかありません。善悪、徳罪、幸不幸、何でも二種類しかありません。一つは好ましく、もう一つは厭わしい。このように二種類に波立ちます。

 心が混乱して空が失われた時、混乱して空が失われた心には、何が満ちているのでしょうか。なぜ空でない心と呼ぶのでしょうか。

 「ラーガ、トーサ、モーヘヒ、スンニャター、スンニャトー」という言葉があります。「空とは、ラーガ(情欲)、トーサ(瞋恚。怒り)、モーハ(痴)がないからである」。そして「空でないというのは、ラーガとトーサと何らかのモーハがあるからである」という反対の文章もあります。対であるもの、つまり私たちを迷わせる善悪、罪と徳などが区別させるので、これは好ましい、これは厭わしいと捉えるからです。

 愛したい気持であるラーガと呼ぶものが生じた場合、何かを奪わせることがあります。つまり自分に引き寄せることです。これがラーガと呼ぶものです。つまり自分に引き寄せたいという感覚です。

 トーサあるいはトーダと呼ばれる感覚は、突き放す気持です。これをトーサ又はトーダと言います。ローパ(貪欲)、あるいはラーガなら自分に引き寄せる気持です。自分で抱きしめるのをローパと言います。トーサは正反対で、突き放します。つまりラーガと正反対の感覚です。

 モーハと呼ばれるものは真っ暗で、迷って、引き寄せたら良いか突き放したら良いか分からないので、疑念で疑惑に満ちて、心配で、強い関心で堂々巡りをしているような状態です。こういうのは、引き寄せるのでも突き放すのでもありません。堂々巡りと言います。これがモーハです。

 ですから形が目に入ってきた時、音が耳に入ってきた時、臭いが鼻に入ってきた時、味が舌から入ってきた時、肌に接触があったとき、その人の心が愚かで迷えば、こういう症状になります。ラーカになることもあるし、トーサになることもあるし、モーハになることもあり、場合によります。

 ラーガ・トーサ・モーハが生じれば、五欲と怒りと痴で満ちていると言います。五欲でいっぱいのこともあります。怒りで混乱していることもあります。迷いで混乱していることもあります。もし空なら、パーリ語経典で言っているようにラーガ・トーサ・モーハがなければ、空と見なします。

 五欲、怒り、迷いが生じて空でなくなるのは、時々、しばしば、たまにそうなる、ということがすぐに分かります。形を見た時のこともあるし、声を聞いた時のこともあるし、臭いを嗅いだときのこともあるし、味わった時のこともありますが、時々です。

五欲や怒りや迷いはそれにふさわしいとき生じ、そのものの原因と縁によってしばらく存在し、長いこともあるし、それほど長くないことも、ほんの少しのこともあります。これを混乱と言います。この間を混乱と呼びます。しかし最終的には、欲と怒りと迷いのない空の状態に戻ります。つぎに目や耳に刺激があって何かが起これば、心は再び混乱します。このように入れ替わっています。これを混乱した心と言います。

 本来の心は空であり、心を刺激してくるものも空であり、冒頭で長々とお話したように、世界のすべては空なのに、体と心も含めた世界はすべて空なのに、その空が何かに刺激されると水のように波立ち、五欲になったり、怒りや迷いになったりして、混乱します。

 苦はその時だけそこにあります。心が混乱して波立っている間はそこにあります。だからその苦もついでに空になります。それも空です。しかしこの種の空の反応は、つまり苦になったら絶え難く、我慢できないので問題が生じるのです。

 苦がある時、つまり五欲、怒り、迷いがあると、人間にとって堪え難い問題なので、それを治療する方法を探さなければなりません。知らなければ治療法が分からないので、そのままです。その状態に沈んでいます。それが普通の人間、非常に俗人です。

 良い俗人は善い方へ変化するので我慢せず、解決の方法を探そうと考えます。ずっと昔、発見するまで探求し続けて解決したのが、ブッダです。ブッダはこれを、この真実を発見しました。「おおそうだ。こうだ。世界のすべては空なのだ。何かが刺激して自然の一部、つまり心を変化させたとき、心は波立って五欲や怒りや迷いになり、自分自身を焼きあぶる結果になる」という真実です。

 私たちには方法がなければなりません。五欲や怒りや迷いを生じさせるほど愚かにならないでください。世界はいつでも空であり、何もかも空であるということを知っています。いつでもこれを自覚していなければなりません。

 何かが目を刺激してきたときは嘲笑できます。耳を刺激してきたときも嘲笑できます。この笑いは欲しくて笑うのではありません。嬉しくて笑うのでもありません。笑いが違います。タンマは正常で居させてくれます。正常な状態を維持し、本来の空でいさせてくれます。

 ブッダはこれを悟ったのです。執着が生じるから苦になるということです。五欲の形の執着もあります。怒りの形の執着もあります。迷いの形の執着もあります。だから苦を滅すことは執着を滅すことです。そして最良の方法は、それを生じさせないことです。もし生じたらその度に消します。生じないようにします。それが最も正しいです。そうすれば苦から脱す、つまり苦がないと悟りました。執着しないで苦から解脱します。

 つぎは、どうしたら解脱できるかです。正しい知識によって解脱するので、正しい見解によってあらゆる苦から解脱できる、と言いました。正しい見解(サンマーディティ)とは、世界は空なので執着するべきではない、という正しい知識です。

 これが最高に正しい見解です。この正しい見解を、サンマーディティと呼ばないこともあります。時には智慧と呼びます。ですから「もちろん智慧でもって苦から純潔になれる」という言葉もあります。

 どうぞ、危険を切り抜けるには智慧が必要であるという原則を捉えてください。つまり正しい知識です。ずるい知恵ではなく純潔な智慧です。誤解を避けるためには、正しい見解と呼ぶべきでしょう。知恵と呼べば、似通った意味があります。ときには手馴れた知恵、つまり狡猾な方に賢い知恵のこともありますが、正しい見解と呼べばジタバタしません。正しい意味だけです。

 ですから智慧という言葉には注意してください。騙すのが上手なことも知恵があると言います。こういう知恵は使いものになりませんが、純粋な智恵なら、つまり正しい見解なら、正しい見解は「世界は空である」という真実有りのままに見ることです。

 世界は無常であり苦であり無我であり、原因と縁があり、そのものと呼べる独立した自由な実体はありません。それは原因と縁によってできたものです。そして常に変化する、つまり変転していきます。

 その知識が性格として固定しているなら、心を刺激してくるものが何もないように、塀で囲んでいるようなものです。心はいつも空です。何が刺激して来ようと、弾き返してしまいます。目から形が、耳から音が刺激してきても、弾き返します。こういうのを触だけと言います。受になりません。

 受にならなければ欲望や執着を作り出しません。つまり自分、自分のという感覚が生まれません。非常に濃ければ俺、俺の、を作り出し、非常にイライラします。普通でも俺、俺の、を作り出します。しかし知識または智慧が完璧で、いつでもその智慧を輝やかせるサティが完璧なら、つまり智慧とサティの両方が完璧なら、タンマ、あるいはプラタムと呼ばれるものがあるのと同じです。いつでも空にするものが身についています。

 だから阿羅漢の方たちが、普通の人と同じように形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を見、何かに触れても、結果は同じではありません。つまり執着しないで弾き返してしまいます。ただ触れるだけです。受、欲望、執着、界、生を作り出しません。

 何が来ても受け入れてしまう俗人と違います。俗人は弾き返しません。だからただの触ではなく、受になり、欲望になり、執着になり、界や生になり、そして苦になります。これが混乱で苦です。

 いままで話してきたことが聞いて分かり理解できれば、いつでも人を空にするものはサティであると、自分自身で気が付くことができます。だからブッダは「モッカラーチャよサティをもって、いつでも世界を空と見なさい」と言っています。

 サティという言葉、この言葉を軽視しないでください。ブッダの言葉に『サティは、いつでもどんな場合にも求めるべきものである』というのがあります。サティはいつでも、どこでも、どんな場面でも、常に望むべきものだと、しっかり憶えておきましょう。

 もしサティが完璧で正しく十分にあれば、刺激によって心が変化するのを防ぐことができます。目に入っても弾き返し、耳に入っても弾き返します。つまり以前に好きだったものを見ても、サティの働きが間に合えば愛しません。以前に嫌悪や怒りや恨みなどを起こさせたものも、嫌ったり怒ったり恨んだりしません。耳からでも鼻からでも舌からの刺激でも同じです。五感に関係なく、心で考えたことも同じです。

 ときには心が自然に考えます。ある考えは愛を生じさせ、ある考えは嫌悪を生じさせます。しかしサティがあるときはそうなりません。考えがいつものように始まっても、サティが気づいて制止させます。軽蔑して追い返します。「また来たか」というようなものです。サティを間に合うように生じさせるだけで十分です。「また愛させに来たな。また嫌わせにきたな」。相手にしないで本来の空を維持します。

 これをサティと言います。どこででも必要です。どこでも欲しいのは、サティが智慧を連れてくるのが間に合うことです。忘れないように譬えれば、智慧は敵を殺す剣か銃のようなものです。これが智慧です。サティは素早く使って間に合うことです。もし剣や銃がどこにあるのか、どこに仕舞ってあるのか分からなければ、間に合うように使うことはできません。これでは武器も役に立ちません。

 ですからサティのない智慧は役に立ちません。頭の中いっぱいに知識があっても役に立たないので、危険を脱することができません。危険を脱すことができるのは、間に合うように使うサティだけです。しかし時には二つを分けないで一緒に使います。

 サティは集中力で智慧は智慧で、一緒にして使います。ほとんど私たちはこのように感じます。気づくのが間に合ったと言うとき、つまり智慧とサティの両方が同時にあるとき、気づくのはサティで、気がついたものが智慧です。気づくことができた考え、知識、真実など、この部分が智慧です。

 ですからサティと智慧は元からあるもので、気づくようにする行動が戒で、自分を気づかせるようにすることが戒で、気付くことができるのがサマーディで、考えの中の真実が智慧です。だからこれだけの行動に、戒とサマーディと智慧があります。何も儀式ばったことは必要ありません。しかし本当の戒、サマーディ、智慧なので、危険を逃れることができます。

 ブッダは普通の人の質問に対して普通の言葉で答えています。「いつでも世界を空と見なさい。このいつでもというのが、本当に『いつでも』になるよう注意すれば、それが戒である」と言っています。何かを管理しようと心に刻むことを戒と言います。例えば生き物を殺さないよう、財産を盗まないよう、性的に誤った行為をしないように管理することなどです。このように管理することを戒と言います。

 自分の心にサティと智慧があるように管理すれば、戒とサマーディと智慧があります。いつでも世界を空と見るために使えば、非常に調和していて、最高にふさわしく、最も強力です。何があっても、心が空を失って、欲や怒りや迷いの波が立つことはありません。

 そして空でないことの結果として、心が怒りやイライラで炙られることはありません。これが空と混乱です。要旨はこのようです。このような内容が理解できれば良いことです。枝葉の細かいことは後で勉強して増やしてもいいでしょう。会話するのもいいでしょう。

 忘れないようにもう一度復習します。世界は元々、自然の状態では空です。世界とは人間が知っているあらゆる物すべてで、人間自身も含めて世界と呼びます。仕事と仕事の結果も世界という言葉に含まれます。

世界は空です。どうして空なのか、なぜ空と呼ぶのかは、その中にそれだ、それのものだと呼べるものが何もないからです。いつも変転しています。変化しています。あるのは原因と縁だけです。無常と苦と無我だけです。いつでも流れていきます。

どこにもそれ自体と呼べるものがないので、世界は空と言います。それ自体がない、それのものもない、というのは、それ自体だと捉えるべきものがない、それのものだと捉えるべきものがないのです。これが空です。

 つぎは世界の一部分である心が感情によって、つまり世界の一部分である形、声、香、味などによって刺激されたとき、ぶつかり合います。世界の一部分と、世界のもう一部分がぶつかり合います。世界の一部分というのは、私たちの体または心です。

 世界のもう一部分というのは刺激してくる形、声、香、味などで、まるで鏡のように静かな水面に風がぶつかるように、いろんな形の波になります。欲と呼ばれる形になったり、怒りという形になったり、迷いという形になったりします。これを空が失われたと言います。

 本来の状態が失われてしまい、一時的に新しい状態になります。五欲なら五欲として熱くなり、怒りなら怒りとして熱くなり、迷いなら迷いとして熱くなります。

 ブッダは、それが鎮まるまで、すべては火だと言っています。しかしそれが自然に鎮まるまで我慢できません。次々に新しいのがくるので、キリがありません。往生してしまいます。海を見てください。次々と風が吹くので、波は際限なく生まれます。もし心の中がいつもこんなだったら、生き地獄も同然で、堪えられません。だから心をもともとの空に戻す方法を探さなければなりません。

 つまり世界は空であり、何もそれだ、それのものだと捉えない、本来の賢い心に戻します。いま生じている欲や怒りや迷いも一瞬で消えます。サティが十分あれば、それらが再び生じることはありません。快適です。最高の純潔、最高の澄明さ、最高に穏やかな静寂になります。この三つがあるときは最高に快適で、幸福の中でも最高の幸福です。人間が得るべき最高に素晴らしいものです。

 つぎに注意していただきたいものが三つあります。敵です。非常に危険なのはつぎの三つです。つまり食べること。食べることには気をつけてください。つぎは性です。そして名誉です。分析してみましょう。

 食べることは人間にとって問題の多い、大きな問題です。執着すれば非常に苦しみます。執着しなければ、苦しまずに解決できます。

 食べることのつぎは性の問題です。つまり心が形・声・香・味・触に覆われると、非常に難しい問題になります。それらを心に侵入させてしまうと、非常に困った問題になります。十分な知識と智慧があって、刺激があるときに弾き返すことができれば、それらは何でもありません。何も意味がありません。

 つぎは名誉です。人間は時には食べることよりも性の問題よりも、名誉に迷うことがあります。人によりケースによりですが、これも非常に問題になります。あれこれ名誉が傷つくことを恐れて、あるいはあれやこれや名誉を得られないために一晩中眠れないこともあります。

 ですからこれらに気をつけてください。身の内が火で炙られているようです。こういうのは、食べること、性の問題、名誉を避けるべきだと言っているのではありません。しかし正常な心でこれらと関わらなければいけないと言っているのです。

 つまり五欲や怒りや迷いが生じるほど溺れなければ、これらは小さな道具であり、家来になり、主人にはなりません。この理性のある心を空の心と呼びます。つまり五欲、怒り、迷いがなく、空っぽです。

 ご飯を食べるときはこの種の心で食べなければなりません。そうすれば食べることの問題はありません。食べ過ぎることもなく、口に合わないで困ることもありません。空の心で食べると言います。煩悩のままにすれば、混乱した心で食べることです。それは、美味しいとか美味しくないとか、いろんな人を叱りつけることや、大食いなどの問題があります。

 性の味わいに関する問題も同じです。かならず理性でしなければなりません。ブッダは、人が性と関わらずに居られるとは言っていません。ですから普通の範囲にしてください。所帯を持ち、妻や夫のあるソーダーパンナやサカタガミーなどの聖人も、聖人同士で性的に関わります。理性でもって関係します。

 五欲や怒りや迷いがなく、俗人のように激しくありません。ですから生き地獄に落ちるような結果はありません。俗人、愚者、惑溺している人のように心が焼き炙られることはありません。

ですから大きな開きがあります。性と呼ばれるものと関わるなら、心から自分、自分のという感覚をできるだけ少なくして、理性で関わらなければなりません。まだ煩悩が滅亡していなくても、その時は煩悩がないように、煩悩が生じて働かないように努めましょう。代わりに理性で煩悩を管理します。

 名誉や名声の問題も同じです。名誉から逃れることはできません。どこにでもある普通のことです。しかし執着しない理性が必用です。もし来たら、刺激してきたら弾き返すように、あるいは外部にいるように、あるいは世間の人が仮定しているようにしますが、自分の心には入れません。そうすれば名誉と呼ぶものの問題はなく、苦を生じさせることもありません。

 ですから食べること、性の問題、名誉に関わるにも、理性があれば苦は生じません。食べること、性、名誉に気をつけないと、苦を生じさせる原因になります。あるいは最後には苦になります。だから混乱であり、空ではなく、生き地獄です。食べること、性、名誉を空と見ないからです。食べること、性、名誉は、世界という言葉に含まれます。世界のありとあらゆるものは空と言われます。

 空ではないと迷えば執着です。食べること、性、名誉が刺激してくると、心は欲、怒り、迷いで波立ちます。これらを空と見ないからです。智慧が十分でないから、あるいはサティが十分でないからです。智慧を引っぱり出すのが間に合わないので、それらを空だと思いません。ブッダが世界を空と見なさいと言っているように、形・声・香・味・触・考えることの六種類は世界です。

 これはタンマの言葉です。タンマの言葉で世界のものを説明すれば、形・声・香・味・触・考えることの六種類に分けられます。つまり人間が眼・耳・鼻・舌・体・心で感じられるものです。それが世界です。すべては空です。

 つぎに、どう実践するのかといえば、いくつかの部分に分ける必要があります。つまり正常なとき、いま(説法を聴いている)のように、あるいは他の時でも、何も妨害するものがないときです。みなさん横目で見てください。つまり空と見るよう熟慮してください。

ヴィパッサナーという言葉を、今は使いたくありません。なぜなら意味が汚れて、違うものになってしまったからです。だから横目で見るという言葉を使います。それに目をやって見ることがヴィパッサナーです。どう世界は空と見るのか。世界が空と見えるまで、静かな場所で詳しく深く見ます。これをヴィパッサナーがある、智慧があると言います。そしてこれに習熟するよう、いつでも練習します。

 ここで形を見、音を聞き、臭いを嗅ぎ、味を見たとき、いま言っている智慧、あるいは言っているヴィパッサナーが、間に合ったか間に合わなかったかを試します。初めは毎回負けるでしょう。つまり遅すぎるのです。毎回愛したり嫌ったりしてしまいます。

 そこでサティの訓練と呼ばれる、サティを完璧にする、どんな練習方法を用いてでも、サティを鍛えて俊敏にする努力をします。うっかりしないよう、忘れぽくならないよう、サティを増やして良くなるようにします。

 たまにうっかりしてしまったら、うんと恥ずかしがらせ、うんと怖がらせなければなりません。非常に恥ずかしいことだと考えます。これをヒリ(慙)があると言います。それは非常に恐ろしいことだと考えます。これをオータッパ(愧)があると言います。慙愧が増えれば増えるだけ、うっかりしなくなります。

 うっかりしない物質的な譬えで、なぜ私たちは歩いていて側溝に落ちないのかと言えば、向う脛の皮が剥けて痛くて懲りているから、側溝に落ちないように歩きます。しかしどうしてこの種の溝に落ちるのでしょう。それは道を歩く時のように良く注意しないからです。だから時々溝に落ちる、つまり五欲、怒り、迷いが生じるのです。あるいは十分怖さを知らないからかもしれません。

路の真ん中では、絶対にみっともないことをしないのと同じように、それはとても恥ずかしいことなのに、なぜサティがないことを、もっと恥としないのでしょう。愛してしまったり、憎んだり、迷ったり、陶酔したりという問題を、なぜもっと恥だと考えないのでしょう。

理由は簡単です。怖さが足りないからです。恥ずかしさが足りないからです。そしてこの問題への関心が少なすぎるからです。他のことにばかり興味があります。だからこの問題を考える機会がないのです。公平に扱われていません。

 ですからこの問題に、少しは時間と機会を与えましょう。つまり時間と機会を与えて、ヴィパッサナーをします。つまり世界に目を遣り、世界は空であることを、ときどき十分に見ます。そうすれば考えていたように難しくなく、簡単になります。

 それまではタンマを難しいものと見ていました。ほんの少ししか興味をもたないで、大きな役に立てようとしていました。公正ではありません。お金を稼ぐことと同じように、タンマにたくさん興味を持ってみてください。それくらい興味をもてば、タンマがあることは、お金を稼ぐことと同じくらい簡単になります。

 つまりお金を稼ぐのと同じように、たくさん手に入れられます。ですから、どちらがどんな価値があるか、良く計算しなければいけません。

 本当には、ブッダはお金を稼ぐことや世間で暮らすことに、苦がないようにと望んでいます。だからタンマをもって、いつでもタンマで心と生活を管理します。お金を稼ぐ時でも、働いた結果を消費する時でも、休息する時でも、仕事をする時でも、世界は空という理性が、いつでも管理しています。

 つまりタンマが休みなく管理しています。そうすれば世界の空の部分だけを受け取ります。つまり苦はありません。そうしなければあまり空でない部分ばかりを受け取るので、空でないように変化し、苦になります。うかつに魚を食べると小骨を食べてしまい、小骨が喉に刺さって苦になります。賢くて十分な理性があれば、魚の肉だけを食べて小骨は食べないので、苦は生じません。

 だから世界は空、心は空ということを知っていれば、何もする必要はありません。それらはすでに空なのですから。理性と正しい知識で、それらを本来の空にしておくよう注意するだけです。職務を行なうときも、とても楽しく、苦はありません。

 貯金があっても、心配や取り越し苦労で眠れないというような苦しみはありません。タンマが関われば、すべてに何も苦がありません。タンマは空です。タンマと呼ぶものは四種類の自然で、空です。空と呼ぶものはタンマであり、タンマは空、空はタンマです。タンマがあれば空があります。

 このたった一言、本当に一語で真理、あるいはすべての真実を表している、この一言を忘れないでください。それは「空」です。

 中国の思想家が書いているのですが、タイ語にすると、「すべての真実を開示するには一語で十分だ」と言っています。それは「空」、たった一語です。考えてみれば、空はすべての真実という、究極の真実が見えます。仏教の教えのどの項目も、空という言葉に含まれています。もし世界を空と見ている人がいれば、とうぜん自分はありません。とうぜん自分の、もありません。心は何も背負っていないので、空っぽの心なので快適です。

 このレベルの人の言葉があります。心がこのレベルになると、「私は世界ではない。しかし世界が私になっている」。聞いて意味が分かりますか。自分で考えてください。「私は世界ではない。世界が私になった」。後の世界という言葉は、愚か者、世間の人、俗人が私と仮定した、という意味です。私は世界ではないというのに、お節介にも私になった、です。自然は空ですが、愚かな人は自然を自分にします。

 これが最後に世俗を超えさせます。私は世界ではないとは、つまり私は世俗の上にいます。しかし愚かな人は、私を世界にします。あるいは世界が私を世界にします。これは阿羅漢、または解脱した人の感覚です。世界をこういう視線で見ます。だから世俗を超えていると言います。

 「世俗を超越する」という言葉を理解してしまってください。飛行機に乗ってどこかへ行かなくても、どこへも逃げなくても、こうしていても、世界の上にいるのです。つまり心が世界の上にいます。

 「空」という言葉も理解してしまってください。空というのは、何もないという意味ではありません。何でもあるということを認めます。四種類の自然の中には、何でもあります。しかし世界が空なのは、それ自体と呼べるものと、それ自体のものが何もないからです。

 心が空なのは、世界に溺れて欲や怒りや迷いを生じさせないからです。それを空の心と呼びます。世界が空なのは、それ、それの、がないから、心が空なのは、欲、怒り、迷いがないからです。空という言葉はこういう意味です。

 空と言ったら何もないという意味なら、それは子供の空です。子供のような考え方、感じ方です。しかし空と見るのは、たくさんあると見るよりマシです。なぜなら何もないという意味の空も、真実の一部分には変わりないからです。しかし人は敢えてそのように考えようとしません。あれこれあると捉えて、あれを愛し、これを好み、あれを厭いそれを嫌うことに、小さい頃から慣れているからです。

 空と聞くと怖がります。ビックリして怖がり、死を恐れるように怖がります。死を怖がるように空という言葉を怖がるのは、空という言葉を理解できないからです。だからそれっきり、この言葉に興味をなくしてしまいます。止めてしまいます。

 だからその人は、人間が得るべき最も素晴らしいものを受け取れません。つまり空の話から始まって究極の空、涅槃まで、何が何だか意味が分からないからです。究極の空は涅槃、というブッダの言葉は、誰でもよく聞いていますが、理解できません。

 完璧な空は阿羅漢で、完璧でない空はその下の段階の聖人です。みなさん、ちょっと良いレベルの俗人でも、時には空があります。完璧な空ならまったく苦がないので、涅槃です。完璧でない空で、戻ってばかりいれば、低い段階の聖人から高いレベルの俗人まであります。これでも空でないよりはマシです。

 ですから混乱の害が見えれば、もっと空が好きになります。もっと空に満足します。涅槃に満足します。ですから反対に混乱を見るのもいいです。苦や辛苦を見てもいいです。そうすれば心は自然に空に傾いていきます。

ヴィッパッサナーをして苦を見るのでもいいです。あるいは空、つまり涅槃を対象として見てもいいです。必要に応じて替えます。これを涅槃、つまり究極の空を知る人と言います。あらかじめ味見をしてから、少しずつ確実にしていきます。

 私たちは、執着させるものがある場所に寝たり座ったりしていると、穏やかさを感じません。清潔でなく、明るくありません。執着させるものがない場所、たとえば海辺、山、森などは、気持を混乱させるものが何もないので、言いようがないほど気持良く感じます。

 これは空の話は正しいに違いないをという例え、あるいは証拠です。執着させる元が何もないから空なのです。つまり心を波立たせて欲や怒りや迷いにするものが何もないので、私たちは空になり、気持がいいのです。

 ですから静寂な場所、たとえば森、山、あるいは海などと触れ合うことは良いことです。空の味を見る役に立ちます。気に入ったらもっと探求を続ければ、気づかないうちに空と呼ぶものを理解することができます。ですから森や海や山へ時々遊びに行くことは良いことです。体の休息ばかりでなく、自然は空を教えています。しかしあまりに凝り固まっていれば、それらの教えを聞くことはできません。

 自然はいつでも美しい音楽を奏でていますが、カメやサイには聞こえません。岩や木立はいつでも自然を見せているのに、カメやサイには聞こえません。カメやサイを止めるしか解決法はありません。そうすれば石や樹木や海や山が、いつでもタンマを説いているのが聞こえるでしょう。美しい演奏とは、いつでも苦がない空の話しです。そして別の種類の人間になります。つまり誰にも苦しめられない人です。

 要するに空そのものが仏法僧です。良く聞いてください。空の中に仏法僧があります。つまり教える人と、教えるものと、実践して成功したことを見せる見本です。ですからどこへも仏法僧を探しに行かなくても良いのです。空の中に見つけることができます。

 空は究極の布施です。自分の、自分として残っているものは何もないので、究極の布施です。そして世俗を超えた戒、世俗を超えたサマーディ、世俗を超えた智慧です。なぜなら空の力による本当の戒、本当のサマーディ、本当の智慧だからです。

 ですから「空」という一語だけで、当然すべての真実を表すことができる、と言うことができます。目があり、耳があり、心がある人は、興味をもって熟慮し勉強し、空を良く見てください。スアンモークへ行くなら、映画を見に行くと考えないでください。

 石を聞きに行くと考えてください。石は喋ります。木も喋ります。小川も喋ります。これらは映画館にあるものより良いものです。つまり仏法僧であり、戒、サマーディ、智慧であり、何ででもある空です。

 あるいはどこかの山へ行ったとしても、どこかの海岸へ行ったとしても、努めれば空の味を味わうことができます。空の傍にいて、空と結婚すれば、すごく早く上達します。老いる前に、人間が得るべき最高に素晴らしいものを手にすることができます。

その他の職業や仕事については、絶対に苦がないように、と考えなければなりません。もし苦しいなら、やるだけ無駄です。苦がないようにするには、必ず空を使わなければなりません。生活や仕事に苦がないようにするために、みなさんは空を学ばなければなりません。

 「なぜお金を持つのか」と問えば、「生活を便利で快適にするため」と答えます。「なぜ快適にするのか」と問えば、「死なないため、生きるため。人間が得るべき最高に素晴らしいものを得るために」と答えなければなりません。だから空から逃れることはできません。

だからみなさん、時間がなくなるほど、空の話しに関心を寄せる時間がなくなるほど、仕事に、夢中にならないでください。そうすれば問題はなくなります。ここへ来たばかりの時のように、「どうしたら空になれますか」と質問しなくても良くなります。

                                                                    (1966年1月8日)


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