素晴らしい仕事

 

                                                                                                                                                                                             1989年8月13日

 タンマに関心をお持ちのみなさん、私は、「楽しく働けば、働いている間中幸福」というテーマで、繰り返しお話してきました。今日はもっと凄い、つまり「素晴らしい仕事」です。

 このような明け方に、素晴らしい時刻を選んでお話をします。眠りを貪っている人は、素晴らしくありません。しかし起きてこういう使い方をすれば、今まで見たことがない新しい世界に出会えます。明け方はブッダが大悟した時刻ですから素晴らしい時刻です。

すべてのブッダ、あるいは大切な教祖であるブッダの体にとって、素晴らしい時刻と理解します。人間が一番休息して、新しい一日が明けた時には、闘う準備が整っています。元気があって明るく澄み切っているので、その価値にみ合った使い方をします。でも眠ることに興味がある人たちは、あまり賛成しません。

 この素晴らしい仕事は、楽しく、あるいは幸福に働くことより高いです。素晴らしいという言葉は幸福より上です。良く聞いてください。しかし幸福も並大抵ではありません。非常に満足できます。楽しさもあります。楽しく働くこともでき、幸せに働くこともできます。

そしていま素晴らしい働きをする段階になりました。自分の仕事、あるいは他人の管理下での仕事、どんな形の雇用者、労働者も、自分自身の仕事、たとえば学生として勉強をすることも、すべて仕事と呼びます。

 次に楽しく働くことの最初の段階についてお話します。人々は首を横に振って、スポーツをするように楽しく働く、というのを信じません。彼らは、心の有りようとかけ離れていると言います。物質主義に偏りすぎているので、これらの言葉が理解できません。これはむしろ精神面の言葉です。

 みなさんが働くとき、勉強でも、天秤棒を担ぐ労働でも、田畑の仕事でも、すべてそれ自体の中に闘いがあります。したい気持としたくない気持の、つまり勤勉と怠慢の闘いがあります。仕上げたい気持と、放り出したい気持の闘いがあります。最後までし遂げたい気持の一方で、寝たい気持もあります。

 みなさんはスポーツをする人、つまり試合を楽しむ選手です。みなさんはスポーツ観戦者です。それも楽しいです。そしてみなさんは審判で、自分で勝敗が分かります。審判まで兼任して、楽しくないことがあるでしょうか。心をそうできれば楽しいです。同時にスポーツ選手であり観戦者であり審判でもある。こんな風にできます。

 考えて見てください。畑仕事、果樹作り、何をしても疲れて汗が長く流れ落ちます。そういう自分をどう思いますか。最後には自分で、勝ったか負けたか分かります。つまり仕事を投げ出して寝てしまったか、あるいは最後まで続けたか。最後までやれば、試合に勝ったと言います。

観戦者でもあり審判でもあります。こういうのを楽しく働くと言います。勉強も楽しく勉強し、照りつける日差しの下で土を耕すと、汗が筋になってひたたり落ちますが、それでも楽しく働きます。従業員でも労働者でも何でも、このように良く働きます。

 自分は雇われ人だという考えを止めれば、世界を美しくできるとお話したことがあります。田畑の仕事も果樹作りも、この世界を価値あるものに、美しいものにできます。商売をする人も世界を美しく、便利で快適にすることができます。天秤棒を担ぐ労働者も、この世界を便利に美しくすることができます。

ですから心は労働者より高いです。あるいは天秤棒を担ぐ労働者も、世界を便利で美しくするので、心は労働者より高いです。給料を貰ったら、賃金と捉えないで経費と捉えます。みんなで力を合わせて世界を美しくするために貰った経費と。

 従業員と雇用者というのを拡大していくと、果てしない闘争している資本家と労働者の二つのグループになります。雇用者と労働者がいれば、必ず有利になろうとする闘争があります。このように俺とお前の対立していたら、世界に平和はありません。

労働者と資本家がいれば、世界に平和はありません。止めてしまいます。どちらの側も、生・老・病・死の友、同じように苦と闘う友達です。そして協力し合ってこの世界から苦を無くし、美しくします。そうすれば二つの立場で対立しません。みんな一緒、一つです。

俺とお前の二派に分かれるのを止めて、生老病死の友になります。そうして一つになれば、闘う相手はいません。考えてみてください。相手より有利でいたい、どこからでも誰からでも何でも奪おうという両者が一つになったら、それが世界の平和です。物質的にも、肉体的にも、精神的にも、智慧の面でも、どんな面でも苦しめ悩ますものはありません。

 これを、解決して仕事を徳や善にしてしまうと言います。汗が出たら聖水であり、苦の水ではありません。俺、あいつという考えがあれば闘争であり、穏やかではありません。苦の水である汗が出ます。汗が聖水だから幸福に働ける、というようにしてしまいます。

 この言葉の義務は、最高に素晴らしい言葉です。しかし義務を知らない人は首を横に振って否定します。義務が最高のものか、あるいは物凄く疲れるか、どう最高なのか、どこが素晴らしいのかと考えます。

そう理解している人は、あまり義務を行わないで、あれが欲しいこれが欲しい、ああしたい、こうしたいと、人々がしているように権利の主張ばかりします。まったく義務を考えない人もいます。これは最高のバカです。義務は必ずあります。最高に正しく義務を果たせば、そうすれば要求する権利があります。

 最高のものと言われる義務について考えてください。聞いたことのない人はたぶん理解できません。聞いたことのある人は、義務と呼ばれるものはタンマと理解しています。このタンマという言葉は、義務という意味です。タイ語では義務、パーリ語ではタンマ、同じです。

 ブッダが大悟してブッダになったばかりの時、今後誰を尊敬するのかという疑問が生じました。誰を尊敬するか。すべてを悟ってブッダになり、これからは誰を尊敬するか。何度も考えた後、そうだ、タンマを尊敬しようと納得しました。タンマ、つまりブッダ自身の義務です。

 ブッダにはどんな義務があったでしょうか。すべてのブッダ、過去、現在、未来のすべてのブッダは、タンマを尊重しています。つまり義務を尊重しています。義務は最高のものでしょうか。最高のものではないでしょうか。

みなさんはブッダを、最も尊い人と尊敬しています。その方にも尊重するべき、まだ上のものがあるのか、考えてみてください。ですからタンマあるいは義務と呼ぶものは、ブッダより更に崇高なのです。なのになぜ人は義務を尊重しないのでしょう。義務を尊重すれば、最も崇高なものを尊ぶことに満足します。

 次に義務という言葉を見てみます。ブッダはみなさんよりもっと義務を尊び、義務を遂行しました。みなさんはたった八時間しか義務をしませんが、ブッダは常に、生涯、最期の一瞬まで、義務を行いました。ブッダの義務は、人類が苦から抜け出す手助けをすることです。

 みなさんが認める、あるいは良く知られている話では、ブッダは、朝から晩まで日課である義務を行いました。このような明け方に目を覚まし、『世界を照らす狙い』と言われる、今日はどこへ誰を救いに行こうかと考えました。ブッダは、どこの誰がどのようか、どこの金持ち、どの百姓、どこの王様、どこの貧民がどうしているかが観察して見ていたので、今日はあの人を救済しようと決めました。

 夜が明け始めると、ブッダはそこへ出掛けました。会って話をするために、托鉢に出掛けました。ブッダの時代の托鉢は現代とは違います。つまり行って乞います。だから会って話す機会があります。時には家に招じられ、その家で食べることがあるので、話す機会もあります。ブッダは正午あるいは昼前までブッダの義務をし、そして寺へ帰ります。

 正午頃、お寺に帰り着く前にどこかで少し休憩するだけで、午後お寺に戻ると、お寺に来て待っている人に教えます。お寺に訪ねて来る人もいたので、夕方まで教えました。

 陽が落ちると比丘やら沙弥や何やら、寺に常住する人達に教えます。宵の口には比丘に教え、深夜には天上の天人や、天人と仮定した王たちの問題に答えました。天人たちは午前零時ころ、ブッダを訪ねてきました。

 こういう話があります。ある王が、松明隊と一緒にブッダを訪ねました。つまり松明を持った人が隊になって従っていました。その王は敵が多いので、どこかへちょっと出かけるにも、それほどの護衛が必要でした。夜中にお寺へ出かけるにも松明隊付きです。王は身分が高いので、これが天人、つまり汗を流さない人です。夜更けには天人の質問に答えました。

午前零時すぎに、ほんの少し休息すると、まもなく明け方です。夜明け前には世界を照らす狙いをつけ、またそこへ出掛けます。二十四時間で一巡りです。ブッダは私たちのように八時間労働ではありません。私たちは、八時間働かない人もいます。

ブッダは昼も夜もびっしり働いていました。ブッダはセンブ州全体、つまりインド中を、裸足で歩いて移動しました。つまりブッダには自動車がありませんよ。そして私たちの律で、出家者は生き物に引かせる馬車や牛車には載りません。牛車は牛に、馬車は馬に引かせますから。

動物にも乗りませんでした。動物に乗らないでどうしたでしょう。歩くしかありません。どんなに遠くても、何ヨード(1ヨード=16km)でも歩きました。パーリ経典には、ブッダは傘も靴もなかったとあります。

ブッダがどんな風に歩いたかは、こう歩きました。ブッダの奉仕の心が、何ヨードでも歩かせたのです。あちらの国、こちらの国、あの時代のインドの小さな国々へ。ブッダは生涯そうしました。

 その日の夜涅槃に入るという日も、日中いっぱい何ヨードも歩きました。現代人のように病院に入院して、ヨレヨレになって寝ていません。そこで涅槃に入ろうと決めた庭園まで、何ヨードも歩いています。そして地面の上で、です。建物の中ではありません。庭園ですから何か少し薄い寝床を作って、地面の上で般涅槃しました。

 涅槃の間際にも、異教徒である修行者が訪ねてきて、質問がしたい、教えてくださいと言うので、比丘たちは、「ブッダは今にも般涅槃しようとしていらっしゃる。力尽きて今まさに般涅槃しようとしているこんな時に、何の質問ですか」と追い払いました。

ブッダはそれを聞いて、追い払ってはいけないと言い、呼んで気が済むまで質問をさせ、そして求めに応じて繰り返し詳細に質問に答え、阿羅漢になれるだけのタンマを知りたいという男の願い通りに教えを説き、そして数分後に般涅槃しました。

考えて見てください。ブッダは最後の瞬間まで義務をしました。みなさんはそのように働けますか。たぶん病院で寝て死を待つのでしょう。

 要するにブッダは、このように昼も夜も、そして最後の瞬間まで働きました。なぜでしょうか。義務を尊敬していたからです。タンマとは義務という意味です。学校で間違って教える先生方は、タンマはブッダの教えと教えています。それはほんの少し合っています。爪の垢程度しか合っていないのでは駄目です。

 タンマという言葉は、ブッダが生まれる前から使われていました。タンマ、タンマと、最も崇高のもの、つまり義務という意味で使われていました。原初の人は最も必要なものと見て、タンマは義務と定義し、そして義務と呼ばれるものをずっと教えてきました。

だんだん高くなり、そして宗教のタンマで精神的な話の中で使われるようになりました。最も高度なタンマ、普遍的なタンマは義務です。

 義務という言葉には非常に意味があります。義務を行わなければ死ぬからです。義務を行わないでみてご覧なさい。人も死に、動物も死に、木や草も死にます。命は義務によって存在します。もし体の中のすべての細胞が義務を行わなかったら、途端に死にます。

 だから命は義務によって存在します。腕や脚・手・足・耳・目・肝臓・腎臓・腸・腹が義務を行わなかったら、死にます。人も死に、木も枯れ、すべての生き物も死にます。草木も死にます。木は二十四時間義務を行っています。

この義務というのは伴侶以上です。もし欠ければ、その時は死んでしまいます。夫や妻などの伴侶は、一月離れていても大丈夫です。一人は外国にいて、もう一人はタイにいても、この伴侶は大丈夫です。時にはいがみ合ったり喧嘩したりもします。そういう伴侶です。

タンマが伴侶だったら、一分欠けただけで死です。体内で正しく義務を行わなければ死です。義務は命です。命の伴侶です。

 タンマの実践をして、自分は正しくした、ブッダが尊敬し、そして実践したようにしたと自認し、感じるならば危険はありません。満足と幸福を感じます。そういう気持で働けば、幸福になります。スポーツをするような感覚で働けば、仕事は楽しいです。タンマと呼ぶ感覚で働けば、このように最後まで幸福です。そして、タンマで生きなければならないという結論があります。

 次に最高に素晴らしくする方法があります。「楽しく」でもいいし、「幸せにする」でもいいです。いまは「素晴らしく」が良いでしょう。タイ語で素晴らしいというのは、パーリ語では「セータダ」です。どう素晴らしいのかと言うと、今日詳しくお話しさせていただきます。「楽しく働く」はお話しました。「幸せに働く」も話したことがあります。今日はちょっと上の「素晴らしい仕事」です。

 素晴らしい仕事とは、義務をきちんと遂行することです。タンマを最高のものにすることです。憶えやすいように簡単に、「三宝であるブッダと共に、タンマと共に、僧と共に働く」とします。楽しく働くことと同じように、みなさんはこれを信じないでしょう。まだ信じなくても構いません。

 

                       1.ブッダと共に働く

 初めの項目は「ブッダと共に働く」です。ブッダを知っていますか。生きている人であったブッダは、二千年以上前のインドにいて、般涅槃し、亡くなって、荼毘に伏されて骨だけしか残っていないのに、ブッダと一緒に働ける訳がありません。この項目は、ブッダのこの言葉を思い出さなければなりません。

「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える。たとえ私の僧衣に触れても、どこかへ同行しても、その人にタンマが見えなければ私を見たとは言わない。タンマが見えれば私が見える」。

 タンマが見えてからブッダが見えます。ブッダがいます。

 続きがあります。「縁起を見ることはタンマを見ること」です。縁起を見るとは何を見るのでしょうか。縁起を見るとは、自然の最高の真実を、苦はどんな原因によって生じるのか、苦はどんな原因によって滅亡するのかを見ることです。このような話を縁起と言います。苦はどう生じ、どう滅亡するかが明確に見える人は、縁起、つまり言われている十一の状態が見えます。

 縁起をまとめて見ます。内処入(目・耳・鼻・舌・体・心の六つの知覚機関。六根)のたとえば目が、外処入(形・声・香・味・触・考えの六種の知覚されるもの。六境)のたとえば形などと触れ合うと、視覚である識が生じ、内処入と外処入と識と、三種類が一緒に働いています。

 これを触と言います。触があれば受(感覚)が生じます。受があれば欲が生じ、それぞれの感覚の意味に応じて行動したくなります。幸福の受なら欲しくなり、苦の受なら攻撃したくなり、幸福でも苦でもなければ、今までどおり愚かで疑います。

 こういう受が生じると、その受によって欲望が生じます。欲望があれば欲しがる人、俺が生じます。取と言います。俺が生じて、つまり三界があれば俺が生じ、俺が誕生して、そしてすべてが俺に巻き込まれ、生・老・病・死・苦・怒り、何らかの喜び、すべてが俺のものになります。

これが縁起です。苦はこのように生じます。知ることができれば生じないように管理できます。滅苦ができたと言われます。苦がどのように生じるか、苦がどのように滅亡するかが分かり、そして縁起が見えます。これがタンマが見えること、つまりブッダが見えることです。

 この縁起を、お願いですから遊び半分にしないでください。良く理解するよう努力してください。間違って教えているのもあります。千年以上前に間違って説明されたものもあります。本当のパーリ(ブッダの言葉)の縁起はこうです。

自分は無いということを明確に見てください。ここにいる自分はありません。それで何が死んで何が生まれ変わるのでしょうか。ここにいるのは自分ではありません。今ここに居るのはただの形、原因と縁によって変化していく体と心だけ。誤ってすれば苦が生じ、正しくすれば苦は生じません。

 縁起は、自分が無いことを教えています。ここでも、現在も、たった今も、自分ではありません。それで、何が(輪廻の淵を)泳ぎ回るのでしょう。それは、泳ぎ回らないこと、自分が無いことを教えています。今は縁起で泳ぎ回る自分があると教えます。

本物のバカです。ブッダは、泳ぎ回らないために自分は無いと教えていますが、私たちは、自分も泳ぎ回ることもあると主張するために教えています。これはバカです。

 正しく学ぶ機会を探し、良く理解するよう努力をすることは、非常に意味深い話だという意味です。この項目が見える人はタンマが見える人と見なします。タンマが見える人は、ブッダが見える人です。如来、ブッダが、私たちの心の中にいます。

つまりそのように見え、そしてブッダと一緒に働きます。本物のブッダが心の中にいるとは、縁起が明確に見える知識です。縁起が見える知識で働けば、ブッダと一緒に働くことができます。

 私たちはこのような本当のブッダを知りません。亡くなって、涅槃して、火葬して、骨になった本で読んたブッダの外部しか知りません。ブッダの体を、ブッダは私ではないと言っているのに、どうして骨やレンガ(仏塔など)がブッダになるでしょうか。それはブッダではありません。本物のブッダとは、タンマです。苦はどう生じるか、苦はどう消滅するか、それがブッダです

 これを心に取り入れてください。そうすれば私たちはブッダと一緒に働けます。しなければならない義務を、この感覚でします。最高の縁起の賢さですることを、義務での正しさは、タンマを命の伴侶にすると言います。俺が働く、俺の仕事、という気持ちはありません。俺の名誉のため、俺の権力のため、俺の家族のため。こういうのはありません。あるのは、こういうのは苦が生じ、こういうのは苦が消滅する。苦が生じない類のことをしよう。このように心の中で縁起が見えることを、ブッダと一緒にいると言い、私たちもその感覚で働きます。

 私たちはブッダと一緒に働き、本当のブッダはタンマです。縁起が見えるところはどこでも、縁起を見せているところはどこでも、それがブッダです。縁起の状態を見て、よく理解すれば、「ブッダが教えた」と知ります。これが本当のブッダです。非常に変わっています。本当のブッダとは、縁起が見えること、縁起の状態が見えることです。

 このブッダは、生まれず、悟らず、涅槃しないで、永遠に存在し続けます。それが本当のブッダ、つまりタンマ、縁起が見えることです。このタンマは、人をブッダにします。

 シッタッタ王子が母親のお腹から生まれた時、胎内ではブッダではありませんでしたが、縁起が見えた時ブッダになりました。最高のタンマ、縁起があれば、その人はブッダです。あるいは最後にはブッダになります。縁起を良く学び、正しい知識があり、そのような気持で働きます。

 このように生滅する自然の法則、このように生じる苦、このように消滅する苦を、このような感覚で見れば、ブッダと一緒に働くと言います。心の中に本物のブッダがいて、素晴らしい仕事をします。心の中にブッダが居て一緒に働いているからです。

 

 もっと分かりやすい言葉を使わせていただきます。ブッダを侮辱していると非難しないでください。外皮であるブッダは、私たちの心に入ることはできません。二千年以上前、人間の体をしたブッダが歩いて行ったり来たりしていましたが、知る人は誰もいません。

その頃のインドには、ブッダを信仰しない人がたくさんいました。信仰する人より、信仰しない人の方が多かったのです。ブッダの殺害を企てる人や、ブッダを排除しようと考える敵や、競争相手がたくさんいました。滅苦の話が分からない人、縁起が見えない人は、ブッダを好ましく思いませんでした。

当時のインドの女性の多くがブッダを罵りました。人妻を後家にするばかりだと罵りました。それで女性の敵になりました。夫が出家してしまうと、ブッダが彼女たちを後家にしたことになるので、ブッダを罵りました。

 歩ける人であるブッダを見ても何も利益はありません。考えてみてください。縁起が見えた時が、外皮でない中身であるブッダを見た時です。つまり生まれず、悟らず、涅槃しない永遠のブッダが見えます。心でブッダが見えます。

見えれば阿羅漢、ソーダーパンナ(預流者)、サカダーガミー(一来者)、アナーガミー(不還者)になります。それが内面であるブッダを見ること、あるいは本物のブッダを見ることです。外皮であるブッダを見ても何にもなりません。心に取り入れることはできません。同時代に生きていてもできません。

 ブッダは「たとえ私の僧衣に触れても、どこかへ一緒に出かけても、私を見たとは言わない。どう苦を滅すか、どう苦が生じるかというタンマが見えれば、それが私を見ることである」と言われました。

 そしてそのような智慧が自分の心にあり、そして働いて、どんな仕事でもすれば、それをブッダと共に働くと言います。それは非常に素晴らしく、苦はなく、あるのは幸福と楽しい満足です。ブッダと一緒に働くからです。

つまり「俺、俺の、俺のために」のない仕事で、あるのはタンマ、つまり純粋な義務だけです。体も心も知っています。知ったら、働きます。田んぼの仕事も、果樹園も、肉体労働も、何でもしてください。このような心があれば、誰もが自分の義務を行うことで、この世界を静かに平和にしなければならない人間の義務をするので、疲れを感じません。

 義務とは、苦から脱す手助けをすること。つまりブッダが尊敬していたものです。豚の糞、犬の糞を掻き集める任務でも、道路の清掃が任務でも、義務の遂行です。この世界をきれいにし、平和にする手助けです。ブッダが尊重したものは、義務です。

 だからブッダのように、義務を尊重する気持で働いてください。それは、ブッダと共に働いたと言われます。ブッダと共に働くことは、素晴らしいでしょうか。それとも素晴らしくないでしょうか。ブッダと一緒に働くことは素晴らしいか素晴らしくないか、考えてみてください。

 

          2.タンマ(プラタム)と共に働く

 ここで言うタンマ、プラタムとは、みなさん聞いたことがあるように、戒、サマーディ、智慧の三種類、つまりブッダの教えです。最も重要な意味は実践、戒、サマーディ、智慧の実践です。最高の意味の、最高のものであるプラタムです。

プラタムを説明すればパリヤッタム、つまり学習という意味もあります。これは学習という面から見たプラタムです。そして持戒とサマーディと智慧の実践(パティバッタム)をします。そして実践の結果である聖果、穏やかな幸福、聖向、聖果、涅槃は、パティヴェータム(結果であるダンマ)と言います。結果の面から見たプラタムです。

 重要なのは実践です。学習しても実践しなければ結果はありません。重要なことは、実践してこそ結果があるということです。そして、実践すれば心配はいりません。結果は自然に現れます。実践の結果は実践から生じます。寝て結果を待っても、結果はあり得ません。必ず実践しなければなりません。

 ですから実践は、タンマという言葉の最も重要な意味です。パリヤッタム、パティバッタム、パティヴェータムの中では、実践(パティバッタム)が最も大切です。それを人生の伴侶にします。

 みなさんご存知のように、タンマの実践は、戒・サマーディ・智慧の三つに分けられます。低い一般のレベルは戒です。次がサマーディ、もっと高度なのが智慧です。口で言うときは、戒・サマーディ・智慧となります。しかし、本当に実践するときは、智慧・戒・サマーディになります。

智慧が先になければなりません。智慧が先にあってこそ正しい持戒ができます。正しいサマーディの修行ができます。これは憶えておいてください。話すには、勉強するには、戒・サマーディ・智慧の順ですが、実践をする段階になると、智慧・戒・サマーディの順になります。

 これは簡単に分かります。つまり八正道では正しい見解(正見)が初めにあります。これは智慧です。それに正しい志向、正しい言葉、正しい行い、正しい職業が続きますが、これは戒です。正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディは、サマーディで、最後にあります。

智慧が先頭でなければなりません。そうでなければ実践は正しくできません。戒は山や密林や草薮に迷いんでしまい、仏教の戒になりません。智慧がないのに戒をすると、それは本当の戒ではなく、ただの執着になるだけです。

私は口の悪い人に、バカなことを教える、間違いを教える、智慧が戒より先だと教えると、誹謗されたことがあります。しかしいつでも、戒より智慧が先だと、言わせていただきます。なぜならもし智慧がなければ、持戒はすべて藪に迷い込むからです。実践するには、必ず智慧が先だと知らなければなりません。しかし口で言うときは戒が先で、それからサマーディ、智慧です。

 初めの段階では、みなさんがどんな仕事をするにも、タンマはみなさんと共になければなりません。タンマが共にある仕事をすれば、タンマはみなさんと一緒に義務を行うので、みなさんの仕事は素晴らしい仕事になります。田んぼの仕事でも、労働者でも、道路の清掃でも、どうぞ戒とサマーディと智慧で任務を行ってください。道路掃除でも、労働者でも、仕事をするとき戒、サマーディ、智慧をもってください。

 戒とは何かをはっきりさせます。戒とは、体と心の動きの善である意図、悪でない意図です。体と言葉で、他人が愛し満足しているものの体や命を害さない、自分の知性を害さない、他人の正義や公正を侵さない意図。それが五戒の意味です。他の人は違う意味を捉えますが、私は簡単に、害にならない、つまり駄目にしない、破滅させないという意味に使わせていただきます。

 

1.不殺生。他人の体に危害を加えない。

2.不偸盗。誰の財産にも危害を加えない。

3.不邪淫。他人が愛するものに危害を加えない。

 他人が愛するもの何にでも、危害を加えないでください。手を出さないでください。生き物でなくても、他人が愛しているものなら何でも、手を触れてはいけません。子どもの友達の玩具に手を触れてはいけません。その子が気分を悪くしますから。

4.不妄語。虚言によって他人の正義、公正に危害を加えない。

 他人の平和を害するようなことを言ってはいけません。

5.不飲酒。あらゆる種類の酔わせる物を飲むことで、意識、あるいは自分の智慧に危害を加えないこと。

 どんな種類でも酔わせる物を飲むと、自分の意識やサマーディ、智慧の害になります。

 これが一般的な戒です。いつでもこの戒を順守してください。どんな仕事でも、田んぼや畑の仕事でも、労働者でも、商売でも、公務員でも何でも、このような戒を持して働いてください。

 そしてサマーディをもって働きます。このサマーディというのも理解が難しく、間違って理解していて、結局何も分かっていません。本当のサマーディとは純潔な心があること。正しい、悪がない、煩悩がない心。これが純潔な心です。

レンズが太陽光を一点に集めて発火させるように、純潔な心は、心の力を一つに集めます。このようにすべての力を一つに、一点に集めた心を、サマーディ(三昧)と言います。

カンマニヤ(仕事に適した)である心は、非常に敏捷で軽快に義務を行い、働きます。一般的には active、あるいは activeness  と言います。世界中の人はアクティブネスを求めます。アクティブネスとは、義務の遂行に積極的なことです。心が純潔なら、心の力が一つに集中していれば、心が働くことに積極的なら、その時サマーディがある、と言います。

 みなさんが働く時、どうぞ心をサマーディにしてください。道路清掃の仕事でも、サマーディを正しく使って、欲張らず、怒らず、迷わず、そしてすべての力を一つに集めて働きます。そして敏捷に働きます。研ぎ澄まされた知性が満ちています。愚かな人より良く掃除できます。

厨房で皿やコップを洗う仕事でも、愚かな人より良く洗えます。ですからすべての行動を集中した心でしてください。皿やコップを洗うことや家の掃除などでも、働くときにはサマーディをもってください。

 次に智慧があります。働くことの智慧です。仏教の最高の智慧を、みなさんが憶えやすいように短くまとめると、智慧とは正しくて十分な知識です。正しくて、さらに十分であることです。ブッダが四聖諦で話ている教えの知識を持ってください。

つまり、1.それは何か、2.何から生じるか、3.何の利益のために、苦を滅亡させて涅槃に向かうために、4.どんな方法で、と知ることです。

 論理の側面から見れば、論理の世界の誰の論理よりも崇高な論理です。ブッダの論理はたった四句だけです。「とは何か。何によって。何のために。如何にして」。こういう知識がある人は、ブッダのような知識や知性があります。自分がするべきことを知る智慧で、「それは何か。原因は何か。どんな利益のために。そしてどんな方法で」と知ってください。

 苦に関してなら、「ああ、それはこのように辛く耐えがたいものだ。それは愚かさから生じる。無明、煩悩、欲望が来たら、消滅させてしまおう。消滅させてしまえば穏やかな涅槃だ。それは戒、サマーディ、智慧、あるいは八正道を実践すれば到達できる」と考えます。

八正道には、自分が行なうことを明らかに知る教えがあります。どんな義務を行うにも、この義務は何か、なぜこの義務が生じたのか、この義務を果たしたらどんな利益があるのか、そしてどんな方法でその義務を行うのかということを知ります。

 インドへ旅行したことがあります。アヂャンターへ行って、ある石の彫刻を見ました。四頭の鹿の形をしているのですが、頭は一つです。ああ、これには凄い意味があるに違いないと思いました。でなければ作った意味がありません。

するとすぐに四聖諦の象徴だと分かりました。四頭の鹿の頭が一つになっています。彫像ホールで見ることができます。とは何か、何によって、何のために、如何にして、を一つにまとめて頭が一つ。成功はこれから生じます。

四つの意味は智慧です。心の中で暗誦してください。とは何か、何によって、何のために、いかにして。この四項の教えを使って職務を行えば、必ず成功します。なぜなら智慧でするからです。これを、智慧で働くと言います。

初めは戒で、戒の教えで働き、サマーディの教えで働き、智慧の教えで働きます。戒とサマーディと智慧を、合わせてプラタム、プラタムと言い、プラタムと共に働きます。

プラタムと共に働くことが素晴らしいか素晴らしくないか、考えてみてください。ブッダと共に、プラタムと共に、僧と共に働き、戒で、サマーディで、智慧で、つまりプラタムで働きます。プラタム、つまり戒、サマーディ、智慧と一緒に働きます。

 

                        3.僧と一緒に働く

 一つ目はブッダと共に働く、二つ目はタンマと共に働く、そしてこの三つ目は僧と共に働くです。義務である仕事をする時、みなさんと一緒に僧が働きます。

 ここで、「僧とは善い行い、正しい行いをする人」という言葉の意味を知らなければなりません。僧は輪廻の害が見え、苦の害が見え、苦を嫌悪し、苦を減らすために修行します。苦を減らすための修行が僧です。簡単に言えば、一秒ごとに、「俺、俺の」を減らすこと。これが僧です。「俺、俺の」があって慢心していれば僧ではありません。良く憶えておいてください。「俺、俺の」を減らそうとしている人、それが僧です。

先ほどブッダには「俺、俺の」がなく、空っぽだと言いました。まだ「俺、俺の」を減らしている途中の僧ならば、俺を減らすためにどうするか、何をするべきでしょうか。教えには十項目の減らすもの、サンヨージャナ(十結)があります。

サッカーヤディティ(有身見)、ヴィチキッチャー(疑)、シーラッバタプラーマーサ(戒禁取)、カーマラーガ(欲貪)、パティガ(瞋恚)、ルーパラーガ(形貪)、アルーパラーガ(無形貪)、マーナ(傲慢)、ウッダッチャ(落ち着きがないこと。掉挙)、そしてアヴィッチャー(無明)。みなさんには難しいですが、その十項は、いろんな方法で俺を減らして行くこと、つまり愚かさである「俺」を減らすことと結論できます。

 初めに、「俺」は本当にあるものではないと知ります。幽霊がいないように、愚かさが作り上げたものです。愚かさがあれば何でも、かならず感情面の感覚があります。

たとえばここが痛いなど、神経に痛みを感じると、痛いと幽霊を作り上げます。俺は痛い。痛みのある人。俺が後から生まれます。痛みが先にあって、痛む人が後です。学生たちは、違う、間違っている、私は信じないと反論します。これは、子供は物質面だけを見るので、何かする人が先に待ち構えいて、そして義務をしなければなりません。

 今は心の話、精神の話なので、そうではありません。俺は本物ではありません。愚かさが生じるので、俺が行動の後から生まれます。これを西洋人たちに説明して理解させようとすると、ものすごく大変です。彼らは、行動する人がいなければ行動はないと、子供と同じ論理です。

それは、物質的な話です。しかし心の問題、精神の問題としては、そうではありません。俺は愚かさの結果です。それに本当にはありません。ただ感じるだけのものなので、行為者は後から生まれると言うことができます。

 たとえば何か、体のどこかに痛みがあるとします。神経系統が痛みを感じると、俺は痛い、俺は怒った、俺は何だ、という感覚が生じます。それは後から生じます。行為の後に行為者が生まれます。これが心の、精神の真実です。俺が先に生まれて、痛みやら何やらを知るために待ち受けているのではないと、知っておいてください。俺は行為の後から生まれます。こう知れば俺が減り、俺への執着が減ります。

 必ず心に愛情が生まれ、それから俺は愛している、俺の愛という感覚が生まれます。必ず嫌悪、不満、怒りが先に生まれ、それから嫌う人、怒る人、不満に思う人が生まれます。何らかの感覚が先に生じ、それから俺という感覚が生じます。

 この、俺はものすごいマヤカシ、マヤカシの極致です。後から生まれて俺と言います。俺は無我であり、マヤカシであり、本当にはありません。それは一種の亡霊なので、減らしてしまいます。少なくしてしまいます。どんな方法であろうと俺を減らします。俺を減らすために闘う努力をします。それを僧と言います。

 みなさんの行動の中に僧としての精神ががあります。ごく簡単に言えば、どんな種類の仕事も、利己主義を減らして働きなさい、と言わせていただきます。利己主義を減らすこととは俺を減らします。つまりまだ愚かなので、外側から実践していかなければなりません。

 最も良く知らなければならないのは利己主義です。最も凶悪な最大の敵、最高の悪魔、これらのすべてが利己主義の中にいます。利己主義になれば必ず破滅します。今世界が破滅に向かっているのは、利己主義のせいです。

見てください。もし利己主義を減らさなければ、もうすぐ破滅します。世界は消滅します。どちらの側も自分の利益ばかりで、いつ世界が破滅してもおかしくありません。利己主義は最高に凶悪です。最高の悪魔です。しかし人々は反対に、更に利己的になることに満足しています。

 次に、利己とは何か、利己的な人とはどんなかと、自由な心を見てみます。利己的な人は働きたくありません。寝ていたい。怠けたい。自分のことさえしません。利己的になると寝ていたがりますが、お金は欲しいです。働かないでいろんなものを欲しがります。これが利己です。

もし利己的なら多分寝ていて、今話を聞きには来ませんよ。利己的だと疲れるから何もしたくありません。したいのは寝ることだけ。でもお金は欲しい。これくらいひどいです。

 利己的だと団結しません。誰とも力を合わせません。利己主義者は嫉妬したり妬んだり。嫉妬や妬みは利己的だからあります。

 得をしようとすることもあります。雇用主が従業員より得をしようとするのは、利己的だからです。どちらの側にとっても敵でしかありません。利己主義がなくなれば雇用主も従業員もありません。あるのは生老病死の友だけなので、このような問題はありません。

 道路が混乱しているのも利己主義のせいです。道路が交通で渋滞しているのは、すべては人が利己的だからです。

 そして最終的には、おかしくなります。利己が非常に著しくなると、自然に変になります。私は精神病院へ行って患者の経歴を詳しく調べたことがありますが、どれも道を誤った利己主義が原因でした。最後には気が変になります。利己的すぎて気が変になります。

精神病院へ行かなければ、自殺します。自殺のどの事件も、潜在的な原因は利己主義です。自殺ができるんです。利己主義が道を誤れば、金持ちも自殺できます。すべての悪はどれもこれも、利己主義が原因なので、人間にとって危険です。

 

 次に別の人を見てみます。利己主義だとロクデナシで、犯罪者で、この世界を混乱させます。何もないのにわざわざケチをつけます。利己的な人は自分自身を傷つけ、最後には自殺するほど頭がおかしくなります。そして死ぬ所までいかなければ、世界中、国中の他人を困らせます。平和を乱し、秩序を乱し、何でもかんでも利己主義で攻撃します。自分自身も喧嘩や仲違いをします。本当です。

 夫婦の間に利己主義が生じると、離婚しなければならなくなります。夫婦が離婚しなければならないのは、利己主義になるからです。別れなければいがみ合います。夫婦でありながらいがみ合います。利己主義は非常に自分自身の害になり、他人の害になり、世界全体の、宇宙全体の利益を損ねます。

 利己主義がなくなれば、その時世界は弥勒菩薩の世になります。聞いたことがなければ聞いてしまってください。弥勒菩薩の世界です。ずっと昔からそう書いてあり、そう言っていました。

弥勒信仰の世界を願わずにはいられません。弥勒菩薩の宗教、あるいは弥勒菩薩の世界とは、何でもない、利己が微塵もないことです。あるのは他人を愛することだけ。生老病死の友であり、利己はありません。

 人間の最も尊いことは、利己的でないことです。利己主義が消滅して、すっかり絶滅すれば阿羅漢です。阿羅漢にならなければ、それに次ぐ人です。利己的でなく暮らす善良な国民でも良いです。生老病死の友のことばかり考えます。

 弥勒菩薩の世界の話は、たくさん書かれています。どれも穏やかな幸福ばかり。助け合いで溢れています。最高の福祉のように、欠乏する人はいません。心について、家から通りへ出ると、どこへ行っても、誰が誰だか、誰が何だか見分けがつかないと書いてあります。

みんな同じです。すべて明るく微笑む人ばかり。何か手伝います。手を上げて何か手伝いますか、と言ってきます。その人が自分の家に戻ってくると、ああこれが我が子、これが我が妻、我が夫と言えますが、道へ出てしまうと、みんな同じです。誰が誰やら判別できません。これが利己のない弥勒菩薩の世界です。

 弥勒とは友情を援けるという意味です。友情が基本にあります。ミッタとはミトラ、友情で成立しているという意味です。弥勒とは「友情で、友情に支えられている」という意味です。タイ語のメートライは、サンスクリット語のメートライから来ています。パーリ語ではメータイです。利己主義が滅亡すれば弥勒菩薩の世界になります。

 だからみなさん、どんな場合でも、何をするにも、僧の精神で働き、「利己主義は破滅」と、輪廻の害が見える人でいてください。これを、仕事の同僚として僧がいると言います。

 みなさんは、一緒に働くブッダがいて、一緒に働くタンマがあり、一緒に働く僧がいます。これを素晴らしい仕事と呼ばずにいられるでしょうか。考えてみてください。楽しく働くこともしたことがあり、幸せに働くこともしたことがあり、今は素晴らしい仕事のレベルになりました。

素晴らしい仕事、素晴らしさのある仕事、素晴らしさでいっぱいの仕事。働く人も素晴らしく、人々も素晴らしさを受け取ります。すべての側面の利益のために働きます。自分の利益のためでもあり、他人の利益のためでもあり、混じっていて分けることができない利益のためでもあります。

 ブッダは三種類の利益について語っているのに、愚かな人は自分の利益しか考えません。それでは十分ではありません。自分にも利益がなり、他人にも利益がなり、そして混じり合って分けることができない利益も一つの利益で、三つの利益です。

「アッタッタ」とは自分の利益で、「プラッタ」とは他人の利益で、「ウパヤッタ」とは両者が混じり合って分けることができない利益です。この三つの利益を満たしてください。それが最高です。三つ全部揃うので、最高に利益になる人です。

 

 さて今日は、素晴らしい仕事、ブッダと一緒に働き、タンマと一緒に働き、僧と一緒に働くことについてお話してきました。炎天下で汗を流してする仕事でも、カンカン照りの下で長い汗を滴らせて道路清掃をする仕事でも、厨房で汗に塗れて皿やコップを洗う仕事でも、素晴らしい仕事にすることができます。

 ブッダとプラタムと僧が一緒に働いているように知性で働き、苦がどう消滅するかを知り、サマーディのある心で働きます。戒とサマーディと智慧があれば、僧がいます。つまりいつでも利己を減らします。いつでも利己主義を減らします。

利己主義が減らなければ僧はいません。丸坊主であろうと長髪であろうと、黄衣をまとおうと白衣をまとおうと、利己主義を減らさなければ僧と見なすことはできません。

 これがブッダとタンマと僧と、一緒に働くように働くことです。これは言い過ぎだ、暴走しすぎて実践できないと考える人がいるかもしれません。そう考えないでください。実践できます。ブッダとタンマと僧と、一緒のように働くことができます。話してきたようにできます。

 どうか本当のブッダを知って、いつでも心に入れておいてください。どこでも、いつでも。お話したように本当のブッダは、生まれず、悟らず、永遠に死にませんから、いつでもみなさんの心に入ることができ、タンマはブッダが尊重した義務ですから、自分の心に入れ、煩悩を減らし、俺を減らし、利己主義を減らす僧はいつでもいます。この三つと一緒だという気持で働いてください。

そうすればブッダと、タンマと、僧が一緒に働くと言われます。田んぼを耕したり、果樹の手入れをしたり、皆さんと一緒にしています。一緒に道路清掃をしています。厨房で一緒に皿やコップを洗う手伝いをしています。敢えてこう言います。検証してみてください。もし本当でなかったら、罵ってください。ブッダとタンマと僧がいて、いつでも一緒に働いているような仕事は、ここまでできます。

 自然が最高に素晴らしく与えた価値にふさわしく、みなさんが最高に価値のある、つまり阿羅漢になることもできる、素晴らしい人生を送ることを望みます。自然はこれほど素晴らしい命や心をくれたのに、私たちはすっかり別のものにしてしまいました。

五欲に熱中し、悪事に熱中し、有益に使いません。どうか、いつでも阿羅漢になることもできる儲けを得るために資本として自然が与えたものにふさわしく、利益を得てください。。ブッダと一緒の仕事、タンマと一緒の仕事、僧と一緒の仕事があると言えるような人生にしてください。

 まとめると、いつでも利己主義を減らし、戒、サマーディ、智慧があり、苦はどう生じるか、苦はどう消滅するかという真実を知り、そのように正しく実践すれば、みなさんも素晴らしい人生になります。そして素晴らしい仕事をし、世界の利益になり、この世を弥勒菩薩の世界にします。これが、知らなければならない、理解しなければならないタンマです。このタンマで人生を素晴らしくしてください。

 復習させていただきます。

「スポーツのように楽しく働く」はもうお話しました。「幸せに働いて、自分自身を尊べばいつでも天国」もお話しました。今日はそれより高い「素晴らしい仕事」について、聖向、聖果、涅槃に繋がる、素晴らしい生き方をするために、何も問題がない、何も支障がない、いつでもブッダとタンマと僧が一緒にいる、素晴らしい仕事についてお話しました。信じなくても結構ですが、自分自身で試して検証してみてください。

 みなさん、信じる必用はありません。しかし後で良く考えてください。いま信じないなら後で考えてみれば、自然に分かります。そうすれば実践を十分成功させることができ、そして最高に素晴らしいものを受け取ります。

人間に生まれ、そして仏教に出合ったことは、自由で独立で、苦を越え、すべてのものを越え、ある意味、あるレベルの涅槃である冷静さだけになります。昼も夜も、このように過ごせるよう! 今日のお話はこれで終わらせていただきます。

 


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