どんな仕事も空っぽの心で

 

                                               1969年8月18日

 今日は「どんな仕事も空っぽの心で」と題してお話します。先日は「どの方向を見ても空に見える」という特別な威力についてお話しました。この言葉を真剣に理解しなければならないので、この部分だけもう一度お話します。目が燃えている一匹の鬼、あるいは仙人の話です。何かを見ると目が非常に飛び出し、見たものは跡形もなく燃え尽きてしまいます。これを譬えにしてみたいと思います。

 この噺にも何らかの意味が隠されています。短編や壮大な翻訳経、たとえばラーマヤーナ、ラーマキエンの物語などですが、これは当時の人々が、通常にはない変わった話を創り上げる想像力がたくましかったことを表しています。

 私のはその何倍もすごいです。すべて燃やし尽くしてしまう力も、「空っぽ」の力には敵いません。つまりもっと何もない、という意味です。なぜなら火は物質であり、物質しか燃やすことができないからです。空になるのは物質だけで、名のもの(抽象)を燃やすことはできません。

 つぎに名のものについてですが、名のものを燃やすもの、あるいは破滅させるものがなければなりません。「俺、俺の」という感覚を「無」または「空っぽ」にすることです。これは名です。

 さきほど話した鬼または仙人の話は、身勝手に他人を攻撃し、自分の利益のために、他人に加害するために神通力を使いました。私は利己的になりたくはありません。利己的な考えを攻撃し、誰からも利益を搾取しません。ここが重要です。

 「空っぽ」が理解できないのは、自分の利益が欲しいからです。

 自分の利益、得になることばかり考えている人は、空っぽの話を聞いて理解できません。利益に執着しているからです。利己的な意味に役立てようと「空っぽ」の勉強をしても、勉強になりません。それに、聞いても意味が分からないので、実践できません。身勝手をなくすため、実体がないと知るため、という大切な要旨が理解できないうちは、同じように見えても、まったく別の話です。

 できるだけ得をしたいと考えている人は、「空っぽ」の話を聞いて意味が分かるはずがありません。何を聞いても反対の受け止め方をするからです。たとえば「自分の利益のためでなければ、何で働くの。何が働こうという気持にさせ、働く原動力になるの」というようなことです。

 こうした問題に突き当たるだけで矛盾を感じ、それ以上「空っぽ」について学ぶ意欲を失ってしまいます。何もかも放り出してしまうという意味です。もしそうなら、聞いて理解できないのは当たり前です。

 これは、私が何年間も「空っぽ」の話を社会に広めようとしてきた中での、観察結果です。本当は、十分理解できるよう説明しています。しかし我慢して聞き続けられません。心が拒絶してしまって、初めの一言から受け入れようとしません。それでくだらない問題だと見ます。人間的信頼も、受けとめて熟慮させる力になりません。だから理解できる人が少ないんです。理解できる人がいても僅かです。

 それにもう一つ、彼らが聞いて理解できないのは、どうして知性で、つまり執着しないで希望し、求め、手に入れることができるかということです。

 彼らは、執着がなければ希望も望みもないと否定します。それは文字としては正しいですが、誤解です。なぜなら希望、望み、努力などの言葉は曖昧です。いま述べたように、何で働いても良いのです。執着で働いても、執着なしに働いても良いのです。

 だから彼らは、煩悩があるのに執着なしに働くことはできないと受け取ってしまい、この問題を切り捨ててしまいます。最後まで意味を読まないうちに、つまり、自分は煩悩が厚い人間だから、必ず執着があると決めつけます。執着なしに働けと話す人がいれば、それを受け入れることができず、バカバカしい話だとします。

 良く分かるようにするには、「心はいつでも、基本的には執着がない。執着は時々現れる」という項目を復習しなければなりません。

 大事なこと、大事な仕事をする時は、執着が生じないように注意しなければなりません。つまりうっかりすれば執着が生じます。ぼんやりしても生じます。しかし今はぼんやりできません。考える時間が十分あるからです。

 何かをしようとする時は、急に脹れあがってくる感情ではなく、考える時間、準備する時間があります。ですからまだ煩悩のある人、まだ自分には煩悩があると信じている人は、「心には基本的に執着がない」という項目を捉え、そういう心を使うことにしましょう。

 次に私たちには仕事という大きな問題があります。生きることは働くことであり、働くことに価値があるからです。ですからよく耳にして暗誦できるようになり、歌にもなってしまったように、仕事は非常に大きな問題です。だから私は仕事を重大な問題としてお話します。しかしそれはまた別の話だということが分かるでしょうか。

「内面を見る」というシリーズの裏表紙に、どの本にもこの詩を印刷するようにしたので、誰でも聞いて良く憶えていると思います。

          どんな仕事も空っぽの心で働け

          仕事の成果はすべて「空」にやり

          空の飯を、僧が食うように食えば

          ハナからそれ自体死んでいる 

 この詩の言葉は、田舎っぽく下品です。たとえば「僧が食う」などは綺麗な言葉ではありませんが、どうぞご容赦ください。許容された言葉だけではないので、お許しいただかなければなりません。

 一度聞いたら忘れないように、「僧が食う」というような、わざと激しい言葉を使いました。「ハナからそれ自体死んでいる」という文の、「ハナから」という言葉は、この地方の言葉で、クルンテープ(バンコク)の人が聞いても良く意味が分かりません。

 これもわざと、これは田舎の言葉だぞ、と主張するために意図的に使いました。田舎の言葉を入れることは、少なくとも興味のある人にとっては、新しい言葉の勉強になります。「ハナから」というのは、「もとから、初めから」という意味です。これは南部の言葉です。一行ずつ良く理解しなければなりません。

 どんな仕事でも空っぽの心で働け。これを聞いてみてください。まだ煩悩が滅亡していない人に言っているので、空っぽの心で働くよう命令させてもらわなければなりません。煩悩が滅亡した人なら、何も命令させてもらわなくても、その人は空っぽの心で働いています。

 しかしこれはまだ煩悩がある人への言葉ですから、お願い、あるいは命令形で、「どんな仕事でも空っぽの心で働け」です。そうしないとその人は大変なことになります。

 「空っぽの心」という言葉ですが、これについてはずいぶん話してきました。いろいろ詳しく話しました。探して読んでみてください。最も重要なことは、一言一言、一話一話にそれぞれ特別な意味があるということを、十分承知してください。これを学んだことのない一般の人に対して言うのではありません。ですから、意味のある、あるいは特別の意味の説明を必要とする、「タンマ語」と捉えなければなりません。

 

 「空っぽの心」という言葉は、人が勝手に考えているように、知性のない人のように何も考えない心ではありません。

 空っぽで何も考えない、あるいはそれ以上なら、眠っているのと同じですから、何もできません。「わざと空っぽにする」もありますが、わざと空にしたら、それは野蛮な空、どうにもならない空っぽの心です。空っぽだから分からない、理解できないというように、わざと空っぽにして得をしようとするなら、責任逃れの空っぽで、それでは使い物にならない空っぽの心になってしまいます。

 私のは仏教の教えで規定した意味があります。つまり考えがない空っぽ、あるいは俺、俺の、という考えがない空っぽ、という意味です。俺、俺のという考えには非常に広い意味があります。これらを良く観察し、学び、理解し、熟知しなければなりません。

 ですから区別します。私たちが日常感じている考えを、どういう考えが空っぽなのか、俺、俺のという感覚がないのか、どういう考えが空っぽでないのかを区別します。一般的な教えで簡単に言えます。貪り、怒り、愚かさが混じっていれば、空っぽではありません。貪り、怒り、愚かさが混じっていなければ、心は空っぽです。

 もう一度まとめれば、貪り、怒り、愚かさが混じっている心は利己的で、身びいきで身勝手な考えです。なぜなら身勝手さは貪りや怒りや愚かさに分かれるからです。空っぽの心には、利己的な考えまたは自分のためという感覚がなく、あるのは純潔な知性、純潔な知性による考えだけです。

 煩悩や欲望の奴隷である知性と、純粋な知性の違いを教えるのは大変です。しかしいずれにしても、私の言うことをすぐ信じないで、自分自身で観察してください。自分の考えを観察するのでも良いし、思索、学習、研究好きな人を見るのでも良いでしょう。現代は良く調べずに、やたら科学者を崇拝していますが、科学的な研究をしている科学者たちについて考えてみてください。

  たとえば進化論の研究をしたダーウィンの本を読むと、ヨギー(ヨガの修行者)や修行者と同じくらいの時間を、考えることに費やしています。動物を観察するために原野へ行って、注視するために杖に拠りかかり、人形のようにじっと立ち尽くしていたので、リスが体に昇り、小鳥が停まったということが分かります。それほど深く注視するとはどのようか、どれほど深く鋭いか、俺、俺のという気持が混じっているかいないか、考えてみてください。

 自分で考えれば、俺、俺のという感覚が混じっていればイライラしてしまい、そのように深い観察、あるいは考えはできないということが分かり、理解できます。このような場合に俺、俺のという考えがあれば、必ず失敗し、敗北を来たします。自然の神秘を発見するまで観察を続ける十分な集中力がありません。

 ダーウィンはすべてを忘れていました。自分のすべてを。自分の名前、どこに住んでいるか、何物か、どんな損得があるか、どんな義務があるか、何のために。こういうことをすべて忘れていました。心をすっかり自然に埋没させていました。

 つまり自分自身が無く、自然の一部になっていました。心は自然の一部になりきり、可能な限り深い観察をしました。だから自然の神秘と言えるところまで深く抉り、自然の真実の体系を発見することができました。これが、俺、俺のという感覚がない心でする仕事の見本です。

 また別の、アインシュタインという非常に有名な科学者の話です。何を発見した人か、みなさんきっとご存知のはずです。心は非常に深く自然に到達し、自然と一体になりました。私、私の、私の利益、私の損得などが残っている痕跡はありません。だからアインシュタインは、鬼才と言われる発見ができたのです。現代人は超人としています。原子爆弾やら何やらを創り出すのに用いる数式は、私の言う「空っぽの心」の人の仕事です。

 どんな思想家であろうと研究家であろうと、学者であろうと、空っぽの心で働かなければなりません。自分という意識が兆せば、とたんに必ず失敗します。そのとたんに禅定は失われ、深い思考は破れます。たとえば家のことを考えたり、家族のことを考えたり、その仕事の成功を考えたり、失敗を考えたり、そういうことを考えたとたんに、その仕事は失敗します。

 成功するか失敗するかという考えは、決して頭をよぎってはいけません。没頭して、没頭して、その日一日の思考力が尽きるまで没頭して、翌日また続けます。誰のためにするのかとか、誰に依頼されたとか、誰かに味方するとか、何か必要性があってしなければならなかった、というようなことは考えません。

 誰かに雇われているから、あるいは誰かに対して責任を取るためとか、誰かへの義理のためなどという行動は、すべて振り捨てなければなりません。その時はすべて払い捨てなければなりません。そしてその問題は既に解決したか、納得したか、すっかり片付いていて、もう考える必用がないようになっていなければなりません。

 仮にアインシュタインが、彼にとって恩あるアメリカを助けるために理論を考えていたら、それをすべて捨てなければなりません。アメリカ、あるいはユダヤ、私、私の、あるいは彼、あるいは恩、あるいは恩でないなどは、すべて捨てなければなりません。

 私、彼、得、損、私であるもの、私のものが何もない、空っぽの心でなければなりません。そうすれば心の状態は純粋に自然の一部になり、深い自然に埋没することができます。これが空っぽの心で働くことの見本です。

 もしかしたらアインシュタインは、ユダヤ人にとって恩のあるアメリカに、借りを返すためと考えたかもしれません。しかし考えるだけで止めます。急いで止めなければなりません。「俺、お前」にはそれ以上関わりません。後はするべき義務だけです。

 そして義務を果たすために義務を果たします。それが空っぽの心で働くことです。それは先ほどお話した鬼、目が火でできていて、見たところはどこでも燃やし滅ぼしてしまう鬼のように。

 しかし彼らは、その鬼と違って利益のためにしたのではありません。その鬼は自分の利益のためにしますが、彼らはそれよりずっと善いです。彼らは仕事のために仕事をし、義務のために義務をします。その時私、俺、誰が得、誰が損、などはありません。

 その時アインシュタインは、アメリカに恩のあるユダヤ人ではありません。あるのは純粋な心、純粋な智恵だけです。だからこそ普通の人が発見できないものを発見することができます。その時彼らは信じられないほど何もかも忘れています。必要ないものはすべて忘れています。

ご飯を食べたか、何がどこにあるかを知る必用はありません。彼らの机の上はネズミの巣よりも牛小屋よりも散らかっています。心が机の上の美しさなどを考えないからです。心には、彼らの研究への関心しかありません。

 もし抑えきれないほど考えが湧いてきたら、というもう一つの例をお話します。ギリシャの哲学者アルキメデスのように、心が空っぽで、溢れるほどの智恵で満ちている人は、比重を浴室で発見しました。心がそのことをすっかり洞察したので、「分かったぞー!」と叫びながら裸で外へ飛び出してきました。

 心は空っぽで、智恵でいっぱいです。服を着るのも忘れて外へ飛び出すほど、智恵だけしかなかったのです。これは何もかも、すべて忘れていたということです。あったのは、自然の神秘をすべて洞察する炎のように鋭い思考だけです。

 これは、真実心が空っぽで働くとは、こういうことだという見本です。働いていない時間は、もしかしたら、俺、家族、妻子、損得、その他何やら、その人なりのものがあるかもしれません。それは別の場所、別の時、別の話です。しかし仕事をする時は必ず空っぽの心で、何も心を支配するものがなく、他のことに縛り付けるものはありません。空っぽの心だからそうなります。空っぽの心でずっと働くことができます。

 びくびくしながら働く人は、普通の人は、何をするにもびくびくしながらしています。たとえば成功しなかったらどうしようと心配します。俺、俺のがあるからで、いつでも強く抑圧されています。机の上には俺、俺の物(タイ人は職場の机に家族や恋人の写真などを飾る)がいっぱいで、つねに抑圧されています。だから頭が痛いのです。

 支配人は頭痛がして、神経の病気で死んでしまいます。心配や不安を振り捨てることができず、考えなければならないことが頭にないので、考えることができません。それで仕事にも秩序がなくなり、何もかもめちゃめちゃになります。仕事は必ず知性でしなければならないということです。

 良い仕事ばかりでなく、低級と言われる、知性を必要としない仕事でもそうです。掃除などの仕事を怒りながらしたら、生き地獄に落ちるのと同じです。たとえば家や部屋を掃いたり、床を拭いたりしながら怒っていたら、何か良くなるものがあるでしょうか。

 あるいは主人に気に入られるとか、褒美がもらえるとかいう、一生懸命働く目的や期待がなければならないとしたら。こういうのは苦から逃れられません。そして仕事も、何もかも忘れて今している仕事のことだけを考えている人のように、百パーセント良い出来栄えにはなりません。

 何か見返りを求めて働くことは、誰でも慣れて身についている「俺、俺の」の問題です。誰か監督している人がいたり、褒美が出たりすれば良く働き、誰も見ている人がなければ違った働き方をします。あるいは権力のある人や好きな人の目の前では良い仕事をし、後ろに回れば違う働き方をします。それは、目の前では拝み、裏では騙す人です。

 それから仕事を最善に、あるいは百パーセント良い仕事にしようと期待しないでください。乱れた心で働く時、心は違った乱れ方をします。つまり必ず誰か他人の期待に応えなければいけないという気持があり、全ての精神力を使うことが出来ません。

 こういうのを、空っぽの心で働いていないと言います。そして空っぽの心で働いていない時は、同じ仕事、同じ人でも、空っぽの心で働いた時のように良い仕事にはなりません。

 もし雇用主や好きな人や、あるいは誰かの気に入るようにしようと考えるなら、初めに考えるだけ、初めに思うだけで十分です。初めにそう納得するだけにします。実際に仕事を始めたら、空っぽの心で働かなければなりません。つまり俺、お前、私、あの人がなく、あるのは知性と、注ぎ込む労働力だけ。乱れのない心の知性で労働力を使った方が良い仕事ができます。

 家の拭き掃除でもです。結局は雇用主や好きな人が百パーセント満足するものになります。しかし何らかの混乱、散漫な心で仕事をすれば、必ずぼんやりしてしまい、あちこち行き届かなくなり、埃が筋状に残ってしまうかもしれません。

 混乱した心で働けば、きっとぼんやりして、不注意になるに違いありません。心全体が仕事に向かっているのではなく、期待や願望の考えで混乱しています。ですから、良い結果を目指して働くなら、仕事を始めたら心を空っぽにしなければなりません。

 俺、お前、あの人、私たち、損、得、赤字、黒字、そういうものが何もない空っぽにします。そうすれば頭痛になりません。そうなれば仕事は仕事としての意味がなくなり、遊びのように楽しくなります。

 これについては先日お話しました。仕事としての意味がなくなるように、遊びになるように働けば、仕事は楽しいものになるというのは、空っぽの心で働く秘訣です。つまり仕事が楽しいものになります。混乱した心で働けば仕事は辛いものになります。ここまでお話すれば、空っぽの心で働くか、あるいは混乱した心で働くか、二つに一つしかないということが、すぐに分かると思います。

 混乱した心で働くと、俺、俺の、損だ得だ、赤字黒字など何でもあります。それらはすべて「俺」「俺の」にとって意味があるものばかりです。これが混乱した心で働くことです。どれもこれも散漫を生じさせるものばかりです。

 空っぽの心で働けば、そのような感覚に妨害されることはありません。リスが体に昇っても頓着しないほど集中して植物を観察していたダーウィンのように、心にあるのはすべて知性です。ということは、何物にも妨害されず、心の力をすべて使うことが出来るということです。これが空っぽの心で働くことと、混乱した心で働くことです。こんなに違いがあります。

 これにも特別な場合があります。資質というか徳というか、簡単にそうなれる人がいます。天才、あるいはいろんな呼び方がありますが、それも確かに本当にあります。時にはあまり資質がない人もいます。精神病患者のように欠けていれば、そうするのは難しいです。

 馬鹿げたことをする人や、笑い上戸などにはできません。自然の法則と一致した正しい心と体を授かるだけの、徳がなければなりません。そして幼い頃から、落ちついて一生懸命に働くよう、しつけられ訓練された、このような集中力があればこそ、簡単にそういう仕事が出来るのです。

 空っぽの心で働くことは、心が完璧でない一般の人にとっては困難です。だから鬼才と言われる人が少ないのです。しかし自然が少なく規定している訳ではありません。それはすべて人間の堕落のせいなので、誰を責めることもできません。人間の、両親の、孫や子の、何やかやの堕落が多すぎます。

 自然が作った時は、みんなそれなりにまともでしたが、後になってすべて駄目にしてしまったのです。気質はガサツで利己的です。のべつ自分と自分のもののことしか考えず、皮膚で味わう旨味しか考えないので、次第に心のサマーディが失われます。そしてサマーディがなければ鋭い智恵もありません。だからアインシュタインやダーウィンのような人には、滅多に巡り会えません。二、三人いるかと思えば、物質的な方面ばかりです。

 もしアインシュタインやダーウィンやその他多くの人達が、精神的なことを考えたら素晴らしいでしょう。鬼才と言われる人は少なく、その少数の人も物質面の研究ばかりで、心や精神について研究することはない、と言うことが出来ます。それを自然よりも人間の欠陥、あるいは堕落と言います。

 しかし今、私たちは滅苦を目指す、滅苦のために生まれてきたと言葉にし、納得しました。ですから自分の期待や願望や関心を、精神的なものに、そして誰にでもできる苦しまない状態に、向き変えなければなりません。

 ですからもし苦しみたくなかったら、空っぽの心で働けば仕事が楽しくなり、その結果も素晴らしくなります。

 誰のためにどうするか、損得はどうかという問題が、仕事を始める時に残っていてはいけません。それは初めにだけ考えることにします。初めにしっかり確認したら、あとは能力以上のことを望まないことです。自分の能力を超える任務を引き受けないでください。先ずは能力を美しく開花させて、それからゆっくり任務や責任を拡大していきましょう。

 現代は自己宣伝をして、敢えて能力以上の仕事を引き受けます。だから表向きだけ整えたような、前で拝んで後ろで騙すような働き方になります。大きな損失です。

 私たちは純粋に、純粋な意図で働かなければなりません。その仕事に奉仕する価値があると見たら手をつけます。日常的な仕事、大した価値もない毎日の仕事でも、空っぽの心でしなければなりません。でなければ生き地獄に落ちます。一日中、小さなこと一つ一つを大事に扱い、細々とした些末な仕事も、一世一代の大仕事も、どちらも空っぽの心でしなければなりません。

 要は「空っぽの心で働く」という項目にあります。「仕事の成果は空にやり、空の飯を食う」と発展させたのは、むしろ最初の項目を説明するためです。もし最初の項目を理解できれば、あるいは実践できれば、次の項目はあまり問題にはならないでしょう。

 ですから、空っぽの心で働くという初めの一行について多少長くお話しします。それがしっかりできれば、自然に「仕事の成果は空にやり、空の飯を食う」が分かります。しかし先日と同じようにお話します。

 今日は、どうしたら空っぽの心で働けるか、そしてどんな種類の空っぽなのかという項目について明確にお話します。

 先ほどお話したように、どういうのが空っぽの心で、どういうのが俺のある心、空っぽでない心なのかを観察して見ると、簡単に見て取ることができます。知性で働くこと、あるいは煩悩で働くことと言うことができます。心が空っぽなら知性で働きます。心が混乱していれば煩悩で働きます。それだけです。

 家の拭き掃除や底辺の泥にまみれる仕事、ゴミや埃を掃く仕事なども同じです。いま知性でしているか、あるいは煩悩欲望でしているか、自問しなければなりません。つまり知性が混じっているか、それとも煩悩欲望が混じっているかを。煩悩欲望でしていたら、煩悩欲望でしていると確実に知らなければなりません。

 それからどうすべきか。自分自身の罪を認め、二度と繰り返さないことです。つまり二度としないように心を入れ変えます。それだけです。それが身について習性になるまで。かならず知性で働き、煩悩欲望で働かないことが習性になるまで。

 お話していることについては、多すぎるほど、飽きるほどお話しています。グチグチと言いすぎるほど言っています。それなのになぜ効果がないのでしょう。それは知性で働くというところまで行かないからです。ですから知性と、そして純潔がなければなりません。

 しかし私が「知性で働く。煩悩欲望で働かない」とあまり言わないのは、それ自体、誠実で純潔だということを意味します。そしてこの智慧というのは、俺、俺のがない智慧という意味です。ここで言う知性は、心に俺、俺のがない時に存在します。

 心に俺、俺のが生じると、智恵のタイプが変わります。狡猾と呼ばれる智恵になります。非常にすばしっこく賢く、cunning であり、何でも俺、俺のためにします。それに、世界もそのタイプの智恵を、俺、俺のための知恵、主人を騙す狡賢い猿のような知恵を求めています。純粋な知性を求めてはいません。

 智恵について話す時は、本当の智慧、純粋な智慧でなければなりません。「危機を脱して長者になる」と世間で言うような智恵ではいけません。彼らの目的はそれしかないんです。そういう智恵はまったく別問題です。煩悩欲望の智恵というのも種類としてはありますが、純粋な智恵ではないということを良く憶えておいてください。

 観音様の絵のある柱を見てください。「純、慧、慈、忍」と書いてあります。必ず純が最初でなければなりません。つまり真直でずるくない純、どの方面にも純、つまり真がなければなりません。あるいは純潔が初めです。それから智慧なら狡猾になりません。

 そして慈も第三の慈のように純潔です。汚れた、あるいは俺のある第一第二の慈ではありません。そうすればこの忍も疲れません。智慧による忍だったら、血の涙を流すほど耐える必用はありません。純粋に導かれているのですから。

 危機を脱すための智恵は、「俗知恵」と言って、煩悩欲望の知恵であり、種類が違います。庶民の智恵であり、英語では cunning と言い、wisdom ではありません。パーリ語ではチェコーと言い、智恵とは呼びません。しかしタイ語ではどちらも同じように智恵と呼びますが、これは罪です。チェコーも智恵と呼び、純粋な智慧も智恵と呼びます。だから人々は頭がこんがらかってしまうんです。だから一緒にしないでください。

 チェコーの話、世俗的な意味での一流な智恵の話しをしてもいいです。

 トゥランにプラヤーラッチャダーという省(県に当たる昔の行政区分。18省あった)長がいました。省長になりました、ラーマ五世が省長にしました。タイ語は読めません。中国の字も自分の名前が書ける程度で、タイ文字はサインができる程度でした。これが庶民の智恵があり、世俗的な智恵があったので、省長にまでなりました。そして役に立つ働きをし、読み書きのできる省長より、あるいは上級僧より、もっと偉大な結果を残しました。

 人から聞いた話しですが、今でも滑稽だと思って憶えています。来客と話している時に電報が届きます。いつものように秘書が電報を持って来ました。普通なら秘書に電報を読み上げさせるのですが、お客の前でそうしては恥になります。そこで文字が読めないのに、読んだ振りして電報を切り裂きました。持って来て読む時は頭を下げます。

 愚かな秘書は、「省長さんは読んで頭に入れます」と言いました。そこで省長は赤いタバコの箱で秘書の頭をポカッと叩き、「私は読んで頭に入れる。読める!」と言いました。普通の人も文字を読んで頭に入れます。頭に入れた文字を読むことができます。これが世俗的な意味で、分相応の智恵のある省長です。賢そうに振舞った、あるいは出すぎた秘書は、却って愚か者になってしまいました。

 もう一つ、パッタルン、トゥラン間に道路を造った時のことです。霊験のある神秘的な深い山を通らなければなりませんでした。土木作業員たちは恐ろしがって、藪に切り入ったり水を飲んだり、いろんなことをするのを拒みました。

 この省長は立ち小便をして言いました。「ほら、俺は小便をしたぞ。お前ら水を飲んでも大丈夫だ。お化けも何もいない。お前らの首を折る幽霊はいないぞ」。それで作業員たちは働いたり、水を飲んだり、何でもできるようになったと言います。

 その道路は、読み書きのできない人の智恵で完成しました。こういう智恵も恐ろしいものです。つまり非常にたくさんあります。俺、俺の、の智恵、あるいは世俗的な智恵は、上等な煩悩欲望の支援を必要とします。しかしそれは世俗のものなので、タンマに使うことはできません。cunning であり、チェコーであり、そのような何かです。

 ですから私が「智慧で成り立っている空っぽの心」と言ったら、自然と一体である本当の知識のことです。自然と一体である心の「知識」は、自然を知っています。タイ語が私たちを困らせるのは、タイ語がタイ人を困らせているのは滑稽です。ですからこの種の智慧の良い呼び方がないか、考えてください。かと言って、後の時代のパーリ語を信頼しすぎてもいけません。

 毎日水を垂らす(儀式の)時に唱える言葉に「チェコー タンマタタ コーヴィトー」とありますが、このチェコーは、世俗的に敏捷で賢い人という意味を、間違って純粋な智慧という意味に使っています。しかしチェコーは、俺、俺の、のために働く知恵です。

 これは私たちが知恵、知恵、知恵と使い慣れているのと同じ、現代の新しい使い方です。この子は手が早いことに関して知恵がある、というのは、すばしっこいこと、チェコーのことでしかありません。

 心が本当に空っぽなら、純潔な智慧があります。俺、俺のがない純粋で清潔な知性があって、すばらしい仕事ができます。仕事は楽しいものになり、仕事と感じないので、仕事に勝つことができます。毎日の仕事の時に、この項目を試してみてください。楽しいかどうか。仕事と感じるか感じないか。仕事としての意味があれば、心はまだ空っぽではありません。

 良く見て、改めて心を空っぽにします。どんな仕事も空っぽの心でできる人になるために、自問してください。少なくともそうできるようになってください。働いている時は必ず空っぽにします。他の時は空でなくてもご勝手に。あるいは色々詰め込んで楽しくしたいなら他の時にして、仕事をする時は空っぽにすれば、損失はありません。

 火のように鋭い眼があり、何を見ても空っぽで見て、欲もなく苦もなくなるには、仕事でさえ仕事と感じないほど空っぽの心で見るというくらいの知識がなければなりません。仕事という言葉の意味をすべて破壊すれば、仕事は楽しい遊びになり、仕事は快適で順調です。

 支配人は頭痛になりません。奥様も頭痛になりません。お手伝いも頭痛になりません。道を掃除する人も、舟の船頭も頭が痛くなりません。なぜなら彼らは仕事をしているのではなく、何か楽しいことをしているのですから。

 私が言った「どんな仕事も空っぽの心で働け」という言葉の特別な意味は、これなんです。よく考えてください。目の前に立ちはだかる敵や障害物を撲滅させてしまう力のある鬼や仙人や行者のように、神秘で特殊な力を持つことができます。


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