なぜ空っぽという言葉か 

                                                1969年8月21日

 今日は「なぜ空っぽの心、という言葉を使うか」という題でお話します。前回は「どんな仕事も空っぽの心でしなさい」というお話をまとめてしました。今回も続けて「空っぽの心」という言葉を使います。中には、わざとこんな言葉を使うとか、勝手に言葉を作り出したとか、あるいは変わったことをするためだと理解する人がいるかもしれません。

 この村の人は、奇妙なことをすると言います。つまり変わっていておかしくて異常な事をすると言います。別の新しい言葉に変えてくださいと頼みに来る人がいたり、純粋な心とか明るい心、あるいは執着のない心などという言葉に替えた方がよいと、アドバイスしてくれる人がいるほどです。ですからなぜ空っぽの心という言葉を使うか、という話しをすることは、誤解、あるいは捉え違いに対する挑戦です。

 誤解に挑むような言葉を使うのには、誤解に踏み込んで、わざと変わった言葉を使う意図はありません。タンマではそのような話し方を好みません。政治的な話でも漫談でもなく、人をからかうのでも優位に立とうというのでもありません。

 本当は、敢えて誤解に挑むような言葉は、高度なタンマの中にはたくさんあって、ほとんど全部くらいです。なぜなら高度なタンマには、それ専用の言葉がないので、一般の人々の言葉を借りて使うからです。だから庶民の言葉としての誤解を引き寄せます。ですから意図的に誤解に挑む言葉を使うことには、何の利益もありません。正しく使うよう、あるいは早く真っ直ぐに理解するよう、努力するだけです。

 「空っぽの心」という言葉にしたのは、人々の利益になるようにという意図から、簡単に早く効きめがある言葉にしました。そしてそれ以上に、元の言葉がパーリ経典のブッダの言葉、つまり「空(くう)」だということです。

 しかし反対や抗議をする人は、慣れていない、あるいは「空」の意味が分からないこともあって、中には「空というのは大乗仏教のものだ」と言う人、輩もいて、誤った見解だと見なす人までいます。本当は、空の話は大乗仏教ではなく、大乗とテーラワーダに分かれる前からの、仏教全体の仏教の要旨です。

 ここで指摘させていただきたいのは、本当の仏教とは、テーラワーダでも大乗でもありません。テーラワーダとか大乗とかいうのはただの所属です。私たちはテーラワーダ、あるいは大乗の人が呼ぶ小乗に属します。私たちが自分らをテーラワーダと呼ぶのは、登録や分類しなければならない時の所属です。

 これは宗派に分かれた後に生じた問題です。そして誰も本物だ、正統だと自慢しないでください。どれも同じ本から成長したものばかりです。そして萎縮した部分もあります。これは長い話なので、後でお話するかもしれません。

 ここでは、本当の仏教はテーラワーダでも大乗でもない、ということを憶えておいて、あるいは理解しておいてください。

 しかし私たちはテーラワーダに属しています。もう一つの宗派は大乗です。テーラワーダの三蔵にも「スンヤター(空)」という重要な言葉があります。ブッダの言葉に「私は空のこと、あるいは空に関係したことしか話さない」というのがあります。スンヤターというのは、つまり空、空に関係あることしか話さない、と言います。

 後世の人は耳に響きの良い言葉、楽しいことを好んで、響きの良い詩を創作しました。詩作に賢い詩人、あるいは作家、あるいは哲学者は、自分たちの三蔵にあまり関心がなかったので、空がテーラワーダにとって重要部であることを知りませんでした。

 ヨーロッパや他の国から、手紙で問い合わせてくる人が何人もいました。このような内容は三蔵のどこで述べられているのか、由来を教えてくださいという質問です。私もいろんな所で話し、いろんな大学で講義したことがあります。この言葉を使う理由は、

1. 空はサンユッタニカーヤ(相応部経)だけにある内容です。空に関してはブッダが使った、ブッダが話した元からの言葉です。ブッダは、空の話は深遠、あるいは仏教の要旨だと強調しています。「空っぽ」に関しては、元の言葉をそのまま使えばいいのですが、しかし人々を複雑困難にする必用はないので、経文の空を学習したことのない人、あるいは興味のない人には耳慣れないので、そのように解釈しました。

 これが、なぜ空っぽ、あるいは空っぽの心という言葉を使うか、という理由の一つです。他の言葉、たとえば執着しない心、あるいは純粋な心、あるいは何の心でも使えます。しかし空っぽの心という言葉、つまりこの空っぽほど仏教の要旨に人々を引き込むことはできません。

 そこで手っ取り早い方法、あるいは一度にいろんな物をたくさん獲る方法として、このような言葉を使いました。仏教の要旨に早く、深く導くことができます。それに普通の一般の人にも何とか理解できるからです。

2. 便利で、一般の人にふさわしいからです。これは事実、あるいは現実を意味します。普通、私たちの心は基本的に空っぽであると、何度もお話してきました。心は基本的に空っぽだということを忘れないでください。元々の心は、ほとんどの人が考えているようにぎゅうぎゅう詰ではありません。

 三蔵の先生たちでさえ、人は元から煩悩があると、つまり心は基本的に、初めから混み入っていると捉えています。そしてその煩悩をすべて削って剥がして落とす努力をしています。

 しかし私はそう言いません。私は心は基本的に空っぽで、煩悩は今、そして時どき現れるだけだと言います。「煩悩に包囲されている無明でも、今生じたものであり、時々生じるものである」とブッダは言っています。目、耳、鼻などを通して入ってくる感情(心が捉えるもの)でサティが迂闊になり、無明に変わります。

 煩悩の親分、つまり無明も今生じたばかりであり、時どき生じます。基本として心には、普段は煩悩はありません。ですから私たちの勤めは、知性で防止することです。生じるチャンスを与えてはいけません。いつでも元の状態である空っぽにしておきます。

 実践する意味、あるいは実践しなければならないことは、元々煩悩があり、基本的に実体であり、永久に変わることはない、というのとは大違いです。私の見解では、煩悩が涅槃のように永久不変で変わらないなどと発言するのは、誤った見解です。私はそうは言いません。煩悩は原因と縁によって今生じたばかりで、そして時どき生じるのです。実践すべき勤めは違います。

 煩悩にチャンスを与えないように気をつければ、煩悩は生じることができません。そうすれば心はずっと空っぽです。これは普通の人にも実践できます。常識と言われるようなものは身につけて簡単に使うことができます。あるいは空っぽの心で働くための道具になります。元々ある空っぽでもいいです。あるいはもっと空っぽ、煩悩を攻撃して生じる機会をすべて封じた「空っぽ」なら、いつまでもずっと空っぽでいられます。

 以上が、なぜ空っぽの心という言葉を使うかという理由の例です。聞いてびっくりする人もいれば、反論する人もあり、逡巡する人もありますが、本当は慎重に、あるいは熟慮して選んでいます。そしてある意味の神聖さを捉えています。つまり、ブッダが仏教の要旨だと言っている言葉です。だから他の言葉は使いません。なぜならこの言葉ほどふさわしくないからです。

 話す人と聞く人にとって、この言葉ほど有益ではないからです。つまり「空」は仏教の魂と知って、外国の言葉だとか、勝手に考え出したとか、仏教を駄目にする言葉だなどと考えるのは止めてください。心が空っぽならば空っぽの心と言います。それだけです。そして愚か者の空っぽに意味を持たせないでください。前に詳しくお話したように、ろくでもない空っぽの心もあります。

 空っぽというのは自我がないことです。自分という感覚がないだけです。どんな方法でも、その時俺、俺の、という気持ち、あるいは理解がなければ、空っぽの心と言います。私たちは何らかの方法で、心をそうできるようにしていかなければなりません。そして仕事のために仕事をすれば幸福です。目標は二つあります。つまり仕事は最高の出来になります。そして働く人が楽しく感じ、あるいは幸福で、苦がありません。

 自分で探してもいいです。信じなくても結構です。これらの話を聞く必用はありません。仕事が上手くいって、働く人が楽しく便利で快適なら、それは正しく、使い物になるという結果を探しましょう。自分で知るのでもいいです。

 あるいは心理学の科学者は、どうしたら仕事の結果が良いと感じるかを探求します。つまり仕事の結果が良くて、働く人が幸福で楽しく、働きたいと感じ、仕事に没頭できればそれでいいのです。そうできると同時に、仏教、あるいは仏教の要旨に到達できます。

 いま楽しく働けないのは、俺、俺のためだけに働くからです。だから仕事が重荷で、仕事は心に覆い被さる山になってしまいます。ですから先日お話した柔道精神を使って、仕事を重荷でなくします。あるいは仕事の意味をなくしましょう。世界はすごく快適で幸せになります。つまりプレッシャーがありません。

 もう一つ先ほど、普通の人の生活に近い実践をするようにと言ったのは、普通の人も実践でき、そして仕事の最初の段階、ABCの段階から空っぽの実践を始められます。仕事の世界で生きる最初の段階からこの知識、あるいはこの手法を使います。世界は仕事、仕事は世界だからです。生きることは仕事、仕事は生きること。同じです。世俗で仕事なしに生きても、何も意味がありません。死以上です。仕事はなくてはならないもの、見つけなければならないものです。いつでも避けることはできません。

 ではどうしたら苦にならないでしょうか。それはタンマと呼ぶものに頼るしかありません。

 教祖がタンマを探求したのも、この問題を解決するためです。人々がそれを使って、家庭の中の当たり前のもの、どこにもあるものにするため、各家庭の文化にするためです。宗教の話を、儀式をする話に、難しい話にする必用はありません。のろまったらしいだけです。毎日心と体と、言葉ですること、日常の行動、考えの問題にしましょう。

 だからこの種の文化の残骸は、仏教教団にたくさん残っています。仏教がタイの、私たち仏教徒の魂として入ってきて、かなり長い時間になるからです。千年、あるいは二千年に近く、日常的な文化に根を張っています。インドの他の文化と一緒に入って来たにしても、文化の中心は仏教です。

 時にはごちゃごちゃに混じり合い、ぶつかり合いました。バラモンである先生もいた時は、時々はヒンドゥーやバラモン文化が顔を出したり首をもたげたりもしました。しかし仏教が最大の教義でした。そして先生であるバラモンたちが先に住んでいて、後に仏教に転向したと言われています。あるいはバラモン教は衰退し、残ったのは家のこと、世俗のこと、民衆のことと呼ばれることだけになりました。

 一方心のこと、精神的なことであるタンマは、仏教に代わりました。これらの文化も同じインドの文化です。仏教はインドの文化です。インドで生まれ、インド人によって私たちタイ人に伝えられました。私たちはインド人に恩があります。

 怒らないこと、恨まないこと、無常、苦、無我を悟って許すこと、深く悔やまないことを教える文化は、仏教の要旨です。これは現代人にはありません。特に西洋人は無常、苦、無我、あるいはカンマ(業)と捉えて泣く必用がないことを悟りません。

 身を捨てて奉仕すること、他人を援助すること、自分のことより先に他人のことを考えること、習性のある仏教教団員の明るい微笑、これにはいろんな基礎があります。たとえば死を恐れないこと、破滅を恐れないこと、苦を恐れないことです。だから明るく微笑むことができます。誰もが、生まれ老い病んで死ぬ友達という考えも、微笑むことができる原因です。他人のことを先に考えることも明るい微笑みの原因です。

 これらはすべて、俺、俺のがない空っぽの心の象徴です。もしこの重要部分が欠ければ、つまり心に俺、俺のがない、という部分が欠ければ、そのように明るく微笑むことはできません。

 心が空っぽでなければ、心は恐怖でいっぱいです。特に死の恐怖、あるいは死の影、たとえば病気や他の何でも、死に繋がる、あるいは死に向かうものでも、死の影のようなものさえ恐れます。たとえば幽霊やら何やらを怖がるのは、死を連想する感覚だからです。

 たとえば会議を怖がったり、マイクロフォンを怖がったりする人間恐怖も、死の影です。なぜなら失墜を恐れること、失敗を恐れること、破滅を恐れること、それはすべて消滅すること、つまり死です。マイクを怖がるのは死に関係ないと理解してはいけません。マイクの前に立つと体が震えて話せなくなっても、その恐怖がどこから来るのか分からないので、ただ怖がっています。

 どんな種類の恐怖も、自分自身が消滅する恐怖から来ています。自分自身が消滅すること、そして自分のものが消滅することです。ですから俺、俺のという執着を撃退してしまえば、恐怖のすべてが撃退されます。マイク恐怖症もです。

 そうなら空の話、あるいは心を空っぽにする話は、一般庶民にとって普通のことと見なければなりません。大抵の人が誤解し、そして一般庶民に教えるなと反対しているような、涅槃を目指す人、涅槃へ急ぐために山や藪へ入る人の問題ではありません。

 本当は、赤ん坊にも関係ある一般庶民のことです。マイクを怖がらなくなるように、赤ん坊の時から空っぽの心を知るようにしつけます。小さな子供が何かを怖がる問題はあるべきではないと捉えます。

 ヤモリやオオトカゲ、ミミズなど、理由のないものを怖がる人、これも死の恐怖です。何か変なものを見ると死を恐れます。ヤモリやオオトカゲやミミズなどを怖がるのも、死の恐怖から来ています。死を恐れるのは俺、俺の、に執着しているからです。

 赤ん坊の時から、それらを怖がることはないと教え、最終的には暗闇を怖がらないように教えなければなりません。俺、俺の、と執着することを攻撃する、直接の知識でも間接の知識でも、子供の年齢や段階にふさわしい俺、俺の、を追い払う知識がなければなりません。

 いろんな段階、いろんな部分の、空っぽの心で働く方法を探すことは、赤ん坊まで含めます。これは人間に生まれた良い結果のため、そして仏教教団員であるために、必ずしなくてはならない勤めです。

 どうしたら必ず働く時に空っぽの心になれるか、そしてその空っぽの心は野蛮な種類でないことを理解し、憶える一助にするために、もっと高レベルの大人を例にしましょう。

 多くの医師が、自分の妻子や、自分の親の手術ができないで、他の医師に頼んでしてもらいます。自分も手術に熟練しているのに、です。腕がないから出来ないのでも、能力がないのでもありません。しかし心が正常でなく体から離れているので、諦めてしまい、他人に任せた方が安全だと考えるからです。こんなのもあります。

 本当は、仏教の教えの空の心を使えば、つまり俺の子、俺の妻、俺の親と捉えなければできます。しかし今まで経験したことがない課題なので、その人は避けてしまいます。時には野蛮な空っぽの心でも使い物になることがあります。憎たらしい野蛮な空っぽの心でも、このような場合には使えることがあります。

つまり野蛮な空っぽの心で、何も考えず大胆不敵に、一時的に俺の子ではない、俺の妻ではない、俺の親ではないと捉えれば、その間は手術することができます。しかし私は、まだ野蛮な空っぽの心と呼びます。

本当にタンマのある真実空っぽの心を求めるには、納得すること、悟ることです。そうすれば使い物になります。だから野蛮な空っぽの心は、万策尽きた時以外は使うべきではありません。いまの例のような仕事をしなければならない時は、空っぽの心が役に立ちます。

 大抵の人は血を見ることが出来ません。死体の解剖が見られません。もっとひどいのは、動物の解体、牛や水牛、犬、アヒル、鶏でも見られない人もいます。それは死の問題、俺、俺の問題に執着しすぎるから見られないのです。それも自分の任務を果たす上で、いろんな障害になります。あるべきでない問題です。

高い橋を渡れない人もいます。何の橋でも渡れません。倒れそうな、目が回りそうな感じがして、卒倒しそうな青い顔になります。その人は怖いからとは言いません。怖いからと言っても、なぜ怖いのかは分かりません。本当は心が異常になりすぎて、いつもと比べて異常なので、つまり空っぽの時と比べると非常に異常なので、卒倒しそうなほど目が回ります。

 私は常々こういう勉強をしています。勉強というほどのことはありませんが、いつも考え、感じています。汽車の鉄橋を歩く時、昔は板が敷いてなくて穴になっていたので、枕木の間から、深い川の水が見えました。子供の頃は怖くて渡れませんでした。

自分の精神力に合った何らかの方法で恐怖心を克復するしか、渡る方法がありません。大人たちは「突っ走れ」と教えました。枕木だけを見て枕木を踏め、穴から下にある川の水を見ちゃ駄目だと。そうすれば何とか渡れると。それでも非常に大変でした。

 しかし、もし枕木が陸の上に敷いてあれば、穴から下へ落ちる恐怖を感じないので、あるいは地べたの上に枕木があれば走れると、智恵を使ってよく考えれば、歩くことも走ることもできます。しかし高いところへ持ち上げると、怖くて歩くことも走ることもできません。空っぽの心の智慧を使えば、更に深い解決になります。「突っ走れ! 枕木だけを見ろ」だけでは、とてもできるものではありません。

 心を空っぽにすることにも、易しいものから難しいものまでいろんなレベル、いろんな段階があります。子供たちに死体の解剖や動物の解体を見せるのも同じです。食糧にする家畜の解体を見ると食べられなくなってしまう人がいます。生涯食べられない人もいます。何も理由はありません。ただ一度見ただけです。

私自身も経験があります。小さな頃からとても良い勉強になっています。いろいろで、何と表現したらいいか分かりません。死が怖いのでもないし、殺されるとか首を落とされるのが怖いのではありません。しかし臭いやら何やら、心をすっかり萎縮させるものがありました。

 正常になりたいなら、あるいはこのような仕事をするには、心を空っぽにする方法を学ばなければなりません。タイ人は、昔オマルを使っていた時代に、おわいを運んだ中国人には敵いません。まだバンコクに沁み込み式のトイレができる前、中国人には排泄物を運ぶ職業がありました。タイ人にはできません。こういう例は非常にたくさんあります。一般に低級な仕事、底辺の仕事と言われるものです。

 次に知性や知恵がある人と言われるくらい高い話にしましょう。知性がある何かのプロであっても、マイクを怖がる人があります。可笑しくないですか。良く考えてみてください。歌手でありながらマイクが怖くて、気分が普通ではなくなってしまい、マイクに入っていないみたいに上手く歌えない人がいます。

マイクにはいろんな意味がありますが、大衆の前、社会の人が見つめる前、多数の人が見ている、という意味に集約されます。見つめられている、と感じます。人が多ければ多いだけ心の平静さが失われます。そこにいる人たちから栄誉を受けるからです。ちょっとマイクに近づくと体が震え出します。これは現代の非常に難しい問題です。これは基本的な、どこにもあることです。

 昔はマイクはありませんでしたが、人に見られる恐怖はありました。僧の間では、法座(説教をする人が座る台座)恐怖症と呼んでいました。法座に上ると体が震えます。法座が怖いんです。しかし本当は、じっと見つめて耳を澄ませている、会場いっぱいの聴衆が怖いのです。

 僧は法座の上で体が震え、何を話しているのか分からなくなります。私は何度も見たことがあります。自分の時には何らかの解決法を考えなければなりません。でなければ失敗します。誰に教えられなくても、常識で解決できるかもしれません。 

  以前にお話したことがあります。もしかしたら何度も繰り返したかもしれません。子供の頃、排便は家から離れた運河縁の便所へ行かなければなりませんでした。ここから川まで、あるいはそれより遠いかもしれません。鬱蒼とした菩提樹の木の下を通らなければなりませんでした。

暗くて、誰もが幽霊が出はしないかと怖がりました。夜遅くに便意を催せば行かなければなりません。オマルや壷は使わないし、家に沁み込み式の便所はありません。菩提樹の影に近づいてから運河縁に出るまでが問題でした。誰も教えてくれません。どの神様が教えてくれるのか知りません。

 それで自分の方法を見つけました。菩提樹の影に近づくと、飼っていた闘魚のことを考えました。とても綺麗で目が合うと互いに追いかけ合います。昼間見ていて、像が目に焼きついているので、菩提樹の下を通り抜け、明るい運河縁に出るまで、闘魚の像を思い浮かべていました。用を足せばもう一度、家に帰る時同じことをしなければなりません。

 これは何も特別な話ではありませんが、誰に教わらなくても自分で考えられるということを教えてくれます。それに、恥ずかしいので誰にも話したくありませんでした。当時は幽霊を怖がることが恥ずかしいので、もっと話したくありませんでした。しかしこの方法はずっと今まで、大人になるまで応用できました。そして、これらの問題を確実に克服するように教える、経の心理学のテキストと同じです。

 とくに僧の法座恐怖症は、弥蘭王問経(那先比丘経)の特別部に、どうしたら説教僧が法座を恐れないか、つまり大勢の聴衆を怖がらないかが述べられています。そこで述べられているのは、私が子供の頃に用いた方法と同じでした。つまり心を別のところへもって行く、あるいは別のイメージを作ることです。十八の例があるのですが、面倒で憶えようとしなかったし、憶えられませんでした。憶えているのは多分一つ、「今私は獅子王だ」だけです。

 弥蘭王問経(那先比丘経)経で紹介しているのは十八種類、あるいは二十近くありましたが、その中に「私は今獅子王だ、山羊の子ではない、私は法座に獅子王のように上る」という項目がありました。私もそれを読む前からそうしていました。私もそのように、獅子王のようにしたことがあります。

 時には、ああこれは、会場いっぱい座っている人はみんな私の母、私の父、私の兄弟たちだけだと自分に言って聞かせると、恐怖は消えました。そしてそれも後で読んだ経典の中で紹介されているのと同じでした。

 二項目だけで十分でしょう。他のは思い出せません。思い出すのは、「今私はブッダの獅子王に仕えている。ブッダの教えを広めなければならないから、誰かを恐れてはいられない。誤っても正しくても、生きても死んでも、誰かを怖がってはならない」です。だから話すことができました。

 時には、この人たちは敵ではない、私を信じ、私の話しを聞き、私の家族と同じように私を愛していると思うと、楽に話せました。私は説教を始めた時から、体が震えるほど法座が怖かったことはありません。初めて法座に上った時は怖いと思いましたが、体は震えませんでした。大変な問題だったことはなく、解決できました。

 お話してきたことは、常識的な方法で心を空っぽにする見本です。大したことではありません。心を状況にふさわしい状態にすることは、仕事をする上で必用不可欠です。

 現代は、みなさん誰でもたくさんの問題を抱えています。大衆の前に出ること、あるいは皆が見ている会議などで、もし何も喋らないで、ただみっともないだけなら何でもありません。何か喋らなければならない時、上手く喋れなくて、言い間違ったりして、だからみっともない以上です。これは、イロハから、ABCからどの場合でも、と言います。

 どうしようもなかったら、野蛮な空っぽの心をでも使わないよりマシです。しかし私たちは理論的な空っぽの心を使わなければなりません。そして今お話したように熟慮するところまで高めます。今私はブッダの広報係りだと考えることも、野蛮な空っぽの心と見なしません。仏教の手法に合った空っぽの心の、最初の手法です。

 どうぞ、どんな仕事も空っぽの心でしなければならない、そして具体的にはどうするのかということに関心をもってください。これは後で詳しく熟慮検討できるように、見本としてお話しました。今日のお話は、この前の「どんな仕事も空っぽの心で」という話しに含まれます。もしかしたら後日また、このような話しをするかもしれません。今日はこれで。


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