空っぽの心で働くことの問題(続)

 

                                               1969年8月23日 

 今日は先日に引き続き、「空っぽの心で働くことの問題」という題でお話します。この前は、大部分、空っぽの心で働くことの問題の、個人的な問題についてお話しました。

 大きな問題の一つは、外部の人間、あるいは環境から生じる問題です。

 ほとんどの人は他人のせい、他のもののせいにしがちで、自分のせい、自分の知性や能力が足りないせいにはしません。ですから先ずこの点を理解しなければなりません。自分の知性や能力が十分あれば、誰も障害にはならず、妨害もしません。

 最高の智者であるブッダから見ていきましょう。ブッダは誰も反論できない状態で宗教、あるいはタンマを公開しました。反論妨害できる人がいれば、それはまだ完璧な知性ではありません。

 私たちが唱える経に、「誰も反論できる人はいない。サマナもバラモン(祭司階級)も、天人、悪魔、梵天も」とあります。梵天は最高の生き物と見なしているので、最後に述べています。それでも反論、あるいはブッダが宣言した法輪、つまり仏教を攻撃できません。

これは、ブッダは十分な智慧で勝利し、ブッダではない、それに準じる人たちが何をしても上手くいくのは、十分な智慧や能力があるから、つまり障害よりも上、敵よりも上だからというのを、大きな教えとしなければなりません。

 もう一度繰り返したいのは、何度でも繰り返し言いたいのは、その智慧は、それ以上に良い智慧はどこにもない、俺、俺の、のない空っぽの心に現れた智慧だということです。心に執着がなく、俺、俺の、が煮えたぎっていない時が、最高の知性があります。

 しかし聞くと、頭が悪いように、あるいは何でもないように聞こえます。皆がしているように考えなければならないこと、勉強しなければならないことは何もないからです。

 それは自然にある知性、自然の、自然のための、自然による、言い方は色々ですが、本当の自然に達していなければなりません。仏教を学び、これらのタンマを学習するには、直接自然を学ばなければならないというのは、知っておかなければなりません。

話した人の言葉や本から学ぶことだけではありません。それだけではできません。十分ではありません。つまりタンマが分かりません。分かっても考えて記憶する類の知識で、自然に到達して誠実に明らかに見えた知識ではありません。だから彼ら(本から学ぶだけの人たち)は、聞いて意味が分からない言葉を使います。

 たとえば禅などの宗派や団体は、「自然に到達するだけで何もしなくてもいい」と言います。つまり自然と一体になります。こういう言い方も、正しく聞こえません。しかし本当は私が言っている普通のことです。つまりタンマに至る、タンマに到達する、タンマに入る、あるいはタンマになります。この詳しい説明は、「タンマに至る人、人に至るタンマ」という本にあります。興味があったら読んでみてください。

 「自然に入ってしまう、あるいは自然になってしまう」という言葉は、心に最高の智慧がある時です。

 自然に入ってしまう、あるいは自然になってしまえば、心には俺、俺の、がなく、すべてのものより上にあり、臆病や恐怖、愛着、怒りより上にあり、特に愚かさより上にあるからです。

 人が非常に愚かなのは、自分や利己主義がある時です。なぜなら愚かさが愛させ、憎ませ、怖がらせ、怒らせ、何でもさせる原因だからです。非常に能力のある人とは、愚かさより上にいる人、愚かさや過ちがなく、その時残っているのは、私が今話している、ちょっと聞いたら難しい、理解するのが難しい、俺、俺の、のない心です。

 しかし努力すれば、分かるように学ぶ努力をすれば理解できます。そして非常に役に立ちます。身を守る以上の役に立ちます。これはそれ以上の利益があります。これがなければ、どのタンマにも到達できないからです。

 いろんな問題を解決するには、まずタンマに到達しなければなりません。完璧に到達、あるいはある部分、ある程度、あるいは一時的、時どき到達するのでも良いです。つまり時どき空っぽの心になるのでも、非常に良いです。空っぽの心がないよりマシです

特に障害や敵や何やらが、揃って押し寄せてきた時には、空の心があれば素晴らしいです。その問題を解決するには最高です。だから、みなさんが知って理解できるように。仕事の問題を解決する時、適度に心を空っぽにできるように、そして空っぽの心で最高の仕事ができるように、この話を繰り返しお話しています。

 今日お話したいのは、周りの人に由来する障害がいっぱいある仕事です。特に今、あるいは将来は、今までよりもっと、他人と関わる仕事をしなければならなくなります。まだ世界が近代的な発展をしていない時代には、ほとんどの人は一人で働いていました。

大昔は動物と同じで、仕事は食べることだけでした。そのような時代には、森から採ってきて食べるのが仕事だったということを忘れてはいけません。森の中を歩くのは、現代人が森へ遊びに行くのと同じように楽しく、そして食べます。ただ口に入れるだけですから、今のような問題はありません。

 現代のように発展と呼ばれる変化をすると、ますます他人に依存し関係しなければならなくなります。発展が村を作り、村は県になり、最後には国になって、一つに括られます。捕らえられて縛られるようで、一つに縛られるようなものです。

一人一人が小鳥や動物のように自由だった昔とは違います。小鳥には仕事がありません。飛んで行って食べます。飛び回ることは、私たちが観光するように楽しいことです。木の実を見つけたら楽しく食べます。気持良くさえずりながら食べているのもいます。こういうのを障害がないと言います。仕事がないからです。あるのは遊びと飛び回ることだけです。

 昔の人は動物のようにとても自由でした。それから変化して、呪われたようにどんどん重荷が増えました。宗教によっては、教典でハッキリと呪いと言っているのもあります。人間は呪われて苦を負わされ、苦しく困難になるのは神の言う事を聞かないからであり、強情だと必ず苦しみが増えると。それは俺、俺の、があること以外の何物でもありません。

 人間はどんどん利己的になって、現在のように身勝手な人ばかりになりました。どこからどこまで自己中心的な人ばかりと言います。しかし、礼儀で野蛮な煩悩を隠すようにしつけられた、上塗りされた礼儀に依存しています。

しかし煩悩は隠せません。ただ塗りつけたり隠したりするだけなので、自然とは程遠い賢さがあります。自然からどんどん離れるので、苦がいっぱいです。したいこと、欲しいもの、執着がどんどん増えていくからです。

 次は誰もがいろんな部署で働かなければならない問題ですが、これも精神病になる人がいます。現代は群れになって、グループで働きます。たとえば大資本による売買なら、非常にたくさんの人と関わります。非常に注意深く指揮監督しても、思うようにはなりません。

それでも問題は生じます。喧嘩や口論などが起こります。もっと統率権のある仕事、たとえば軍人や公務員などは規律や統率がありますが、それでも静かではなく、反発や反抗、規則違反などをする隙があり、部署内で争っています。

 現代は、管理者たちはみんな頭を痛め、常にも真っ青な顔をして、顔色を失っている状況が顕著に見られます。区長、村長、郡長などから、局長レベル、大臣まで、あるいは総理大臣でも、この点から見れば、管理監督から生じる障害でいっぱいに見えます。だから注意しなければなりません。

強い統率力のある軍の仕事でも、つまり刃向かう者には厳罰を下せる、あるいはそのまま処刑することができても、それでもまだ規律に背くなど、何らかの反抗はなくなりません。秘密裏に、あるいは堂々と、それらはまだ存在します。これは、仕事を成功させたい人にとって重大問題です。世間にはこういう問題があり、新たな計画で発展をめざす国にとって重大な部分です。

 ではどうしたら管理監督に関して、一緒に上手く働くことができるかという問題です。もし管理できなかったら、みなさんはどうしますか。頭が痛くなります。それとも生き地獄に落ちますか。どうしましょう。

 

 これが、今話している空っぽの心で働く問題です。つまり社会と関わりがあり、他人と関係があります。これらの問題を解決できれば、世界の問題はなくなるように見えます。国家間のレベルの問題も、すべてこの問題だからです。

 話しが通じない問題。普通の言葉で言えば、話しが通じない問題です。たとえばコミュニストと民主主義者は話しが通じません。俺、俺の、が割合として強くなるからです。話しが通じないのは、お互いの利益が一致しないからです。管理者と部下、雇用主と従業員は、まったく話しが通じません。利益が一致しないからです。利益が一致すれば話は簡単です。二、三言話すだけで楽しく仕事ができます。問題は生じません。

 現代は双方の利益があまり一致しなくなっています。それは、どちらも自分たちの立場しか考えなくなっているからです。昔は父と子のように働いていました。雇い主と雇われ人は、親子のように働いていました。あるいは家の中の奴隷、雇い人と雇い主でも、親子のように働きました。

現代は敵同士のように働いています。西洋人がアフリカから捕まえてきた奴隷などは、奴隷以下の奴隷です。雇用主と雇用人は、昔と違って親子のように働きません。利己的なので話が通じません。お互いに得をしようと身構え、自分の利益になる機会を伺っているので、話になりません。

 考えてみてください。誰もが俺、俺の、という感覚がいっぱいで憂鬱な時、それをきちんとさせるには、どれくらいの知性が必用でしょうか。仮にみなさんはそうではなく、たとえばみなさんが管理職でそういう気持ちがなくても、部下たちがそういう考え方をしていたらどうしましょう。それは手に負えない大問題で、「蛇口をひねる」と言われる辞職をするしかありません。

つまり自分から職を辞さなければなりません。敵わないからです。部下あるいは使用人、雇い人が度を越えているからです。辞められる時はまだ良いです。辞めること、辞職することができない時は闘わなければなりません。それが問題です。

 

 夫婦間でうまく行かなくなった時はどうしたらいいでしょう。離婚できない時は、甘んじて生き地獄を受け入れるしかありません。話にならないのですから。離婚できても同じです。問題は元のままです。ですからそれは、諦めるより解決するべき問題、解決するのが正しいです。

 さあ、こういう状態の問題、項目になりました。このように心が混乱した人達の中で、どうしたら空っぽの心で、最高の仕事ができるでしょう。これが問題です。答えは自信をもってお勧めできる、空っぽの心で働くこと。今お話してきたこと以外にはありません。心から俺、俺の、をなくして、元々の空にすること。つまり怒らない、憂鬱にならない、何でもない、元の状態に戻して解決します。

 問題は、どう解決するか、心がそのように混乱している人をどう解決するか、どう仕事を進めるか、というところへきました。彼らは敵対しているか、あるいは内心は反対派の何かだからです。なぜなら利害か噛み合わないからです。前にお話した仏教の重要な教えである、自分の善で他人の悪に勝つ、という項目まで来ました

 次の問題は、どうしたらできるか、非常に悪い彼らに、どうやったら善で勝てるか、です。それは可能な程度を超えています。しかし仏教の教えの力を借りれば、別の遣り方があります。相手の身分が自分より上なら、敬って祭り上げて従い、同等なら愛して仲良くし、自分より下なら慈しみ憐れみます。

 しかし必ず、憐れむことができない、憐れんでいられないという問題にぶつかります。部下、目下と呼ぶにはあまりに悪すぎて、敵であり障害です。こういう問題がいつもあります。しかし、いつでも空っぽの心で問題を解決する例外ではありません。

 ではどこで使うのでしょうか。いろんな場面、何十場面もあるので、どの場面で使うのでしょうか。格好をつけると言われるように、野蛮な空の心を使って仕事を終わらせることもできます。それ以上に良い智恵がなければ、機転、あるいは悪智恵だとしても。解決しないよりマシです。

 全身仏教教団員として最善にするには、本当の智慧で誠実にしなければなりません。本当の智慧とは、空っぽの心以外の何でもありません。猛火、あるいは燃えている目のように、何を見ても空と見ます。何より高い智慧があるので、すべての物を本当に空と見ることができます。仕事を見ても仕事には見えず、楽しい遊びに見え、人を見ても人でないように見え、自然のもの、元素に、蘊に、根(あるいは六処。感覚器官)に見えます。

 ここで部下が反抗的になったら、そういう煩悩があったら、同じような見方をしなければなりません。つまり人と見ないで人でないと見て、煩悩とだけ見ます。煩悩を見ることは、つまり亡霊を見ることです。

 亡霊については先日、本当の亡霊は無知、無知は亡霊の親、貪りや怒り、逡巡が生まれるのは、いろんな亡霊が生まれるから、とお話しました。私たちに悪意を持つ人、あるいは強情な人、約束を守らない人など、そういう類の人に出くわしたら、猛火で、あるいは燃えている目で、今亡霊と話している、人間と話しているのではない、と見ましょう。

 その人の煩悩と話しているという意味です。人と話しているのではなく、煩悩または亡霊と話しています。亡霊と話す時はどうするべきでしょうか。怒ってはいけません。それは自然の亡霊で、誰それさんという人ではないからです。

 自分は何でしょうか。自分も人ではありません。知性です。今自分は心が空っぽの人の知性になっています。それが亡霊と話している、あるいはその人と仮定した誰かの無知、あるいは貪り、怒り、愚かさと話している自分です。

 自分も怒ってしまったら、自分も亡霊になります。亡霊と亡霊は喧嘩になります。亡霊と亡霊は噛みつき合いになります。どちらも破滅します。もし怒ったら、ただ気分を悪くした程度でも、亡霊と話している亡霊になります。考えてみてください。話しになるでしょうか。喧嘩になるに決まってます。言葉では喧嘩しないにしても、心では激しい争いになります。

 雇用主が怒れば、従業員は既に怒っているのですから、亡霊と話す亡霊、亡霊と喧嘩する亡霊で、誰も問題解決できません。亡霊の噛みつき合いになってしまいます。誰にも問題解決ができません。双方が亡霊になってしまったら、誰が問題を解決できるでしょう。

 何としても問題を解決したいなら、どちらか一方は人間でなければなりません。人間が亡霊と話す、亡霊の問題を解決する。それならできるかもしれません。人間は亡霊より優れているからです。

 みなさんはいつでも人間でいなければなりません。亡霊、つまり話にならないと言われる、欲、怒り、愚かさの形の俺、俺のがある亡霊に何とか対処できるように、いつでも必ず人間でいなければなりません。

 訳が分かるように話すには、善い人間でなければなりません。そして心に俺、俺のがない人間ほど善いものはありません。それでこそ相手より上の智慧があり、上の何かがあります。何も言う必用はありません。うまく行くように処理します。亡霊になってしまったら真っ暗で、盲目で、光がないからです。

 人間なら明るさがあります。いつも明るい人間でいれば解決できます。怒ってしまったら、一緒に怒ってしまったら、態勢を立て直すまで、つまり怒りが治まるまで、破滅します。だから怒らないでください。こんなに簡単で、保証つきの答えになりました。誰でも、子供でも言えます。

 一つ憶えておいてください。答えは簡単です。タンマの問題、あるいは奥深いタンマの方法は簡単に答えられます。そして真実で正しく、それ以上に正しい、あるいはそれ以上の真実はありません。しかしそれを実行するのは難しい、ということです。

 壁画の中の禅の絵を思い出してください。つまり僧が区長に「悪を行なってはいけない。善を行いなさい。心を純潔にしなさい」と教えると、区長は「おう、そんなこと三つの子供でも言える」と応えました。僧は「三つの子供でも言えるが、お前さんは白髪頭になっても実行できない」と言いました。

 こういうことはどこにでもあります。つまり人間誰にでも。話せる。考えられる。計画もできる。しかし実行できません。自分を管理できません。だから実行できないで怒ってしまいます。怒ってはいけないと教えられれば真実だと思うけれど、実行できません。怒ってしまうからです。

 すべての修行を普通の人の言葉で一つにまとめた、奇妙なブッダの言葉があります。「真実を言う。そして怒らない」。これで全部です。真実を言って、そして怒らない。これだけで十分。終りです。涅槃に行けます。

 ここでは世間の、たとえば雇用主や資本家などの問題を意味します。真実を言うだけ。そして怒らなければいろんな問題はすべて解決できます。これはブッダが言いました。私が言ったのではありません。

 真実を言うことは、人が真実を言うのは難しいです。自分自身が、いつでも狡猾だからです。他に別の意味の真実、つまり真実の人、真実を言って本当に行うという意味もあります。自分で実行します。自分が言ったことは実行する人。真実を言うだけではなく、本当に実行して、言ったことはやる人です。いつでも真実を基準にしています。

 どうぞ真実、つまり真っ直ぐな人、あるいは言行一致の人でいてください。これが一番大きな教えです。二番目は絶対に怒らないこと。なぜなら怒ってしまったら、真実も何も維持できないからです。

 怒るという言葉も広い意味でなければなりません。怒鳴りつけるほどでなくても、気分を悪くするだけでも、心が動揺するだけでも、何かが動いたら怒りと呼びます。そしてexicitement という興奮も怒りに含めます。

 怒らず、少しの exicite も動きもなければ、怒らないと言います。つまり動揺しません。真実を言い、そして常に怒らないで、本来もっているパーソナリティを常に体現して、この人は真実を言い、そして怒らないと誰もが認めるようになれば、あなたは部下に勝ち、支配下の人に勝ち、何にでも奇跡的に勝ちます。

なぜなら真実を言い、そして怒らないことには、空の心で働くという意味があり、空の智慧があるから怒らないからです。それ以後は亡霊と喧嘩する亡霊の症状はありません。鋭い智慧のある人間の相があります。そしてタンマで亡霊を退治し、殺害します。やっきになって亡霊と喧嘩しません。

 たくさん係長とか課長とかいう地位の人が、苦しみを訴えて愚痴をこぼし、理解し合えない苦を語ります。私の観察では、これは亡霊と亡霊の喧嘩に見えます。それでは問題を増やさないでいられません。これはタンマに欠ける人、タンマのない人、タンマに関心のない人です。

困った事になってからお寺へ来たのでは、誰も助けてやれません。タンマに興味をもったことなどなく、タンマの心得がなくて、たった一時間だけ話を聞いても、できません。中には、三十分ほど時間があります、という人までいます。これはタンマを知らない、宗教を知らないバカです。

私に十五分ほど、二、三言、その人が抱えている問題を解決する話をさせ、それから汽車に乗って帰ると、そう言います。これは仏教を知らない最高のバカです。毎日毎日、毎月毎月、毎年毎年話していても、あまり良く分からなくて、分かっても実行できないというのに。

 どんな問題を解決するにも、どうか十分タンマを大切にしてください。

 率直に言えば、僧や小僧たちもまだタンマを、タンマの価値を十分重要視していません。だからまだ問題があります。そういう、タンマを大事にしないで他のことばかり考え、口や腹のことばかり考えて混乱している人達について、語る必要はありません。口や腹のことを考えるからタンマを考えないのです。タンマは口や腹のことを考えたがらないからです。

口や腹のことを考えている時は、タンマを考えていません。ふざけることを考え、「俺、俺の」の、傲慢なことを考えるので、ますますタンマを考えなくなります。俺、俺の、という思い上がりに注意してください。日常的に食べること、性のこと、名誉の虜になって、何も問題解決ができなくなります。それらは真実を言わなくさせ、非常に怒りっぽくさせるからです。

 人が崇拝する食べること、性のこと、名誉に関することには十分注意してください。それは、真実を言わなくさせ、言行不一致にさせ、不正直にさせ、そして、のべつ幕なしに怒らせる真犯人です。自分のことしか考えないからです。「真実を言う。そして怒らない」というブッダの教えに素直になるには、これに注意してください。

つまり、どうしたら真実を言って、そしていつも怒らないでいられるでしょうか。家でもそうし、家族にもそうします。職場で部下に対してもそうします。どこへ行ってもそうします。誰とでもそのように交際します。いずれにしてもその教え、つまり相手が目上だったら敬って聞き従い、対等だったら愛して仲良くし、目下だったら慈しみ憐れむという教えを百パーセト活用すれば、上手くいきます。

 考えてみてください。もし真実を言って、そしていつでも怒らなければ、どんな結果になるでしょう。協力と賛同ばかりです。目上の人は引き立ててくれようとし、同僚はみんなで安全を守ってくれ、慈悲の目で見ている目下の人は、下から押し上げてくれる用意があります。目上の人が引き上げ、同僚が支援してくれるので、協力ばかりです。障害もなく敵もいません。

だから生業を営むことは、楽しい遊びになります。重かった仕事は、重さの意味がなくなります。昔の人のように楽しく笑いながら、心を合わせて楽しく仕事をすることができます。その仕事の仕事としての意味、重荷としての意味はなくなり、楽しい手仕事になり、社会の中で楽しく助け合って働けます。

 従業員と雇用主にしても、管理職と部下にしても、家庭内でも、困難が容易に、重い負担が軽いものに、艱難辛苦が面白いこと楽しいことに変わります。

このようにすれば、毎日トウダイグサの実を食べに来る小鳥に負けません。鳥が飛んで来ると楽しそうに見えます。何羽も一緒に飛んでいるのを見ると、楽しそうに見えます。食べている時も楽しそうに、楽しく木の実を食べているように見えます。双眼鏡で見ると楽しく遊んでいるように見えます。小鳥たちには苦しい時はありません。

仕事はそれだけ。楽しみであって仕事ではありません。苦しい病気もありません。死にも意味がありません。これは自然の空の心です。タンマの実践や訓練の結果の空の心ではありません。ですから俺、俺の、がない空っぽの心と名がつけば、何でも、快さだけです。

 人が小鳥をまねることもできるはずです。何も恥ではありません。人はほとんど、生き地獄に落ちているのですから。まねるのが嫌だったら、見習うだけ。「カラスを見習ってもカラスをまねるな」と言われるように、カラスの賢いところを見習い、カラスのずるいところは真似ません。これは私たちが見ることができる自然のいろんな形です。

つまり賢い人が正しい賢さを使えばこれらの問題を解決できます。亡霊の症状はありません。高くて清潔で、明るく落ちついた心の人間であり、俺、俺のがまだ発達していない自然の空、清潔、明るさ、落ちつきのある、小鳥、ネズミ、アリや虫にも負けません。

 人間は「俺、俺の」が発達したので、奇妙な問題、特別な問題が生じます。人間には、この問題を解決して、清潔で明るく静かな、自然の状態に戻さなければならない義務があります。しかし人は動物以上に静かな幸せがありません。人間は小鳥やネズミよりも能力があります。しかし穏やかな幸せに関しては、それらの動物に勝てません。人間は罪を受け取り、たくさんの問題を抱えて苦しむよう呪われたからです。

 キリスト教の聖書にはそう書かれています。人間が何かを食べると野蛮な智恵が生まれ、善悪、苦楽などの区別が生じ、そして一方を嫌って一方を愛しました。これが執着です。それが男を生み、女を生み、善と悪、幸と不幸を生みました。こっそりその果実を食べたから、そのような問題が生じました。

それにそのような問題は智恵ではなく愚かさです。つまり執着するために善悪を知るのは愚かさです。しかしどちらにも執着しないために善悪を知るのなら、それは智慧です。仏教の智慧はこういう智慧です。

善悪を教えるもう一つの木、「執着してはいけない」という木の実は、これは神が食べるのを禁じているので、人間は食べていません。タブーとされています。聖書の初めの二、三ページにそう書かれています。

これは、人間はこのように呪われているので、大きな問題に遭遇するということです。走れば走るほど遠のき、足掻けば足掻くほど沈みます。智慧があればあるほど、深く沈みます。このような人間の智恵は、あればあるほど苦の海に沈むだけで、自分を埋める穴を掘る智恵です。

 ですから俺、俺の、のための知性は持たないでください。しかし簡単な方法で俺、俺の、を抜き取る、あるいは攻撃する智慧を持ってください。つまり亡霊になってはいけません。あるいはいつでも噛みつき合い取っ組み合うものにならないでください。

「真実を言う。そして怒らない」。この二つだけで簡単に解決できます。そして白髪頭になる前に必ず実践しなけれななりません。大きな教えとしてはこのようです。後で教えとして考えてみてください。これは政治的な言い方です。

 「教え」を受け取ったら、その教えで実践し、解決し、何でもすることができます。そうすれば真実を言い、そして怒らない人になります。それ以上の智慧は必要ありません。他の智恵は残っています。狡賢い智恵、職業的な智恵、職務の技能的な智恵はまだ残っています。

 しかし自分をコントロールする智慧がまだ十分でないので、まだ少なすぎるので、動物を簡単に呼び寄せるのに使う餌、または智慧をおびき寄せるように、「いつでも真実を言って、怒らない」というワナを仕掛けることで、自然の知性が助けます。これも大きな成果があります。

 私たちは自然の深遠な智慧を求めます。自分がないことは真実を言うことであり、そして動揺しないだけで怒らないので、真実を言い、怒りません。詳しくは後でお話してもいいですし、みなさんが自分で考えてもいいです。

家庭内の問題解決、職場、職業、あるいは公務でも何でも、どこでもこのように解決します。これを、空の心で働く時に生じる問題を、空の心で働く教えで解決すると言います。そうすれば、その後は進歩発展します。


ホームページへ                                            法話目次へ