用語の解説が欲しいとのご要望があったので、このサイトで使われる用語を、ターン・プッタタートの説明の意味で、簡単な用語解説を作ってみました。使い勝手は良くありませんが、ご利用ください。
辞書
【アーチャン】
先生。行動を真似る手本である先生。つまり師匠。精神的指導者はグルと言う。阿闍梨。
【アサミマーナ】【アスミマーナ】
自分がいるという感覚。優越感
【アハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤ】
漢訳では我慢・我所有・傲慢。ターン・プッタタートの言葉では「俺・俺のもの」という感覚。
【アリヤ】
素晴らしい。聖人の。
【アリヤニャーヤダンマ】
聖。聖人。ローグッタラ(直接涅槃へ向かう教え)であるもの。
【アヴィッチャー】→無明
【生き物】動物・衆生
「生き物」と言うのは、どれほどの意味ですか」。
ラーダさん。チャンダ(満足)、ラーガ(貪り)、ナンディ(陶酔)、タンハー(渇望)のどれでも、形にあれば、生き物は当然それに関わり、その満足の貪り(欲貪)などでその形に夢中になります。だからその生き物は「生き物(動物)」と呼ばれます。
ラーダさん。チャンダ(満足)、ラーガ(貪り)、ナンディ(陶酔)、タンハー(渇望)のどれでも、受にあれば、生き物は当然それに関わり、欲貪などでその形に夢中になります。だからその生き物は「生き物(動物)」と呼ばれます。
ラーダさん。チャンダ(満足)、ラーガ(貪り)、ナンディ(陶酔)、タンハー(渇望)のどれでも、想にあれば、生き物は当然それに関わり、欲貪などでその形に夢中になります。だからその生き物は「生き物(動物)」と呼ばれます。
ラーダさん。チャンダ(満足)、ラーガ(貪り)、ナンディ(陶酔)、タンハー(渇望)のどれでも、すべての行にあれば、生き物は当然それに関わり、欲貪などでその形に夢中になります。だからその生き物は「生き物(動物)」と呼ばれます。
ラーダさん。チャンダ(満足)、ラーガ(貪り)、ナンディ(陶酔)、タンハー(渇望)のどれでも、識にあれば、生き物は当然それに関わり、欲貪などでその形に夢中になります。だからその生き物は「生き物(動物)」と呼ばれます。
相応部カンダヴァーラヴァッガ
【ウパディ】
依。存在の基礎。生の素質。妻子等。(水野弘元編パーリ語辞典)
【ヴァーダ】主張する主義。
【ヴィタカ】
継続して考えること。
サマーディの状態、呼吸を対象あるいは基礎として用いる練習について、ここでは簡単な流れをお話します。つまり最初の段階でサティで呼吸を意識することは、ある何かを別の何かに留めておくことに似ています。ヴィタカと呼びます。この場合のヴィタカという意味は、深慮あるいは余計なことを考えるという意味ではありません。特別な意味のない何らかの感情(意識する対象)、あるいは原因を探さないただの感情をサティがもっぱら意識している状態を意味します。
【ヴィチャーラ】
一方心が対象である呼吸と、理知をもって密接に関わらなければならないことをヴィチャーラと言います。この場合ヴィチャーラと呼ばれる状態は、原因を探したり批判精神を活発にすることではありません。単に心が感情から離れないで密着している状態を意味します。猿を繋いでおくことに譬えれば、ヴィタカは杭に繋がれていること、ヴィチャーラは杭の周りで飛んだり跳ねたりして、いずれにしても杭と繋がっていることです。(アーナーパーナサティ「タンマに到達するために」))
ヴィタカは出来事や刺激に対して考えること、思うこと、熟慮すること、深慮することです。三つとも常に生じているもので、私たちの心にありふれたものです。そして私たちにとって最も厄介な問題を起こさせるものでもあります。(同前項)
【ヴィナヤ】
律。規律。ダンマヴィナヤと言えば法律、あるいは宗教というで、ブッダが言われる「このダンマヴィナヤ」は仏教、あるいはブッダの教団を指します。
【ヴィラーガ】
欲情が静まること。離欲
【ヴィリヤ】
精進。努力と勇気を足したもの。
【ウッガハニミッタ】
取相
【ウパニサヤ】
習性。習性とは、自分の思いどおりにするために入り込んで住み着く場所という意味
【ウベカー】捨。
【ヴィヴェカ】
漢語では遠離。静かな場所に一人で住んで、人と交わることを避け、一人で行動すること。
【ヴィナヤ】律。
【ヴィンニャーナ】→識
【エカッガター】
一境心。心の中が、一つの感情に集中していること。
【縁起】
比丘のみなさん。縁起(互いに依存し合って連なって生じるタンマ)はどのようでしょうか。
比丘のみなさん。無明が縁になってサンカーラ(行)が生じ、
行が縁になってヴィンニャーナ(識)が生じ、
識が縁になってナーマルーパ(名形)が生じ、
名形が縁になってアーヤータナ(六処入)が生じ
六処入が縁になってパッサ(触)が生じ
触が縁になってヴェーダナー(受)が生じ
受が縁になってタンハー(渇望)が生じ、
渇望が縁になってウパーダーナ(取)が生じ、
取が縁になってバヴァ(有)が生じ、
有が縁になってジャーティ(生)が生じ、
生が縁になって老、死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、悩みが一斉に生じます。すべての苦の山の発生は、このようにしてあります。
比丘のみなさん。これを私は、縁起(互いに依存し合って連なって生じるもの)と言います。(相応部ニダーナヴァッガ)
【ガーター】 詩。
【カーマ】 愛欲
【カーマヨーガ】愛欲があること。愛欲に繋がれていること。
【形】
一般の人が「形」と言うのは、何の意味に依存して言うのでしょうか。比丘のみなさん。崩壊する動きがあるので、それを形と呼びます。なぜ崩壊するのでしょうか。寒さで崩壊することもあり、暑さで崩壊することもあり、飢えで崩壊することもあり、渇きで崩壊することもあり、アブ、蚊、風、陽射し、そして這う動物に刺されて崩壊することもあります。比丘のみなさん。それに崩壊の動きがあるので、それは形と呼ばれます。
相応部カンダヴァーラヴァッガ
【カルナー】 悲。他人の苦を除いてやりたいと願う気持ち。
【行】
すべてのサンカーラ(行)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。これら六つの意図とは、形の考え(形思)、声の考え(声思)、臭いの考え(香思)、触の考え(触思)想念の考え(法思)です。比丘のみなさん。これをすべての行と言います。(相応部カンダヴァーラヴァッガ)
比丘のみなさん。人は、何に依存して「すべてのサンカーラ(行)」と言うのでしょうか。比丘のみなさん。作り出す働きがあるので、それをサンカーラ(行)と言います。それは当然何を作り出すのでしょうか。当然形にするために形を作り出し、当然受にするための受を作り出し、当然想にするための想を作り出し、当然行にするための行を作り出し、当然識にするための識を作り出します。比丘のみなさん。そのものに、作り上げる働きがあるので、サンカーラ(行)と呼ばれます。(相応部カンダヴァーラヴァッガ)
比丘のみなさん。すべてのサンカーラ(行)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。六思とは、形の考え、声の考え、臭いの考え、味の考え、触の考え、想念の考えです。比丘のみなさん。これをすべての行と言います。すべての行は、触が生まれることで生まれ、すべての行の消滅は、触が消滅することで消滅します。四聖諦はすべての行の消滅に至る道で、すなわち正しい見解、正しい考え、正しい発言、正しい仕事、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しい専心です。(相応部カンダヴァーラヴァッガ)
【苦】
比丘のみなさん。生は苦であり、老いは苦であり、死は苦であり、愁い、嘆き、体の苦、心の苦、憂いは苦であり、嫌いなものに会うことは苦であり、愛している者と離れるのは苦であり、望んで叶わないのも苦であり、要するに五取蘊(取の基盤である五蘊)は苦です。これを素晴らしい真実である苦と言います。増支部ティカニカーヤ
【サッダンマ】正法。
【サティ】
漢訳では念と訳されていますが、日本語では「自覚」や「注意力」に近いもので、「瞬時に、その時必要な知識を思い出す」働きをするものを、サティと言います。
例えば道路にゴミを捨てそうになった時、「ゴミを捨ててはいけない」と気づいて止めれば「サティがある」、「サティが間に合った」と言います。サティが間に合えば、「1理性がある」と言うことができます。
また、サティを長く持続することを、サティサンパッチャンニャ(常自覚)と言います。
(サティがあるとは)
サティのある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人で、常に心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人で、常にダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。比丘のみなさん。このような人を、サティがある比丘と言います。
【サマーディ】
心が一つだけの感情に集中している状態。専心、専念すること。三昧、三摩地などは音写。初禅に満たない専心状態から、無形禅定以上の想受滅まで、すべてのレベルに使うことができる。
【サマーパティ】
定と同じ意味だが、定は四つの形禅定に使う言葉で、五つの無形禅定は、定と呼ばず、サマーパティ、あるいはサマーディと呼ぶ。
【サマナ・バラモン】
解脱した人、阿羅漢を指す言葉。時には阿羅漢に限らず、普通の出家者の意味で使われる時もある。
【サンカーラ】→行。
【サンニャー】→想。
【サンマーサンブッダ】
自力で悟ってブッダになった人。ほとんどはゴータマ・ブッダを指す。
【サンヨージャナ】→ 十結。心を輪廻に結び付ける十の煩悩。
【死】
比丘のみなさん。死とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。亡くなること、移動すること、崩壊して無くなること、消滅、命が終わること、崩御すること、すべての蘊の崩壊、その生き物の体を捨てること。これを死と言います。長部マハーヴァッガ
【識】
ヴィンニャーナ(識)とは何でしょうか。比丘のみなさん。これらの識は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。比丘のみなさん。これをヴィンニャーナ(識)と言います。
比丘のみなさん。人は、どんな意味に依存してヴィンニャーナ(識)と言うのでしょうか。それには(触れてきた感情を)明らかに知る動きがあるので、だからそれをヴィンニャーナ(識)と呼びます。それは何を明らかに知るのでしょうか。それは当然酸っぱさを明らかに知り、当然苦さを明らかに知り、当然辛さを明らかに知り、当然甘さを明らかに知り、当然渋酸を明らかにと知り、当然塩辛さを明らかにと知り、当然塩辛くないことなどを明らかに知ります。比丘のみなさん。それには明らかに知る動きがあるのでヴィンニャーナ(識)と言います。(相応部カンダヴァーラヴァッガ
【受】
人はどんな意味に依存して受(ヴェーダナー)と言うのでしょうか。比丘のみなさん。それは(触が生じた結果)そのように感受する動きがあるので、それを受と呼びます。それは当然何を感じることができるのでしょうか。それは当然嬉しい感覚を感じ、当然苦を感じ、そして嬉しくも苦でもない感覚(などを)を感じることができます。比丘のみなさん。(触から生じた結果)を感じる動きがそれにあるので、受と呼ばれます。
相応部カンダヴァーラヴァッガ
受はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つの受は、目の触から生じる受、耳の触から生じる受、鼻の触から生じる受、舌の触から生じる受、体の触から生じる受、心の触から生じる受です。比丘のみなさん。これをヴェーダナー(受)と言います。(相応部カンダヴァーラヴァッガ)
比丘のみなさん。二種類の受とはどのようでしょうか。二種類の受とは、体の成り行きになる受と、心の成り行きになる受です。比丘のみなさん。これを受の二種類といいます。
比丘のみなさん。三種類の受はどのようでしょうか。三種類の受とは、楽受(幸福な感覚)、苦受(苦である感覚)、そして不楽不苦受(まだ幸福とも苦とも言えない感覚)です。比丘のみなさん。これらを三種類の受と言います。
比丘のみなさん。五種類の受とはどのようでしょうか。五種類の受とは、楽根、苦根、喜根、憂根、捨根です。比丘のみなさん。これらを五種類の受と言います。
比丘のみなさん。六種類の受とはどのようでしょうか。受の六種類とは、目の触から生じる受、耳の触から生じる受、鼻の触から生じる受、舌の触から生じる受、体の触から生じる受、そして心の触から生じる受です。比丘のみなさん。これらを受の六種類と言います。
比丘のみなさん。十八種類の受とはどのようでしょうか。受の十二種類とは、喜びに集約される心の感覚六種と、憂に集約される心の感覚六種類と、捨に集約される心の感覚六種類です。比丘のみなさん。これらを十八種類の受と言います。
比丘のみなさん。三十六種類の受とはどのようでしょうか。受の三十六種類とは、家(五欲)に関わる喜びの受が六種類、家(五欲)から離れることに関わる喜びの受が六種類、家に関わる憂の受が六種類、家から離れることに関わる憂の受が六種類、家に関わる捨の受が六種類、家から離れることに関わる捨の受が六種類です。比丘のみなさん。これらを三十六種の受と言います。
比丘のみなさん。百八種の受とは何でしょうか。百八種の受とは、過去の(前述した)三十六種の受、未来の三十六種の受、そして現在の三十六種の受です。比丘のみなさん。これらを百八種の受と言います。
【十結】
十項のサンヨージャナがあります。十項とは何でしょうか。十項とは、下五結と上五結です。
下五結とは何でしょうか。サッカーヤディティ(体を自分と見ること。有身見)、ヴィチキッチャー(疑)、シーラッバタパマーダ(間違った信仰による実践。戒禁取)、カーマチャンダ(愛欲への執着。欲貪)、バヤバータ(恨み、瞋恚)です。これらを下五結と言います。
上五結とは何でしょうか。ルーパラーガ(物質への執着。形貪。色貪)、アルーパラーガ(抽象的な物への執着。無形貪。無色貪)、マーナ(思い上がり。慢)、ウッダッチャ(落ち着きがないこと。掉挙)、アヴィッチャー(真実を知らないこと。無明)です。これが上五結です。
比丘のみなさん。これらがサンヨージャナの十項目(十結)と言います。
増支部ダサカニバータ
【十想】
十想とはどのようでしょうか。十とは、
アスパサンニャー(美しくないことを知る。不浄想)、
モラナサンニャー(死を知る。死想)、
アーハラレパティクーラサンニャー(食べ物の不潔を知る)、
サッベエーローゲアネビラタンマダーサンニャー(世界のすべては楽しくないことを知る。一切世間不喜想)、
アニッチャサンニャー(無常であることを知る。無常想)、
アニッチェードゥッカサンニャー(無常が苦であることを知る。無常苦想)、
ドゥッケーアナッタサンニャー(苦は無我であることを知る。苦無我想)、
パハーナサンニャー(捨ててしまうことを知る。断想)、
ビラーガサンニャー(欲情が緩むことを知る。離貪想)、
ニローダサンニャー(完全な消滅を知る。滅尽想)です。
十想とはどのようでしょうか。十とは、
アニッチャサンニャー(無常であることを知る。無常想)、
アナッタサンニャー(無我想)、
モラナサンニャー(死を知る。死想)、
アーハラレパティクーラサンニャー(食べ物の不潔を知る)、
サッベエーローゲアネビラタンマダーサンニャー(世界のすべては楽しくないことを知る。一切世間不喜想)、
アッディカサンニャー(骨だけの死体を知る)、
プラヴァカダカサンニャー(うじ虫だけの死体を知る)、
ヴィニーラカサンニャー(緑色になった死体を知る)、
ヴィジッダカサンニャー(バラバラになった死体を知る)、
ウッドゥマータカサンニャー(膨れ上がった死体を知る)です。
(増支部ダサカニバータ)
【定】
ジャーナの音写で、初禅から四禅までのサマーディのこと。初禅から四禅までの形禅定を言う。禅も同じジャーナの音写。ちなみに、空無辺処以上のサマーディは、サマーディやサマーパティと呼ぶ。
【処】【処入】
パーリ語ではアーヤタナ。目・耳・鼻・舌・体・心の六処入と、形・声・香・味・触・考えの六外処入。あるいは初禅から非想非非想処までの念処と涅槃までをアーヤタナと呼んでいることもある。
【信仰心】
教祖の悟りを「このような理由で教祖は煩悩から遠い人であり、自分で正しく悟った人であり、知識と徳行が具わった人であり、良く行った人であり、世界を明らかに知る人であり、訓練すべき人を誰よりも良く訓練できる人であり、すべての天人と人間の先生であり、智者であり、目覚めた人であり、ダンマで明るい人であり、ダンマを分類して動物に教える
人だ」と、このように信じます。ビャッガパッチャさん。私はこれを、信仰心が具わっていると言います。(増支部アッダカニバータ)
【想】
人は何に依存してサンニャー(想)と言うのでしょうか。比丘のみなさん。それを知覚する働きによって、サンニャー(想)と呼ばれます。それは何をすべて知覚するのでしょうか。それは、当然緑色や、黄色や、赤色や白などを知覚します。比丘のみなさん。すべて知覚する働きがあるので、想と呼ばれます。
相応部カンダヴァーラヴァッガ
【スッカ】 幸福。喜び。
【ダートゥ】
土・水・火・風などの元素。四大種。
【正しい見解】
正しい見解はどのようでしょうか。比丘のみなさん。苦の知識、苦を生じさせる原因の知識、苦の消滅の知識、苦の消滅に至る道の知識のどれでも、比丘のみなさん。私はこれを正しい見解と言います。長部マハーヴァッガ
【正しい考え】
正しい考えとはどのようでしょうか。愛欲から出る考え、悪意のない考え、苦しめない考えです。比丘のみなさん。これを正しい考えと言います。長部マハーヴァーラヴァッガ
【正しい言葉】
正しい言葉はどのようでしょうか。真実でないことを言うのを避ける意図、告げ口を言うのを避ける意図、乱暴な発言を避ける意図、キリもなく無駄話をするのを避ける意図です。比丘のみなさん。私はこれを、正しい言葉と言います。
長部マハーヴァーラヴァッガ
【正しい仕事】
正しい仕事はどのようでしょうか。比丘のみなさん。殺生を避け、所有者が与えない物を所有することを避け、あらゆる性的な間違いを避けることで、これを正しい仕事と言います。
【正しい職業】
正しい職業はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この聖なる弟子(聖人である弟子)は、誤った職業を捨ててしまい、正しい職業で生活します。これを正しい職業と言います。
【正しい努力】
正しい努力はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この宗教の比丘は、悪事を生じさせないために当然満足し、当然努力し、当然努力を始め、当然心をそのようにし、当然専心し、生じてしまったすべての悪を捨ててしまうために当然満足し、当然努力し、当然努力を始め、当然心をそのようにし、当然心が安定し、善を生じさせるために当然満足し、当然努力し、当然努力を始め、当然心をそのようにし、当然専心し、生じたすべての善を永続させ、汚さないで成長させ、発展させ、完璧にするために当然満足を育て、当然努力し、当然努力を始め、当然心をそのようにし、当然専心します。
【正しいサティ】
正しく想い出す(正しいサティ)とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この宗教の比丘は、普段から体の中の体を熟慮して見る人で、罪を燃やすものである努力があり、全身に自覚があり、サティがあり、世界の満足と不満足を出してしまうことができます。普段からすべての受の中の受を熟慮して見る人で、罪を燃やすものである努力があり、全身に自覚があり、サティがあり、世界の満足と不満足を出してしまうことができます。普段から心の中の心を熟慮して見る人で、罪を燃やすものである努力があり、全身に自覚があり、サティがあり、世界の満足と不満足を出してしまうことができます。普段からすべてのタンマの中のタンマを熟慮して見る人で、罪を燃やすものである努力があり、全身に自覚があり、サティがあり、世界の満足と不満足を出してしまうことができます。比丘のみなさん。これを正しいサティと言います。
【正しいサマーディ】
正しいサマーディはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この宗教の比丘は、すべての性欲が静まり、すべての悪が静まって、当然ヴィタカ(尋)とヴィチャーラ(伺)、ヴィヴェカ(孤居)からだけ生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある、初禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。ヴィタカとヴィチャーラが静まることで心を明るくし、単独のタンマであるサマーディを生じさせ、ヴィタカはなく、ヴィチャーラもなく、サマーディから生じたピーティとスッカしかない二禅に到達し、常にその感覚の中にいます。ピーティが薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり、全身に行き渡った感覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然聖人の方々が「到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に到達し、常にその感覚の中にいます。幸福と苦とを捨てることができ、そして過去の喜びと憂いが消滅して、苦も幸福もない、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。これをサマーディと言います。
長部マハーヴァッガ
【タタター】
そのようになること。必ずそうなり、他にはなりようがないという意味がある。真如。
【段食】【食べ物】
飯塊(段食)を食べ物と言うのは体を養うからで、触を食べ物と呼ぶのは受を生じさせるからで、意志を食べ物と呼ぶのはカルマを生じさせるからで、識を食べ物と呼ぶのは名形を生じさせるからです。それぞれの食べ物の害を、これらの例えのように熟慮して見れば、阿羅漢のレベルまで苦を滅すことができます
【タンハー】
欲望。無明の威力で欲しがること。
【ダンマ】
タンマと呼ばれるものの意味は四種類あります。自然が一つ、自然の法則が一つ、自然の法則に則した義務が一つ、そしてその義務を実践した結果が一つ、合わせて四つです。
(義務の意味のダンマの説明)タンマとは、個人的にも社会的にも、心でも精神的でも、人々の進歩のどの部分にも必要、且つ正しい実践体系で、抽象的にも物質的にも正しい行動を意味します。
【ダンマヴィナヤ】教えと律。法律。仏教教団を指して言うことが多い。
【チャンダ】喜んで満足すること。
【チャンダラーガ】欲貪。喜んで満足することによる欲情
【チーヴァラ】
【ディッティ】
見解。誤った見解を意味する+こともある。
【ナンディ】
喜び。陶酔。
【ニッビダー】 厭離。
【ニミッタ】
観察するもの、あるいは感じるもの、捉えるもの、思い込むものである、いろんな物のいろんな状態を意味する。
【ニャーナ】
智。知ること。形・声・香・味・触・考えを目・耳・鼻・舌・体・心で感じること(受)ではなく、例えば、「自分は貪りが無くなった」などと、心の内面の進歩や達成を明らかに自覚すること。
【バーヴァナー】
望みに向かって努力すること。増やすこと。生じさせること。
【パーティモッカ】 227戒のこと。
【パティニッサッガ】
振り払うこと。掌握しないこと。捨離
【パティバーガニミッタ】
似相
【ピーティ】喜悦。
【ブータサッタ】
二足歩行ができるように変えられた野生動物で、人間のように話し、食べ物を食べることができる生き物と言われている。
【ブッダヴァチャナ】
三蔵を編集した阿羅漢や、後世の人のことばでないブッダの言葉。
【ブッダバーシタ】ブッダヴァチャナと同じ。「ブッダが言われた」という意味。
【煩悩】
十七隋煩悩:貪り、怒り、愚かさ、憤怒、恨み、悪意、悩み、嫉妬、ケチ、欺瞞、不信、強情、激情、傲慢、過慢、慢心、油断
十煩悩:サッカーヤディティ(体を自分と見ること。有身見)、ヴィチキッチャー(疑)、シーラッバタパマーダ(間違った信仰による実践。戒禁取)、カーマチャンダ(愛欲への執着。欲貪)、バヤバータ(恨み、瞋恚)、ルーパラーガ(物質への執着。形貪。色貪)、アルーパラーガ(抽象的な物への執着。無形貪。無色貪)、マーナ(思い上がり。慢)、ウッダッチャ(落ち着きがないこと。掉挙)、アヴィッチャー(真実を知らないこと。無明)。増支部ダサカニバータ
【ムディター】 喜。他人の幸福を喜ぶ気持ち。
【無明】
苦を知らないこと、苦が生じる原因を知らないこと、滅苦を知らないこと、滅苦に至る道を知らないことのどの無知も、私は無明と呼びます。(相応部マハーヴァーラヴァッガ)
この世界の聞く耳を持たない凡人は、当然形を知らず、形が生じる原因を知らず、形の消滅を知らず、形の消滅に至る道を知りません。彼は当然受を知らず、受が生じる原因を知らず、受の消滅を知らず、受の消滅に至る道を知りません。彼は当然想を知らず、想が生じる原因を知らず、想の消滅を知らず、想の消滅に至る道を知りません。彼は当然すべての行を知らず、すべての行が生じる原因を知らず、すべての行の消滅を知らず、すべての行の消滅に至る道を知りません。彼は当然識を知らず、識が生じる原因を知らず、識の消滅を知らず、識の消滅に至る道を知りません。比丘のみなさん。この無知を、私は無明と言います。(相応部カンダヴァーラヴァッガ)
【名形】
心と体=心身。
【メッター】 慈。他人の幸福を願う気持ち。
【有身】
比丘のみなさん。サッカーヤ(有身)とは何でしょうか。比丘のみなさん。答えは五取蘊です。五つとはどれでしょう。五つとは、まだ取がある形蘊、まだ取がある受蘊、まだ取がある想蘊、まだ取がある行蘊、まだ取がある識蘊です。比丘のみなさん。これをサッカーヤと言います。(相応部カンダヴァーラヴァッガ)
【ヨーガカンマ】
目的を達成するために何らかの形で厳格に、系統的にする努力のこと。ヨーガという言葉は、どの宗教でも使われる。
苦諦
比丘のみなさん。生は苦、老いは苦、病は苦、死は苦、嫌いなものに遭遇するのも苦、愛しているものと別れるのも苦、望んで得られないのも苦、簡単に言えば執着のある五蘊は苦です。 これが苦の素晴らしい真実です。
集諦
比丘のみなさん。陶酔の威力による欲情があり、その感情(概念)に極めて夢中にさせるものであり、再び生まれさせるものである渇望、すなわち愛欲、渇愛、無渇愛です。これが苦を生じさせる原因の素晴らしい真実です。
滅諦
比丘のみなさん。その渇望が残らず消えて消滅すること、その渇望を振り払うこと、返却すること、手放すこと、住処を無くすことです。これが滅苦の素晴らしい真実です。
道諦
比丘のみなさん。正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しい専心。これが生き物を苦の消滅に至らせる実践項目、八項目からなる素晴らしい道である実践項目です。(律蔵マハーヴィタン)
比丘のみなさん。苦の消滅に至る道である聖諦はどのようでしょうか。素晴らしい八項目がある道で、八項目は正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しいサティ、正しい専心です。
正しい見解
比丘のみなさん。正しい見方はどのようでしょうか。苦の知識、苦を生じさせる原因の知識、苦の消滅の知識、苦の消滅に至る道の知識はどれでも、私はこれを正しい見方と言います。
正しい考え(望み)
比丘のみなさん。正しい考えとは何でしょうか。正しい考えとは、愛欲から出る考え、復讐しない考え、加害しない考え、これを正しい考え方と言います。
正しい言葉
正しい言葉はどのようでしょうか。嘘を言うことを避け、仲違させる発言を避け、粗暴な言葉を避け、キリもなく話すことを避けます。これを正しい言葉と言います。
正しい業
比丘のみなさん。正しい業とはどのようでしょうか。動物を殺すことを避け、所有者が与えていない物を取ることを避け、性的に間違ったすべての振る舞いを避けます。これを正しい業と言います。
正しい生活
比丘のみなさん。正しい生活とはどのようでしょうか。この場合の聖なる弟子は、間違った生業を捨ててしまい、正しい生活を営みます。これを正しい生活と言います。
正しい努力
比丘のみなさん。正しい努力とはどのようでしょうか。この場合の比丘は当然まだ生じていない下賤なすべての悪を生じさせないために当然努力し、当然努力を始め、当然心を支え、当然決意し、当然満足します。
まだ生じていないすべての善を生じさせるために当然努力し、当然努力を始め、当然心を支え、当然決意し、当然満足します。生じたすべての善が古びないよう永続させるために、成長・発展・完成のために、当然満足し、当然努力し、当然努力に関心を持ち、当然心を支え、当然決意します。比丘のみなさん。これを正しい努力と言います。
正しいサティ
正しい想起とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合は、平素から体の内面を熟慮している人で、罪を燃やす努力があり、全身に行き渡る感覚があり、世界の満足と不満足を取り出してしまえるサティがあります。比丘のみなさん。これを正しい想起と言います。
正しい専心
(初禅、二禅、三禅、四禅)。
比丘のみなさん。正しい専心とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての愛欲が鎮まり、すべての悪が鎮まって、ヴィタカ(思惟。尋)ヴィチャーラ(考察。伺)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に達し、常にその感情の中にいます。
ヴィタカ・ヴィチャーラが鎮まることで、内面に心を明るくするものであり、一番のダンマであるサマーディが現れ、ヴィタカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディ(専心。三昧)から生じた喜悦と幸福だけの、二禅に達し、そして絶えずその感覚の中にいます。
喜悦が薄れることで泰然とした人になり、サティがあり、全身に行き渡った感覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然すべての聖人が到達した人を称賛して「泰然としている人はサティがあり、全身に行き渡った感覚がある」と言う三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。
幸福と苦を捨てることで、そして過去の喜びと怒りを捨てることで、幸福も苦もなく、あるのは捨による純潔なサティだけの四禅に達します。これを正しいサマーディと言います。
比丘のみなさん。私はこれを道諦と言います。(長部マハーヴァッガ)