四聖諦の知り方

 

1.要旨で知る

 学習者は最初に、四聖諦は四聖諦を知るものとして、述べてきたようないろんな状態の四聖諦が見られるように、ブッダが様々な言葉を使って規定したものと知っておかなければなりません。

 これに関してブッダは『比丘のみなさん、これが苦、これが苦の原因、これが滅苦、これが滅苦の道という四聖諦の真実は、私が規定したものです。しかしそれを規定する時、分類できなくなるまで詳細にするために言葉を吟味して分類し、こういうのは苦の真実、こういうのも苦の真実、と叙述しています』と言っています。

 この話の重要な要旨は、四聖諦にはブッダが直言しているのもあり、間接的に言っているのもあり、簡略なのもあり、暗示的に言っているのもあり、いろんな名前で言っているのもあり、ある所では四聖諦という言葉を使い、ある所ではそう呼びません。だから四聖諦を知るには、重要なこと、あるいはほとんど要旨を掴まなければなりません。直接四聖諦という名前が出ている文字面や声だけに注目していると、ブッダが別の名前で規定された四聖諦を見せなくします。

 たとえば「縁起」は、本当は四聖諦の説明ですが、ここでは聖諦という言葉を明示せず、別の言い回しで講義されています。観察しない人は別のことだと理解します。このような理由で苦と滅苦に関する原因と結果について述べているのは、すべて四聖諦についての説明と規定するための原則がなければなりません。そして次のような四項に分類することができます。

 第1項(苦諦): どんな名前でも、生き物が望まないものについての叙述。

 第2項(集諦): そのものの原因、あるいは発生についての叙述。

 第3項(滅諦): どんな名前でも、生き物が望むものについての叙述。

 第4項(道諦): 何としてもそれを得させる行動、あるいは実践法。

 四聖諦のこのような分類を分かりやすく説明するために、たとえば罪とはこのよう、罪の原因はこのよう、徳はこのよう、徳を生じる方法はこのようと、このような四項目で個々の形の四聖諦を述べることができる、これも四聖諦です。

 これ以上に知らなければならない大切なことがあり、熟慮すると、ブッダがある所で『如行は今までもこれからも、苦と滅苦についてだけ規定して教えます』と簡略に言っていることが見えます。学習者はこのような状態の時、「苦」という言葉には「苦の原因」も含まれていると知らなければなりません。苦には原因があり、原因によって生じるものだからです。

 苦について詳しく説明すれば、当然苦の原因がその中に含まれます。そしてここで「滅苦」という言葉には、当然「滅苦に至る道」が含まれています。滅苦についてだけ述べて、その方法がなければ、何の利益もないので、別の問題と誤解しないでください。

 あるいはブッダの説明は一定でなく、気まぐれな言い方をしていると勘違いしてはいけません。このように短くまとめた言い方は、時と周囲の状況によって、あえて短くしたり暗示したりして使い分けた一般的な使い方です。

 もっと短く言わなければならない時、ブッダは「滅苦」についてだけ述べています。これでも十分です。たとえば『梵行には目標である解脱がある』というようなのもあります。「滅苦」と「解脱」は同じ意味で、解脱について述べることは滅苦について述べることで、滅苦について述べることは解脱について述べることです。

 解脱という言葉の意味を説明すれば、あるいは滅苦という言葉を必用に応じて解説すれば四つの項目が揃います。これは、ブッダは時により場所によって四聖諦を簡略な形にして二つだけ、あるいは一つだけにして説明したと指摘して見せています。四聖諦の意味を規定する人は、略して言われた言葉にも、常に賢くなければなりません。

 それ以上に、何かについて述べている、あるいは何らかの実践について述べている非常にたくさんのブッダバーシタ(ブッダの言葉)は、四聖諦という名を使わなくても、四聖諦の構造をしていなくても、縮小してあっても、遠まわしになっていても、熟慮して見れば、それは苦の話であり、間接的に四聖諦のいずれかの項目であることが分かります。

 たとえばブッダが地獄の話をされると、それは間接的な「苦」の話の一つの状態で、五戒について話されれば、それは直接「道」のどこかの部分で、不徳、あるいは五戒に背く行為について話せされれば、それは間接的に「集」の話です。その他の布施や慈善について話されても、それは間接的な「道」についての話の一つの状態です。名形(心身)について話されれば、心身は直接苦の基盤である五取薀なので、「苦」について話されているということです。

 だから学習者は、タンマのどの部分のどの項目が四聖諦の何項目に相当するかを十分熟慮し、それらのタンマが四聖諦の何項に相当るかすぐに分るようになるまで熟練しなければなりません。

 ここでまとめると、四聖諦を学ぼうとする人は、四聖諦にはブッダが別の名前で説かれたものもあり、別の構造で説かれたものもあること、そして四項目に分けて詳しく説明する代わりに二項に略したり、一項だけにしたもののあると、初歩的な知識がなければなりません。そしてもう一つは、タンマを正しく理解するために、いろんなタンマのどの項目、どのタンマ集が四聖諦の何項に相当するか、自分で仕分けることを分らなければなりません。

 このように規定できれば、いろんな言葉で表された四聖諦の教えの全体が見え、四聖諦と呼ばれるものの意味を残らず掴んだと言えます。

 更に深淵に四聖諦を知るために、学習者のレベルに応じて、四聖諦の各項目ごとの要旨を、順に正しく学ぶ方針なければなりません。ご存知のように四聖諦には四つの項目があり、概略で話された時は四項になりませんが、必ず四項目に拡大してみなければなりません。そしてその四項目を、いろんな言葉で四聖諦を説かれたブッダのどの説明にも適用できるよう、原型にしなければなりません。原型である項目とは、

 1 生き物にとって望ましくないもの(苦諦)

 2 そのものの原因あるいは発生源(集諦)

 3 生き物が望むべきもの(滅諦)

 4 生き物が望むものの原因あるいは発生源(道諦)、です。

 このように原型である項目にしたら、一つの形で説明された四聖諦を重ねてみれば、どの説明の要点も明瞭に見えてきます。たとえばブッダが「サッカーヤ(有身)とはこのよう、サッカーヤの生じる原因はこのよう、サッカーヤの消滅とはこのよう、そしてサッカーヤを絶滅させる道とはこのよう」と説かれた説明を原型に重ねると、ぴったり重なり、

1 「自分」と執着することであるサッカーヤ(有身)は、生き物が望まない煩悩である。なぜなら自覚しなくても、常に生き物を縛りつけ、締め上げ、突き刺し、チクチク刺し、焼き炙るから。

2 サッカーヤの原因は、何らかの好ましいもの、愛するものを「自分、自分のもの」と迷って、粘着質で除き難いサッカーヤ(有身)が生じさせる無明、あるいは取である。

3 サッカーヤ(有身)の消滅は生き物の望むものである。縛りつけ、締め上げ、突き刺し、ちくちく刺し、焼き炙らない状態だから。

4 サッカーヤを絶滅させるのはサマタとヴィパッサナーであり、これを完璧に実践する人はサッカーヤを消滅させる八正道まで拡大することもできる。 

と、途端に明らかになります。

 これらはすべて、どのような形で述べられた四聖諦であろうと、述べたような原型に重ね合わせることができるという説明です。

 

2 仕事(義務)で知る

 原型である四項目が分かったら、次に知るべきことは、四聖諦に対して続いて行うべき仕事、あるいは義務です。

第1項「苦」、あるいは生き物が望まないものに対する私たちの義務は、それを知り、明確に理解します。

第2項「集」、つまり望まないものの原因あるいは発生源に対する私たちの義務は、捨てる、あるいは消滅させます。

第3項「滅」、つまり生き物が望むものに対する私たちの義務は、それが明確に現れるようにします。

第4項「道」、つまり生き物の望むものの原因あるいは発生源に対する私たちの義務は、それを生じさせ、そして最高に発展させます。

 まとめれば、

1 望ましくないものを知らなければならない。

2 望ましくないものの原因を消滅させなければならない。

3 望ましいものを現わさなければならない。

4 望ましいものの原因を何としても作らなければならない。

と、このようになります。

 熟慮してみると、この四項目の原則は、論理学から見ても完璧です。四聖諦の項目の並べ方は、ブッダが論理的にも完璧に配置したものなので、四聖諦に基づいた義務もついでに論理的に完璧なものになります。

 熟慮すると美しく帰依すべきものに見え、そして理論的に矛盾がないので実践可能に見えます。学習者は、最初に述べた、ブッダがいろんな言葉で広く説かれた四聖諦の意味を知ることに続いて、全身全霊で心に規定しなければなりません。

 

3 四聖諦を段階的に知る

《段階1》

 学ぶための知識である三学の勉強として知ること最初は、「四聖諦の一つ一つの項目はどんな文字、どんな語句、どんな部分があるか」を、「ブッダは様々な説明で説かれ、アッタカター(シンハラ語のものをパーリ語に翻訳して三蔵に加えた教典)やディーカー(ブッダの言葉を解説した経の解説)も、その話についてのブッダの言葉を広く解釈したもの」と知ることです。これについては、後で一部をお話しします。

 要するに「苦」はどんな意味か、何種類があるのか、どこに基盤があるのかなどを、これらはブッダが本当に述べていた真実だと、もう一枚内側の智慧で見えるようになるまで分類することを知ります。このような論理で四聖諦はどのようか知ることを、最初のレベルの学習のように知ると言います。

《段階2》

 次は実践規則のように知ることで、初めに明示した四聖諦の義務で実践を始めた時に知ります。実践中に規定し、その結果実践に関した知識が生じ、正しく義務をすることがはっきり見えます。たとえば苦諦は、本当に「知ること」があり、集諦はその時に捨てることで、本当に「捨てること」があり、滅諦は、その部分のヤーナ(洞察力)が義務を行なう時、ハッキリ現れてくるのが明らかに見え、道諦は、道の義務でそれを明確に生じさせ、煩悩を滅亡させる行動をします。すべては三蔵の学習、あるいはいろんな教えの勉強とは関わりませんが、内面の義務を行なうヤーナを明確に認識します。

《段階3》

 次の知ることは「到達」と言い、成功、あるいはいずれかの段階の目的の達成という意味ですが、苦諦に関しては、四聖諦の知識の結果を「知った」と認識することであり、集諦に関しては煩悩の結果を「本当に捨てることができた」と認識することであり、滅諦に関しては明確な苦の消滅である結果、あるいは「私は本当に顕かにした」とそれを知ることで、道諦に関しては、自分で生じさせた道、そして「道」にふさわしく煩悩を撃退することができたと知ります。すべては四項目の義務を本当に果たしたことから生じる洞察であり、最終段階の知識と見なします。

 四聖諦を学習のように学ぶことは、サッチャヤーナ(諦智)、つまり四聖諦の真実を知ることに譬えられ、実践原則を知ることは、キッチャヤーナ(所作智)と呼ぶもの、つまりヤーナが四聖諦でするべき、そして現在している仕事、あるいは義務、それに譬えられ、到達原則で知ることは、カタヤーナ(為作智)に譬えられ、その仕事から生じた結果を知ることに。

 四聖諦を述べたような三つの段階で知れば、四聖諦のすべてを明らかに完璧に知ったということです。サンマーサンブッダ(自力で大悟したブッダ)も、そのような状態で四聖諦を規定しました。

 ブッダは『四聖諦を三転十二の状態ですべてで規定することがなければ、私がサンマーサンブッダ(自ら悟ってブッダになった人という意)であると宣言をすることはない。四聖諦を三転十二の状態で知ったから、サンマーサンブッダであると宣言した』と言われています。

 ここでの「三転」とは、サッチャヤーナ(諦智)、キッチャヤーナ(所作智)、カタヤーナ(為作智)のことで、初めに知ることは一つ一つの真実で、次にその項目の真実に対してするべき仕事、あるいは義務を知り、そして最後は先ほど説明したように、すでに行なった義務の結果を知ります。

 十二の状態とは、四聖諦の各項目はそれぞれ三つの状態、つまり「知識」「仕事」そして「生じた結果」があり、四項目と三つの状態を掛けると、次のような十二になります。

1.苦諦はこのよう。苦諦は知るべき。私は苦を知った。

2.集諦はこのよう。集諦は捨てるべき。私は集諦を捨てた。

3.滅諦はこのよう。滅諦は明らかにするべき。私は滅諦を明らかにした。

4.道諦はこのよう。道諦は生じさせるべき。私は道諦を生じさせた。

 この意味で四聖諦を完璧に知るには、十二の状態、あるいは十二の有り様、あるいは十二回知らなければなりません。次のような形に言い替えることもできます。

 学習あるいはサッチャヤーナ(諦智)のように、「苦諦」はこのよう、「集諦」はこのよう、「滅諦」はこのよう、「道諦」はこのようと知る。

 実践規定あるいはキッチャヤーナ(所作智)のように、「苦諦」を知らなければならない、「集諦」を捨てなければならない、「滅諦」を明らかにしなければならない、「道諦」を生じさせなければならないと知る。

 到達規定あるいはカタヤーナ(為作智)のように、私は「苦諦」を知った、私は「集諦」を捨てた、私は「滅諦」を明らかにした、私は「道諦」を生じさせたと知る。

 

 四聖諦を本当に知っていずれかの段階の聖果に到達した人の四聖諦を知ることは、述べたすべてが揃っていなければならず、そしてサンマーサンブッダの悟りと同じでなければなりません。

 四聖諦を知ることが最高度に達していなくても、つまり阿羅漢になるに至らず、まだ初等の聖向聖果でも、十二の状態が全部揃っていなければならないことに変わりはありません。知ったこと、捨てたこと、明らかにしたこと、そして生じさせたことが極まっていないだけで、のべた十二の状態すべてが揃っています。

 一般の人が三蔵の学習として四聖諦を知ることはほとんど不可能です。それは興味がない、気に掛けない、煩悩に厚く覆われすぎているので、目に埃がいっぱい詰まっているように目が開かないので見えません。厚い布で覆われているので、四聖諦を実践の形、つまり聖諦の義務で道の仕事を行なうことで知るなど、言うまでもありません。だからこれらの人々が四聖諦を「達成原則」で知ることなど述べる必要はありません。

 聖諦を知る聖人たちは、四聖諦を一度にこの三つの原則で知ることができます。つまり勤め、つまり「八つの道」を正しく完璧に歩いて、ある時その聖道が義務で仕事をし、つまり「苦」を知り、「集」を捨て、「滅」を明らかにし、「道」をどんな奇跡よりも不思議なほど完璧にします。

 その人は三蔵をまったく学んだことがなく、三蔵の学習を知らず、四聖諦の各項目の分類を知らなくても、四聖諦を完璧に知って煩悩を無くし、生じさせた道にふさわしいい聖人になります。

 それは直接心の内面の実践であり、内面の智慧あるいはヤーナ(知ること。智)の仕事なので、内面の感情である、自分の人生で本当に生じたものを知って、それらに倦怠が生じ、欲情が弛み、心が解脱するまで熟慮し、それらの物のいろんな状態を真実のままに明らかに見、内面の観察する威力によって本人しか知らない心の真実を見ることでそれらを手放すことができます。

 これを、四聖諦を真実完璧に規定すると言います。そして述べた十二の状態があり、その人に分類についての知識があろうとなかろうと、心の中では一つも欠けることなく、すべてが完璧になります。

 今まで説明してきた四聖諦を知り方を短くまとめると、次のような知り方があります。

1.言葉で知る。ブッダはいろんな言い回しで述べられ、四聖諦と言っているのもあれば言っていないのもあり、略したのも詳細なのもあり、分量の多いのも少ないのもある四聖諦の意味を知り、それぞれの項目が四聖諦のどの項目のどの言葉に相当するかを知ります。

2.勤めで知る。しなければならない義務、あるいはもっと正確に言えば、四聖諦の各項目でしなければならない道はどのようかを知る。

3.四聖諦を知っている人も、今知ろうと努力している人も四聖諦を知るべき順序で知る。

 


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