どんな方法で四聖諦を知るのか

 ブッダは『はるか前に出家した人は、四聖諦を完璧に知っていた。今出家している人は四聖諦を広く知っている。そして将来出家する人も同じように四聖諦を知ることができる』と言われています。これは、四聖諦を知ることはできるということです。ここで言う四聖諦を完璧に知っている人とは、いずれかの段階の聖人という意味です。この発言は、四聖諦は人間が得るべき滅苦に関した素晴らしい結果を望むすべての人のもの、という意味です。

 それともう一つ、まだ家を治めている出家していない聖人もたくさんいて、すべてあるレベルの四聖諦を知る人ばかりだったという証拠です。だからいろんな心配事がないように出家して、一心不乱に四聖諦の真実を探求する人については言うまでもありません。この種の人達にとって不可能なものではありません。

 ブッダは四聖諦に関して出家か在家か限定しないで『人との交わりから離れ、タンマ道理に従って熟慮しなさい。そうすれば苦について、苦の発生について、苦の絶滅について、そして苦を絶滅させる方法についての真実を知るだろう』と言われ、その後『サマーディに励みなさい。そうすれば四聖諦の真実を知ります』と言われています。

 人との交際を避けるのは、静かな場所に身を置くために最初にするべきことで、一人になるため、つまり身体的あるいは外面的妨害のない静寂の中にいるためです。サマーディをすることは精神的に一人になること、つまりいつも心を妨害している無意味な考えのない心、ヤーナ(知ること。智)あるいは智慧を生じさせることができる心にします。体を他人から離すことは絶対に必用不可欠で、少なくともウパディヴィヴェガ(依遠離)を生じさせる最高の助けになります。つまり煩悩あるいは随眠と呼ばれる習性にこびり付いている細かな煩悩を消滅させます。

 ブッダは続いて『心が集中して煩悩に包囲されなくなれば、明らかに洞察するにふさわしい自然の心であり、その心でヤーナ(智)、つまり煩悩を絶滅させる道具である真実を見抜く知識を生じさせなさい。その智慧で当然真実を、これが煩悩、これが煩悩の原因、これが煩悩の消滅、そしてこれが煩悩を消滅させる道と明らかに知る』と言われています。

 ブッダのこの言葉から、最初の段階では体を遠離させること(カーヤヴィヴェガ。身遠離)で、心を遠離させるために、最初に体を静かなところに遠離させる教えを護ります。心が遠離(チッタヴィヴェガ。心遠離)したら、四聖諦を理解する道具であるヤーナが生じ、それは続いて苦と煩悩の消滅であるウパディヴィヴェガ(依遠離)という結果をもたらします。三種の遠離を早く生じさせるために、ブッダは純潔あるいは体と心を遠離させることだけを考えるよう、別の教えを用意しました。

 というのは、考えは決して些細なことでなく、本気で考えると結果は思った以上に深く大きなものになり、違って考えれば結果が出ないばかりか、その人にとって非常に危険だからです。だから考え、あるいは考えることに注意して、常に滅苦の道から外れぬようにしなければなりません。際限のない哲学的思索、あるいは別の方向へ逸れないようにしてください。それはどんなに深くて緻密でも、滅苦の道ではありません。

 ブッダの時代に、ブッダが比丘たちに放されている話がパーリ(ブッダの言葉)にあります。『ある時、一人の男がラーチャガハの郊外の蓮池のほとりに座って心を見つめていると、男が心の観察に集中していると、騎象隊・騎馬隊・戦車隊・歩兵隊で組織された軍隊が見えました。その軍隊は池のほとりで隊を移動させ、蓮の茎を伝って地下茎の中に入って行きました。

 それを見た男は、自分は頭がおかしくなってしまったからこの世にないものを見たと考え、町の人達に見たとおりを話して聞かせ、自分は頭がおかしくなってしまったから、この世にないものを見たと言いました。男の話しを聞いた町の人々は、確かにその男は頭がおかしいと認めるしかなかった』。

 ブッダは続けて、男が見たものは本当にあることで、天人と阿修羅たちが戦った時、阿修羅たちが敗勢になると撤退して蓮の地下茎に逃げて天人を撹乱させ、別の場所を探させたと言われました。ブッダがこのように言われたのは、私たちの考えあるいは観察は、人が誰も想像できない、自分の頭がおかしくなってしまったと思うほど神秘的なものを見せることもあると指摘して見せるためです。

 しかしその考えがどんなに深くても、直接滅苦にならなければ利益はなく、おまけに何らかの害があるかも知れず、少なくとも時間の無駄です。だからブッダは最後に「考える、あるいは熟慮観察する時は、苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、そして苦を消滅させる道はこのよう、とだけ考えなさい」と教えています。

 それはなぜでしょうか。そのような状態の考え方は梵行、この場合はカーヤヴィヴェガ(身遠離)、チッタヴィヴェガ(心遠離)、ウパティヴィヴェガ(依遠離)の初めになる利益があり、倦怠、欲情の減少、鎮静、極めて深く知ること、すべてを知ること、そして涅槃になるからです。

 要するに考えるなら、その考えを世界の流れでぼかしたり漠然と考えないで四聖諦式に熟慮すれば、人間にとって最高に価値がある四聖諦を間もなく明らかに完璧に知ることができるということです。

 

 お喋りをする時も真剣に話す時も、注意深く心して自分の発言がルールや道徳に反しないよう、あるいは下らない話にならないよう管理しなければなりません。そうすれば仏教教団員(四衆)にふさわしくなります。

 これについてブッダは『話す時は、滅苦を探求する人に関わりのないことを話してはいけない。王様の話、官僚の話、兵隊の話、強盗の話、驚くべき話題、戦争の話、米や水などの話題で話してはいけない。これらの話題をいくら話しても、滅苦を探求する人にとって梵行の糸口になる利益がない。倦怠、欲望の減少、鎮静、最高に知ること、すべてを知ること、涅槃にならない』と言われています。

 そして最後に『会話をする時は、苦はこのよう、苦の原因はこのよう、滅苦はこのよう、滅苦への道はこのようという話し方をしなさい』と諭されています。滅苦を探求する人にとって利益があり、梵行の切っ掛けになり、そして最後に涅槃になるからです。

 この会話に関しては、すべての人の会話はブッダが推奨する方向にならず、「道を妨害する」あるいは「涅槃に到達することを妨害する」とブッダが非難されている話題であることを認めざるを得ないでしょう。

 自分の会話を、ブッダが望まれいるように管理していれば、四聖諦を知ることは当たり前のことに、あるいは今よりずっと簡単になります。

 

 さらにブッダは、出家しているすべての比丘の出家について、『出家をした成果があるように、自分の出家生活を管理しなさい。すでに成果を得た人もいる。そして現在正しく成果を得ている人もいる。さらにこれから成果を得る人もいるだろう。それが、四聖諦の真実をありのままに知るための出家である』と諭されています。

 まとめれば正しい意味で出家をしたすべての人と同じ、滅苦を知るための出家と言います。出家した人の全員が、出家する本当の目的を知っていれば、当然この四項目の真実に関心があり、考えるのはこの素晴らしい真実についてだけ、会話するのはこの素晴らしい真実についてだけで、チッタヴィヴェガ(心遠離)とウパディヴィヴェガ(依遠離)になるカーヤヴィヴェガ(身遠離)を生じさせるために、人との交わりを避けるよう努めます。

 滅苦を目指す人の出家行動は、当然苦の害を見る智慧に関わりがあり、その人の出家は智慧に導かれていて、考える時も智慧で考え、会話する時も智慧で会話し、四聖諦を考える智慧と言うことができます。人との交わりを避けるのも、四聖諦について考える智慧の機会にするためです。

 サマーディ(定)に励むのは、四聖諦を知る智慧を生じさせるためだけで、最後に四聖諦を真実のままに知る道具である智慧が、最終段階に到達した人に生じます。要するに苦を絶滅させるために四聖諦を知ることは、智慧によって成功すると見ることができます。ブッダが『すべてのことを正しい見解でする人は、あらゆる苦を超えることができる』と言われているように、特に八正道の最初の「正しい見解」である智慧です。

 

 人に智慧が生じた時はいつでも四聖諦を知ることができるという真実につてブッダは、「清潔で良質な白い布があると健常者たちが言うのを聞いた盲人が、それを探して歩くようなもの」と言われています。ある男が、質が悪く汚れた布を「これがお前が探している布だ」と騙すと、盲人は布を受け取って大切そうに身にまといます。

 その後友達や親族が目の治療に熟練した医者を探して招いて治療をしてもらうと、盲人の目は正常に見えるようになり、目が見えるようになると買った布は清潔で質の良い白い布ではなく質の悪い汚れた布だと分かり、売った男に騙されたことも分かります。

 この譬えは、私たちは常に世界の欲情に目が眩んでいるという指摘しています。無明や欲望の威力で、当然その欲望や無明に、転輪が蓮の華に見える状態で騙されて、苦であるものに惑溺して欲情し、そしていつも斬られ剥がれることに満足しています。サンマーサンブッダのような名医に目の治療をしてもらえば明るくなって、自分の過去の被害を真実のままに見ることができます。だから光を求めること、つまりここでは、目の治療が最も重要なことです。

 

 この話の光を求めるには、どこへ行けばいいでしょうか。この問題についてブッダは『世界も、世界を生じさせるものも、世界の消滅も、世界の消滅への道も、背丈二メートルほどの体の中、心と想がある体にあると私は規定した』と言われています。ブッダは苦を「世界」と味な言い回しで言われています。世界(俗世)と呼ぶものには、執着あるいは苦の基盤以外のものはないからです。

 非常に強い威力のある一人の天人が世界に嫌気が差し、世界の終りに行きたいと思って神通力で力の限り飛んで行き、諦めることなく永劫に飛んでも、世界の終りには行き着くことがなく、世界はまだまだ続いていました。そして最後にブッダに拝謁して、世界の終りは八正道ですべての執着が消滅した時、その体の中に見つけることができると教わりました。

 世界の終りがまだ生きている人の体の中にあるというのは、世界に世界としての意味があるのは、あらゆる物への欲望や執着がある人の執着によるからで、だから世界は人の中にあります。そして世界を生じさせる原因が生きている人の中にあるというのは、世界を生じさせる原因は人間の欲望や執着だからです。

 世界の終りが人の中にあるというのは、欲望や執着を滅す智慧、あるいはヤーナ(智)が生じた時、世界の終りが現れるからで、そして世界の絶滅も人の中にあるというのは、熟慮すれば見えますが、八正道で執着や欲望を消滅させる実践は、実践する人の体・言葉・心にあるからです。

 ブッダが苦と苦の原因と滅苦と滅苦の道を探すには体の中を探すよう規定したのは、それらのものは探す人の体と心だけに存るので、自分の体と心以外の所に見つけることはできないからです。この項目は、四聖諦を知りたいと願う人にとって非常に重要で、四聖諦の真実をどこで発見できるかを正しく理解しなければなりません。

 一般庶民の言い方をすれば、この体は課題であり、教科書であり、教室であり、生徒であり、教師であり、学習の最終的な成果に出合う人でもあり、体一つにすべてが揃っていると言うことができます。滅苦を願う人は、愚かさや誤解によって、自分の体の外部のことを気にする必要はありません。

 自分に、つまり自分の心と体に生じているものを真剣に観察し、探索し、熟慮検討して真実を明確にしてください。それだけで、世界あるいは苦について、いま述べた四つの形で完璧に知ることができます。

 考えてみてください。私たちの体の外部に生じているものは、自分の中に本当に生じる場合を除いて、それがどのようか自分で感じることはできません。たとえば他人の病気を自分の目で見ても、本当はどのようか知ることはできません。観察やその類で分かったことは、それはまだ十分知ったとは言えず、自分の体に病気が生じれた時はいつでも、病気がどのようか、十分明確に知ることができます。

 そしてその上その病気が治ってしまうと、自分で味わった苦しみのほとんどすべて忘れてしまうので、また以前のように不注意に戻ってしまい、そして再び病気になった時、また病気の本当の味を知ります。

 この項目は特に「人間は今現在生じている、あるいは実際に味わっている苦だけを知っている」という説明です。苦の原因を知るには、今現在心に生じている、あるいは関わっている欲望や無明を見なければなりません。

 私たちが滅苦を知ることができるのは、欲望が消えて行く時、あるいは心から無くなる時だけで、滅苦の道を知ることができるのは、体と言葉と心が八正道で欲望や無明の餌を一部、あるいは全部断っている時だけです。

 以上の理由でいくら努力しても、苦と苦の原因と滅苦と滅苦の道、四聖諦と呼ばれる真実を自分の外部に発見することはできないので、毎日自分の体と心に生じているものから、これらの真実を探すことで毎日を過ごしてください。そうすればブッダが『この四つは心と想蘊が揃っている背丈二メートルばかりの体の中にある』と規定された四聖諦を知ることができます。つまりまだ生きている体で何でもできるということです。これがどのように四聖諦を知るかという問題の答えです。

 


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