三宝(涅槃)に到達する順序

                      

 1952年9月16−17日

 今日は三宝に到達する順序についてお話します。本当の三宝、あるいは深い意味の三宝は、信仰する人がただ引用するための「ブッダ(仏)」「プラタム(法)」「僧」という名前だけでなく、最高の教え、あるいは人をブッダあるいは僧と呼ばれるようにする心の中の清潔・清明・静寂のことです。

 だから本当の三宝に到達することは、「ブッダ」「プラタム」「僧」という名を使うこと、あるいはそれに思いを馳せることではなく、心がその教えを理解して、自分自身が「ブッダ」「プラタム」「僧」になることです。だからこの意味の三宝への到達は、信仰の初めでも戒の初めでもなく、仏教の本当のダンマに到達する一つ一つの段階です。

 述べたように三宝には段階的な深さがあり、三宝に到達することには三つのレベル、つまり言葉で言う、あるいは登録のようなことをして三宝に至ること、そして三宝と呼ばれるもの、あるいはその徳に思いを馳せること、そしてもう一つは三宝、あるいはタンマが自分の心にあるようにすることの、全部で三つのレベルがあります。

 初めのレベルの三宝への到達は、みんなと一緒に信仰するだけであり、二段目はサマーディのレベルの行動、つまり三宝あるいは三宝の徳を心の感情として熟慮することで、三段目の到達は、智慧で本当の三宝を、つまり生じさせられるだけの聖向聖果、涅槃のレベルのダンマを明らかに知ることを意味すると見ることができます。だからここで言う智慧は、自分が生じさせたタンマの知識だけでなく、自分がどれだけタンマに到達したか、どう到達したかということに関する知識も含めます。

 十分三宝に到達すると、心は完璧に清潔で清明で静寂になり、当然その人が涅槃に到達しているという意味で、同時に自分自身が涅槃に到達したことも知ることができます。以上の理由で三宝に到達することは、最初の信仰の段階と、行動を始める段階、行動の結果に至る段階、そして自分がその行為の結果に到達したと自覚する段階があると見ることができます。

 これを明らかに理解するために、三宝に到達する順序を、要旨で次のように分類します。

 

1.信仰で三宝に到達する

 「信仰」と言われるものにはいろんなレベルがあり、初めの段階は「信仰」と言っても、教え、あるいは教義を説く人への忠誠という意味で、「忠誠心(Faith)による信仰」と呼ばれる知識に欠ける信仰、初めのレベルの信仰、あるいは迷信と言われるレベルですが、世界のすべての宗教、教義の固い基盤です。そしてその宗教の基本的教義の神聖さを維持するには、つまり真実の洞察に欠ける一般人には、この種の信仰が必要です。

 もう少し高い信仰は、何らかの手本を見て、あるいは実践する教えとして信じるに足る理由があると自分の知恵で判断してからの信仰で、この段階の信仰は「信じるべき理由(Confidence)のある信仰」と言います。少なくとも仏教で言う信仰は「忠誠」である信仰ではなく、この種の信仰でなければなりません。

 これが「仏教は religion ではない。 religion は faith、あるいは忠実な信頼の上に立っていなければならない」という誤解を生じさせますが、仏教も宗教です。つまり宗教的な意味の救済を、存分に生じさせる方法です。違うのは信頼すべき信仰に立脚している点だけで、自分が実践した結果に触れることから生じた確信が、固く「信じること」であっても、それを信仰とは呼ばず、知識とか理解とか、あるいは到達などと呼びます。

 だから初歩の段階で到達する信仰は忠誠による信仰、あるいは信じられそうだと感じる信仰で、パーリ語で「サッダー(信仰)」と言うものです。恐怖に根があるものも、好みや尊敬に根があるものも、すべて実践させる威力があります。だから仏教も含めたどの宗教も、当然初めの段階で何らかの「サッダー」があります。

 仏教は、常に智慧があるサッターに依存していて、仏教で「サッダー」のある人と言えば、自分が実践する実践法に対して、信仰心を生じさせる十分な知識のあり、特にブッダとタンマと僧を理解し、信じても間違いや害はなく、美徳だけがあると知り、そして信じ、三宝を自らの拠り所にすることを強く望んでいる人を意味します。

 

2.戒で三宝に至る

 ここでの戒は、体と言葉に限定した正しい振る舞い、一般的な正しい行為という意味にしてください。自分や他人に対する、正しい振る舞いという意味で、内面的にも外面的にも、どのような困難も生じません。その結果「自分は個人的にも善があり、そして他人から信頼され愛され尊敬される存在だと、自らを尊ぶ気持ちが生じます。

 要するに、自分は正しい行い美しい行動をしていると感じます。これを簡単に「戒」と言います。あるいは「道徳」でも良いです。内容、あるいは意味はもちろん同じです。

 いろんなレベルの戒、たとえば五戒のように在家が日常守らなければならない戒も、八戒のように特別の日に守る戒でも、あるいはそれらをまとめた「十善」でも、あるいは様々なレベルや違いがあるサムネーン(沙弥)、サムナリー(沙弥尼)、シッカマナー、比丘、比丘尼などの戒でも、結局自分や他人に、危害や妨害を生じさせない行為であり、そして自分と自分の行為に満足する気持が生まれ、自分を敬う気持が生れる点は同じです。

短くまとめれば、体と言葉の正しい振る舞い全般を、ここでの戒と言います。宗教に無関係でも、あるいは宗教を意識していなくても戒であり、最高に必用な行動です。

 そしてこの行動は、初めの段階の信仰でする行動であり、それ以上でもそれ以下でもありません。良い行いをすれば、たとえ外面のでも、自分の中に本当の三宝、あるいはタンマである清潔・清明・静寂が、行動に応じて多少は生じます。だから二番目の、教えを理解することと見なし、そして、一人の教祖のどんな宗教に関わらない場合も、広く含めることができます。

 

3.喜悦あるいは歓喜で到達する。

 この項目は、本当に正しい行いをしたことで心に生じる満足、あるいは幸福の一種です。自分が行なった本当の善があり、苦や害が生じることはなく、発展する一方で、他人から信頼され、愛され、尊敬される存在であり、「善であり美であり、素晴らしい」と、自分で自分自身を尊敬でき、拝めるようになります。そしてそのような自分の有りようはすべての阿羅漢方が賞賛する状態だと感じる、このような状態を「喜悦」、あるいは「歓喜」があると言います。

 ここで私たちは、これは物質的な結果を考えないで、何らかの善や美徳を行なった後の結果として生じると観察することができます。物質的な結果を得ても、それが正しい立派な行動から得たものでなければ、この種の喜悦や歓喜は生じないからです。

 たとえば悪や誤ち、強盗や窃盗などの行為を自分の欲望で仕出かして大きな成果が得られ、どんなに満足しても、ここで私が意図している喜悦や歓喜はありません。喜悦あるいは歓喜という言葉には独自の意味があり、普通に満足することではないと正しく理解し、定義するべきです。特に戒に関わる場合は何ら物質的な報いを考えずに、純粋に持戒をしたと感じた時に生じるものを意味し、戒に欠ける人、あるいは欠陥だらけの人は心に曇りが生じて、述べたような喜悦や歓喜は生じません。

 戒に関わらない一般の人の場合でも、自分は何らかの過誤を犯したと感じれば、この述べた喜悦や歓喜はありません。だからこの喜悦と歓喜は、常にすべての行いが正しく、自分で自分の非を探す余地がなく、心があるレベルのタンマに到達した穏やかで満ち足りた幸福を意味します。

 喜悦と歓喜は、タンマの実践で更に高い段階へ進むために欠かせない重要な美徳です。遠方へ旅する人が目的地に到着するには、道中十分な食糧が必要なように、涅槃という目的地まで実践で旅をする人も、当然全道程の食糧、つまり実践の各段階と休息中の命を養う糧である、喜悦や歓喜がなければなりません。

 この喜悦や歓喜の時も、ある種あるレベルの清潔・清明・静寂であるタンマに到達したと見なします。だからいつでも気力を養うものを生じさせ、維持することに関心を持たなければなりません。最低限、喜悦と歓喜だけでも、ここで第三段階と呼ぶレベルのタンマに達したと見なします。

 

4.軽安で到達する

 この「軽安」は喜悦と歓喜によって生じる心の静まりを意味し、苦や罪や妨害がなく、妨害しに来る心の内面の困難や悔やみがないので心が静まり始めることです。心が、最初のレベルの静けさに入るのにふさわしくなります。

 愛させ、あるいは嫌わせる妨害や誘惑が満ちている中で、喜悦と歓喜の後押しによって、心は偶々それらの妨害からすっきり逃れる機会を得ます。妨害や悪い感情が心に入らないように守っている喜悦と歓喜の防御力で最後には心が静まり、それをサマーディと呼びます。 

 だから軽安(心の静け)は喜悦と歓喜の後押しと護りによって生じると見ることができます。そしてタンマを理解すること、あるいは第四段階ある静まりの初めの段階であり、サマーディまでどんどん静まって行く三宝への到達を、もう一段階前進させることができます。そして一般の人も、自分が日常的に、あるいは必要な時いつでも、特に何らかの仕事を成功させたい時に、この軽安があるかどうか、非常に関心を持たなければならない段階、過程と見なします。

 

5.サマーディで到達する

 サマーディ(三昧)という言葉は、意図した非常に安定した心の穏やかさという意味で、その場合、自分が知らなければならない、すべてを明らかに知る機会です。

 一般人の世俗的なサマーディの場合は、自分が考えること、しなければならない行為のこと、これからすること、あるいは今仕かかっていることに専心できるという意味で、失敗を防ぐことができ、そしてすべてが正しく進行します。特別な理論や技術に片寄りすぎた方式の訓練をしないで、自然に生じるサマーディです。

 一方仏教のサマーディは、心が一つの感情で安定している状態で、個人的な資質から自然に生じたものでも、正しい訓練に努めることから生じたものでも、当然すべて喜悦と歓喜の威力が静かさを生じさせる後押しをし、最後には一つの感情になって静止して安定します。だからブッダは喜悦や幸福、ここでは歓喜ですが、これらをサマーディの一つの要素とし、それが揃えば心がサマーディに入ります。

 つまり一つだけの感情になり、清潔、あるいは清浄と呼ぶ一種の清潔があり、仕事や精神的なことをするのに適した穏やかさとしとやかさがあり、すべてを理解する軽さと素早さがあります。これらが完璧なサマーディがあると言われる心の状態です。 

 結果の部分に注目すると、そのサマーディは智慧の面の進歩にふさわしい、あるいは進歩できる状態にあります。そして進歩がなくても、それだけでも素晴らしい結果があり、それは一種の、あるいは一つの形の、あるいはあるレベルの純潔、軽快、冷静な静かさで、私がここでは五段階目と言う、もう一段階タンマに到達したと言うこともできます。

 自然の原則で言えば、サマーディと呼ぶものは心が次第に静まり、最高に静まって働く準備ができた状態で安定していること以外の何物でもありません。サマーディ、あるいは心が一つになることは、仏教の教えでは「サマーディシカー(サマーディ学)」、または「チッタシカー(心学)」と言って、二番目に大きな教えと見なすほど心でする仕事にとって必用不可欠です。

 そして喜悦、歓喜、そして軽安もこの言葉に含まれます。別々に分けていないので、私たちは「戒・サマーディ・智慧」の三つしか耳にしたことがありません。 

 次にサマーディを三つに、つまり戒から生じる喜悦と歓喜、そして喜悦と歓喜から生じる軽安、そしてその軽安から生じるサマーディに分けてハッキリ見せます。これは到達する順序、あるいは達成を明確に見せるためです。

 サマーディだけでも本当のタンマ、あるいは初歩の段階の本当の三宝である一種の清潔・清明・静寂が得られるので、もう一つの段階の三宝に到達することと見なします。

 

6.ヤターブータヤーナダッサナで到達する

 「ヤターブータヤーナダッサナ(如実智見)」という言葉は、すべてのものを明らかな智慧で真実のままに見るという意味です。パーリ(ブッダの言葉である経)は、直接サマーディの後に、心がサマーディになれば、当然すべてのものが真実のままに見えると、この項目について述べています。

このように述べていることは、心がサマーディになれば、努力しなくてもすべてのものが真実のままに正しく見えると主張しているようで、奇怪しなことと言えます。これについて別の説明をすることができます。

 普通、タンマの実践に努めている人は、いずれにしても当然、四六時中心の中でタンマ、あるいはすべてのものの真実を見たい、知りたい願いがあり、心がサマーディにならなければ明らかな智慧も明確な見解も現れませんが、心がサマーディになれば明らかに見ること、明確な智慧が現れます。

 すべてのものの真実を見たい、知りたいという願いが原動力になり、心が見ること知ることへ傾いていくので、内なる目で何でも見ること知ることができます。それは感覚あるいは洞察であり、考えや探求や調査でなく、それに対して生じる正しい感覚です。

 この真実を見ることは、当然、衝撃や憐れみが生じさせます。すべてのものがマヤカシであることは、蒼ざめるほど憐れむべきことだからです。通り過ぎて来た一人一人の人生を例に挙げれば、普段は驚きや憐れみを感じることはありませんが、心を正しい方法で訓練してサマーディ状態まで静まれば、その時心は目を欺くもの、あるいはまやかしに満ちた生活の中の様々な驚くべきこと、哀れむべきことを深く感じることができます。

だから「常識である心、あるいは普通の心は最高に深く、そして正しく理解できるよう見ることができないが、サマーディの心は、当然人生の経過を最高に正しく深く見ることができる」と短くまとめることができます。。

 サマーディでない心は、私たちが五蓋と呼ぶある種の蓋、つまり愛欲のことばかり考え、怒りが治まらず、心が萎縮し、心が乱れ、躊躇があり、それらのいずれかに覆われているので、心はすべての物の真実を洞察できません。その蓋あるいは五蓋に夢中になってしまっているからです。

 汚泥がいっぱいの濁り水は、運河あるいは堀の底にある物が見えず、見えるのは水の中の浮遊物だけで、それらの汚泥を水底から除いた途端に、以前は見えていたので、堀や運河の底にある物が見えます。この項目も同じで、普通では心は何も見えません。「蓋」が、心とすべての物の間で妨害しているので、心が見ること知ることができるのは、蓋あるいはふただけです。それらのふたや五蓋を取り去れば、心は端にすべてのものが真実のままに見えます。

だからヤターブータヤーナダッサナ(如実智見)について、サマーディ段階の次に述べられていますが、その間に、見るために努力する段階が必用だと言われていません。述べたように心は正常にすべてのものを知ろうとしているからです。

 しかしいずれにしても、このレベルの真実のままに見ることは、サマーディの力によって見える量が違い、一気に最後まで見える訳ではなく、サマーディが多ければたくさん真実のままに見え、サマーディが少なければ、すこし真実のままに見えます。

そして「真実のままに見る」というのは、すべてのものは無常であり、人を騙す憐れなマヤカシものであり、憐れみを誘うものに見えるという意味であり、すべてに倦怠し、欲情が緩んでいく道と見るという意味です。

 この段階の真実のままに見ることはこれだけの意味でも、一つの段階に到達することに変わりありません。つまり初めの段階の真実に到達し、マヤカシ物であるすべての物に憐れを感じます。これだけでもかなり清潔・清明・静寂になるので、私はこれを第六段階とします。

 

7.ニッピダーで到達する

 「ニッピダー(厭離)」あるいは「ニッピダーヤーナ(厭離智)」とは飽き飽きすること、あるいは倦怠が生じる正しい知識を意味します。この項目のタンマは、すべてのものを正しく見ることから生じ、自分がそれまで惑溺していたものへの惑溺が、突然止まるという形で現れます。

説明すれば、それまですべての生き物は、それが敵あるいは害のあるものと知らずに、様々な感情に溺れて強く執着し、愛したり憎んだりしていましたが、真実を知れば、あるいはそれは危険、あるいは敵とはっきり知れば、それに対して倦怠と言う、うんざりして急に止める状態が生じます。

 この倦怠、あるいはニッピター(厭離)については、ヤターブータヤーナダッサナ(如実智見)のすぐ後で述べられていて、間には何もありません。ニッピターあるいはその倦怠はヤターブータヤーナダッサナ(如実智見)が生じれば、何も努力をしなくても必ず生じるという意味です。

たとえば自分の妻が浮気している現場を盗み見てしまった男の心には、裏切りが明らかになった途端に倦怠、あるいは妻を捨てる気持が生じ、捨てるため、倦怠するために努力する必要はありません。この項目も同じで、ヤターブータヤーナダッサナ(如実智見)、つまり何もかもマヤカシ、裏切りと明確に知った後は、自然にニッピター(厭離)が生じます。

 これは、心がもう一段階高いところを理解したことです。つまりそれまでのように何にでも、すべてのものに飛びつくのを止め、すべてのもの、あるいは感情に埋もれることがなくなります。三宝のまた一段階上を理解したことになります。

 

8.ヴィラーガで到達する

 ヴィラーガ(厭欲)とは「染まらない」という意味で、布を染めていた色素が薄れていくのと、染めていた渋が剥がれていくように染まっていたものが薄れることを意味します。実践では当然心の中に「薄れていく」ことが現れることです。

はっきり言えば、心をいろんな物に染めつけ、あるいは縫いつける煩悩である観念(チェッタシカダンマ)が薄れ始めることです。その「薄れること」が、心を染めていた観念の行動でも、心を染めていた観念が薄れていくことの結果を受け取るのは心です。だから「心のすべてのものが薄れていく」あるいは別の言い方で、「心のすべてのものへの欲情が弛む」と言っています。

しかし『すべてのものの欲情が弛む』という言葉は、タイ語では誤解を生むかもしれません。なぜならタイ語で「欲情」という言葉は愛欲の意味であり、ここでいうタンマの言葉である「欲情」はすべてのものに執着で染っているという意味で、愛着も憎悪も含まれるからです。

だから誤解を防ぐために知っておかなければならないのは、あるいは安全のために「心はすべての欲情がゆるむ」という代わりに、「心がすべてのものに染まっていたことが薄れる」と言い替えることもできます。本当の要旨は、心を染めるもの、つまり煩悩、特に貪欲、あるいは取が染まっていることから薄れる、あるいは抜け出すことで、最後には心が「解脱」します。心がタンマを理解すること、あるいはもう一レベル上のタンマをに到達することと見なし、つまり絡みついていたものが外れる、あるいは締め付けが弛みます。

 

9.ヴィムッティで到達する

 ヴィムッティ(解脱)の文字の意味は素晴らしい脱出という意味で、要旨は純潔な脱出、あるいは完全に脱出することです。この段階のタンマに到達することは、心が染まっていたものが薄れた後、絡みついていたすべてのものから抜け出して自由になることを意味します。

それまで心は、心は煩悩によってすべてのものの威力の下に落ちていました。心に明らかな智慧が生じると、その智慧が煩悩を攻撃するもの、あるいは燃やすものになり、倦怠あるいは欲情が弛む程度に応じて煩悩は減り、あるいは消滅します。

 煩悩がなくなれば、心をすべてのものの威力の下に落とすものは何もないので、心は自由で安全な所へ脱出します。煩悩の威力から逃れた自由と見なし、そしてすべてのものの支配下にあることから生じる苦からも自由と見なし、純潔な脱出、あるいは完全な脱出と見なします。

この「脱出」「解脱」という言葉は、煩悩からの脱出、そして煩悩から自然に脱出するという意味です。心がこのような脱出をすれば、仮定で涅槃を理解した、あるいはまったく苦のない状態に達したと言います。

 このように解脱した心に注目すると、三つの状態、つまり煩悩がない純潔、覆い隠すものがない明るさ、そして苦がない穏やかな静けさの三種類が、すべて心に、最高に揃っているのを発見します。向こう岸、つまり苦のない側、あるいは別の呼び方では世界の終り、あるいは世界の外、俗世からの解脱に着いたと見なします。

 しかし事実を言えば、苦の消滅、あるいは苦の終りです。そしてその心を作り上げる原因や縁の終わりです。そして涅槃と呼ぶ最後にはその心も消滅します。これらの動きや状態を短い言葉で「ヴィムッティ」と言い、解脱という意味で、最高のタンマ、そして最高の三宝に正しく完璧に到達したと見なします。

 

10.ヴィムッティヤーナダッサナで到達する

 ヴィムッティヤーナダッサナ(解脱智見)という言葉は、解脱した後心に生じた解脱を見る知識、見ることという意味です。別の段階のタンマに到達したと言うべきではありません。なぜなら心は、既にヴィムッティの段階で、滅苦の終わりに到達、あるいは清潔・清明・静寂を最高に受け取っているからです。

しかし心が解脱した後も、もう一段階上のヤーナあるいは知識が生じ、このヤーナは心が解脱したことを知る義務があります。だからこのヤーナはすべての苦から脱出した後、心がもう一段上の段階に到達すると述べています。

最終段階であり、仏教の苦を極めることに関して、これに優る美徳はない梵行の義務の終りと見なし、本当に完璧に自分を知ることで三宝に達し、そして最後の段階と見なします。

  心が述べたような「ブッダ・プラタム・僧」に本当に到達したことを見るには、どのようにするのでしょうか。初めの信仰の段階では、心が「ブッダ・プラタム・僧」に達した、あるいはその時の信仰または考えである段階の「ブッ・プラタム・僧」、もっとも外側の仏・法・僧に達したと言うことができます。

 このような戒、あるいは戒による喜悦・歓喜から生じた清潔だけでも、心がタンマの味を味わえる実践の段階に到達すれば、三宝の内側、あるいは本体に到達し始めたと言うことができます。

 心が順に清潔・清明・静寂があり、欲情することに嫌気が差し初め、解脱し、そして解脱したことを知るまで、完璧なタンマに到達する段階になれば、心が正しく完璧に本当に三宝に到達したと言うことができます。

 つまりブッダである心、プラタムである心、僧である心があり、本当に完璧なので、帰依、あるいは言葉だけの三宝を理解、あるいは思うだけでなく、本当に依存できる本当の拠り所への到達です。

 どうぞ皆さん、このような意味の三宝に到達するよう努めてください。そうすれば完璧な仏教教団員になるなど、本当に到達できます。この段階では、心がタンマに到達する順序あるいは過程、あるいは述べたように段階的になっている本当の三宝への到達が良く分かるよう、ひたすら熟慮しなければなりません。

そして自分がどの段階にいるか、あるいはどの段階を維持しているか知るために試験して見る努力をし、それから明らか見解で「不可能なことではない」と見て、常に可能な限り上のレベルへ進むために、急いで努力をしなければなりません。

 


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